太平洋戦争とサンカ | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


  太平洋戦争とサンカ


 サンカ部族は太平洋戦争になると弾圧はさらに過酷になった。
村や町に溶け込んで暮らし、戸籍のある者は村役場の兵事係が次々と赤紙を割当て数だけ出していたが、今日はここ明日は何処か判らぬ戸籍を持たぬサンカ者には召集礼状の出しようはない。
しかし、昭和十八年十九年になって老人と子供ばかりしか男は残っていない時世になると、壮年の男はどうしても目につく。もちろん憲兵隊が駐在巡査や消防団員を使って山狩りをするが捕えられるものではない。
 もちろん旧軍部も、満州事変がひろがりだした昭和九年十月六日に、栃木県下において、当時の関東代表者の大山(ダイセン)五郎と武蔵一の両名に色んなおいしい事を言って、各セブリの統合を命令というより懇願したが、

なにしろ千何百年にわたって反権力反体制の者らが、今さらオカミの言うことをきく筈はない。情報部の大尉や中尉が彼らに反感を持たれぬよう私服、できれば着物で軍の羊羹などを持っていった。
しかし月に一回ぐらい通っても約束の場所や日時をすっぽかされる事も珍しくなく、ようやく二年後の昭和十一年には十名程と懇談できたが、あまり喋らずにものわかれになった。
 もちろん翌年も毎月の如く、サンカに女を当てがって懐柔しようと、軍用の女郎をつれていったが、サンカは妻以外との成功はしないという掟ゆえうまくいかず、ただ黙々と持っていった品物を各テンジンへ置き帰るだけだった。
「国家の非常時である」と、たまりかねて佐官級が行って怒鳴りつければ、反国家の彼らは逆に反感をもって、かえって失敗に終わった事もある。

よって内務省警保局の力を借り、下部団体の「民族融和事業会」に加わっている牒者というか、かつてはサンカに近いザボだが、今はトケコミしている者らを各県から集めてきて、始めだして七年目の昭和十六年の一月三日になって、「関東箕作り製作者組合」なるものを、官憲は絶対に干渉しないからという絶対条件つきで、どうにか結成させるところまでこぎつけた。
そして、人手がなくて困っている農家がいたら、食糧がとれなくては皆飢え死にしてしまうから、手伝ってほしいといったような頼みともなった。


 「一億一心火の玉だ」という国家総動員令下の時代である。戸籍のない彼らに徴用令も出せぬから、係官は平身叩頭して助力を乞うた。
もし出征してくれるものなら、その場で当人の戸籍を出し、出征金という仕度金を残る家族へとわたし、後では気が変るからとその場から伴ったのが各地で三百八十名だという綜合的な話も伝わっているそうである。
しかし、農家の手伝いを強制された者は、なにしろ耕作どころか草むしりもした事のないサンカ連中ゆえ、せっかく留守出征家族の許へ赴かされても、足手まといで役立たずだった。
が、そのかわり今まで自然食として自分らが採取していたワラビやクズ、ユリの球根を掘り出したり、山芋を掘って粉にしたり飴にして敗戦後は、東京上野の飴屋横丁に進出したり団子屋などもし、食糧不足の時代に自然食で一般の飢えを救ったのである。

 全国箕製作者組合は、これに参加したのは男子3258名で女子は2679名に及ぶと、大いに貢献したと、オカミでは発表をなしている。
 その時の発表では、明治四十三年二月一日の全国セブリ数23、383だから、貢献したとされる1991張は0.085で一割にもあたらない。まさか半世紀たらずで一割以下に、いくら相次ぐ戦火を受けたとはいえ、
山の中で暮している彼らがそんなに激減する筈はない。

なにしろセブリの女に後家はいない。何故なら、女が一人でいては子供ができぬから人口が減ってしまう。そのための「鞘」とか「ハバキ」と呼ばれる押しかけ女房になってしまうからなのである。
日本では夫が出征する際は、死んで還れと励まして見送りし、戦死の公報が入ると表口に「靖国の妻」という表札が、愛国婦人会の手によって張りつけられた。

だから他へ押しかけ女房に行けるどころか、そのまま出征軍人の妻として貞操を守って棺桶まで直行せねばならぬのが当時の世相だった時代である。
 つまり山本周五郎の小説みたいに、女とは性欲など全くなく、結婚して求められるとそれに対しては法律では拒めないからやむなく夫の鞘になるだけで、そうでない場合は、「あわや落花狼籍」と、女には性欲などないものだと、いつでも被害者になっていた。

舌をむいてキスしてカッキリ半分喰い切られた男性が裏日本には現存するが、女はデリケートにできているのか、
「操を汚したからには舌噛み切って死にまする」と、ティッシュペーパーで後始末もせず、漏らし濡れっぱなしで、花の生命を断ってしまう女性像なのが山本周五郎の小説だけでなく一般的な小説であった。

 アメリカのように軍人夫人連中の性処理に、船で夫の許へ集団輸送などせず、日本軍は男の兵士には突撃一番と印刷された紙袋をわたし(衛生サック、今のスキン)、慰安婦の許へ一列で並ばせて用を足させていたが、
留守家族に対しては、反対に私服憲兵が「出征軍人の家」と在郷軍人会で一軒ずつ標札に並んで打ちつけられた家を看視して廻り、
出入りの魚屋までが、夫の代用にされていないかと不審訊問して廻るぐらい厳しかったのが実態。だからサンカの女性のごとく好色で自分の方から男に跨りにゆくようなのはいない事になっていた。


 が、敗戦まではそれで表向きはよかったが、純日本人の女性というのは性的にはきわめて有感性ゆえ、現代となってはイタリアやフランスへ行っても、「愛さえあれば‥‥」とヒヤリングもスピーキングもろくに通ぜぬのにすぐ寝てしまう。
しかも1フラン1リラもとらない。だから、只より安いものはないと彼女らはもてる。

なにしろグアムやサイパンへ行っても、カナカの島民の男を、外人さんだからと何処でもワンカットは済ましてくるパック旅行の日本娘が多く、日本では中世期に魔女狩りをろくにせず僅かに三百人程を織田信長が焼き殺しただけゆえ、
そのせいで手のつけられぬ女連中が多くなっている。

なにしろ、イロハ覚えてイロばかりと、近頃は小学生の女の子でさえ、昔は「お医者さまごっこ」といったのを「お勉強」と称し、まじめに予習や復習しているのが五、六年生には多いという。
これは終戦後、日系アメリカ兵の説得で、セブリから都市へ流れ込むトケコミが多いせいではなかろうか。

なにしろ「トケコミ」は三代までといって、セブリから抜けても孫までは、かつてのクズシリとは連絡がつけられ、ウラがさんと親類づき合いが続く。

別にウミノコ、ヤカカラ、ハラカラとも称するが、三代たっても直接には繋がりはなくなるが、出世、吉凶はクズシリに通報。毎年暮れや旧正月にはクズシリ直属ツナギであるツナガリさんが各戸を廻って歩き、
昔みたいに箕一つという事はなく、その家の経済状態に応じて応分の金を包んで差し出す。
「本家(ほんげ)」とこの金は呼ばれて、人頭税ではなく、トケコミした者の交通遺児の奨学金制度になったり、サラ金で困っている人間に貸し与えたりして面倒をみるが、
カラとよばれる三代以上たったセブリ出身者は、義理でツナガリに民族の立場でわたすが、関係は隠したがる。有名な製菓会社の社長は今でも毎年決まって別名で五百万円ずつ送金しているという。
 さて、以下は民族事業同和会の官制の発表である。はたして何を意図してのものか信用できぬが当時の集計したものがある。

一、東海道(極秘条項 以下同じ)
伊賀国 108戸
(昭和24・9・6のセブリ数の36倍 明治43・2・1のセブリ数の3.2倍)
伊勢国 407戸 (同 21.4倍  同 2.6倍)
志摩国   7戸 (〃  ?     〃 3.5倍)
尾張国1709戸 (〃  9.7倍  〃 3  倍)
三河国1493戸 (〃 46.6倍  〃 3  倍)
遠江国1701戸 (〃 46  倍  〃 3  倍)
駿河国1093戸 (〃 39  倍  〃 3  倍)
甲斐国 811戸 (〃 19.3倍  〃 3  倍)
伊豆国 720戸 (〃 24.8倍  〃 3  倍)
相模国1411戸 (〃 45.5倍  〃 3  倍)
武蔵国5913戸 (〃 76.7倍  〃 3  倍)
安房国 113戸 (〃 37.6倍  〃 3.4倍)
上総国1113戸 (〃 58  倍  〃 3  倍)
下総国 898戸 (〃 43.8倍  〃 3  倍)
常陸国 747戸 (〃 27.7倍  〃 3  倍)
以上で合計18244戸。その家族数は、91727で、一戸あたり5人強である。
東海道全体としてみると、セブリ数411張に比し、その戸数は44.6強にあたる
(昭和29年9月7日の数なりとの公式の発表である)

二、北陸道
若狭国 235戸
(昭和24・8・7のセブリ数の58.5倍。明治3・2・1のセブリ数の4.2倍)
越前国 299戸 (同 42.7倍  同 4  倍)
加賀国 591戸 (〃 49.3倍  〃 4  倍)
能登国  37戸 (〃 18.5倍  〃 4  倍)
越中国 121戸 (〃 24.2倍  〃 2.5倍)
越後国 267戸 (〃 26.7倍  〃 4.1倍)
佐渡国  21戸 (同   ?    〃 5.3倍)
合計 1571戸
家族総合人口8640。一戸あたりは5人半。この地方は戸籍に入ったトケコミの倍率が高くて、セブリ現在数の31張に対し、その戸数は僅か50倍強にすぎぬとの発表。


三、東山道
近江国1755戸
(昭和24・9・7のセブリ数の42.8倍 明治3・2・1のセブリの3倍)
美濃国1517戸 (同 35.3倍  同 3.1倍)
飛騨国1351戸 (〃 34.6倍  〃 3  倍)
信濃国1407戸 (〃 25.6倍  〃 3.2倍)
上野国 503戸 (〃 26.5倍  〃 3.7倍)
下野国1001戸 (〃 31.3倍  〃 2.1倍)
合計 7534戸なりとの発表数字である。
総人口は推定で36670人、一戸が平均で5人くらいである。セブリ229張に対して36倍強にあたるとされているのである。


四、畿内
摂津国2741戸
(昭和24・9・7のセブリ数の29.5倍 明治43・2・1のセブリ数の2.2倍)
山城国 926  (同 22.6倍  同 2  倍)
河内国1072戸 (〃 18.8倍  〃 1.9倍)
和泉国 397戸 (〃  8.1倍  〃 0.9倍)
大和国1136戸 (〃 21.4倍  〃 2.3倍)
合計 6272戸なりと発表はされている。
 現在セブリ数293張に対して21倍強。その倍率は比較的低い。総人口23206人で、一戸3.7人平均で家族数も非常に少ない。その原因は今のところ不明であるとしている。


五、山陽道
長門国 718戸
(昭和24・9・7のセブリ数の15.6倍 明治43・2・1のセブリ数の1.5倍)
周防国 507戸 (同 13.7倍  同 1.3倍)
安芸国 619戸 (〃 19  倍  〃 1.1倍)
備後国 404戸 (〃 17.5倍  〃 1.4倍)
備中国 285戸 (〃 16.7倍  〃 1.6倍)
備前国 278戸 (〃 15.4倍  〃 1.3倍)
美作国 550戸 (〃 12.2倍  〃 1.2倍)
播磨国1363戸 (〃 21.3倍  〃 2.1倍)
合計 4724戸なりと発表。
現在セブリ総数311張に対し、23.1倍強。家族総数20313で、一戸あたり4.2人であると計算しているのである。


六、山陰道
石見国 443戸
(昭和24・9・7のセブリ数の13倍 明治43・2・1のセブリ数の1.2倍)
出雲国 436戸 (同 11.7倍  同 1.1倍)
隠岐国   5戸 (〃  2.5倍  〃 1  倍)
伯耆国 358戸 (〃 14.3倍  〃 1.4倍)
因幡国 562戸 (〃 20  倍  〃 1.2倍)
但馬国 250戸 (〃 17.8倍  〃 1.6倍)
丹波国 818戸 (〃 14.3倍  〃 1.4倍)
丹後国 150戸 (〃 21  倍  〃 1.7倍)
合計3022戸との数字は如何だろうか。
 現在セブリ総数204張に対し、14.8倍強。総人口16017人。一戸あたり5.3強である。この地方はセブリの本拠地であるにもかかわらず、そのさびれ方は激しいとなす。


七、南海道
淡路国  19戸
(昭和24・9・7のセブリ数の6倍強 明治3・2・1のセブリ数の三分の一)
紀伊国 235戸 (同  5.2倍  同   半減)
阿波国 634戸 (〃 12.9倍  〃 1.3倍)
讃岐国  62戸 (〃 10.9倍  〃 1.1倍)
伊予国 508戸 (〃  9  倍  〃 0.9倍)
土佐国 362戸 (〃 14.5倍  〃 1.5倍)
合計2372戸なりとの発表。
 現在のセブリの233張に対し10倍強。総人口11386人。一戸あたり4.8人で、この地方もトケコミの数は少ない。それはトケコミが京阪地方に移動しているからであるという。


八、西海道
薩摩国 466戸
(昭和24・9・7のセブリ数の14倍 明治43・2・1のセブリ数の1.3倍)
大隅国    119戸 (同  5.4倍  同 0.5倍)
日向国    179戸 (〃  9.9倍  〃 0.9倍)
肥後国    549戸 (〃 11.7倍  〃 1.1倍)
肥前国    774戸 (〃 15  倍  〃 1.5倍)
壱岐国      5戸 (〃  5  倍  〃 2.5倍)
対馬国      7戸 (〃  3.5倍  〃 2.3倍)
豊前豊後二国 433戸 (〃 12  倍  〃 1.2倍)
筑後国    634戸 (〃 13.5倍  〃 1.3倍)
筑前国    674戸 (〃 15.6倍  〃 1.5倍)
合計3840戸となっている。

 現在のセブリ数299張に対して12.8倍強である。家族総数17280人、一戸あたり4人半であるとして発表されている。
 昭和二十四年の統計にしろ、その前の明治四十三年のものにしても、何といっても根っからの反権力体制の彼らが、いくらオカミの命令だからと脅かされ、金品を与えられて懐柔されても、
まさか手許の実数などバカ正直に、民族融和事業会の旧特高の連中に渡している筈などはない。
 おそらく各地方別のセブリ数は十分の一ぐらいしか報告されていないとみるが妥当だろう。
 
三角寛はその著「サンカの社会」の170Pから173Pにかけて、日本六十余州を八地区に分けて、セブリの人口と性別を明細にしているから、敬意を表しそのまま上に転記したが、だいたい明治か大正か昭和か、
それも定かではないのではと想われる。
何故に勿体ぶって事業会のコピーを詳しくしたのか、何かわけがあったのだろうか?
 一セブリは男女の夫婦が基数になるのでバスコントロールしていない彼らの増加ぶりだけは判るが、ただそれだけである。
 全国のセブリの人口や性別を完全に調査する事は、過去では至難の事であったが、関東箕製作者組合の協力によって、その実態を把握する事ができたのは人類学上においても、
民族学、考古学の上からいっても、セブリ社会の研究上、一つの貴重な資料ではある。