酒呑童子を斬った太刀・童子切安綱ほか日本の刀剣見学 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 東京国立博物館の展示物は、定期的に入れ替えられが行われているわけですが、今回の入れ替えで「名物・童子切安綱」という太刀が展示されていると知り、これは是非この目で見ておかねばと思って急いで見に行ってきました。

 

↑童子切安綱1(太刀)

 

 この太刀は摂津源氏源頼光の太刀であり、かの大江山の酒呑童子を斬ったことから「童子切」の名が与えられたと言われています。

 

↑童子切安綱2(太刀)

 

↑童子切安綱3(太刀)

 

↑童子切安綱の説明

 

 さて、この「酒呑童子物語」が史実か否かといえば、いうまでもなく史実ではない。出典は『大江山絵詞』とされ、南北朝後半から室町時代初期に成立した話しらしい。これが、さらに整備された物語になって『御伽草子』に書かれ、江戸時代初期前後に流布することで広まったと考えられます。

 ただし、源頼光が実在した人物なのは事実で、その名は『今昔物語集』などで確認ができます。しかし、この今昔物語集では、頼光が鬼や妖怪と戦った話しのようなものはありません。あるのは「「狐を弓で射る話し」とかです。でも、頼光が優れた武技を持つ武士だったも書かれているので、やはり武勇に長けていたことは間違いなさそうです。

 余談ですが、京都の成相寺に「此の度当国大江山夷賊追討の爲勅令を蒙る」と記された源頼光の願文があるそうですが、現在のところ、偽書と判断している研究者が多いです。

 源頼光は、こうした妖怪退治に長けた武士というイメージがあるのですが、それもまた『大江山絵詞』や『御伽草子』の影響が大きいと言えましょう。

 また、頼光は酒呑童子の他、土蜘蛛退治(『平家物語 巻第十一 剣の巻』)など合戦で戦うより妖怪と戦っている話しが多く、こうした話しが歌舞伎などで演じられることで、着色や誇張が加えられて妖怪退治の専門家としてのイメージが確立していきました。ちなみに、『平家物語 巻第十一 剣の巻』は源氏伝来の太刀「膝切」の物語で、この頼光が土蜘蛛を斬った話しのほか、渡辺綱が鬼の腕(宇治の橋姫が鬼女になり、渡辺綱を襲った)を切った話しなども記載されています。この綱の話しが、後に酒呑童子物語に取り込まれ、茨城童子の腕を斬った話しになったり、さらに「羅生門の鬼」の話しに変容していったらしい。それぞれ元は別の話だったぽいですが、ご都合主義的に混同したりして話しが作られてるっぽい(苦笑)。

 では、こうした武士が妖怪退治をする話しは眉唾ばかりか?。まー、妖怪や魔物は実在してませんから眉唾でしょといえばそうなんですが、武士という人々と妖怪退治が無縁かというとそうじゃない。

 源頼光の子孫にあたる源頼政の「鵺退治」や藤原秀郷(俵藤太)の大百足退治など、武士が妖怪魔物を倒す話しは多いのです。

 『武士の成立 武士像の創出(高橋昌明著・東京大学出版会)』という論集の中で、高橋氏は「武の意味、武の機能という点を考えると、呪力という問題にも着目せねばならない。筆者は射礼の意味に、辟邪の機能があったと考えている」として、弓を用いた呪術「鳴弦」と武士との関係を論じています。

 この論文では、平安時代の主要武器である弓に着目していますが、弓ほどではないにせよ武士の武器として刀剣にもそのような機能が付随していてもおかしくないと私は思う次第。

 そして、武具に辟邪の機能があるのであれば、当然その武具を扱う専門家、武士にも辟邪の力があった。つまり、武士の機能として戦争で戦う、外敵から天皇や要人を守るという能力の他に、強い武士、武名の高い武士には魔物から天皇や要人を守る能力が備わっている(もしくは”そのような能力が求められた”)と思われていたと考えるべきでしょう。

 高橋氏は、前掲書のなかで「滝口武士」の主要任務が「辟邪の武」になることだと説明されています。だからこそ、妖怪退治に関しても武士が専門家になってくるわけです。陰陽師や僧侶じゃなくて……。

 もちろん、酒呑童子や土蜘蛛の正体は跋扈した群盗や凶賊、つまり人間である。朝廷に逆らう人々を妖怪魔物に仕立て上げて討伐してしまった話しなのだとする説もあります。が、史料的な根拠が不十分なので……。さて、実際にはどーなんでしょーという感じにならざるを得ないです。

 武士は、外敵だけではなく、魔物からも天皇や都、人々を守る武力たることが平安時代の武の在り方だったと言えましょう。

 この童子切安綱が、源頼光が持っていた太刀だとは証明できないものの、「辟邪の武具」として酒呑童子退治物語と結びつけられた太刀ではあるのだろうと思います。

 さて、この太刀が刀剣の最高峰だということは間違いなく、「天下五剣の筆頭」とされています。つまり、刀剣の最高峰。その切れ味は凄まじく、試し切りでは罪人の死体六体を重ねて切ったところ、一太刀で切り裂き、下にある台まで両断したと伝わっています。まー、かなり誇張されているとはおもいますが、それほどの切れ味だということです。

 また、去年の大河ドラマで登場した足利義輝が暗殺される際、剣豪でもあった義輝が襲ってくる敵を切りまくる。その際に使われたかどうかは不明ながら、手元にはあっただろうとされている太刀でもありました。

 

 以上、童子切安綱を見る目的は果たしたわけですが、ついでに他の刀剣も見て回ります。非常に珍しい刀がありましたので~。

↑直刀・水龍剣

 

↑直刀の説明

 

 奈良時代の直刀です。ソリの入った太刀が作られる前ぐらいなんでしょうか?。発掘された古墳時代の直刀の多くがボロボロの中、この直刀は奈良時代とはいえ保存状態が非常に良く、思わず撮影しちゃいました。丁度、古墳時代の直刀からソリに入った太刀に移り変わる中間、過渡期の時代の刀剣だと思います。

 

 

↑村正

↑村正の説明

 

 あい。「神に逢うては神を斬り、魔物に逢うては魔物を斬る(映画「魔界転生」より)」と言われる妖刀、村正です(爆)。「徳川家に仇なす」と言われており、そんないわくから倒幕の志士たちが好んで佩刀としたと言われていますが、これホント??。その割には有名な志士でコレ持ってた人を知らんのだけど(苦笑)。まー、私は刀剣には詳しくないのでのう……私が知らないだけなのかもしらんけど。

 少なくとも、私は「ウィザードリィ」というRPGゲームで大変御世話になった刀っすね♪。

 

↑兼定

↑兼定

 

 次は「兼定」です。新選組の誰かが持ってたとか持ってなかったとか……このあたりは真剣に調べていないので~(苦笑)。まー、名刀には違いないですけども。誰が何を使ってたのかというのは、私の専門外やし(←武家思想精神史担当なんで)、他に詳しい人おるので、私がやることもないでしょうからなー(汗)。

 

↑大笹穂槍

↑大笹穂槍の説明

 

 上記は、徳川四天王の一人、本多忠勝が持っていたという「名槍・蜻蛉切」をパクって作った槍みたいです。蜻蛉切も「信長の野望」というゲームで御世話になった記憶があります♪。

 

 他にも刀剣の写真をいっぱい撮りましたが、あんまり詳しくないんで、有名なところだけ説明して終わりにしますね(苦笑)。で、実は童子切安綱の他にもお目当ての遺物がありました。それは「古墳時代の鉄盾」です。これも写真撮影したかったのですが、こちらは撮影禁止だったので断念せざるをえず……。他の特別展でも盾類が出てくるのですが、なぜかいつも撮影禁止なのよねぇ(泣)。

 で、手で持てるようなサイズのものではないので、コレをどういう風に使っていたのか気になるのですよ。そんなわけで、見たい人は国立博物館へGOしてくださいませ。

 で、最後に私事ながら気になるものが……

 

↑足利尊氏御判御教書

↑足利尊氏御判御教書の説明

 

 初代室町幕府将軍足利尊氏と朝廷との関係を示す文書ですが、気になってるのは「静岡県燒津市にあった”小楊津御厨(おやいづのみくりゃ)”」と書かれていること。わし、生まれも育ちも静岡県燒津市なのよね(汗)。

 昔は湿地帯の小さな田舎の漁村に過ぎないと思ってましたから、まさか東京の国立博物館で自分の故郷に関するものが展示されているとは思わなかったわ……(汗)。

 ってか、我が故郷にも御厨(牧場)なんてあったのねぇ……。全然知らんかった。

 

 ということで、非常事態宣言下なので、国立博物館も予約制&見学時間に制限有りという中でしたが、今日は良いモノが見れて満足の一日でございました。

 

おまけ

 今は展示されていませんが、以前に東京国立博物館で展示されていた天下五剣の一振「三日月宗近」も載せておこう♪。

↑名物・三日月宗近

↑三日月宗近の説明

 

 天下五剣の中で、もっとも美しいとされる太刀です。