論考 東日流外三郡誌 第三部 つがる出世談  津軽夢物語 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 

論考 東日流外三郡誌 第三部


 つがる出世談


東日流外三郡誌は昔から、僻地とされ、江戸からも軽視されていた津軽人が、儒学万能の江戸時代ゆえ、自分たちは中国系の出自であるといった売込みの為の著作ではなかろうか。
昔の著述とはそういうものなのである。誰が何のために書いたのかを考えることが大切なのである。

 「東日流」とよぶのは唐よりの呼称。倭人は「津刈」とよぶとし、〈語部疑問帳〉では、「往古、晋国が乱れし時に、その難民が逃がれて住みついたもので、東海の天日が東方海上より昇るをもって、
ここに東日流をもって中本の国号と、かの国ではなしたるなり」と、するにはしています。

そして文治二年(1188)十月の奥書文書では、またくり返して、田村麻呂将軍の東日流平征之伝は偽也、東日流君主は荒吐であるとし、秋田孝季は寛文二年(1662)佐藤刑部記としているのです。
 つまり津軽は、日向族の朝鮮系の大和朝廷に対し、中国大陸支援の許に独立国として対決していたのは、源頼朝の頃でも明白であると、その民族独自性を主張し、
あくまで〈東日流抄〉でも、「そもそも東日流と中国で呼ぶのは、晋の君公子一族が乱をのがれて渤海より新天地を求めて、当時はまだ『耶馬奥』とよばれ鹿や熊しかいない人跡未踏の地であったが、
亡命してきた晋の王女秀蘭が、丁度耶馬台国から日向族に追われてきた長髄彦と婚されて開拓された土地である。

がその以前に、夷三郎なる者が倭より追われて東北へ、その一族がきていたので、
東日流の者まで夷とよばれだしたのだが、荒吐とは晋国の古伝にいう荒羽貴将軍の名から出たもので、東日流は無智な国ではなく、真歴の創処地なのである」と康永二年(1343)の南北朝の年月で、
「如戦意」という筆者の名のものを、傍証として引用しているのであります。
これは唐を滅ぼした、契丹人の恰好づけの創作と想われる。
 〈往古史語部抄〉では、一の東日流荒吐族と二の羽州荒吐族は共に安倍氏。三の日高北見蝦夷族は安東氏。四の東日下荒吐族は阿倍氏。五の東陸荒吐族のみが物部氏で、
国造の五王として、前九年の役と後三年騎馬民族の役で源頼義、義家が攻めこんでくる迄は何百年も平穏無事だったとします。

 津軽夢物語

藤原王朝によって菅原道真は九州で死なされたが、他の契丹より渡来の者らは東北へ追われ、農奴の賤の民にされ、その口惜しさが自分らは唐を滅ぼしたより貴い大陸人だとの自己主張の書。
 〈有間郡秘帳〉には、飯積の奥に糖塚古墳、味噌盛古墳。赤石河辺に長髄彦古墳があるのが、津軽が決して未開の土地ではなく日向族の大和の方が開発途上国だった証拠なのだというのであります。
 享禄二年(1528)は明智光秀が生まれた年となっていますが、その年号で「相内山 山王妙覚」の筆記なりとしまして、えびす、大黒、弁天、毘沙門、福禄寿、寿老人、布袋の七福神は、
修験道や易学師によって創作された神であると言いきり、えびすは、東周平帝の第三皇子で日本に帰化し、よく船を作り魚とりの名人で富をなしたと「三島神社聞伝書より」としてあります。
しかしこれは大きな間違いです。

 まさか静岡の三島神社ではないでしょうから、四国水軍の大三島社と思われますが、そこの神主でアラブ交流研究者だった三島敦雄は、同社伝承の文書や物語を集めていますがそその中にはありません。
〈東日流外三郡誌〉にでてくるのは中国系と朝鮮系に限定されていますが、船にのって渡来を意味する七福神はアラブの七曜神ですから、大陸系の頭よりはみな大きかったり長かったりするので、
これは人類学上でも明白です。が、なにしろインドの仏さまを中心に地球が動いているとされていた江戸期ゆえ、彼らは中国系と朝鮮系しか日本人はいないものと、秋田孝季も思いこんでいたのです。
これらの他、日本には海洋渡来系が多く住んでいたことが抜け落ちています。

 寛政三奇人の林子平が、隅田川より流れこむ江戸湾の水は、テームズまで続くと書けば直ちに、「夢物語」としての異端者だと寛政五年六月二十一日に殺されていますから、
秋田も和田も共に読んではいなかったでしょう。ただ寛政八年七月にエゲレスの黒船が蝦夷や津軽へも現われているのですから、もうすこし考えてくれたら、中国人種や朝鮮人種の他にも存在が、判ったろうにと惜しまれます。
 なお公儀直轄として寛政庚申十二年の二年後の享和二年二月から、後の箱館奉行が設けられ、当然地理的に向き合っている津軽地方に対しても、羽太正養、戸川安倫といった、儒学者あがりの者が、当時の文化人として任命されている。

おそらく当時、聞き書きの提出が指示されたと思われる。
その際、まさか、その享和二年(1802)の年月では変ですから、二年前の寛政庚申十二年や大飢饉の五年に奥書をつけたものとしか思われません。
つまり中国人崇拝の儒者上りの奉行に、気に入られるように、自分らは中国系の血脈であると、特別計いの処置をしてほしいと書き集めたものではないでしょうか。

福島の塙の代官に江戸では当時有名だった安井息軒が、民間より起用の形で採用されますと、安井門下が塙へゆき地誌を書いたり、革命青少年隊の田中源蔵のごとく旧師を頼って殺されに行った青年もいます。
江戸時代も19世紀になると士分には人材が払底し、今でいう儒学者や江川太郎左衛門のような非士分の者が、次々と奉行や代官に任命された例は各地できわめて多いようであります。
幕府の大身の旗本たちや、大名家で高禄を食んでいた武士たちは、代々の安逸にどっぷりつかり、使い物になる人材が払底していたのである。これは幕末の勝海舟や山岡鉄太郎らが下級武士の出身だったのでも判ろう。
 となると、東日流外三郡誌が、門外他見厳禁というのも、ただ勿体をつけるための、こけ脅かしかとさえ想えます。

 こうして苦労して集めて書くという作業は、なかなか言うはやすく行うは難かしいものなのです。
 なにも二世紀近くたって韓国史学界の人たちを喜ばせるのが、その目的ではなかったのでしょう。
だから、仏教でいう現世利益を願って、これを書きあつめ提出することによって、秋田・和田の義理兄弟は、初めはまだ蝦夷奉行とよばれた箱館奉行へ、お取立て方を求めて書いたものか。
さもなくば寛政庚申五月には、伊能忠敬が門人をつれて津軽から北海道へ行っていますので、公儀隠密方の近藤重蔵には相手にされなかった二人が、
伊能忠敬によって出世の途をひらこうと野心にもえて努力したかの、どちらかしか考えようがありません。まあ二人の言うなら〈夢物語〉だったのでしょう。
 が、奉行か伊能忠敬のどちらかへ提出した処で、こういうものを表沙汰にしては、そちらは津軽領民ゆえ、お咎めが必らずやあろうと脅かされ、あわてて天井裏へ隠したのではないでしょうか。
 
   津軽一統誌

江戸時代に紅葉山書物奉行へ提出の津軽史料も、各大名家が提出した伝承史料というシロモノは、皆大方この類の、自家に都合よく創作したものばかりなのである。
つまり、史実でも何でもない立証なのである。「秋田や和田が何のためにこれを書いたのか?」を考えることが大事なのである。
とはいえ、スケッチを数多く入れてありますゆえ、今となっては当時の社会情勢を見る、民俗学的には貴重なものとは言えましょう。

後にのべる津軽での現地事情や、方言の解説まで付けている点は、口でしゃべっては通じにくい津軽弁を、文字という媒介体を使って纏めあげ、いわゆる乙夜の覧に江戸表よりの馴れぬ役人へ供すべく提出し、
できれば公儀の役人の書役の勤め口でも得ようとの目的で、十八世紀から十九世紀にかけて纏められたものとしか、酷なようですが考えられません。

 七福神が古代海人族の崇拝対象だったのは、清洲城に近い今の七宝社に残る素焼きの七曜神の残存物でも判りうることで、くり返し耶馬台国の子孫だとか、中国人の貴種であると、
手をかえ人名をかえて、援用形式で立証しようとしているだけなのは、本当の歴史研究としては邪道と中せます。

 ですから〈藩史偽作審抄〉では、将軍吉宗の享保十二年六月十三日に津軽五代藩主信寿が、藩祖為信の〈東日流平征史〉や〈古城寺社古砦史〉の資料提出を求められた際、
耶馬台国系荒吐族の者らは協力せず、書物奉行の喜多屋校尉は毒矢で射られて死ぬ有様だった。よって〈永禄日記〉なる古書の内容を藩祖為信の讃美に偽書し、
「〈津軽一統誌〉なる架空の史書をとなしたりと、ついでに宝暦十年八月一日付で、行兵五郎和田刑部の名でのものも史実とは反対」と書き加えている。
だから、史類とはみなかくのごときものといった言い訳にもとれる。
有名な熊本の<細川家記>にしても、ああした膨大な物が現在に残されているのは、長岡藤孝と初めは名乗っていた藩祖細川幽斎や、その次の忠興が、本能寺を襲った丹波兵の先陣で、
信長を殺したことへの糊塗するためのものだし、<鍋島家記>にしても、主家である竜造寺家を乗っ取った経過をごまかすためのもので、皆同じなのである。