『日本残酷史』 (第二部) 中国渡来の拷問術 家康の拷問 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

『日本残酷史』 (第二部) 

   誤説・斎藤道三入道

  中国から入った拷問術 


 中国には、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)が考え出したという、「炮烙(ほうらく)」という拷問がある。これは油を上から垂らした赤銅の柱に人間を這い登らせ、下から火を燃やすのである。
熱くなる銅柱だが下は紅蓮の炎だから、必死に上へ逃げようとするが、油が垂れてくるから滑って進めないという惨ごったらしいものである。
 残忍さを見せ物として扱う点では、古代ローマでキリスト教徒を生きながら、ライオンにがつがつ噛じらせるより物凄いものだった。
 それから中国では銅筒や銅壷で、人間を焚殺するのが流行したのか。

 足利義満の頃の向こうの『籌海図編』の年表の、永楽二年(一四〇四)の条などには、「日本首(王、足利義満をさす)は先に貢物を納め臣下の礼をとっていたが、今回、わが周辺を犯す倭賊二十余人を捕え、倭の風格によって、
銅の瓶に入れ蒸焼になし、その刑に用いた銅瓶の中へ、焼け残っ頭蓋骨の芦頭を入れて献じてきた」旨の記載がある。
この一文をもって日本の歴史家は、「和寇献檎」なる言葉を作りあげている。
 
しかし日本では赤銅は高級品である。足利義満の頃より二世紀後の豪勢な秀吉でさえ、六条河原で罪人の釜ゆでを一般公開させた際でも、美濃関の鋳物のもので屑鉄製の釜だった。
 赤銅は江戸期に入っても、火鉢の内側ぐらいにしか上層階級でも用いられず、「銅壷の湯が、ちんちん鳴って」と書けば、余程裕福な商家の御内か、黒板塀に囲われた贅沢な妾宅という構図になっている。
 しかし、それは奢りでお上に見つかれば、罪料に処せられたらしい。つまり庶民などには手の届かない贅沢品だったのである。

将軍家斉の子の斉温が、尾州徳川家の十一代目として入部した文政十年(一八二七)に、「鍋屋町佐山屋加平内儀松こと、煮湯にて夫に火傷をおわせし際、銅壷(どうこ)の湯を用いしは越度にて受牢申しつく」といった条文がある。
 恐らく悋気沙汰での夫婦喧嘩ぐらいゆえ、火傷といってもたいした事はなかったろう。
 しかし尾州藩七間町御牢帖に、書きつけられているところでは、どうも煮湯をふっかけた行為より、銅壷を用いたのが奢侈として睨まれ投獄されたものであるらしい。
 
 俗説では、美濃の斎藤道三入道が、「煮湯の釜に入れて、人間を茹で殺した。だから、蝮の道三とよばれた」と、残酷物語にされているが、これは明らかな問違いである。
 今でも美濃の関の先の源氏野に鋳掛部落の名前が残っているが、道三の頃に、ここで風呂桶の内釜が初めて鍛工されたのである。この美濃釜の実物は三島神社の社前に雨ざらしになっている。
 つまり今日のように下横に焚き口はなく、釜に水を入れて下から火を燃やすから、下敷きの板を入れる、後の五右衛門風呂である。
 しかし江戸中期の十返舎一九の、『膝栗毛』の中で、弥次喜多がこの五右衛門風呂を知らず、中板をとって下駄ばきで入る笑いがあるが、それくらい後世になっても、そうした釜風呂は美濃を中心とした街道筋にのみ限られていたものである。
 だからテレビや映画で、何人もが一緒に肩までずぶりと漬る風呂がでてきたら、あれは絵空事とみるべきだろう。

 江戸でも京でも、「ざくろ口」の名が残っているように、蒸し風呂が幕末まで続いたのである。中は蒸気で朦朧としていて男は褌(したおび)女は腰巻で入るので、男女混浴でも何の問題でもなかった。
勿論、女は乳房見えるが、現代のように巨乳だ、ペチャパイだとSEXに結び付けるような時代ではなかった。
これを現代の歴史屋は「好色な日本風俗」と卑下するが勉強不足も甚だしい。

 という事は当時の鍛工技術では、一人用の釜は造れても、多数の人が入浴できるような大きなのは鍛造できなかったからである。
 街道すじの茶店などで葭簀の陰の天水桶へ入れ雨水を日なたで温めて、五文か十文で入浴させていたのを。「水風呂」とよんでいたから、慶応二年(一八六六)になって田町にできた三田湯では、
別に熱湯を沸かして湯槽へ注ぎこんで、やはり生温いのに客を入れたと伝わっている。
 
「鉄砲風呂」とか「据風呂」とよばれる鉄管で火気の熱を通して温めるのもあったが、これも大きな浴槽では無理だから、家庭用の一人風呂だったのは『守貞漫稿』にも書かれている。
 つまり斎藤道三は、つまりまだ戦国時代なのに、いくら潔癖とはいえ、釜に入れて沸かすといった入浴法を考案したばかりに、「人間を釜に入れて下から火で燃すのは茹で殺すためだろう……」
といった誤解をまぬいたものらしい。先覚者はいつの時代でも恵まれないものなのである。悪党よばわりをされている彼のために、浴槽メーカーは慰霊祭でもするべきであろう。

 探湯と吊しぼし
 
古代の裁判官を「弾正」という

残酷裁判は中国渡来



「湯」といえば、「盟神探湯(くがたち)」とよぶ拷問みたいな裁判が古墳時代の允恭帝(いんぎょうてい)の頃からあった。煮えたぎる熱湯の中に鉄片を入れておき、原告、被告の双方が素手を入れて、その鉄片をつかみ出す。
すると正しい方は神助によって火傷を負わないが、悪い方は必らず火傷してしまうとされる裁きである。
 常識からすれば、そんな莫迦なといった裁判だが、飛鳥朝の頃は、あらゆる訴訟は、これで決着がつけられていたのである。もちろんこれは後のお呪いの、「こっくりさん」が高句麗伝来のごとく、百済からの渡来とされている。

 この火を神聖視し、太陽も赤々と燃え火の玉とみなす信仰は、「拝火教」の名で百済からだけではなく、西南アジアからも入ってきている。
 そして、これが山岳信仰と結びつき、秋葉の火祭りとか、かまど荒神を祭る伊勢の荒神山祭りとなって続いている。そして今でも、
 「火渡り祭り」とか「神火行事」とよけれ、燃える火の輪を潜ったり、燃える材木の上を素足で行者が歩いて見せている。
 しかし火は炎の先端だけが高温で、その根元は足の裏の皮を鍛練しておげば、まんざらできぬ相談でもない。が、煮えたつ熬湯の中へ素手を入れるのは、いくら手の皮を厚くしても、これは無理な話である。

 だから推理すれば、この探湯の裁きなるものは、まったく裁判官の胸先三寸で初めから決まっていたもののようである。つまり、
 「どちらが先に手を入れるか?」で、すべての決着がつくからである。つまり、誰であれ素手を入れたら酷い火傷を負うに決っているから、負けさせようとする方を先にやらせておいて、
 「お裁きはあったぞ。一方がこれだけ手を焼け爛れたからには、残った方が正しいことはこれで証明できるというものぞ……」と判決が出されたのであろう。

 今日われわれは、裁判は公正無私のものであるし、裁判官は正しい立派なものと思っている。が、
昔は、その裁判官を、「弾正」の名でよび、公卿衆では卑賎役とみなし、俘囚の末裔の武家をもって当てていたのである。
戦国時代には、松永久秀は「弾正弼」だったし織田信長の父信秀も「弾正忠」の位を貰っている。明治には裁判所は「弾正台」となった。
だから変な想いもするのだが、「探湯」のようなでっち上げ裁判が神様の思し召しの名称の許に公開されていた事を想うと、成程と想わざるを得ないものがある。

 しかし、まさか、そんな魂胆が神慮の陰にあるとも知らず、ただ単純に訴えて出た者が「自分は正しいんだ、間違っていない」との信念をもって沸騰した熱湯の中へ勢いよく手を突きこみ、
途端に「あっ、熱い」と七転八倒の苦しみにのたうち回り、そして生涯不具者になったのだからこれまた古代残酷物語である。

 しかし湯漬けといえば、甲州では、「湯問い」という拷問があった。他国と違って、ここでは御用十手をもつ者を、はっきり、非人とよんでいたが、代官所のある石和から甲府よりの笛吹川を渡った川田と、
栗原よりの川中峠の先の皮田の双方に御用提灯を表へだして賭場をひらく世襲の十手持ちがそれぞれいた。
 
 今では石和の湯はぬるくて薬効はあっても、沸かさなくてはならないが、まだ江戸時代には熱いのが噴き出していたらしい。
 そこへ十手持ちが何かと因縁をつけ、適当にしょっ引いてきたのを、湧き口まで連行してゆき、そこで、「やい野郎ッ、覚悟しゃあがれ」と脚をもって逆さに吊し、きな臭い硫黄泉へ何度もくり返して頭から突きこむ。
 運悪く捕えられてきたのゆえ、適当たところで何かを言ってしまえばよいのだが、「とんでもない、悪い亊なんか、これぽっちもしてはいない、でっち上げだ」と頑張ろうものなら、
向こうも匙を投げてしまい、
 「じゃあ勝手にしろ」と放ってゆかれてしまう。もちろん頭を硫黄の湯に浸されたままある。だから目から耳から硫黄が流れこみ滲みこんでゆく。
 それゆえ三日もたつと、硫黄は下からぶつぶつ上へ昇る習性があるから、咽喉を通って胃や腸に逆流したのが、ぷっぷっと股の問から間歇泉みたいに飛び出す。
 が、そうしたのが出るのは、もう息が絶えかけ肛門括約筋が締りがなくなった証拠で、後二日もたつと、今度は身体全体が硫黄で真っ黒な棒みたいにたってしまう。
 だから、これを「甲州ぼし柿」とか、「黒さぼし」と呼んで、甲州路へ入る他国者は怖ろしがって、一人旅はできるだけ避け、どうしてもという時は、「身延講」の講中宿で、白衣を借りて通り抜けたものだという。
だから「旅は道連れ世は情け」という伝聞も残っている。
     
   さぼし地獄

何故「人斬り長兵衛」と呼ばれたか

生薬とは人間の臓器



 「黒さぼし」というのに対し、「白さぼし」とよぶ言葉もある。他国でいう白首、つまり十手持ちのやくざが営業している曖昧宿で、客をとる女(私設売春婦)のことを指すのである。つまり昭和初期までよく、や
くざが娘をかどわかして石和の温泉芸者へ売り飛ばされたといった新聞記事があったのも、これも昔からの伝統なのであろう。
 そのさぼし屋の大きいのは甲府柳町に、昔は軒を並べて他国の遊郭なみにあったが、祐天仙之助の親分だった宇之吉の三井楼が、百人からの女を抱えて一番大きかったという。
 もちろん金を出して連れてきた女達ではなく、みな十手を突きつけて脅かして、かどわかしてきたのだろうが、それだけの女がいたのだから大きな建物だったと伝わっている。
            
 その甲府の先では、鰍沢の本陣のちとせ屋の斜め向こうに店をはっていた人斬り長兵衛のさぼし屋が、韮崎や妙法寺道への三つ又になっている上に梁川関所を控えて繁昌していた。
 なぜ、人斬りと渾名かあるかといえば、石和かわ田の御用聞きは、硫黄漬けで捕えた者の始末をするのに、ここの長兵衛は面倒がらずに一人ずつでも河原まで連れて行き、
 「えい、ばっさり」と首を斬ってくれて瞬時にに安楽往生させてくれる親方として、甲州では人気があったのだという。

  富士吉田にも、やはり同じ頃、「人斬り長兵衛」とよばれる非人頭の親分がいて、気前よく旅烏の面倒をみたり、草鞋銭にも惜し気心なく銀粒を包んでくれると、これまた大評判の男がいた。
 この長兵衛の方のことは名古屋の医家で、「百嘗社」を主宰した水谷助六の道中記にも出てくるから、比較的よく知られている。
 もちろん彼の人斬りも、科人を斬首する殺しだったのは同じことだが、どちらも内幕は、きわめて営業的なものだったらしいといわれる。
 というのは今でも日本人は売薬好きだが、江戸時代も変りなかったせいである。
 
 しかし当時は、現代のような化学製品の新薬はなく、いわゆる漢方薬しかなかった頃である。つまり赤黒く乾からびた葉っぱや木の根を、コリコリ薬研で粉にしたのを貰ってきて、それを土瓶で煎じて呑むしかなかった。
 だから、それでは飽き足らない向きが、「労咳(肺結核)には喀血するからその補充に生血を服用するのがよかろう」とか、

「天刑病(レプラ)には、その病源を早く尻から外へ出してしまうため、元気な人間の尻子玉(肛門)を焙肉にして食せばよい」
「馬鹿につける薬はないというが、すこしましな人目の頭の鉢を叩き割って、その脳味噌を舐めたら、頭が冴えるかも……」といったような風評を、まことしやかに広めていた。
 
しかし人間の生血や肝が、店屋に並べられているわけはない。だから富士の吉田あたりでは、十手持ちで自家用牢を持っている長兵衛の処へは、「今度、人斬りをなさる節は生血を五合」とか、
「脳味噌を百匁ぐらい」といった注文が、次々と舞いこんでくるのである。それゆえ長兵衛親分も、注文伝票が溜まってくると放っておけず、
「あんまり注文主を待たしておけねえから、ぼっぼつ明目あたり天気が良けりゃあ、ばっさりやるべえか」となったものらしい。

そして、脳味噌の注文が何百匁もあれば、「これじゃあ一人叩っ斬っても、そうはとれねえから今回は二人にするが、どいつを斬ったら良いか、大頭のやつを選んでおけ」と子分に言いつけて適当なのを選び出させ、
これを河原へ並べて次々と斬ってのけ、
「生血は升で計って竹筒へ入れて届けろ」
「脳味噌は柔かいから芋の葉で包装しろ」
「尻子玉は黄色いものが付いてるかも知れねえから、水洗いをよくしてから藁包入れて行け」
 と、それぞれ差図をして、配達までさせていたようである。


 まあ、鰯の頭も信心からというゆえ、そうした生薬を入手して、有難がって服用する側は仕合せだったろう。しかし、そのため、「おめえは血の気が多そうだから」とか、
 「でっかい糞をいつもたれて、けつの穴が一番大きいって話じゃねえか」と見込まれて、別にだいそれた事もしていないのに、需要供給の原則でぶっ殺された方は、これでは死んでも浮かばれなかったろう。
 今でもスッポンや蝮の生血を服用する人が多いが、人間の生血の需要は肺病の特効薬というだけでなく、強壮剤、若返り薬としても江戸時代にあっても、おおいに求められたから相当高価に売れたらしい。
 
だから吉田の人斬り長兵衛はがぼがぼ儲り裕福で旅人の間に評判がよかったが、この、「生血が大層もない金になる」と、いった噂も、旅人たちによって広まったらしい。
 しかし、文久二年(一八六二)までは、十手捕縄と朱鞘の公刀を預かる親分が、その捕物の人件費や手間代を賄うために、公認の賭場をもち、自分らで牢まで作って捕えたのを集めていたが、それでも辺鄙なところでは、
 「いくら儲るから……」といって、そう無暗矢鱈と斬り殺せる程には召捕りなどできない。

鋸引き採血方 


そこで死なぬ程度に生血を搾る鋸引き、というのが行われた。これはゴムの樹の幹に傷をつけて、流れ出る樹汁をぶら下げた空罐に採取するのと同じで、手足を竹鋸でひいてそこへ竹筒をぶら下げて血をうけとめたものである。
 この採血法を、柳生流といった旨を、水谷助八の門下で、のち平賀源内の蘭学の師匠でもあった荒井佐十郎が書き残している。
 おそらくこれは、徳川時代の初頭に、「廻国者」とよばれ、後の特高警察のごとく諸国を巡邏していた大和柳生の者たちが、被疑者を捕えて拷問する際に、「一寸試しの、五分試し」と刃先を当て切りにしたのではあまり効果がないから、
じわじわ効き目があるように、血管を竹の鋸でひいて血を垂らし出させて苦しめたところから、その名称が生れたのだろう。
     
竹鋸きりこみ

家康も行った残虐刑


 しかし、竹鋸で人間をひき切るといった残忍な方法は、なにも柳生一族の考案ではなく、『武徳編年集成』によれば、徳川家康が大賀弥四郎に下したものだとある。
 武田勝頼に内通して、岡崎城を明け渡そうとした不忠の臣というので、『三河物語』には、浜松の家康の許へ連れてゆかれ、そこの念子原で女房と四人の子を磔にかけられた上、弥四郎だけは岡崎へ曳き戻され、町の辻に穴を掘って生きながら埋められた。
そして首だけ出ている地面には、その切断された十本指が放射線に並べられたという。そして竹鋸を何挺も前へ揃えておき、

 「何人であれ勝手に引き裂き勝手のこと」と立札をたてたので、通り掛りの者が面白半分に次々と竹鋸を使ったので、白い咽喉骨まで竹の鋸で切れてしまったとある。
 いくら軟骨とはいえ竹鋸で実際には、切れたかどうかは疑わしい。その著者の大久保彦左衛門は、翌朝には首が散らばった指の間に転がっていたと記述している。
 こうなると生血搾りのような、そんな生やさしいものではない。
 恐らく脛骨だけ残して肉は削られたか、その頸骨も最後には力まかせにへし折られたか、踏んづけられでもしたのだろう。
 
 さて、なぜ大久保彦左衛門がこうした無惨なことを、小気味良さそうに書いているかといえば訳がある。今も渥美半島には、彦左衛門の生れた「兵助畑」の地名が、大久保のバス停の側に残っているが、大賀弥四郎はこの一帯の代官だったから、
きっと家康から、「同じ土地者なのになぜ、もっと早く気づかなんだのか。汝も一味同心ではなかったか」と、相当に叱責され、その鬱憤ばらしがこれを書かせたのかも知れぬ。
 たにしろ、この事件の真相は、岡崎三郎信康の実父松平元康が守山で落命したどさくさに、後の家康が築山御前と謀って、その替玉になりすました。
そして、当初の取り決めは、家康は浜松城、三郎信康と築山御前は岡崎と別々ゆえ、いわば後見人のようなもので、信康が成人したら三河一国は返還の約束だった。しかし家康は、信康が一人前になってもなかなか返さない。
 そこで三河譜代の大賀弥四郎らは、「かくなる上は武田勝頼を頼ってでも、「岡崎を信康様のものにせん」と企て、それが未然に発覚し失敗し捕らえられたのである。
だから故高柳光寿氏の『戦国戦記』にも「女房子の磔にかけられているのを、引き回しの大賀弥四郎に見せたところ、何と思ったか頭を少し持ち上げ『お前らは先へ行ったか。忠義のためゆえめでたいことである。自分も後からゆくぞ』といった」
と書かれているのである。

しかし大賀弥四郎は三河松平に代々仕えていた者だが、大久保彦左はそうではなく家康に拾われた大久保党の一人で家康派である。
 つまり大賀の立場では忠義でした事も、大久保の側からすれば家康へ不忠になる。それゆえ、こっぴどく酷たらしく取り扱って、後世への戒めとして残したものらしい。
 この他、『浜松御在城記』には、「鳥天神山城の向坂牛之助なるもの武田方へ降参落城の後、山野に潜み匿れ居りしが見つかり、名を知られしひとかどの者なるに卑怯未練のくせものと仰せられ、
旗指し物を背負せたままの恰好で逆さまに松の大木に吊されぬ。よって牛之助は鼻腔より血をたらしつつ、やがて悶絶したれば衆みな手を叩き、臆病者の最後は見苦しやと罵る」とある。
 どうも徳川資料というのは三百年の磨きが掛かっている。

 そこで、さもさもみな本当らしく、さっぱり訳がわがらぬが、この向坂牛之助というのは、高天神山城は城兵の糧食が尽き、落城する前に、二度も敵中を横断して決死の使者を勤めた男である。
『天正二年(一五七一)五月二十二日付家康感状』にも、
「高天神は通路もなき難所なのに、再度使いに立って忠節を致したは天晴れにり」と、百貫文の土地を褒美に与える旨が書かれている。 
だから、せっかく励ましたのに高天神が落城したゆえ、百貫文の土地を与えるのが惜しくて家康が、血を逆流させて殺してしまったか。
が、逆さ吊りで血を逆流させて殺してし玄ったか。
 はたまた救援を二度まで確約しておきながら家康は、行かずじまいで彼を見殺しにした後めたさから、それで酷い処置をしたかのどちらかであろう。