明治維新の裏話 ええじゃないか おかげ詣り | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

ええじゃないか 

 
おかげ詣り 
 
明治維新の裏話
 
私の恩師権籐成卿編著の「八隣通聘考」の下巻に、「朱雀朝九年己亥(西暦939)十二月、平將門反し、関東奥羽大いに乱る。
 十年庚午に誅に伏す。同十一年辛丑、首は都に来る。これ純友、將門と相応じ、 四国、九州を騒乱せしため」とあるのを、不審に思って権籐先生門下の綱島正興に 尋ねてみました。師弟関係厳しい当時のことゆえ、権籐先生に遠慮して 声を落として教えてくれた。それによると、
 「將門伝説は講釈本みたいな小説のはしりで、頼山陽の戯作芝居で比叡山上の場での二人のやりとりが、反体制そのもので当時大評判になった。そこで一般大衆 動員には皇大神宮の版木を何十も作って、各地で御札ふりをして、ええじゃないかと踊り狂わせたが、大名達は徳川家に睨まれ改易されては大変だと、各藩の上士 連中は明治革命にはすこぶる臆病だった。これではならないと、
   薩長を味方に付けるため”討幕は恐ろしくはない。以前にも権勢に対して叛乱し失敗はしたものの、前例もあるのだ”と、
 京の儒学者で頼山陽の遺児頼三樹三郎が、当時はもう木版本は僅かしかなく、江戸 府内で売り尽くされていたから、やむなく次々と勿体をけ、ずっと古い年号を 附記させ筆写し、これを討幕用テキストとして、腰の重い各藩へ何部ずつか送らせ たものなのだと、品川弥二郎が講演したのを権籐先生も聞いていたので知って居られるのだ」
 と、密かに話してくれた事がある。そして同書の下巻の前半六十二頁に
 
  「我れ独り、旧習例に依り、趙宗高麗の使聘を拒斥す。摂間の権いたずらに高く、州郡彫幣を極む、という第二節の小採題標題をよく読めば、
 幕末まで大名は、反徳川だと睨まれたら御家取り潰しになると各藩は、戦々恐々としていた旧習例を、つまり上士階級の頑迷さが根強く、いくら遊説しに行っても 効果が亡く、そこで筆写本の<將門記>を読ませて東北以外は、皆薩長側になって討幕勢力の結集が出来たのだ、という裏話が出ているからちゃんと読まなければいけません」と諭されたものです。
 
「ええじゃないか」の御札ふりを各地でさせた木梨精一郎は、上野戦争の時に 千代田城にいた大村益次郎の代理として、長州人だが西郷隆盛の先遣参謀を勤めていたが、英国公使のパークスに事前に了解を取りに行ったのは有名だが、「將門記」を古い年号で次々と筆写させ、各藩へ届けたのは、頼美樹三郎の意志を ついで、何百もの筆写本を筆の立つ志士たちに手分けして書かせたのは、吉田松陰の遺言によるもので、門下の白井小助といわれる。
   白井は初め、長州藩家老浦靱負の家来だったが、文久三年七月一日付けで五人扶持 恩米十石で長州の直臣となった。これは吉田松陰の推挙という。 馬関戦争の後で高杉晋作の奇兵隊が創立された際、松陰門下の白井が送りこまれて 高杉に見込まれ隊長となった。
  
  安政元年、松陰がアメリカ艦で渡米せんとした時の送別会が、江戸京橋の酒楼 伊勢本で催された時、集まった七名の内にも在江戸の門下白井小助もいた。
 そして小助は吉田松陰に、
 「如何なる方法をもっても箱根以西の諸藩を見方にせねばならぬ」と、後事を託された。
 
(補記)
 松陰はこの以前にも長崎で、露艦に乗船しようとして、失敗している。
 安政元年に金子重輔と米艦にて密航を企て失敗し幕府に捕われ、伝馬町の牢から
 萩の野山獄に護送され、獄中の松陰に衣類を密かに差し入れた。
 この一件が藩に知られ、当時は未だ幕府を怖れていた長州藩重役の激怒をかい、 藩より白井は過料の処分を受けている。

 
      【明治維新の裏話】NO-2
 
昭和十三年、日光書院牧野謙次郎著「維新伝疑史話」に次のようにる。
 三浦梧棲陸軍中將は、山口県平生町郊外に飯山塾を開き、在野のまま後学の 青年を教育している白井小助こと改名素介が、時たま出京しても下谷の求昌寺に 泊まったり、嘉納治五郎の講道館にしか寄宿せぬのを戒め『後輩の山県狂介や 伊藤俊輔、井上聞多も今は大臣である。
 
   白井先生の旧幕時代の裏話は酔余の雑談とは思うが穏やかでないし、先生の大業(將門記を古い年号で松下村塾でも筆写させ、各藩主を西軍に組みさせた 功労のこと)は、恐れ多くも、至尊もその功大なりと認めておわす』 と、山県や伊藤博文、井上馨らが松陰門下の大先輩として白井を遇しはした。
 
  それでもせめて出京の時は顔だけでも出しておくべきだし、何とか官途に就くべきだとも忠告した。
しかし白井は、至尊の御名が出ると忽ち座をすべりおり下座にて平し、
 「草野の賤民礼を知らず、誠に恐れ入り奉る」と大御心に対し奉って拝礼をしていた。
  
  権籐成卿の実父権籐直(号は松門)は医師で、久留米藩に籍があったが、縁あって
明治十八年、十八歳で東京の二松学舎に入学の時、白井を頼って権籐直は、当時の農商務大輔、品川弥次郎に保証人に成って貰った。
 
  また、山県や大隈重信の許へも出入りしていた。
 だから権籐成卿は白井の口から直接聞いたのか、品川弥次郎の講演を聴きにいって この事を聞いていたものと思われる。
 
  尚、討幕の際の裏話を松下門下生き残りの白井は、他にも色々な事を詳しく知っていたので、それをよく吹聴していて、明治の大官は押込み強盗をやった事も あるから、後ろ暗い過去を喋られて皆は迷惑していた。
 それでも明治三十年に白井が死ぬと、
   痛い所を握られていた煙たい存在の白井がいなくなりほっとしたのだろう、「友人白井小助こと素助君死亡」と、東京日々新聞上に葬儀広告を出した。
 これは当時二度首相を務めていた山県有朋が掲載させて、友人総代として己が名を 筆頭に出していた。これは「明治新聞編年誌」にはっきり出ている。
 
  頼三樹三郎が口火を切って始めた將門記筆写は、吉田松陰に引き継がれ、松陰も 処刑されてしまい白井小助が後を引き受け、一藩に何部も書き写しを届けて、御一新の際には西国大名を一人残らず西軍につけたものの、三樹三郎や松陰が次々と刑死しているだけに、いくら勧められても立身し官員になって出世する 気持ちになれず、世捨て人のようになっていた。
 (私見・男とはこういう生き方をするべきではないか?)
 そして酒を呑み酔うと、
 
「あいつらは今は維新の元勲だと勲章をぶら下げ、俄か華族になってふんぞり返っ ているが、昔は酒を呑む金がなくなると黒っぽい手拭いで頬かむりして町家へ押し込み、御用金にするのだと銭箱を持ち出して逃げた。 なにしろ呑みたいし女を抱きたいが、みんな生まれが良くないからやることも下司だった。俺も付いていって銀を一掴み貰った事もる」
 
  と、当時の悪さをした連中の名を遠慮なくあげて、口角泡を飛ばして話しをしてから涙を流しつつ、
 「死んだ者貧乏と言うが、頼三樹三郎や吉田松陰先生も、維新の緒口だけ開いて 先に死んでいった.......」
 
  つまり明治になって生き残っているのは、役立たずの詰まらん輩ばかりだとまで 言い切っている。選挙と同じで戦争もねじ回しが充分されていて始めて火蓋を 切るのが終盤戦での決戦になる。なにも上海から買い付けてきた新硝石で東軍に 勝てたんじゃない。
 
  その前に何百部も筆写し、箱根以西の大名家へ、領主用、 上士用と何部ずつも、秘かに差し入れして読ませた為と、
 「徳川家に逆らって御家取潰しになったら家中一統が困る......といった考え方は違う。ずっと飼い慣らされてきた犬みたいな習性にすぎん。
  自分から新皇と名乗り勇ましく戦ったという將門伝記をよく読んで頂ければ、力が全てで勝ってしまえばそれでよいのだと判っていただける筈です。と次々に 遊説して廻ったのが功を奏して、箱根以西は西軍に加担しなかった大名は居なか ったではないか。根回しが行き届いていたからだ。それを松陰先生に言われて 完全にやり遂げたのがこの白井小助なんだ」
 
深酒がたたって今言う肺気腫になって吐血して死ぬ最期まで、維新は己が散布した筆写本のせいであると言い切り、明治の元勲山県有朋も彼にかかると糞味噌だった そうである。
 
  「將門伝説」は西暦九三九年の架空のでっちあげの天慶の乱の話しだとしても、 それを題材にした売講子やデロレン祭文語りらの種本の筆写が、明治維新の世直しに大いに役だったことになったのである。
 (補記)
 
  「白洲正子自伝」にも、白洲正子は「祖父の樺山資紀から『我々は維新の元勲だとか何とか世間では言っているが、本当に偉い人達はみんな早くに死んでしま った。残ったのはカスばかりだ』とある。また、
   鹿島昇氏はその著作「裏切られた三人の天皇」の中で、
 「維新の元勲などと言っても、大酒のみの無能者で、彼らは共謀して孝明天皇、その子睦仁、徳川家茂までも暗殺している」
   と彼らの悪事を暴露し、糾弾している。
 この説は非常に重大な問題を含んでいる。
 ともあれ、何れにしろ日本は歴史を美化し過ぎる。汚い物は見たくない、厭なこ とは聞きたくない、この心理は理解出来無くはない。しかし、この国は一日も早く”真実の歴史の回復”が急務ではなかろうか。
 
 (補記)
  
   この一文を記すに当たり、吉田松陰関係の史料を調べてみた。
 吉田松陰関係の資料は非常に豊富である。彼の著作や日記、書簡、詩歌など 集大成した吉田松陰全集は十二冊も刊行されており、五百字詰四百頁にも及ぶ浩瀚なものである。
 その他にも明治以来松陰を主人公にして書かれた書物は、 まさに汗牛充棟、数え切れない。今回松陰関係の参考文献は以下の通り。
 
  白井小助に関する記述も少なかったし、残念ながらこうした裏話を記述した物は無かった。
   山口県教育会編「吉田松陰全集」・日本の名著「吉田松陰」・真田幸隆「吉田松陰」
 杉田幸三「安政の大獄」・徳永真一郎「吉田松陰」・古川薫「吉田松陰とその 門下」・木俣秋水「外史・吉田松陰」