コルトガバメント1911(拳銃)つれづれ記 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

コルトガバメント1911(拳銃)つれづれ記


 画像の拳銃はコルト1911A1ガバメントマークⅣシリーズ1983年製である。(古い型はチャンバーに1発+マガジンに7発、計8発だが、このタイプから改良されてマガジンに8発フル装填できる)
開発から100年も使われ続けたブローニングが生んだ名銃の一つで逸品である。さらに100年もバージョンアップされながら使い続けられている銃器を付け加えると、ブローニングМ2重機関銃が在る。
日本の自衛隊は勿論、世界中の自由主義諸国の軍隊でも使われている。第二次大戦から、戦闘機、爆撃機、各種艦船、戦車、装甲車、歩兵支援と陸海空で現在も大活躍している。
 

以下に少しコルト1911の誕生逸話を記しておく。

 コルト1911は、アメリカの銃器設計者ジョン・ブローニングによって設計され、アメリカのコルト・ファイヤーアームズ社が開発した軍用自動拳銃である。
1911年に制式採用され、1985年までの長期間、アメリカ軍の制式拳銃として使用さた。

 コルト1911の開発は、19世紀当時のアメリカ軍が使用していた.38口径の回転式拳銃M1892のストッピングパワー(敵を止める力)が不足しているという問題から始まったのである。
1898年アメリカ対スペインの間で勃発した米西戦争で、フィリピンが戦場となった。
その時先住民のモロ族との衝突が起こり、薬物で恍惚となって蛮刀を振るって突進してくるモロ族に対しては38口径弾では威力不足で十分な足止めができず米兵は恐怖に陥っていた。
米軍はこの教訓から、一発で相手を行動不能にできる威力の高い拳銃弾としてより大型の45口径弾を採用することを考え、同時にリボルバーより素早い連射可能なオートマチック拳銃を求めた。
先住民(アメリカインデアン)を殺しまくり、土地を奪って建国したアメリカだから、フィリッピンを巡るスペインとの殖民地奪還戦争で、今度はフィリピン先住民モロ族に手を焼くことになったのは因果応報だろう。

 同時期コルト社の技師ジョン・ブローニングが38口径弾を使用するコルト社はこの銃をベースにМ1905を開発し、これに改修を加えてМ1911として軍に正式採用された。
また、コルト1911は、現代の自動拳銃に広く用いられるティルトバレル式ショートリコイル機構の元祖であり、20世紀における世界各国の自動拳銃開発に非常に大きな影響を与えている。
その設計はほとんど変わっていないため、非常に豊富なカスタムパーツが存在し、使用者の好みに合わせてカスタムしやすい銃となっている。
現在でも多数のメーカーやカスタムショップがM1911を称する拳銃を製造しており、そのバリエーションは把握できないほど増え続けていて、これらの特徴から、コルト1911は「生ける伝説」とも称されている。
押しなべて白人種は人殺し道具の発明に長けているが、アメリカ人とドイツ人は傑出している。

ラワン材の一大積み出し地・マシンロック(裏の顔は密輸武器工場)

 私がこの銃を初めて手にしたのは、昭和42年、フィリピン・セブ島マシンロックだった。勿論写真とは違い1943年モデル米軍払下げ品だった。
この頃のフィリピンは第二期のマルコス政権で、犯罪は多発し、共産主義者の反乱や新人民軍などの左翼武装勢力との戦い、モロ・イスラム解放戦線のようなイスラム教徒の分離主義者や、
イスラム過激派との戦いが継続していて政治的に不安定で物騒な国だった。
フィリピンはこんな状態だったが日本は高度経済成長の時期で消費が盛んで住宅需要も旺盛、安いフィリピンのラワン材の輸入が盛んだった。
商社の駐在員としてマニラの事務所から、セブ島のマシンロックに赴任した私は材木の検数の仕事をしていた。
 現在、風光明媚なここは観光地として栄え、日本人にも人気のスポットになっている。しかし当時のマシンロックは、裏はジャングルで海に面した人口千人も居ない小村だった。
処がこの村はそんじょそこらの平凡な村とは大違いだった。村全体が一大武器密造工場だったのである。

 小はナイフ、蛮刀、拳銃、ライフル銃から機関砲バズカー砲、手榴弾から各種爆弾とその種類は驚くべきものだった。
これらの武器がマニラのギャング団や、様々な反体制勢力ゲリラに渡り激しい内戦の一因にもなっていたのである。
そして、ここの拳銃は安く入手できるため、当時全国制覇にしのぎを削っていた山口組関係組員にも密輸されていた。
しかし銃身内の螺旋は作れず、そのため無回転の弾丸は5mも飛ぶとどこへ行くか分からず、標的のやくざに命中せず、周りのカタギ(民間人)を死傷させたのは当時の新聞によく出ていた。
こうしたカタギを巻き添えにした傍若無人な振る舞いに、これを奇禍として警察はやくざを「暴力団」と呼称し、一挙に壊滅姿勢を強めたのであるがこれは後の話。


 密林から切り出された直径2mもあるラワン材は、川を下り沖に停泊している日本船に積み込まれる。当時、瀬戸内や愛媛の中小船主所有の1000トンから3000トン級が多かった。
これら数十隻が沖待ちしている様は、敗戦後不死鳥の如く蘇った昭和日本商船隊の勇姿で、在りし日の帝国艦隊の艨艟を彷彿とさせ壮観だった。
これらの船がそれぞれ日本の各港(若松、戸畑、八幡、大阪、名古屋、東京、塩釜、釜石、室蘭、苫小牧、釧路、伏木、直江津、酒田)で積み荷を降ろし、筏に組んでいる様子を80代以上の人は見た人も居るだろう。
(閑話休題)

 さて、治安の悪い現地ではライセンスを持って、武器を携帯している警備員を雇っていた。さらに税関乗船管理吏、国境警備隊も米陸軍払い下げ銃で武装していた。
ガバメントは軍隊仕様でモスグリーンに塗装されていた。そのほかМ1カービン銃、トンプソン・マシンガン、グリースガン(М3サブマシンガン)など多種多様で、現代で云う「弾道係数」の良い銃とは何かを、実銃を撃ちながら教えてもらった。

またこの当時のフィリピンは名にしおう賄賂王国で、事務所には打ち合わせや交渉が円滑に進むよう、アメリカ煙草、日本ウイスキー(サントリー・レッド、サントリー・オールド、シームレスストッキングなど)が
賄賂用品として備蓄してあり、相手によって使い分けていた。日本の両切り缶入りピースも人気だった。

後に、熱帯雨林を破壊するという批判の矛先が日本に向かい、次第に北洋材輸入(旧ソ連極東)に切り替わった。シベリアから切り出された木材はアムール川を下り、ソ連の積出港はラザレフやデカストリーで、
サハリン(樺太)はボロナイスク、ヌイスキーだった。対岸も見えぬ大河アムール川を水面が見えぬほど産卵に遡上する数百万匹の鮭の群来には度肝を抜かれた。
    
ここでも賄賂が横行し、日本の新鮮なトマトや果物は大好評で、植物検疫官の検閲は名ばかりで「ムシ、ムシ」と拙い日本語でいもしない虫がいるからと没収が横行していた。
 そして賄賂の三種の神器は「ストッキング、三色ボールペン、ガム」だった。これらを茶封筒へ入れ、税関、ハーバーマスター、リバーパイロット、国境警備隊、等に進呈しなければビジネスが進まない状態だった。
 ちなみにギャング(船内荷役人夫)にはここでも当時500円だったサントリー・レットが好評だったが、呑ませなければ仕事をさぼる横着で狡い人夫に手を焼き、戦争に負ければナメラレてこんな屈辱も無かったろうに。
一方で「さすが共産主義は非生産的だ」感心したものである。

 毎日100発近くの射撃で、右手親指と人差し指の股が赤く腫れあがってしまった。
射撃の正確さは才能も大事な要素だというが、やはり練習量で、一流の米軍スナイパー養成にはトラック三台分の弾薬量を使うと誇張されるがむべなるかなである。
ガバメントは工具を一切使わず8個の部品に分解しメンテナンスをする。また、目隠しをし、誰が一番早いか競い合ったが慣れると15秒以内で分解組み立てができるようになった。
そして5時間も泥水に漬けておいて発射しても、湯気を立ち昇らせながらジャム(弾詰まり)もなく、全弾撃ち終えたのには、その堅牢さと精密機構には驚かされたもので、
こうした過酷な戦場での信頼性が兵士の命を救ったのだろう。

 こんなに撃てば射撃の腕もいやがおうに上達し、30メートル先の直径40㎝の的に全弾命中するようになった。
後年、グアムの野外実弾射撃場ワールドガン(2016年閉店。現在はラスベガスへ移転した。1950年頃、矢鱈拳銃に詳しい作家の故大藪春彦氏もよく来ていた)で射撃した際、全弾命中の私を見て、社長の仲田竜童氏が驚いて、
これを契機に社長とは昵懇になり、時の経つのを忘れて銃談義に花が咲いた。
余談だが閉店の際700丁もの個人用銃器が在って、私もベレッタ92、ガバメント、ワルサーP38、ルガー08、南部式(パパ南部)と数丁購入していた。
ここは関西空港直行便ができてから、日本人観光客が多く、射撃愛好家や、やくざ連中も目立ち、持ち出しはできないが「マイガン」として購入し、射撃場に預けておくことができたのである。
これらの銃はトラブルもなく、大方がラスベガスへ移行できたと聞く。勿論「新たな射撃場預かり、GUNS WORLD」となったが。

 ラスベガスはネバダ州に位置しており、ネバダ州では銃の所持が合法である。ただし、全ての銃が許可されているわけではなく、自動小銃のような特定の種類の銃は制限されている。また、銃を所持するためには一定の条件を満たす必要があり、これらの条件には、年齢、犯罪歴、精神疾患の有無などがある。
しかし、ネバダ州の銃規制は州内外の住民に適用される為、日本人旅行者は対象外である。
ちなみに、一般的に、ネバダ州では「オープンキャリー」(公然と銃を携帯すること)が許可されているが、近年の乱射事件の多発で、護身用に拳銃携帯者は増加しているという。

銃器の達人たち


 駐在員1年余りで、マシンロックの工員たちからは銃や火薬に関する多くの知識を学んだ。
ジャングルで木材の伐採には荒っぽい手法だがハッパ(ダイナマイト)も使うのだが、このシロモノはかじるとかすかな甘みがある。ダイナマイトは、ニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませたものだから、信管(気爆薬)を抜くと叩いても踏んでも安全な物で、心臓血管薬の「ニトロベン」にも使われている。
そして、人殺しもするが、建設や医薬品にも使われ人間に貢献もしている二律性違反の物質で感慨深い。
大きな焚火の火起こしに、信管を抜いたものを入れると激しく燃え、決して爆発はしない。

 「銃弾」という如く、銃は弾丸を飛ばし物体の破壊や人間を殺す道具だが仕事をするのは言うまでもなく「弾丸」なのである。だから、銃が在って弾丸を作るのではなく、前述のように、人間の突進力を止めるため、45口径(11.5mm)が必要となればそれを飛ばす銃を造るという思考方向の順序になる。
そして弾丸の作り方や、火薬の取り扱いと共に、弾丸をハンドロード(雷管装着・火薬充填・弾頭装着)の方法や火薬全般の知識も学んだ。

 弾丸には大別すればファクトリーアモ(工場出荷弾)とリロード(再充填・これをハンドロードという)があり、通常はファクトリーアモを使う。
日本でも猟銃所持者は熊撃ち用特殊強力弾製造の為、専用装置で造っている。
グアムの射撃場に話は戻るが、街中には何軒も屋内射撃場が在り、ここは女の子に人気が在る。というのはリロード弾で火薬量を半分にしているから反動が無くよく当たるからである。
だから室内射撃場の従業員は、いつもワールドガンへ自店で再利用するため、空薬莢を拾いに来ていたものである。
 
 さて、令和6年も自然の猛威、政治の腐敗に代議士の逮捕者も出て、大波乱の幕開けだった。人間界の不条理に吹き荒(すさ)ぶ諸行無常の風は冷たく強い。
こうした駄文を長々と書いて想うことは、銃に「美学」など無いことは承知だが、昭和を懐かしむ感傷に他ならない。
銃や火薬などの知識は特殊部隊員や諜報員でもない限り何の役にもたたない。市井に棲む草莽として、
冥土へ旅立つ日もそう遠くない現在(いま)、地獄の鬼が居るなら手土産代わりに進呈したいところだが、米国に在る拳銃も「断捨離」する時期なのだろう。