大久保彦左と一心太助 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

大久保彦左と一心太助

 ----これは講談本より抜粋して、まず先に援用してみるとことにする。
「大変だ大変だァ、天下の一大事だァ」「なんじゃ太助、騒々しいにも程がある。そうガアガア大声で怒鳴ってばかりおらんと、もそっと落着いて話をしてみい、出来ぬか」
「てやあん゛んでえ‥‥おう親玉。おめえさんいくら天下の御意見番大久保彦左衛門だと、威張ってなすったって、年よりだから金つんぼは仕様もねえが‥‥目まで風穴同然。なんにも見えなさらねえのか。情けねえったら有りゃしねえよ」
「なんじゃ、太助、うぬは泣いているのか。それでは腕に彫った一心鏡の如しの文句の方が、泣くぞ、いうてみい、なんじゃ」
「てへッ、なんだもこうだも有りゃあしません。公害問題を放ったらかしにしようって有様なんですぜ」
「えッ、そりゃまことか。それでは天下御政道が、めちゃらくちゃらではないか。これ喜内ッ馬をひけッ、天下の一大事じゃ。さあ太助ついて参れ、何をもたもたいたしおるか」
「へえ、合点承知の介で、そうこなくちゃ話にもならねえ、行きやしょう」当今ならこういう事にもなろう彦左と太助の間柄を、かつて関西の作家は、
「大阪の人間には、太助みたいに体制べったりな、いやらしいのはいませんよと某さんからいわれまして、成程とがっくりしました」といっていたが、一心太助とは、そんなべったりタイプのいやな奴だったのだろうか。
もちろん実在ではなく講談の張り扇から生まれ出た人物であるが‥‥すっかり考えさせられてしまう。


 なお、更に引掛るのは、何故そのフィクションの一心太助を、実在の大久保彦左と組合わせたかという関連性である。
 現在の吾々の眼からもってすれば、旗本一万騎と号した中には、あの時代のことゆえ、水野十郎左衛門とか加賀爪甚十郎といった若くて、もっとばりばりした有名人が沢山いた筈なのに、
どうして選りも選ってあんな老人と勇み肌の太助を結びつけたのか、まさか当時の講釈師がドン・キホーテとサンチョの組合わせを、転用の形で当てはめたとも考えられぬし、奇妙に想う。
 が、見台を張り扇で叩きながら、なまの聴衆を前にして口演した際には、一心太助という人物をそれらしく浮び出される為には、水野十郎左では駄目で大久保に限った必然性が何かしら有ったのではなかろうか。

 今では、その講談は太助が大久保家へ奉公していた小者上りで、やはり女中だったお仲と結びつき、邸を出て魚屋を開業したのだから、彦左衛門は里親みたいなもの‥‥といった納得しやすいような設定に作り変えられているが
‥‥まさか当初から、そこ迄は話が出来てはいなかったろう。すると、「旗本と魚屋」といった取り合わせが、聴衆をして不自然さを感じさせなかった裏には、職業も居住地も勝手に変えられなかった江戸時代にあっては、
誰もが旗本になろうとしてもなれなかったように、魚屋も限定されていて、今のように河岸の魚市場へ仕入れに行って、荷さえ持ってきたら、それで始められるというわけのものではなかったらしい。

 そして現代でこそ無神論者も多いが、江戸期では西方極楽浄土をとく宗旨が、だんな寺として百姓町人の、人別帖とよばれる戸籍を握って、今の村役場や区役所をかねていたのだから、
信仰というものが人間の差別や区別をもしていた。となると、身分は旗本と魚屋とは違っていても、彦左と太助は同一信仰グループでないことには話にならない。
 そして当時の寺のたてまえたるや、魚肉は生臭として拒んでいたのだから、それを扱う魚屋が公然と寺の管轄に入っていたとは考えられもしない。
 となると彦左の方も、決して西方極楽浄土を願いお寺の信者ではなかった事になる。またそうした同類でなくては、この結びつきが江戸時代の聴衆の耳に入れられる筈もない。
 だから、その関連性は何かと、それから先に解明して掛らねばならないようである。

大久保彦左衛門と一心太助は同族だった

 さて彦左衛門という男。彼も実際は講談のごとく馬や駕篭で登城するのを差し止められれば、「なら盥なら構わんじゃろ」と横紙破りするような、そうしたむちゃな人物でもない。
彼の本貫は、その著『三河物語』の冒頭に、「ワレ老人ノ事ナレバ今日ノ夕方ニ死ンデシマウカモ知レヌ身デアル。ソレユエ唯今コウシテ生キテ居ル内ニ、コレヲ書キ残シテオコウト思イツイタノダ。
ト云フノハ御主(将軍家)サマハ、譜代ノ家来ノコトヲ一向ニ御存知ナク、マタ譜代の家来衆モ他ノ譜代衆ノ筋目(家来)ヲ知ラナイユエ、予ガ知ッテ居ルコトダケヲ書キオクナリ、ガ吾ガ子孫ニワレラガ筋目ヲ知ラセンタメニ残すモノユエ、
カマエテ門外不出トイフナリ」といった文章に要約される。


これを読んでも、一見なんでもないようだが、よく眼を通せば奇怪すぎる内容である。
 この時代は三代将軍家光の頃だが、その家光が、新参の家来や外様大名の事ならいざ知らず、譜代の家来のこれまでの家系を一向に御存知ないというのである。世にこんな可笑しな、断絶した主従関係がはたして有るものだろうか。
また、「その譜代の家臣」も、譜代どうしであるなら親や祖父、先祖代々から知り合いでなくてはならぬ筈なのに、彦左は、はっきりと、
「譜代ノ衆モ他ノ譜代ノ衆ノ筋目ヲ全然知ッテ居ラヌ」と暴露するみたいなことまで、それには書いているのである。

 常識で考えれば、譜代とは先祖から引き続き仕えている家臣団のことゆえ、こんなバカげたことはなく、それに大久保彦左は、「三河者ならば、かいえき(改易、頭ごなしにさっと)に御譜代の者と思食(思召)されるやの間、
そうした訳も子供らが、知っておらねば困るだろうから、書き残すなり」とも、つけ加えているが、
「三河譜代」とはよく講談に使われる表現だが、これでは、「三河の者となれば、どうしても頭ごなしに御譜代の者と思われ、間違われやすいからして、色々のことをこの際覚えておくよう、子供らに書いておくから、それを覚えて信じこめ」
 といった意味にしか取れず、何がなんだか判らなくなる。といって三河とはいえ、大久保党の出身は、いわゆる松平家領国の地方ではない。

彼の在所は、灯台で名高い伊良湖岬の渥美半島の中心部あたりで、今も彦左衛門の幼名をとった「兵助畑」の地名が残っていて、「大久保」とよぶバス停留所の右手奥にある。
 彦左の幼時は、この半島は田原の戸田家の領地であって、戸田党は信長の父の織田信秀と結び、松平の松平党とは戦いをしていた。
 そうした間柄の戸田領の大久保党が、どうして、「御譜代衆であるのか」と知らぬ者から間違われる事があるのだろう。そして、それに対し、
「はい、そうであります」と、ばつを合せて、自分の家系を先祖伝来の譜代に仕立てたり、将軍家光の家系すらも、皆が知らぬからと作って覚えこませることの必要がどうしてあったかと謎になる。
 しかし、これは後述する御三家の尾張七代目徳川宗春の、「徳川家康は二人だった」という考証が判ればなんでもない。つまり大久保彦左は、


「家光さまの三代前の権現さまという御方は、三河松平の御出身のようになっているが、実際はそうではないからして、家来の者もご素性をあまりよく知らぬ者が多い。
また将軍家におかせられても‥‥なにしろ、われら旗本は御譜代衆とはいわれているが、わが大久保は渥美、水野十郎左は苅屋、加賀爪甚十郎らは遠江白須賀、榊原小平太の身内共は伊勢白子浦、
服部半蔵らは伊勢かぶと山と、口では三河譜代といっても、みな非三河系ばかりゆえ、----これでは譜代の者の家筋など、とてもお判りになられよう筈はない」
 という意味をのべているのであって、それゆえ、序文の末尾に、「各々方にあっても、ご譜代はご譜代らしく筋目をつけた家系を、この際こしらえ子孫に残されることが、御家(徳川家)に対する忠節というものでありましょう」と、
しめくくっているのである。

 しかし内容は大久保党が木こりをしていて、初めて畑を貰ったときに感激したといったような、楽屋落ちの話は一切かかず、
「徳川の出自」の第一章は、いざなぎいざなみの二神から始め、新田系をもって将軍家の祖先とし、親氏から代々を次の章にかき、いわゆる徳川伝説を一人で書きこんでいる。
 もちろんこれは、『大久保忠敬日記』『彦左衛門筆記』『参河記大全』の名で類本も多く、これが林大学頭の手によって、『徳川史』の底本になったというから、後から色々と書きこみをされ、いま伝わっているようなものになり、
それでは内容的に不自然だというので、彦左が、「自分はこんなに御奉公しているのに、報われる処がすくない」といった愚痴めいた個所も、そこは抜かりなく挿入されているのである。


 しかし徳川家のために、こうしたもっともらしい史料めいたものを残したという事は、まったく欠けがえのない大忠臣であった。
 この余恵で大久保本家は、大久保長安事件に引っ掛かったがすぐ許され、小田原十万石も春日局のためその子の稲葉正勝に奪われたが、貞享三年(1686)からは大久保家へ戻されている。
 また彼の書いた「徳川神話」を守ってゆくためには、「彦左衛門とはなんだ。そんなのがいたのか」では困るから、明治軍部推薦で桃中軒雲右衛門が、
「武士道鼓吹、赤穂義士伝」をやらされたごとく、江戸時代の講釈師は奉行所のお指図で、辻々に小屋をもうけ、そこで、
「只今より、大久保彦左衛門のお話を一席‥‥」とやって、彦左の実在を一般に強調している内、話を面白可笑しくするため、ドン・キホーテに対するサンチョパンサのごとく、一心太助も張り扇で叩き出されて生まれてしまったのである。

 しかし江戸時代というのは、今の日本橋の橋の左右に、「あまだな」とよぶ魚河岸の魚問屋四十軒があったが、「生臭きもの」といわれた生魚乾魚一切の販売権は、エビス、ダイコクら七福神や白山系統の信心衆、
つまり昔は別所に入れられていた原住系の者らの限定職業で、「千の利休」といわれる宗易も、堺で魚屋の元締めをしていたが、江戸でも魚河岸はこれは弾左衛門家取締りで、そのため、
「棒手ふり」とよばれる板台を天びんで担いで歩くような小前(こまえ)者でも、魚を商う者は、同信仰でなくては許されなかったのが実情だった。
 つまり今は八百屋をやろうが魚屋をやろうが勝手だが、昔は、八百屋は百姓系だが、魚屋は製革業と同じ素性の者に限られていた。
 だから一心太助も、ナムアミダの宗旨ではなかった。やはり、ビシャモンか、エビスの神徒ということになる。
 さて話は戻るが、大久保彦左衛門一党の出身地である渥美半島は、今は観光バスが豊橋から一周しているが、雨天でなければ、半島を七つに分割しているビシャモン、エビス、ダイコクの各社の、
赤青黄だんだら染め幟旗(のぼり)がはためいているのが見られる。

 何も今急にそうなったのではなく、ここは半島全部が昔は別所だったし、権現さまが危うくなったとき、此処へ逃げこんで隠れていた徳川家創業の由縁ある土地なのである。
 だからでもあろうか、大久保彦左は、徳川家を守るために努力したのであるし、これが講釈師の口から語られるとき。
 江戸時代の常識では、
「魚屋というのは、表むきの身分の差は、旗本の大久保彦左との間にあったにせよ、一心太助は同じ宗旨のひとつもんだ」ということが周知であったから、心安げに、
「おう親分はいねえかッ、大変だァ、天下の一大事だ」と、ねじり鉢巻のままの太助が、神田駿河台の大久保邸へ、無遠慮におしかけてくる場面をのべても、講釈場の聴衆は、
「確りやれ」とやんやと手を叩き声援をし、彼らが決して違和感を覚えなかったのも理由はそのせいだろう。

 つまり徳川政権に大久保彦左という男は、べったりどころか自分が糊刷毛をもって、せっせと徳川神話を作りあげた功労者なのである。
 だからして、彦左を話の中心にもってきて、彼の奇骨ぶりをおおいに語らせるという事は、
(そうした曲がった事の大嫌いな正直一途の、頑固者の彦左でさえ認め、ちゃんと書き残している徳川家の歴史というは間違いないものだ)といった裏書き的効果が有ったからして、
講釈師が公けに口にするのをおおいに、おかみから認められていたのだろう。