真 説  安徳天皇(舜 天 王)  「憐れ平氏は海の藻屑となって滅亡した」は嘘 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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  真 説  安徳天皇(舜 天 王)

 「憐れ平氏は海の藻屑となって滅亡した」は嘘


 人皇80代高倉帝の女御である平の清盛の娘、徳子のうみ奉った皇子である。3歳の時に平氏の圧力で即位したまうが、壇の浦合戦で海中へ没したまい命を落とされたというのが通説なっている。
  しかし奥里将建の遺作考証である〈沖縄に君臨した平家〉によれば、沖縄の舜天王になられたとしている。
海洋民族だった平氏は、海流の流れをよく知っていたことを考えてみたい。一方の騎馬民族で海には馴れていないのが源氏だった。

壇ノ浦合戦で、折柄の西南向けの黒潮にのって移動しようと、平氏の船団が、鉄の楔で互いに連結しあっていた処を、嫌がる舟子の漕ぐ小舟にのって接近した源氏が、乗り移って斬りこんだゆえの敗戦とはなったが、
日本歴史で説くように、全滅などはしていないとしています。
 〈南島沿革史論〉で幣原坦も、沖永良部島、竹島、口之島、中之島、臥蛇島、宝島、硫黄島から奄美大島、八重山諸島、与那国島のそれぞれに、平家上陸の口伝えの流史や伝説、遺跡が多い事を考究し、
研究発表して、沖縄本島にだけは皆無であるのが不審に堪えぬ点と疑問を投じています。
 
しかし、元来が高麗系の薩摩軍が慶長十四年に、琉球王朝が、内乱にあけくれしているのを奇貨とし、首里へ強行上陸した際に、片っ端から宗旨違いの平家の遺跡や口碑は壊し、一切その痕跡を残さぬようにしたのでしょう。
 なにしろ源平時代の公家九条兼実の六十六巻に及ぶ〈玉葉〉の文治三年二月十九日の日記の条に、

 「平氏の者らは三千余騎また讃岐の八島に、また戻り帰って住っている由。平維盛ら三十余艘の大型の船舶を率いて南海を指して船出すると聞こゆ」とありますのも、同日記の前年四月四日の条に、
 「源義経より御所に急便きたりて、壇ノ浦合戦の結果の注進在り。捕らえし平氏の者らの名前や神器の安泰の報あり。ただし肝心なる旧主前帝安徳様の御事は分明ならず」と出ている。

日本歴史は、単なる長編叙述詩にすぎない<平家物語>の内容を史実として扱い、後の建礼門院が抱き奉って入水した。
平の徳子こと建礼門院だけは救い上げられ、八瀬の大原へ幽閉されたが、幼い帝は憐れ水底へ没して命を絶たれたとしてしまっている。

 しかし、寿永四年(一一八五年)二月二十四日は太陽暦に換えて計算しますと、黒潮が西南に向かい阿波の鳴門から入ってきて瀬戸内海を抜け、今は屋島と書く当時の八島から明石をへて、
マレーシア、・モルッカス、アブダビ海へ流れ始める季節なのです。

 ですから香港の先の九竜半島に今は集まっている蛋民とよばれる水上生活者の群れが、壇の浦から脱出した平家が南支那海で黒潮暖流から押し流され漂着の彼らの子孫ではないかとも想います。
だが、沖縄県人で有名な〈院政貴族語と文化の南展〉の著者で〈原始日本語は地名による〉などの考究で知られている前記の奥里将建説では、〈琉球おもろ節〉の神歌巻14の46の詞文の一節たるや、

「雨ぐれ降ろちへ、鎧濡ちへ、運天つけて、小湊つけて、嘉津宇おかさがる。雨ぐれ降ろちへ、鎧濡ちへ、大和のいくさ、山城のいくさ」とあるのを援用し、

 セリカクやアケシの神女たちが祈ったから、岳から雨が俄かに大降りになってきたが、それでも運天や小湊から、ぞくぞくと大和の戦武者や山城の戦武者が、降りそそぐ大雨に、ずぶ濡れになった鎧の儘で、
上陸してきたのだという呪歌だとします。
そして王を御主、地方司をあるじから転化したアンジという。護衛をサムライとか武者から転じたツジヤと云い、雑色が今では飯たきや下女の意味になっていると考証しています。
処が薩摩の島津氏の占領後は〈中山世鑑〉の著者、羽地朝秀が、隼人族と同祖の源為朝の遺児が源氏の武者を伴って来島し、舜天王統以前の天孫系統の25代目を、逆臣利勇が害したのに天誅を加え、代って舜天王になったとしました。

 〈南島誌〉で新井白石がその受け売りをしたことから、滝沢馬琴が〈椿説弓張月〉に脚色した。だから沖縄がいつの間にか八丈島になったのです。
だが騎馬民族の源氏系は海洋民族ではありません。政治的なもので島津統治下になってからは、これが沖縄正史となって、安徳帝が舜天王になったなど話せぼヤマトッチュつまり薩摩人に殺され、
各離島の者は異民族の平氏の子孫なりと徹底的に奴隷使役したのが真実なのです。
また、日本各地の山岳地帯に「平家の落人部落」伝説があるが、海洋民族である平氏が山奥で暮らせるはずはなく、間違いである。