日本武道史 吉岡憲法 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


日本武道史 吉岡憲法

鬼一法眼吉岡流

--さて、俗に、「京八流・鹿島七流」と世にいわれる。
関東の刀流は鹿島神宮の禰宜から出たものが七派に分かれたが、関西では京の鞍馬山の衆徒八人が伝えたものであり、義経が牛若丸といったころに鞍馬山で天狗に習った……などというのは、
これは虚誕の説であると、江戸時代の貝原益軒の「知約」にはでている。
 が、鞍馬というのは寺であっても仏法専一ではなく、延暦寺の七福神法のごとき修験道で栄えた所で、衆徒とはいえもともと坊主ではなく、山伏たちの事である。
 また、「義経記」などというのは、もとより昔の大衆読物であって、なんの歴史的価値も信頼性もないものだが、それによれば牛若丸といわれたころの義経は、
京一条堀川に住む陰陽師鬼一法眼の末娘と馴染みを重ね、その手引きによって法眼秘状の唐の六韜三略を、まんまと盗み出すことを得、「このために牛若丸は鬼一法眼流の刀術の秘伝と兵法の極意をえて、
のち平氏を破るにいたるのである」となっていて、幕末・文政期の絵入り草紙「復讐銘々伝」などにかかると、もちろんでたらめではあるが、
 「権勢の平家に招かれたが応ぜず、牛若丸を憐みたまい兵術秘書をさずけたまいしという。されど、この人はその来歴を知らず、かの異国の鬼谷子になぞらえて、その名をつけたものではあるまいか」となって、
 (黄石公が漢の高祖の臣の張良に兵書を授けた)という故事をもじって書いているのだが、さて、
この鬼一法眼の名を、「帰一といい名を憲海とよび、今出川義円ともいうが、実在の人間で伊予国吉岡村の出身なり」とするものから、荻生徂徠は、「南留辺志」において、鬼一は紀一であるとし、
篠崎東海の「不問談」には、鬼一は紀一でなく紀氏、つまり紀州の一の氏ではないかなどと書いている。

京の吉岡憲法は染め物業だった

 しかし、明治になるまでは漢字はみな音標文字だったから、発音さえ一緒なら鬼一でも紀一でも同じことなのに、江戸時代の学者とは案外にのんびりとして他愛ないものである。
さて、これも幕末の絵本だが、「武楷百人一首」というのにかかると、やや本当らしく格好がつけられてきて、「鬼一法眼は四国伊予の産にて謙杖律師三代目吉岡憲清が子にて、幼名を鬼一丸とよび、
陰陽博士安倍泰永の門に学び、天文地誌を覚えし後は鞍馬山に参籠する。多聞天に祈ってその示現により、ついに兵法において天下万世に仰がれり」となっている。

つまり鞍馬八流とか京八流といわれても、まともに伝わっているのは、京では吉岡道場だけだったので、これに鬼一法眼や義経、それに鞍馬山の天狗などまで結びっけたのだろう。
 「擁州府志」によれば、「京の西洞院四条通りに住む吉岡氏は染物業を営むも、黒茶色を好みて染めるをもって、その色を吉岡染ともいうが、布に型紙をおき防染糊を塗り乾してより、
豆汁に染料を入れて刷毛でひき、後に洗い落とすと、黒茶色の地に小紋模様が出るのを、憲法染めともいう」ともある。そして、「倭俗、毎事如法にこれを行なうのを、憲法」と註釈がっいている。
訳すれば、如法は仏教用語で、今でいう遵法精神のことだが、(足利時代の日本の風俗で、よく押しつけられた命令を、その通りに守る者や家を、憲法とか憲法の家といった……

つまり吉岡の家のように室町御所の命令を素直に守り、課せられた地子銭の税金を払っている模範的な家が、そうである)というのである。
 さて、こうなると京に住まっていて、室町御所の足利将軍家の命令を守り税金を払っているだけで、あれは憲法を守る者だ、そこで染めた物だから憲法染めだと言われたという事は、
当時はあまり税金を払う者がなく、室町御所の命令をきく者もめったになく、珍しがられたというような事にもなるが、……田舎ではあるまいし京の四条や西陣に住まっている者が、権力に対し、そんな横着
な真似の出来ようはずもない。御所の番衆が棒をもって歩き回り、「これ、税を払わぬと承知せぬぞ」とやっていたのだろうから、とても常識的には考えられぬところである。
 しかるに吉岡家では「武徳編年記」や「当代記」にもでているが、慶長十九年六月に御所で斬殺された吉岡又三郎も、憲法といったが、その父の直賢も憲法。祖父の直光も同じく憲法といって、
柳生新左衛門、新介親子が訪れたころの又三郎の曾祖父吉岡又一郎直元も、やはり憲法と号していたのである。
 こうなると昭和二十年八月の満州で、ソ連軍がはいってくると赤旗を振り、国府軍が進攻してくれば青天白日旗をふってみせた残留日本人のようなもので、己れから、「憲法」と名のる事によって、
足利幕府の圧迫を逃れ、良民のように振舞って巧みに世渡りしていたのではあるまいかと思える。

 つまり西洞院四条の吉岡又一郎は、京の真中に住まっているとはいえ、れっきとした山者の出で、白山明神か薬師寺派の信者という事になる。
 だからして、それゆえ小太刀などで槍の穂先を防ぐ、吉岡流刀術を編みだしたのであろうし、曾孫の又三郎が御所において、板倉勝重の家臣で名代の槍使い、
太田忠兵衛らの槍先に仕止められてしまったのも、(刀は刃先まで敵が側へ寄ってこずば斬れないが、槍の方は三間槍なら柄の中央を持っていたとしても四、五メートル離れていても
相手を突けるし、三メートルまで近づけば向こうの刀の届かぬ範囲で突き仆せる)といったきわめて簡単な理屈で、死命か制せられる、これは証拠であろう。
 だからして「常山紀談」とか「積翠雑話」「撃剣叢談」の類には、みな筆を揃えて、この事を、
「小太刀をもって槍使いどもと闘いしは、これ異例の事にして、その勇威は誠に誉を一時に施し、勇名を千載に流したというべきだろう」と出ている。
幕末の文久三年から慶応にかけてのところでも、新選組の武術稽古は丁日、つまり偶数日は、槍をもって武技の第一とし、隊員の訓練をしていたものである」
とあるように、すぐ曲がったり折れて使い物にならなくなる刀より、槍を第一の武器として扱ったことが書かれている。