NHK大河ドラマの虚妄 第五部 <<真説 源義経>> 第二部 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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    NHK大河ドラマの虚妄 第五部

   <<真説 源義経>> 第二部


 だからもし、この少年に同行して行った大人が居たとしたら、それは資本をかけずに仕入れた食い詰め者の浮浪者だったろう。
まともな大人が、進んで自ら奴隷に加わって行くとは考えられないからである。

 又、吉次が商売不熱心だった一例は、鏡の宿で夜盗に襲われたとき、牛若初め奴隷達をほおり出して、先ず自分だけ逃げている。どうも、あまり、みな銭を払わずに誘拐してきた商品のばかりのようにも、逃っぷりからは想像できる。
いくらかでも銭が掛かっていれば、まず刀をぬいて守るのが商売であり、人情である。
それに、当時十六歳の少年が未開の地の奥州へ自分から行きたがる要素は何もない。
つまり吉次という男はあまり金が売れないから、代金決済に困り、甘言をもって牛若や多くの少年や大人まで拐かした常習誘拐犯であるらしい。
結果論からして、まるで藤原泰衡という男に頼っていくように、話しは今となっては作られているが、未来とか将来というものは、前もって、その時点において見通しのきくものものではない。

 まして混沌たる時代に常識では計り知れない。
もしこの時、忌まわしい吉次に逢っていなかったら、少年の運命は、もう少し別個のものになっていた筈である。あんな悲惨な終末を迎えなくとも、少年はもっと勇ましく華やかに思いっきり自由に生きられたかも知れない。
というのは、鞍馬山から牛若丸が出てきたといっても、その平家の時代には、山国荘の花背別所から鞍馬道を抜けて京へはいるには、御曾呂口。
東海東山道へは山科別所口、宇治から奈良への伏見口は、当時狼谷。淀へは鳥羽口。山陽道へは桂口。丹波路の胡麻別所へは常磐口と関所がある。

 これは、延宝二年の「山城国四季物語」に詳細だが、だから何も無理して、遠い東北へ行かなくても、十六歳の少年の一人ぐらい、楽に身を隠して潜伏出来る治外法権みたいな、ハチ、の部落、
つまり特殊地帯の別所がその京への入り口に沢山在ったのである。
そして六道の辻を固めていたのが、これが名高い六地蔵の党である。
「我々さえもう少し見張りを厳重にしていれば、みすみす、平泉へなど誘拐させなかったものを・・・・」と、後年になって彼らは、自責の念にかられたか、挽歌として「義経記」を書き謡曲「鞍馬天狗」を著作した。

 そして、鎌倉から単騎できた土佐房昌俊から、彼ら別所者の部族の頭領である頼朝の命令と言われて、院地者五十騎を道案内に出したばかりに、後になるとさも、義経の敵のごとく扱われ、五月五日になると投石されるのに腹をたて、
「義経が殺されて、癪にさわっているのは此方も同様だ」と、負けずに礫うちつけ、双方の石合戦をずっと続けたものだから、現代に至るまで、この五月五日は和菓子屋さんのちまき販売日になっている。
つまり吉次さえ現れなければ、少年は六道の辻のどこかの番所で、しかるべき手近な別所へ送り込まれていた筈である。
そしてもしそうだったら事態は一変した。

 黄瀬川へ駆けつけて、初めて兄の頼朝と対面した時でも、近くの別所からならば少なくとも数百の軍勢は連れていけた筈である。そうすれば頼朝も、政子に対して肩身が広かろうし、
義経自身も、梶原らの家人に対してもう少し恰好が良かっただろう。ところが奥州からなので、僅かに五六人しか旅費の関係から連れて行けなかったため、馬鹿にされた。
そして、最初に舐められてしまったから、その後義経がいくら手柄を立てても、実力以下に見られてしまうのである。

 「ものは最初が肝心だ」というが、その振り出しを吉次のために、誤らされたのである。その後、政子に睨まれ、仲違いになってからも、腰越あたりで謹慎しなくても済んだのである。
何しろ関東の別所は頼朝に組織化されていたが、関西は佐々木四郎高綱が近江の日野別所や箕作別所の者を率いて「蜂起し」の白旗をたてて蜂起していた以外は、まだ未組織状態だったから、
義経にオルグ的要素があれば、どうとも身の振り方はつき、近くの別所に足場さえ持っていたら、幾らでも逃げ込むアジトは在ったろうし、味方する者も沢山居たわけで、
なにも行く先がなくて、また、遠い奥州までてくてく歩いて行かずともすんだ。
つまり場合によっては西国の別所を統合して、純粋な騎馬系民族である「源氏」の幕府を、平氏系北条氏の鎌倉幕府に対抗する新政権を樹立する、もっとおおらかな生き方もあったであろう。