プラモデルの断捨離 大砲による戦場の変化 28㎝榴弾砲 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


   プラモデルの断捨離



 老生、男の終い支度として、身の回りの物をほとんど捨てた。
その中に趣味で作ったプラモデルが数百点在る。
その他、高価なポケールの金属模型やウッディジョーの帆船模型も、一括して業者に綺麗さっぱり全て引き取ってもらった。
 「高価だから」「思い入れがある」と迷って残すと、死後に家人や子供に負担がかかる。未練を残さないことが大切。

プラモデルなどというシロモノは興味のない人間にとってはただのプラスチックの厄介なゴミにすぎない。
 ただ、比較的印象に残っている作品は画像としてクラウドサーバーにUPし保存してある。
 これはその中の数点だが、当ブログの「小難しい文章」の合間の一服としてお許しいただきたい。
武器はどんな綺麗ごとをいっても紛れもない「殺しの道具」でしかない。しかし小は拳銃やナイフから戦艦大和まで、その機能と美しさが一致した究極の造形美は事実であり、なんとも不思議で皮肉な人間の性(さが)である。
なお、作品のほとんどはリアルさを追求する「汚れ技法」は陰影のみしか使っていない。武器が綺麗だということは、戦争がないということだから。

    大砲による戦場の変化

 第一次大戦時1915年以降になると、ドイツ軍と連合国両陣営は、陣地戦に備えて砲兵戦術を改良し始めた。
なかでも進歩したのは間接射撃である。これは周知の如く、観測班によって、砲兵それ自身には見えない目標の位置を特定し、砲撃を加える戦法は、すでに日露戦争で日本軍が
旅順艦隊攻撃などで使用していた。それが西部戦線の塹壕陣地攻撃に応用され完成を見たのである。
 ちなみに、現代砲兵の間接射撃も基本的にこの第一次世界大戦で確立された方法を用いている。

 また、当時、主として野砲が使っていたシュラブネル式砲弾(日本ではこれを榴弾と言っている)も、野戦で暴.露されている敵に対してならともかく、鉄条網を破壊したり、塹壕を…壊すことはできなかったが、
炸薬量を増やした砲弾を使ってみるといった工夫がほどこされていった。シュラブネル弾を活用するために、フランス軍が採用した砲兵戦術が「斉射」である。
 これは味方が突撃する瞬間に、敵陣にシュラブネル弾を集中的に打ち込み、敵の対応を困難にさせる方法である。
もっともこの戦術は1915年ごろから高性能爆薬を用いた砲弾が大量に使えるようになったため、放棄された。


続いて現れたのが「弾幕射撃」である。上記のような砲弾を集中使用し、炸裂する砲弾の幕をつくて敵陣に浴びせる準備砲撃の一種である。
敵帥に浴びせる、準備砲撃の一種だ。それによって、攻撃対象となる陣地帯に敵が兵員を配置するのを防ぎ、また別の弾幕を敵陣後方に向けて、増援部隊の応援を妨げるということがなされた。

この弾幕射撃を一歩進め、より直接的な攻撃支援としたのが「移動弾幕射撃」だった。読んで字のごとく、突撃発起時に味方部隊前方に張った弾幕を、歩兵の進撃につれて、100ないしは200メートルずつ動かしていくのである。
 また、敵砲兵に対する砲撃戦法も進歩した。むろん敵砲兵も、捕捉されないよう、砲撃を加えては陣地転換を行う。それを、射撃時の発射炎や煙を観測し、位置を特定する火点観測や、敵の砲撃音より位置を割り出す音響測定によってあぶりだし、砲弾の雨を降らせる手法が使えるようになってきたのだ。
 
  天文学的な弾丸の浪費
 かくの如き計画の基に、ドイツ軍は、2250万発の砲弾と1700門の大砲を集め、1916年2月21日、ヴェルダン攻略を開始した。
ドイツ軍の戦果はめざましく、四日間で防御陣第二線まで到達、ドゥオーモン堡塁を奪取したのである。
しかしながら、フランス軍には、この要塞を譲り渡す気などなかった。指揮を執ったフィリップ・ペタン中将は、他の要塞から引き拉いてきた大口径砲を使い、ドイツ軍砲兵隊と一大砲撃戦を展開した。
ドイツ軍は2200万発の砲弾を撃ち込み、フランス軍は1500万発を撃ち返したといわれる。かかる火力戦では、生身の兵隊の犠牲が甚大になることはいうまでもない。両軍いずれも、30万におよぶ死傷者を出し、
そのほとんどが砲撃によるものだと推定されている。しかし、このような損害を出しながらも、ペタン率いるフランス第2軍はヅエルダンを守り抜き、ファルケンハインの企図をくじいたのであった。
 ただし、こうした超物量戦ともいうべき集中砲撃は、ドイツ軍の専売特許ではない。むしろ、連合軍のほうが多用したといえる。たとえば、イギリス軍は、1916年7月のソンム戦で、1週間にわたる準備
砲撃を行い、150万発の砲弾を敵陣に放っている。
                       
 ちなみに日本軍は、大砲千門単位の会戦などは皆無で、ノモンハンでは火砲僅か70門だった。
 一方のソ連は火砲542門、戦車438輌、装甲車385輌を投入し、日本軍が大敗している。
これの意味するところは、日本国の絶対的な「鉄不足」と「火薬不足」があげられる。内実は少ない鉄を海軍と陸軍で分捕り合いをしていたのである。
 画像の28㎝榴弾砲は、旅順攻撃で有名だが、乃木将軍の馬鹿の一つ覚えの銃剣突撃で、日本兵のあまりにも犠牲の多いのに驚いて、投入された砲である。

   (以下はウイキペディアからの転載)

二十八糎榴弾砲は1884年(明治17年)に大阪砲兵工廠がイタリア式28cm榴弾砲を参考に試製したものであり、1886年(明治19年)に大阪府信太山にて射撃試験を行ったところ非常に優秀な性能を誇ったため、
1887年(明治20年)の海岸砲制式審査を経て、1892年(明治25年)に制式制定され量産された。砲身は鋳鉄製で、砲身後半に鋼鉄製の箍を二重に嵌めていた。砲弾は鋳鉄製で弾頭部を焼き入れした(堅鉄弾)。

本砲の英語文献などでは「クルップ11インチ攻城榴弾砲(Krupp 11-inch siege howitzers)」と表記されることが多いが、実際にはクルップ社の砲の孫コピーに当たり、クルップ製ではなく大阪砲兵工廠の手による国産である。
原型となったクルップ社の砲は「280mm榴弾砲(280mm Haubitzen)」と称し臼砲ではなく、帝国陸軍における制式名称も「二十八糎榴弾砲」で榴弾砲と明示しているが、
その大口径と砲身形状から一般的に臼砲に分類されることも多い。

大口径砲かつ19世紀末の火砲であるため、砲弾の装填は砲身を水平にしてクレーンで吊り上げた砲弾を人力で押し込んでから装薬を入れる後装式であり、発射速度は高くない。閉鎖機は砲身と連結されておらず、
装填等のために閉鎖を解かれた閉鎖機は、砲身・砲架とは別部品である撑転架に乗せたうえで砲身から分離される。

前述のように元々は対艦用の海岸砲として日本内地の海岸に配備されていたもので、例えば東京湾要塞第一海堡には、建設当初、14門の同砲が設置されていた(ほか、十二糎加農砲が隠顕砲架・攻城砲架各2門、一九糎加農砲1門)。

日露戦争においては攻城砲として使用された。まずはバルチック艦隊の極東派遣が現実のものとなった1904年(明治37年)8月5日、大本営は朝鮮海峡の制海権を確実にするために、東京湾要塞・芸予要塞に設置されている同砲を、
朝鮮半島鎮海湾と対馬大口湾に移設することを決定した。

その後の8月21日に旅順要塞総攻撃が失敗したため、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に同砲を使用すべきことを主張していた有坂成章技術審査部長を招き意見を聞き、この意見を採用することを決断し、
山縣有朋参謀総長と協議して、先に移設予定の同砲のうち6門を旅順に送ることを決定した。この6門は9月上旬に第三軍に送られた。
その後9月23日に満州軍総司令部から6門の追加要請、更に10月3日に6門が追加要請され、合計18門が旅順に送られた。