『日本残酷史』 (第三部) 女郎の折檻に転化した刑 目明し、岡っ引きは小説テレビの世界 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

『日本残酷史』 (第三部)

    角海老のいわれ
 
    板倉勝家の残虐刑

 女郎の折檻に転化した刑

目明し、岡っ引きは小説テレビの世界


逆さ吊りとか海老責めで有名なのは、島原半島の松倉勝家である。彼は年貢米増徴を拒んだ領内百姓を切支丹宗徒に名を借りて、地獄谷へ逆さ吊りにしたり、両手両足を背後へ海老のごとく折り曲げ縛ったのを、海辺に吊し潮の干満で苦しめた。
 これは、「蓑踊り(みのおどり)」と袮し、着せた蓑笠に油をそそぎ火をつけ、きりきり舞いをさせ狂い死するごとくに殺したのと共に有名である。
 が、この海老責めは江戸時代に入ると、「逆海老」とか「さかさ海老」又は「角の海老」とよばれる反対のやり方の責めとして遊郭で用いられだした。
 つまり、まともに手足を逆に曲げて縛って吊しては、関節が折れて生れもつかぬ不具になってしまう。
それでは年期奉公で抱えている女の身体が台無しになってしまう。だから猿が四つ足で木にぶら下っているような恰好で、女を折檻する時には吊したというのである。


 それでは手首や足首が痛むだけで、たいした拷問ではないとするのは素人考えで、二本の梁に左右を別個にくくりつけるのである。
 もともと女郎の折檻というのは、「客の好き嫌いをする我儘を窘める為」とされている。
 だから、その矯正のための折檻ゆえ、手と手の間隔が空くように脚と脚の間隔も広がるし、吊されての高さが立って居る者の腰あたりと決められて居た。
 
だから、いくら強情な女でも、この逆さ海老に吊られては何ともならなかったのである。暴れていても梁の角のすみまで縄がずれて行くのが精一杯の正念場で、もうそうなっては、なにしろ腿が開いた儘ゆえ防禦もできない。
 それゆえ新吉原あたりでは裏田圃の非人溜から、狩り出されてきた汚ない男らに順ぐりに犯される。こうなると、「濡れぬ内こそ露をも厭え」で、いくら客の選り好みの烈しかった我儘な女でも、
それからは悪い癖がぴたりと止まり、どんな客でももうふらなくなる。そこで、
 
「当楼の女郎は決して、どんなお客さまでもふったりは致しません」といった看板に、「角海老」といった店名をつける女郎屋が全国各地の遊廓にあって、ふられたくない酔客に安心感を与え繁昌したものである。
 しかし、いくら好き嫌いはせずビジネスオンリーに客をとるのが稼業とはいえ、四つ這いの反対の恰好で吊され、慰みものにされるのは、女性にとってはやはり残酷の一字につきよう。
 
 しかし、その吉原にしても、まっすぐ其処へ売られてきた女ばかりではない。
「相対死」とよばれた心中の仕損いは、男は非人溜、女は吉原へ売り飛ばすという決まりがあった。つまり、うまく死ねればよいが生き残ったら、両国橋で三日三晩さらされてから、
女は一生涯自由から縁切りで吉原にまわされて死ぬまで女郎勤めである。
 
これも酷ったらしい話だが、もっと非道かったのは、甲府のさばし同様に岡っ引きにしょっぴかれてくる女たちであった。今日では、「目明し」「岡っ引き」といったのを、江戸ならば南、北町奉行の与力の下の同心に配属されていた下っ引きのように誤られている。
 が、あれは泉鏡花の弟の三汀が、『捕物帖』なるタイトルのものを娯楽雑誌に本邦初めての執筆をした際に、間違えて晝いたからである。
 江戸時代には、甲州などでは堂々と、「非人」とよばれていた親分衆が、朱靴の公刀や十手捕縄を頂いて、いわゆる二足草鞋で賭博業もしていたが、これは六十余州どこも同じであった。
 吉原も同様で、裹田圃の非人溜の代々四郎兵衛と名のる親分が、会所役人や大門入口の番所役人を溜から出していた。そしてもちろん江戸府内の目明しも、みなこの親分から十手を預かっていたのである。
 御上御用だから、監督官庁の町奉行所から十手捕縄を貰っていたとみるのは、今でいうなら短絡思考で、そんな事をすれば、おかみで費用や給料を払わねばならない。
 諸事ご節約の江戸時代には、そんな金のかかる事はしていないのが徳川幕府だった。

 吉原非人溜から各所へ散らばっていた府内の目明しは、みな吉原会所からのあてがい扶持だったのが本当の話。それゆえ目明しの本務は、「盗人などを捕えること」ではなかった。
 既得権益として公然営業をし、それ相応の冥加金とよぶ納税もしている吉原に対し、「もぐり商売」をして税金を払っていないで儲けている私娼窟を、営業権侵害として、これを摘発することにあった。
 
つまりそうした無届けもぐりの処を、岡塲所とよんでいたから、そこから女を引っぱってきて、新吉原の妓楼で生涯只働きさせるのが仕事ゆえ、「岡っ引き」とも別称されるいわれである。
 が、そうしたことを勤めるのに碌なのはいないから、岡場所を襲って女達をしょっ引いても、まっすぐに吉原へは連れてこない。京橋白魚河岸の弾正橋の側にあった押しこめ屋敷、としうのへ、捕えてきた女達をひとまず放りこんで入れた。
 入れるといっても、せっかく捕らえてきたのを逃がしては大変だから、松丸太格子の檻の中へ、野犬狩りみたいにどんどん放りこんでいた。もちろん厠(便所)などなく、その檻のなかで大小たれ流しの儘である。

 さて、そうしておいて、女衒とよばれる女買いを呼んできて、一人ずつ丸裸にむいて値踏みをさせ、値よく売れるのは宿場女郎へ売り飛ばし、残りを吉原へ持っていった。
 土佐藩主山内家の火消し人足元締めをしていた相模屋政五郎は、のち手足を切断した沢村田之助に娘を縁づけ、生涯その面倒をみたことで知られているが、若い時に、「あまりに非道にすぎる」
と、この押しこめ屋敷へ忍びこみ、檻の中の裸ん坊の女たちを助け出したことがあるそうである。

「盗みはすれど非道はせず」というのは、「白浪五人男」のつらね台辞だが、つまり江戸時代の非道とは、おかみの御威光を笠にきてなされる惨酷な仕置きのことをさしたものらしい。
 参考までに江戸時代の南北に分かれる前からの町奉行を何人か紹介しておくが、これらの者が、切り石を抱かせたり三角に削り尖らせた角材に坐らさせる算盤責めなどをして、平気で残酷なことをした顔ぶれである。
 幕末まで九十六名中、まあ栄転らしい後の職にありつけたのは三分の一もなく、後は途中で死亡したり首になっている。やはり他人に酷いことをする者にはそれなりの酬いがあるらしい。

初代  板倉勝重   京所司代へ栄転
二代  彦坂元成   改易
三代  青山忠成   逼塞
七代  島田利正   辞任
八代  加賀爪忠登  大目付へ栄転
十一代 酒井忠知   改易