NHK大河ドラマの虚妄 第四部 真説 源義経  牛若丸は売られた 義経と金 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


  NHK大河ドラマの虚妄 第四部

     真説 源義経  牛若丸は売られた

      <<義経と金>> 第一部


 京の五条の橋の上で笛を吹いていた牛若丸を、遠く陸奥の国へ伴って行ったのは”金売り吉次”ということになっている。
今の感覚で行くと<金売り>と聞けば「売るほど金を持っている男」つまり金融資本の大財閥のように勘違いしたくなる。
だがこれは吉次の名の現れる出典が、当時の関西出版。つまり京の六道の辻に屯していた当時の文筆業者によって、京を中心に視点を当てたから<金売り>であって、陸奥の国から見れば<金仕入れ業>の<奴隷売り>である。

 何故かというと吉次は、人間の多い京から人間(奴隷)を持っていき、東北からは引き換えに金を需要の在りそうな京へ持って来ていたからである。
それに殊更<金>の文字を使ったのも、現代の人には可笑しいだろうが、これは当時まだ装飾用等に僅かしか使われなかった<金>という鉱物のPRだったのである。
<六道>は京へはいる六つの街道のことで、<六地蔵の党>とも呼ばれ、税関のような仕事で、そのかたわら諸国の珍しい話しも耳に出来たから「義経記」をはじめ、
今日伝承されている謡曲の原本は、みんなこの徒によって執筆されている。

 だが書いてばかりでなく、一条関白兼良の「尺素往来」等には、
「六地蔵の党、例の如く印地を企て、喧嘩を招き候は、洛中鼓騒に及ぶべしと、侍所より警護のため人数を派出す」と出ているように、印地打ち、つまり投石をして、
当時の機動隊を出動させるぐらいデモっていた。つまり「義経記」なども、関を守っていた彼らがゲバ活動をしていない時には、退屈しのぎに、「これこれ何ぞ珍しい話しはないかや」と
旅人から地方の話しを聞き出し、それを現代で言えばニュース源として、筆で書きとめ、

「何ぞ面白い話しがあったら教えて下され、これから諸国へ廻りますのに、話しの種を何ぞ仕入れて行かんことには、人集めするに困りまする」
と、この時代の歩き巫女、鉦たたきといった唱門師の者が、銭を貰いに旅興行に行く時には、この関所に寄って若干の銭を払って話しを聞いたり、書きとめたものを買っていたのが原形らしい。

 勿論「義経記」等はのちに謡曲となっていくが、そうした説話によって銭貰いしていた者たちは、でろれん祭文、ちょぼくれ、辻講釈の売講子、軽口、といった形態で千年後には浪花節、講談、落語といったタレントに昇華したし、
ニュース専門にかき集めて報道していた方は今では時事解説者と言っている。

 さて、何しろ金歯も金指輪も無かった時代、売れ行きのあまりよくない金を背負って、奥州藤原鉱業のセールスマンともいうべき吉次は刀の鍔屋、目ぬき屋といった京のアクセサリー店をセールスしていた。
奇異に思うかも知れないが、柔らかくて伸ばせばいくらでも伸びる金は、まだ文化の開けぬ時代には、あまり価値が無かったのである。この後三百年たった「応仁記」でさえ、

「近頃は、きがねも、次第に価が貴くなりて」とようやく現れ、金が銀の十倍に昇格したのは、十六世紀、明応七年の「公文所勘定書」や、文亀二年の「春日神社文書大和中条目」ぐらいからである。
さらに七十年たった天正十年の本能寺の変の時でさえ、信長の死後、安土城へ入った明智光秀は、金には目をくれず、銀だけ持ち出して禁中へ五百枚、五山や大徳寺に百枚宛寄進したことになっている。
つまり当時は「しろがねも、くがねも、たまも何せむに」の、くがねは金ではなく、やはり硬度が高く細工物や鎧にもなった利用度の多い黄銅の方だったのである。だが、これは日本だけではない。

 ヨーロッパもずっと後年で、植民地政策上黄金が俄に必要になって、錬金術にうつつを抜かす以前の彼の地も、今と違って銀の方が尊ばれていたから、
雄弁家キケロスが「諸君も我輩のように活発に喋り給え」と啓蒙運動をするため、せっかく「沈黙は金。なれど雄弁は銀」と名句をぶってくれたのに、その後全く金銀の価値が逆転したものだから、
「そうか!!黙っている方が値打ちがあるか」と、雄弁家の主張なのに逆に解釈され、そのまま日本へも輸入されている。

 その為日本人は無口を美徳と心得て、今日、海外のサービス業者から日本人観光客は無口で取扱いやすい等と文句を言わぬ点を激賞されているそうだ。
こうした価値倒錯の例といえば、文政三年の「諸国見聞録」にも、越後の国の話しとして「臭水湧出多く、諸民の難渋、憐れなり」とでている。今なら一リッター百五十円もする石油も当時は迷惑な汚水だったらしい。

 さて、吉次があまり有能でなかったせいか、平泉の藤原氏は勢力が弱かった。
その点、伊豆の伊東の北条氏は政子の督励によって、その売れない金を売り、
伊豆の山々から掘り出した黄金によって、ついに<文治革命>を成功させてしまったのである。これは当時としては偉業である。

 余談になるが「奥州藤原氏三代の栄華」や「平泉の金色堂」を絢爛たる黄金文化だったなどと持ち上げる。
しかし、京の大陸系藤原氏が、東北の豪族阿部氏に、金(かね)の掛からぬ藤原の「姓」を下して懐柔策を取ったただけの話。後の秀吉も真似て、豊臣姓を与えているし、家康も属にした松平姓を大名に乱発している。
だから九州の島津氏さえ松平姓を与えられ寛政武鑑では「松平豊後の守」となっているくらいのものである。
 平泉に使い道のない金をふんだんに使った金色堂があったから、一大文化が栄えたなどと錯覚してはならぬ。
また、義経が追われて奥州に隠れたのも、そこが当時の日本では未開の地だったからである。
行方知れずの義経追捕のため、頼朝は自ら「総追捕使(現在の検察庁長官)」になり全国の別所や院地、散所を探したが見つからなかったのも、「まさかあんな僻地にまで行くまい」
と、奥州は問題外だったからなのである。


 だから金を有り難く考えた別所出身の武将は、その後十九世紀に至るまで、その馬印にみんな金色の御幣や瓢をつけて戦った。
これは「史籍雑纂」第三巻の(文元二年八月五日づけ山本伊左より黒田弥次兵衛宛)の書簡末尾にはっきりと、
「馬印金の幣と申すことに御座候ば、別所同意と存じ奉り候」と明記されたのが残っている。

 吉次の頃は物々交換の時代だったが、輸送力に欠けていた。又馬も少なかった。
南部駒、三春駒の産地でさえも「馬三頭も税金にとられては困る」と平泉の基衡が拒む程少なかったし、船はもっと不足していた。
だから此の当時は連雀板を一人ずつ背に付け、それで人力輸送をしていた。
だから百人の隊商を組んでも、一人四十キロを背負わせても四トンしか輸送出来ない。そこでもっとも便利な商品というのは自分で動いてくれる商品、つまり人間である。

吉次らのような行商人は鞭をふるって、一人で歩く商品の集団をてくてく歩ませ輸送していたのである。つまりこの当時の極め付きの商品は奴隷であった。
吉次は藤原氏へ、売上金の決済用にかねて集めておいた男童を、毎年春になると引率して行ったが、承安四年の奴隷の中に一人の異分子が混じっていた。
その少年は十六歳だが(成人した後は反っ歯の小男だったそうだが)現今の小学生より貧弱な体格だったろう。
それに鞍馬寺から逃げてきた家出少年だから、多分吉次に初めて拾われた時は銭もなく、腹を減らした薄汚い身なりの野良犬みたいな恰好だったと想える。
まさか十年後にこの少年が一ノ谷や屋島で一躍スターになるとは誰も想像出来なかったろう。