論考 東日流外三郡誌 第四部 津軽事情  津軽水軍 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


 論考 東日流外三郡誌 第四部


      津軽事情

〈東日流外三郡誌〉には、宮下文書や竹内文書に比べて、魏志にしかない「耶馬台国」がでてきたりして評価されているが、偽書ではないが、あまりにも恰好づけられの伝書といえよう。
 慶長三年十月の奥書で伝わる処の、不二綺熊野別当の藤井基信の〈東日流大丈夫記〉では、「十三山王坊には帰化せし中国人が住いたる所なれど今は何もなし、ただ海浜に縁りのある地名や神社が多いのは、
何といっても日本は神秘な国にて、豊葦原とは東日流の土地との神話は過言ではなし」

 と書いてから、津軽は日本皇宮の鬼門にあたっていたので、しきりに勅をもって討伐したが、勝つことができず化(界)外の地とされたとしている。
しかし、忍術で有名な伊賀の入口も、界化(外)とよびます。が、日本の歴史に、「東日流平征」の事実はなく、よって公課なく、唐船が来たりて、化外の地なるも北都とし栄えたと、
十三山王、飯積大坊、羽黒三山は日本仏法を越えた別個のものとす。
 
 しかしこの大丈夫記で特筆記述というのは、中国や朝鮮へ荒吐族は工人を送って造船術を学ばしめて、無敵な安東船を造りだし、若狭や長門、堺にまで集団就航し、建仁元年(1201)七月に、
四国伊予の大山祗神社建立や、十年後の建暦元年十月に因島の村上水軍に津軽の檜材を運んで寄進し、四年後にも丸亀や小豆島へも奉納し、同じ種の民として親交を結んでいたという、北条政子の時代の記述である。

当時、宋とよばれた中国から、伊豆の山々から採れる山金を積みこみに、由比ヶ浜まで中国船は多くきていましたから、さぞかし山金の多い東北へも廻航してきていたことは判る。
 とはいえ荒吐一族の子弟を送りこんだというのは、遣唐使的な発想としか思えない。
当時は木造船だから、用材の多い津軽ですから、黄金欲しさに唐の船大工がきて、船の建造を手伝った位の処でしょう。
〈十三開湊史談上)にも、「十三湊に浮上せる造船の材は無尽なりせば、船工異土より来たりて黄金を税貢として受け取っては次々と造船し、荒吐の安倍一族の威力ますます強まる」とあります。

 しかし大三島神社というのは、古代アラブ交流史会を主宰していた三島敦雄が代々にわたって神官をつとめていた拝火宗の「祇」の社で、いわゆる伊予三島水軍というのは、
トウ王朝よりは反体制の種族で、「海賊衆」と、反官軍の意味で蔑称されていた古代海人族なのである。
彼らはマレーシアから生魚をかじりつつ、今のベトナム難民のごとく黒潮にのって流されてきた者達である。
だから彼らは、日本列島の瀬戸内海より黒潮が阿波の嶋門から抜け、流れて南米の西海岸まで行ってしまうので、踏み止まって日本に残ったのが古代縄文日本人となった。

その連中が後の伊予因島海賊衆ゆえ、よしみを通じていた安東水軍も、やはり同じ宗旨の古代海人系血脈でない事には、まったく話の辻つまが合わなくなる。
何故かと申しますのは、「同門同火の禁」とよぶ厳しい掟が「祗」とよばれる彼らどうしの宗旨には古来よりあるからです。これは強固な掟で、
 現代でさえ競輪・競馬・競艇といった賭博所や、パチンコ屋でも、煙草をすっている人に火を借りようとすると、絶対に自分の火は貸さずマッチやライターを出す例が多いのも、そうした血脈の人です。

また、水をウォーターとよぶより、アをつけて言う国が遥かに多いのはラテン語のアワが古代アラブ語のアマとなった為に、古代海人族で、日本にそのまま接岸して住みついた連中によって、
黒潮の突きあたる地点は、安房、淡路、阿波とか、アの上の一字だけつけたのが、明石とか津軽の有間となるのであります。
人名にしても、〈桧扇鷹羽抄〉にでている津軽の安倍一族は、どの姓をとってみても、「秋田、安達、安田、安方、安保、安東、安藤」と、みなアを上につけ発音する姓をつけて居ります。
 つまり〈東日流外三郡誌〉では安倍一族の先祖は荒吐族で、中国よりの晋国の王侯が内乱で逃れてきた貴種なりとしますが、
姓の上にアがつくという事は、記紀では神話の中に閉じこめられてしまっているアマの何々の神々と同祖同種の民族であり、それに同化した十一世紀に日本に流入した契丹系の者らとなるのである。
日本史で、関東での平将門の乱と、瀬戸内海での藤原純友の乱があった。この乱は明確な、海洋渡来系と、契丹(宋)系が連携した「反藤原闘争」で、
契丹供給の武器による水軍は京まで何度も攻めこんでは占領たという史実がある。

 

     津軽水軍


三島水軍は純友の世直し軍につき、藤原氏と戦ったが、ついに負けて「賊軍」とされるが、安倍水軍が彼らに木材を運び、連携していた事実は、同じ種族であった証拠であろう。
 高千穂峰よりの日向族とは確かに違います。しかしアを姓の上につける「祇」を信じる者が、大陸系や朝鮮系ではありません。
黒潮渡来の海人族ゆえ、舟にのった七福神信仰も追われた東北や三島に多いのです。

藤原氏は中国系だから、「夷をもって夷を制す」とします、六韜三略の孫子の兵法で、やはり夷の騎馬民族の源氏の頼義を討伐にだしたのが十一世紀の前九年の役だし、
三十三年後には頼義の子の八幡太郎義家が追討にかり出され、これが後三年の役で日本史にある。
「夷をもって夷を制す」は尊大な中国人らしい思想で「よき鉄は釘にならず」とか「よき人は兵にならず」も同義語。
要は、自分たちは手を汚さず、原住民同士を戦わせ、体制を維持したのである。

この時、騎馬系は民族カラーの白旗を押したてて攻め、守る安倍一族は赤旗をたてて防いだのも、紅白合戦のはしりではなく、日本列島の庶民は白山神信仰の白と祇信仰の赤によって占められているからです。
水引に当たりさわりのないように紅白を半々にしたり、幌幕も葬式以外は赤と白なのも日本での民族カラーからなのである。

 安倍貞任が騎馬なれした源義家に討たれ、その遺児は遠野へ逃がれ津軽に匿れたので、安倍重任に討伐させようとしたが「同門同火の禁」で、同族は討たれぬとの掟を守って承知せず、三人の伜に遺言した。
元永二年(1119)の鳥羽帝の御代には、また津軽十三湊に安倍水軍は復活したといいます。しかし騎馬民族系に水軍ができる訳はありませんから、
瀬戸内海の四国の阿波の塩飽や、伊予の村上衆の力をかりて安倍水軍はまた再建したのでしょう。そして平治の乱になると平氏方に水軍は味方した。

後には平清盛の福原の港へもいっている位であります。当時の中国とは国交を絶っていた清盛の許へ、まさか中国系の子孫が水軍を伴って行くわけはないでしょう。
つまりは〈東日流誌〉に、「平征史」と各章によく出てくる意味も、アのつく荒吐とかアラバキとよばれる津軽人が、中国や朝鮮系の人種ではなく「平」つまり西南渡来の古代海人族が、
日向族や大陸勢力に追われて本州の最北端まで逃がれてきて、そこに新しい界外の新天地(津軽王朝)を建て、彼らの営みの地にしていて、そこには、同じ中国系だが藤原氏に追われた契丹系の人間も同居したのでしょう。


処がヨーロッパがルネッサンス期に入り、植民地支配に黄金が必要となった14世紀末。
明国となった中国に、ヨーロッパから次々と金を求めて船がやってきた。
この当時の日本は、室町幕府で明国の属国状態だったため、室町御所も金を明国へ送りだしていました。そうした官船通商の他に、利にさとい明国商人が15世紀初頭からは、
山金がいくらでも積みこめる津軽の十三湊へ次々とやってきました。
そまま津軽に落着き、山金集めをした明国人と、土地の女との混血児も数多く生まれましたのが、その4世紀後の秋田孝季をして、まさか山金人夫や船頭の落し胤とは書くに忍びずか、
さもなくば明人の落し胤の子孫が、みな裕福な商人になっていましたので、それへの遠慮からか、周国の王子が内乱で逃がれてきての子孫だといったような具合に曲筆し、まあ日本人独特のロマン風みたいな、「え
え恰好し的歴史」にしてしまったのが、本当の処ではないでしょうか。大時代すぎる耶馬台国など持ちだしてくるものですから、訳がわからなくなり、勿体ぶって扱われているだけみたいです。


 日本列島は学校で教えるような単一民族ではありません。西南からは黒潮が流れ来て、阿波の鳴門から抜けてゆくし、東北からはベーリング親潮寒流が日本海をわたって突き当ってゆく吹き溜り列島です。
 だから色んな黄色人種が雑多に住みついた複合民族ですが、津軽人とて、当初はアメリカの西部劇なみに、まず坂東八ケ国へ移住させられた日本原住民が、荒地を耕し田畑にすると、その居留地を耕地
として転売するため、砦の兵隊が襲って捕虜にした彼らを奥地へ追いこんでいったのであります。
 北条時代になって源氏の残党も追われてゆき、岩手に閉夷(今は伊)の郡があるように、津軽全体が足利時代までは被区別地だったから、除地として課役や年貢も掛らなかったのです。
それゆえ、前記したように、「反唐勢力として追放された契丹種の者達」も追いこまれ、彼らに助けられ住みついたので、今も契丹二千文字の内の文字をつける鈴木姓の者が多いのです。
そして足利中期からゲットーとなり、部落化したというのが実態なのです。

   後記

1990年代には古史古伝論争があり、東日流外三郡誌もアカデミシャン側からは偽書として葬り去られた。
しかし彼らは「記紀」を金科玉条のものとして、それを正史としている。一方在野の史家からは「記紀」は改竄された史書」だと激しく糾弾されている。
だから、古史古伝研究者とアカデミズムの間の乖離には根深いものがある。
過去には「古史古伝」を研究しようとする、歴史学者の動きもあった。しかし和田家史料群の真作説破綻により、その乖離は一層深くなった感がある。

こうした乖離が生じた原因は、歴史学会の学閥意識が大きく、江戸時代さながらの徒弟制度にある。
大学教授は、助手や助教授の絶対的な人事権を持つため、助教授たちを平気で「弟子」と称している。
弟子は親方である教授の説には絶対逆らえない不文律があるため、新しい説を出すことができない。もし逆らったなら、大学を追われ己の人生が狂ってしまう。
従って、重箱の隅を突くような不毛な研究に日々を費やしている。
また、在野の歴史好きや研究者の中にも、資料の来歴の怪しさにさえ気づかない低レベルの人もかなりの数いるのである。
東日流外三郡誌を、本物の史料だと思い込んでいる人、さらに宇宙人やオカルト、ユダヤなどに結び付ける人もいるが、内容を科学的、実証主義的に解明することが大切である。
学者とはデータに対して貪欲な人種である。だから来歴の怪しい史料を扱うための方法論が確立されれば、今後アカデミシャンの間でも、古史古伝の研究は行われる可能性はあり、それに期待したい。

 

津軽弁と古代海人族

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