藤吉郎の素性 木下藤吉郎は「八」の部族の出身 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


     藤吉郎の素性
   
 木下藤吉郎は「八」の部族の出身


(注)徳川家康は純血日本民族の内、サンカ葵族の出身で、秀吉もやはり、サンカ木の陰族出身説を提唱したのは鹿島昇氏である。
  従って、天下取りは、同じ純血日本原住民系の内ゲバだったことになるが、秀吉は天下平定後に、外来勢力仏教と手を結び、原住民を弾圧した。
  一方の家康は、原住系を団結させ手厚く保護して、関東に江戸幕府を建てた。
  だから関ケ原合戦というのは、西軍は外来系大名と、東は原住系大名の対決という図式が成り立つ。


  
 昭和三十四年七月広島大の河合正治氏が、『安国寺恵瓊』をY館[吉川弘文館]の人物叢書の一冊として刊行した。その口絵写真にグラビヤで、「安国寺自筆書状」を掲げ、その中の、
「藤吉郎さりとて八の者にて候」の原文を、最後の部分だけ「ハの者にて候」と注をし、本分四十六頁で「はの者にて候」と変え、「藤吉郎が後に天下をとるごとき人物であることを喝破。
このケイ眼[慧眼]は驚くべきである」と書いている。そんなに安国寺がケイ眼ならば関ヶ原合戦に連座し、何故三条河原で打首にされてしまうのか、
という疑問は後廻しにして、『豊臣秀吉』という著書に前述の盗作先生は、これまた、堂々と河合氏のものそのままに、「藤吉郎、さりとてはの者にて候」と「八」を(は)に間違えたままで失敬して、
「秀吉は、なかなかの男だと、その前途を祝福したのである」と堂々と書いている。 初めの河合氏は知らずに間違えたとしても何故盗作先生までがご年輩なのに、
そっくりそのまま失敬するのだろうかと不思議でならぬ。
「紺屋の白袴」という言葉があるし、「論語よみの論語知らず」ともいうが、「盗作先生は歴史知らずの歴史屋」なのか。

 なにしろこの人あたりは戦時中に、
「天皇は神さまであられる。日本は皇紀二千六百年である。嗚呼‥‥」と平然と講義をして、多くの学生を教壇から見送って死なせたことに対して、戦後もなんら「自己の告発」をしていない老人である。
 そういう人によって作られる歴史とは何か?
 盗作盗用以前に、その存在の根拠をこそ、私は追求したい。また秀吉を例にとれば、『豊臣太閤素性記』のごとき幕末のよみ本をもって、講談でしかないことを周知しつつ、それをさも史料のごとく装わせて、
「生家は百姓」といいきる。しかし後述するが、八系統の原住系は非農耕人種である。


 これの裏書資料は、当時日本へきていた者の見聞として、シュタインシェンの、『キリシタン大名』では「樵夫(きこり)の子」『日本西教史』のクラセの著書では、「秀吉は若きとき木こりにて柴木の細きを集め、これを市中に売り歩いた」という。また盗作先生は、その著に講談種そのままを用いて、なんらの躊躇もなく、「羽柴という姓は、丹羽と柴田から取ったものである」と明記しているが、これが一般にはそのままで<歴史>ということになってしまうのが日本の現状である。しかし木下藤吉郎が羽柴姓を名のった頃の他の武将たちの状態といえば。

 柴田勝家は北陸の重鎮だったが、丹羽長秀は安土城でエンヤコラの土木工事の奉行の身分に過ぎない。
丹羽長秀が百万石と豪くなったのは秀吉がしてやったのである。つまり羽柴の命名は、スペインのトレド僧院の古文書保管室日本資料の一部にも、バートレの手紙として残っている。
「ハシェバウリイ」といった綴りで、秀吉の渾名をしるしたものがあるのを私はみてきている。
 つまり当時、火付木に枯柴の羽のように拡がっていた部分が珍重されていたが、これを山から降ろしてくるのは、かさばかりはって儲けにならず、よって他の山がつがいやがったのを彼は、すすんで背負って戻り、
 「ええ、はしばのひえよしでござい」と売り廻ったらしい。のち日吉権現の使いが猿なのにあわせ「日吉丸」と講談ではいうが、尾張という国は江戸中期、
薩摩藩士が身命を賭して木曾川の治水工事をやるまでは溢水が多く稲作の被害が多かったが稗はよく育った。だから、この地方には「ひえよし」という名は多い。
尾張中島郡三丸淵本源寺は戦国時代からの古刹で、ここの納屋には古い過去帳があり、米吉、稗吉、粟吉、水吉等という名が書かれてある。
 現在でもyahooニュースに、文学博士の肩書で「秀吉は百姓の出身」と平気で書き飛ばしている者もいる。これは歴史書とも言えぬ幕末の読み本「甫庵太閤記」の受け売りで、相も変わらず酷いものである。
近頃またぞろ、日本人の歴史好きに便乗して、歴史入門書の決定版と銘打って「世界史の教科書」「日本史の教科書」が出版されている。
 公称80万部突破というから売れているのだろう。著者は公立高校の教師だというが、「歴史迷子の日本人」を相手に設けている手合いである。

ここで問題なのは、「八」そのものである。古語辞典にも、
「さりとて=(なかなかもって)」とあるが、「さりとてはの者」などというのはない。

 河合氏は知らずに書き、戦国物の大家という盗作先生もそっくり転用しているが、「八」は原文通りで、これはストレートに「さりとて八の者」とよむべきである。
しかるに、その「八」を歴史専門家のごとくみられ、また自称している先生が無知であるということに、ご自分でも感性的に抵抗を感じないのであろうか。
畠山清行氏への盗作問題は菓子箱をもってわびに済ませたと仄聞するが、この方は誰に詫びにゆけばよいのだろう。
なぜ、「歴史を虚妄化させてゆく混乱」の底辺に反省し自分自身を告発し、これまでの知識をもって真面目に解明しないのかを私は責めたい。


      YA・八とは何か

 さて山岡荘八の短編に『八弥の忠義』というのがあるが、あれも部族名を個人と取り違えたものだろう。八の根源は、古事記や日本書紀などにあって、天孫系に徐伐された八十梟(やそたける)とか八十建(やそたて)の八である。
 この八が当時渡来してきていた大陸系に、「パア」と発音され、パアとなった民族とみても、また可であるといえる。
そして、これが和訓読みの「や」となってからも、津々浦々に、この「や」印の後裔はひろがっている。
 試みにテレビドラマや小説にでてくる、「悪いやつ」「ぱあなやつ」「やくざ」など、これ殆どが、姓の上はYAになっている。
 ということは、作者が見知っている人間の中で、YAのつくのが多く、それらがまたおあつらえむきに、ケンカ早かったり放浪性があって、
つい無意識にそれを想い出し作中の姓を「ヤ印」にしてしまう結果らしい。
 明治六年に一般にも苗字は許されたが、それまでにも蔭姓というのがあったし、また居住地で姓は殆んど決まっていたから、「ヤン衆」とか「ハチヤ」といわれたいたのは、みなヤ印かハ姓を姓の上につけている。


 江戸の弾家が幕末に「矢野内記」となるのも、手代の首斬り浅右が山田姓。芝居の花川戸助六のモデルの手代が柳原助六。三河松助も安田松助とヤ印集団だったためだろう。
表格式三千石、裏十万石といわれた弾家では手代といっても彼らは家老なみだが、ここへ薩摩の益満休之助が密かにゆき、
「おはんらは源頼朝公嫡流ではごわせんか。三田屋敷へ加勢ばしてつかあさい」と申込んだのは三田村鳶魚もその随筆に引用している。
 なにしろYAとかHAが上につくのは、
(清和源氏)などという、なにも根拠のないものと違って、純粋の頼朝系ということになっていたから戦国時代には、信長は、軍事費を鉄砲万能時代になっていても、
「ヤ(矢)銭」とよんでいたし、また信長が商売を同じ原住系だけに限定してしまい、
 楽市を施行したり、面倒くさい関所もとりやめたから(原出典・掛川史稿)、この時点より、商い店のことを、「何々ヤ」と称するようにもなった。
 つまり今日の看板で「〇〇屋」は信長の頃からのものである。しかし、なにしろYAとかHAのつくのは、世渡りが巧くなく、幕末のインフレについてゆけず、
「ヤア公」「ヤアさん」と転落してゆき、「清水次郎長こと本姓山本長五郎」とか今でも、美空ひばりの親代りになっていた山口組なども神戸にあるが、みなぐれはまになったのが多いらしい。
 そして今でこそ寿司屋はだれでもやれるが、封建時代は、生ものは彼らの所管ゆえ、生種を用いる寿司のことを、「やすけ」というのも、またこのためである。


 さて、姓の上に「や」のつくのや「は」の他に、日本原住民の人間は数限りなく多い。そこで従来の歴史は天孫系中心だから、
「何とかして真相を」という願望の現れなのか、歴史物や時代物は、上に「や」をつけた作者のものがよく読まれるというジンクスがある。そこで、そのせいか、どうか判らないが、
「井口姓山手樹一郎」「藤野姓山岡荘八」「清水姓山本周五郎」といった流行作家がかつておおいに読まれている。
 しかし、「ヤ印」ばかり書いても仕方がないから、「八」に戻るが、これも「ヤ」とよんで同じものだが、現代では、すぐ当て字とか誤字といって入社試験などでもやかましくいう。
 だが明治までは、ヤとつけば山田も安井も八田も矢田も同一だったように、「HACHI」と読めれば、「鉢」「蜂」「羽地」みな同じである。
 現存している古文書に、「出雲広瀬はちや文書」というのがある。


 尼子家に尽した者の感状を集めた『雲陽軍実記』にも収録されているが、
「金庭はち屋三郎次郎屋敷(やかた)のこと。従前之はち屋の職を(尼子義久の殿が)御存知なく候間は大串へやられていたのを、このたびの戦功により、はちや掃部頭に仰せつけられる事となった。
よって掃部以下はちや衆は懇ろに当家へ奉公致すべきとの御諚なり」というのは小林又左より多賀対馬守宛。年号は永禄六年(1563)三月十日である。
 この<はちや職>というのは、現在でいえば、司法、警察権だが、一旦緩急あるときは、防衛の任務もあったらしく、別名を尼子家では「十阿弥」ともいい、
「はちや掃部長々の篭城にたえ神妙に候。なおこのたび抱口合戦にて、鉄砲をもって敵数人を討捕りし忠儀。よって国中の弓弦さしなどは今後一切をはちや親分に申付候」
 などという永禄八年十月付の尼子義久のものが、当時はちやのボスだった豪傑河本左京宛で今も残されている。つまり親分といった呼称は、はち個有のものだったらしい。

        八の歴史的考察

 この「はち」に関しては平安後期のものとして「本朝はちや由来記」がある。それは、「洛中洛外から畿内まで夜になると忍び出てあらし廻り、官裁をもって警戒しても、元来が忍びになれた者ゆえ、
ここかと思えば又あちらの飛燕のような早業にて立ち廻り」と、その反体制ぶりをとき、なんとしても取締りのできかねた当時の模様をのべ、
「よって京はいうに及ばず、国々にても手をやき、毒をもって薬になさんと、八の者をよび、これに乱暴盗賊の防ぎをさせたところ、その功が現われてか日本国中にこの八の支配(司法警察)がひろまった」とでている。つまり戦国時代にあっては、「八の者」つまり「はちや」といわれた連中は、安国寺といった寺方や、それまでの既成勢力側からみれば、それは賎民にひとしい原住系の人間だからして、
「藤吉郎さりとて八[の者]にて候」とは、これは軽蔑をこめて書かれたのが原文である。

それを間違えて、安国寺はケイ眼[慧眼]で藤吉郎を、さりとてはの者とみて天下をとることを予見していたなどと書くのは、盗作か借作して歴史とするにしても、あまりに出鱈目すぎはしないか。
八の部族がはっきりした存在だった事は、『集古十種』に、「摂津国天王寺蔵、佐々木四郎高綱旗図、長三尺八寸二分幅二尺五寸」と説明されている源平時代の旗にも、「治承二戊戌年八月上旬。討敵事如蜂起。
無退無転無二無三、兵術自由自在、己割鉄石而己」と高綱の自著の上に「蜂起」の大文字がある。蜂と八は同じである。

 また、梶原源太の布旗には、ただ一字。「八」とだけ大きくでている。
 つまり日本歴史専門家はご存じないが、「八はた」を信仰する「みなもと」の原住系が日本にはいて、これが足利時代には、
「白旗党余類之徒」とか「八」といわれていた。なにしろ秀吉も信長に仕えていた頃は、旗さし物には、丸に「八」を入れたのをもって戦った。
 そこで日本の大都市名古屋では、「郷土のうんだ英雄をしのび」その○八を市章にさえしている。なのにそれも知らずに、
「藤吉郎はさりとて八」を間違えたり盗用しているのには、なんといったらよいのだろう。

また附言すれば、出雲などでは明治まで、「郡巡りはちや」の下に「村うけはちや」があって、彼ら八部衆というのは、つねに捕物用の棒術、剣術、柔術のけいこに励んだ。
そして各地とも上役人見廻りや年貢納め、又は祭りの時には、「大小二刀をさし、棒をもって警護役」をつとめ、各受持の村方の非違を訊し、
「あげ米」と称し一般百姓は稗や麦が常食なのに、はち衆は献納させた米を食していた。だからして江戸期やそれ以前のものに、
「八木」とかいて「よね」「こめ」とよませているのも、このためである。

 また羽仁五郎氏は『都市の論理』で、アテネの例をひき、憲兵警察官は奴隷の仕事だったというが、これは日本でも同じことで、「天孫系に制圧された原住系の八」が、その役割をはたしていたのである。
だからして、よくチャンバラ映画で、主人公がみえをきり、「おのれ不浄役人め」とか「不浄な縄目をうけるものか」というのもこれからである。
 バッタバッタと江戸時代の捕手が斬られる場面だけが許可されるのも、そのせいなのである。
 もちろん、ヤ印の八部衆全部が体制側の走狗で、「御用ッ」「御用」をしていたわけでもなかろうが、岡っ引や番太もみな同じである。
 ところが村方に寄食して威張って米をくっていた八部衆も、明治七年に警察制度が変ると、前御用族の彼らは村方一同から迫害された。
 もちろん、もう米を献じてくれる者もなく、あべこべに殴られ蹴られ爪はじきにされた。これが「村八分」という文字にかえられている具象の真実である。
つまりこうした、「八」の歴史でさえ専門外といわれる私などしか知らぬところに、日本歴史に虚妄が沈澱しているのである。