漫才屋談義 太田光という漫才屋 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

漫才屋談義

太田光という漫才屋


 (本稿は2021年11月記事の再掲載であることを断っておく)

 第四十九回衆議院総選挙の結果を予想し、各テレビ局の「選挙特番」では視聴率競争が激しく、司会者やメーンキャスターの起用には苦労したようだ。
中でもTBSの番組で漫才屋の片割れ、太田光の傲慢不遜と下卑た毒舌がネットでは、批判と擁護の書き込みが喧(かまびす)しい。
この男、相棒の田中とは人間性がまるで違う。テレビで跋扈している「悪質性人間」の一人である。
同じくプレバト司会者で、出演者を馬鹿にし直ぐに頭を叩き、「ガハハ・・・・」と馬鹿笑いの浜田と双璧をなす下種悪相、芸無し、悪質漫才屋である。私なら頭に手が来た瞬間、みぞおちに一発喰らわしている。
梅沢などは古い芸歴なのに、浜田におもねっている姿は見苦しい。
よく太田の事を「権力に挑戦している」と好意的意見が在るが、日常の生活にこびりついた偽善をを覆すことこそが権力への挑戦であり、笑いの根幹をなすのである。

 落選した甘利氏や二階氏にも礼儀を弁えぬ物言いをしていたが、言われた方の対応も「男」として情けない。
こうしたテレビの口舌の徒の無礼には「下郎ッ、下がれッ」と一喝するのが正しい。
毒舌を売りにしている太田だが、両人とも色々問題のある国会議員である。だが毒舌と罵倒とは違う。
権力に対して一定の尊敬を示しつつ痛烈な皮肉を込めた言葉こそ、視聴者の共感を呼び、喝采を受けるのである。
それは「ご愁傷さま」ではない。口舌で食っている者なら言葉は選ばなければならない。
なんでも「ボケ」で通用させる漫才屋たちの風潮は許しがたい。こうした現状に辟易しているし唾棄すべき状態である。

 今やテレビは「テレビ蔓延寄生悪性ウイルス」とも言うべき、漫才屋集団に席巻されて末期状態である。「漫才屋蔓延防止法」を発令してほしい。漫才屋の居ないテレビ番組を探すのが難しいほど。
女の漫才屋もデブ、ブスと気色が悪い。こう書くと偏見だ、差別発言だと、脳味噌が四分の一がどこかへ行っている人は批判するが、私は「区別」しているのである。
差別された人間には物理的損害が発生するが、区別や偏見は自己の精神的領域なのだからいっこうに構わない。
このゴミのような漫才屋がはびこるテレビは巨大な「ゴミ箱」になっている。
 「芸人」を名乗るなら「芸」を見せてほしいものである。
ネットで太田の細君が「芸人は馬鹿なのよ」と擁護していたが、馬鹿な細君が夫の馬鹿を売り物にしてはいけない。
そしてなにより、こうした「芸無し漫才屋」に頼らなければ視聴率を稼げないという他力依存思考のテレビ界の衰退現象が情けない。
 
 タレントに頼らない社会現象の検証や「骨太」番組に力を入れるのが公共電波を割り当てられているテレビ局の使命だろう。
そして同じ時間帯に同じ内容の番組を打つテレビ局の横並び同質性にも呆れる。こんなていたらくだから、早晩テレビは消滅しネットに取って代わられるだろう。
ネットでは太田を評して「河原者風情」との書き込みが在ったが、昔の河原者の本来の意味を知らず批判してはいけない。河原者に失礼である。

以下に、「史料」に基づいた「河原者」の解説をしておく。

〈下学集〉に、いにしえ院(因)地打ちで石合戦に使う河原の石を確保しておくため住みついたのが、芸事をしだしたゆえと「屠児也河原者」とす。カワタとかカワ坊、カワッパとも謂う。
                                  
 「片居」「傍居」と〈和訓栞〉には、路頭に芸をなし食や銭を貰う者とし、、「別火人(ほかびひと)」つまり他の者とは火種を同じくせぬ者と〈楊氏漢語抄〉にはあり、「外居人」の文字をもってあてている。
 〈蜻蛉日記〉〈大和物語〉〈宇治拾遺〉〈土佐日記〉〈伊勢物語〉これらは当時の体制側で藤原王朝ものでは異端とされ、〈和漢三才図会〉では、
今いう芝居で顔に塗料を塗るのを、さもハンセン病のごとしとなし、それが広まって「カッタイ」とその病者の別名のごとく誤られています。まこと酷い話である。

この、火種を他と同じくしないのは、「同門同火の禁」という掟のある拝火宗徒のことを指す。それがカタイと同じにされているのは、もう藤原中期には共に被征服民どうしとし、
占領側の貴種の者からは、海洋民族と騎馬民族が一緒くたにされていたのだろう。

 カワタ、カワボウ、カワッパというのは騎馬民族の子孫が、死馬の皮をはいだり、獣をとって製革業をした名残りだが、米沢でいうカボウは火坊とかき「火の用心さっしやりませ」と拍子木を叩く夜廻りをいいます。
江戸でいう番太郎ですから、火の字がついても騎馬民族系の筈です。ボウをば誤って「坊」の字と当てているので可笑しいが、つまり蔑称とされるデクの棒の「棒」のことです。

 九州の隼人王朝は、あくまで唐に対して反抗した高麗系の子孫ゆえ、文武帝の〈大宝律令〉では、奴隷として都へ貢進され、儀式の時には四つ這いにされ犬のごとく吠えさせられ棒と呼ばれました。
 後には、六尺棒をもたされ田畑番や捕方にされたから、みな「ボウ」と呼ばれるのである。
大陸系は「防」とし鋼鉄製の青竜刀など持って威張っていたので、その従卒みたいに彼らは木の棒をもたされていただけの事で武装奴隷として戦時は送り出されていた名残りだったものといえるようです。

「河原者」の発生

 日本史ではこの河原者について、誤解が多いのでここに真相を書いておきます。
先ず、古い浄瑠璃の〈愛護の若〉では四条河原にたむろする「細工の者」といったとでている。
 さらに源頼朝の出したと云われる、頼朝御判二十八種では、細工人つまり職人はみな日本原住系の限定職種となっているのである。だから間違いではない。

 平たく言えば、日本列島に自然にある動植物や鉱物を採取したり加工する権利は、原住民のものという権利を与えた。これは幕末まで続いた制度であった。
しかし、本当は公家とよばれる藤原氏は捕虜として奴隷百姓にして働かせている者らは従順だったが藤原体制にまつろはない彼らは、強制的に囲地に入れられた。

 かれら原住民は藤原体制の奴隷になることを徹底して拒んだからなのである。
だから藤原体制は、奴隷になるのを拒む連中の許へ、毎年五月五日に限って百姓が石打ちに押しかけるのを許したのである。

 何故なら、奴隷百姓は汗水たらして過酷な労働に追い立てられているのに、彼らは労働に従事せず、税も払わぬ部族だったからである。
だから百姓は羨ましがり、彼らを憎んでいたから日頃のうっぷん晴らしに年に一度に限り襲うことを官許したのである。

 これを京では「院(因)地打ち」とよんだ。つまり人の上に人をではなく、その反対に人の下にわざと非人を作って、石つぶてで打ち殺しても構わぬものとしたのである。
官許というか公家の後援があるため、白川とか山科、桂、大原といった収容所へ当日は群れをなして竹槍まで持って押しかけ、池に放飼いの鯉やフナを戦利品として持ち帰って、
これ見よがしに竹の先に剌したのを、家奴隷も百姓奴隷も軒ごとにたてた。

これが後には「尚武の節句(本来は勝負の意味)」となり、現在の鯉のぼりになるのである。
 しかし襲われる者達も黙って待っておられぬ。石合戦ゆえ小石の多い河原を確保するために、四条河原から加茂川一帯に住みつきだした。
が小石を押えるため石の沢山ある河原に小屋掛けしていても、石では食せぬし銭にならぬ。

 そこで細工物をしたり、芸をみせてやむなく生きてゆくために銭稼ぎをした。後に役者のことを河原者と呼んだり、河原埼権十郎といった名が生まれてくるのも、圧迫され通しの日本原住民系としては、
石合戦への応戦の必要があったからであって、やはりそれなりの訳があるのである。

 だから芸人(漫才、落語、講談師、歌手、役者、タレント、)という人間たちは、差別と弾圧、迫害され続け、風雪に耐えた歴史の中から、その抵抗の精神を芸に昇華させるから素晴らしいのである。
(津軽三味線の高橋竹山を見れば「芸」とはどのようなものか分かるだろう。まさに「風雪流れ旅」の過酷な世界から生まれる凄まじさがある)
だが、近頃の芸人と自称する者たちにはこれが全く見られない。
テレビで売れれば手っ取り早く銭になるから、吉本へ入りひたすら「ひな壇芸人(業界用語でガヤガヤ騒ぐだけの要員だから「ガヤ」と言うらしい)」を目指す。
「芸」と呼べる代物でなく、全くのウルサイい馬鹿真似を芸と勘違いしている。裸になって英国で恥をさらした漫才屋も居た。

 生きのいい若者が労働を嫌い、「苦節二十年」でやっと売れた・・・・・と喜んでいるが「人生の目的」をはき違えている。
何より、いい若いもんが、漫才屋やタレント、スポーツ選手を将来の目標に据える現在の風潮は嘆かわしい。
「笑い」は人間にとって大切な生理現象である。笑いの無い生活は、無味乾燥した寂寞としたものになる。
だから笑いで銭を稼ぐ芸人は必要である。しかし今の彼らは刹那的な言葉の応酬になってしまっている。
シュールさやリズムネタで奇をてらうか、内輪受けする狭い「バラエティ」の中でしかの枝芸にすぎない。だから「腹の底から爆笑」はできず「冷笑」にすらならない。
今日本の若者に求められているのは、物でも、情報でも肉体と頭脳を使う「労働」ではないのか。

  漫才発祥の地「三河萬歳」

「へえ、あけましてお芽出とうござりまする・・・・・さて年の始めのためしとて、お寿の御祝い、ハアッさてもこの春も麗らかに、千年の丹頂の鶴。
 萬歳緑毛の亀。ともに舞い遊ぶ御代の春こそたのしけれ」
「・・・・・・千代のためしの数々に何をひかまし姫小松。縁起を祝うて緑の亀も舞い立てば、丹頂の鶴は一千年の寿命をば差上げ奉らんとこれも舞い上がる。よおッ」とポンポン。
このように、小鼓や笛で音を出し、身振り手振りを交えて面白おかしく二人の呼吸をぴったり合わせ、見る人から幾らかの銭を貰っていた。

 故子母沢寛の「東海遊侠伝」の中で、清水の次郎長にくっついて歩く髪結常が、「結構うまくなったから三河萬歳になるか」といったくだりがあるが、これも間違いである。
三河は小坂井村の松永太夫、尾張萬歳は尾張あじま衆と厳然と決まっていて、今日のごとく、のど自慢で優勝したから流行歌手に、といった具合にゆかなかったのである。
ましてや、汗して労働をしたくないから、漫才やってテレビに出て番組を一つ任されたら「一生もんだァ」など気楽でも手軽でもなかった。
厳然と世襲制になっていたし、また猿飼部族と共に萬歳は一つの氏族になっていたのである。