平将門関連史跡巡り2(坂東・岩井) | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 さて、昨日のことになりますが、歴史研究家あさくらゆう先生とともに平将門関係の史跡を巡って参りました。

 

 将門というと江戸末期の幕末とは違う時代なので、いわば幕末史を専門とされているあさくら先生の調査範疇外のテーマなのですが、武士思想精神や武士道精神を探求している私にとっては外せない人物となります。なので、あさくさ先生が午前中に別件でレンタカーを借りる用事があり、午後は空いているということで、それを利用して坂東市や岩井にある将門関係の史跡巡りをしてもらった次第です。

 この坂東市や岩井地区は、将門が「承平天慶の乱(将門の乱)」を起こした際の本拠地なのですが、近くに電車の路線もなく、バスで行くにも行きにくいという場所でして、今年のお正月に一人で将門関連史跡を巡った際は行けなかった場所だったりします。

 

 ということで、まず最初に行った場所は、あさくら先生の用事で蓮田市へ。蓮田市文化財展示館で『蓮田市史 近世資料編Ⅱ』を買うとのこと。蓮田は、御三卿一橋家の領地だったそうで、一橋家の地域支配に関係する史料が掲載されているそうです。横からちょろ見してたら、一橋家の軍制改革に関する史料も含まれていたため、私も蓮田市史を衝動買いしてしまいました(苦笑)。来たついでに展示物も見て回ります。

↑承和昌宝(皇朝十二銭)

↑古代の銭

↑承和昌宝(皇朝十二銭)の説明

 

 縄文時代から現代までの歴史的遺物多数が展示してありましたが、私の興味を引いたものだけをご紹介します。まずは「承和昌宝」という古代のお金。この地区からしか発見されていない幻の銭だそうです。

 皇朝十二銭と呼ばれる日本最古の貨幣なんですが、常々疑問に思っていることがあります。古代から平安時代にすでに貨幣が鋳造されていたことは知っていますが、どのように使われたのか私はよくわからないのです。まー、お金の歴史は専門外なので知らないだけということもありうるのですが、この時代は基本的に”物々交換”の時代だったはず。

 都のような中央であれば、たしかに貨幣による取引ができたかもしれませんが、地方に行けば行くほど物々交換だったと思うのです。

 銭は、それ単体では食べることも、何かの道具として使用することもできないわけですから、物々交換の時代に銭がどの程度利用されていたのだろうかと?。

 貨幣に対する信用がどの程度、地方に浸透していたのだろうかという話し。銭に信用がなければ、銭では何も買えない。そんな地方が多くあったのではないだろうかと想像しているのですが……。

 でも、地方でもこうして銭が出土しているのですから、使われていないはずはないので……。

 そんなわけで、個人的に気にはしている事柄だったりします。

 

 次に気になった展示はコレ。

↑月岡芳年の絵

↑説明

 

 丁度、「病魔払い」の特別展をしていたらしく、その中の展示物の一つに「為朝の武威 痘鬼神を退くの図」がありました。為朝とは源為朝のことで、別名は「鎮西八郎」。源頼朝・義経の父である源義朝とは父を同じくする兄弟です。ただし、保元の乱の際は父為義と共に崇徳上皇側に味方し、後白河天皇側についた源義朝や平清盛を敵に回して戦っています。

 絵にもあるとおり、弓の名手にして剛勇の将として武名が高かった平安時代の武将です。その武威は病魔をも退けるという意味を込めて月岡は絵に描いたのでしょう。

 病魔払いの特別展ということで、この絵も展示されていたわけですが、私が注目したのは「武威」の使い方なのです。

 

 実は、ミリオタなどの方面から「攘夷」という言葉の意味ついて、「侵略」という解釈をする人が増えてきたように感じます。その根拠は、攘夷派の志士たちが「日本の武威を世界に広めるのだ」と言っていたから。

 しかし、例えば「武威を広める」という言葉の解釈が、ただちに「他国を侵略し、日本の支配領域を海外に拡大する」という意味に解釈してしまうのはどうよ?。と思うのですね。

 「武威」は、「武名」とほぼ同義と私は考えているので、「武威を広める」とは「武名を高くする(強い人と有名になる)」という意味と私は考えます。たとえば、上記の絵は「為朝の武威」がテーマですが、別に病魔の国を侵略している絵ではありません。病魔を追い払う、病魔除けの絵です。だから、私は武威というものを上記の絵の通りに解釈したい。為朝は強く、うかつに近づけない病魔。これこそ武威の効果です。

 何が言いたいのかといえば、これが「攘夷思想」の根底にある考え方なんです。絵では病魔ですが、幕末時代に追い払いたいのは「夷敵」なんですね。なので夷敵が日本に来ないようにするために、日本の武威を広めるわけです。この考え方が「攘夷」です。

 ただし、武威を広めるためには『甲陽軍鑑』が記すように、「勝ちがなければ名は取れぬ」ということで戦わなければならない。武威を広めるために戦おう!。それが尊攘の志士たちが切望した「攘夷実行」という行為です。

 攘夷を実行し、これに勝つことで日本は強いということを世界に知らしめる。これによって日本という国の武名が高まり、その武威が広まれば欧米列強も近寄らなくなる。日本は、鎖国時代の平穏な時代に戻れるのだというのが攘夷の目指すところなんです。

 こうした「武威の意味」をよく表している絵なので、写真に撮っておきました。

 

 

↑縄文時代の竪穴式住居

↑縄文時代の住居説明版

 

 屋外には縄文時代の竪穴式住居が復元されていたので資料用に撮影しました。弥生時代の住居跡の資料写真はいっぱいあるのですが、縄文時代は何もなかったので~。

 

 さて、それでは将門関係の史跡を巡って参りましょう~。

 

↑国王神社

 

 平将門を祭神に祭る神社です。将門の三女如蔵尼が創建したと伝わっている神社で、将門の死後に如蔵尼が故郷であるこの地に戻ってきた際、地元民が将門の遺体を運び込んだこの場所へ案内したと言われています。如蔵尼は、供養のために将門像を彫り、祠を作ったことが、神社の始まりとのこと。

 なので、「平将門終焉の地」とされている場所でもあります。ただし、将門がどこで討たれたのか正確な位置は不明なので、討たれ首を取られたあとの遺体を、一時安置した場所だろうと思われます。首の方は京の都に運ばれてますので。この神社周辺のどこかで首を討たれたのだろうなと思います。

 

↑平将門・将門子孫累代・桓武平氏慰霊塔。

↑平将門・将門子孫累代・桓武平氏慰霊塔の説明板

 

 神社には慰霊塔もありました。一族同門が血で血を洗う戦いをしたことへの警鐘の意味も入ってるかな。でも、その後を引き継いだ桓武平氏の末裔伊勢平氏は、平清盛に率いられて一族が比較的に仲良かったですけども、やっぱり伊勢平氏ではない坂東八平氏はみんなで源頼朝を担いで伊勢平氏から権力を奪取していくのよねぇ。この話しは来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でやるかな?。

 そうそう案内版に「滝夜叉姫」と出てきますが、これは江戸時代の創作の話しらしく、将門の三女が滝夜叉姫として将門残党を率いて荒らし回るお話しに出てくる。その後、朝廷から派遣された陰陽師などを相手に呪術合戦みたいなことをしたあと、仏法に帰依して如蔵尼になるという話しでしたっけ?。ま-、そんなお話しの登場人物の名前です。

 余談ですが、去年TVで放送された夢枕獏原作「陰陽師」のTVドラマで、滝夜叉姫(悪役だけど、ドラマのヒロインです)が将門復活を目論み、安倍晴明と激闘するお話しが良かったっすなぁ♪。登場人物が、平安時代の実在の人物ばかりなので♪。

 

↑石井の営所跡

↑石井の営所跡案内版

 

 私が一番見たかった場所「石井の営所跡」です。ただし、あくまでも伝承で発掘調査などはされていないらしいので、確定しているわけではありません。このあたりに営所(館)があったのだろうということです。

 この石井の営所は、今年のお正月に見て回った元々の本拠地を追われた将門がやむなく移り住んだ場所になります。しかし、この地に居を移した将門は、敵対する伯父平国香や平良兼などを相手に反撃を行っていきました。以前、ブログで紹介した史跡「上野東叡山承和寺跡」は、将門が反撃の狼煙をあげた古戦場でもありますが、ココから出撃していったと思われます。つまり、承平天慶の乱における将門の最大の根拠地がこの地だったということです。

 

↑石井の井戸

↑石井の井戸の案内版

 

 上記写真は、岩井という地名の元となった「石井」の地名発祥の地。将門の本拠地と「水」の関係を示していると言えましょう。今とは違い、平安時代は海の水がかなり内陸まで入り込んでいて、下総国は水郷地帯だったといいます。将門の強さの秘密も、「馬(牧場)・鉄(製鉄)・船(水運)」を握っていたことにあるとする論文もあるぐらいです。

 それを示す史跡と言えましょう。

 

↑九重の桜

↑九重の桜の案内版

 

 なんか、中央の御所にあった桜を株分けしてもらったという伝承っぽいですが?。これに関してはよくわからんです(汗)。

あと二週間ぐらいすれば、桜が満開だったろうなとか思いますが……。

 大きな木の下にあった小さな桜の木は花を咲かせていました。もう春やねぇ……でも、今年の花見はコロナ禍で無理かもなぁ……(悲)。

 

 九重の桜周辺の光景。平将門の本拠地周辺に広がる耕地です。元々の本拠地周辺には、近くに鬼怒川などの大河が流れていて、水に困らなかったはずですが、その地を追われてこの地に居を構えただけに、開発する上でも単純に水を引いてくるというのは難しかったかも?。それとも、井戸があるぐらいに湧き水が豊富だったのかな?。このあたりはよくわからんです。

 

 

↑富士見の馬場跡

↑富士見の馬場跡の案内版

 

 やはり「馬場(牧場)」は外せませんので、資料用に写真を撮影しておきます。

この周辺は、「相馬御厨」と言われた場所とされています。ただ、相馬御厨がハンパなく大きいのか、場所が正確にわかっていないのかよくわかりませんが、我孫子もかつて「相馬」と言われている地域だったりします。しかし、将門の本拠地「石井の営所」からほど近く、将門軍団が弓馬術を鍛えた地ではありましょう。また、馬の安定確保は平安時代の武士にとっては重要なことですしねぇ。

 

 

↑水戸天狗党の「碑殉難志士之碑」

 

 この岩井の地も、幕末とは無縁ではありませんでした。水戸天狗党の乱や、戊辰戦争での戦闘もあったようです。あさくら先生と共に岩井の地にある幕末時代の史跡も一緒に見て回ります。

これは、以前紹介した太平山に依る水戸天狗党jから分派した別働隊が、幕府の討伐令によって岩井の地で補足され処刑されたという事件を記した慰霊碑だそうです。

 

↑神田山にある「将門の胴塚」

 

 そして、最後に行った場所が「将門の胴塚」でした。

↑「将門の胴塚」にある案内版

 

 東京にある有名な「将門の首塚」には良く行っていたので~。史跡というか歴史論文上での優先度は低かったのですが、まだ時間に余裕があったので、最後にお願いしてお参りしてきました。先にも書いた通り、討ち取られた将門の首は京都に運ばれてさらし首にされ、胴体は先の国王神社の場所に一時安置されたのち、この場所に運ばれて埋められたと言われています。

 で、首の方は”関東に向かって飛び、力尽きて首塚のある場所に落ちた”とされております。この首と胴体が合体すると、超巨大無敵怨霊ロボ・マサカドーVになるという伝承があるのだそうです。そのときは、世界平和を守るヒロイン滝夜叉姫が主人公パイロット♪(爆)。

 

↑将門山古墳とある碑石

↑大威徳将門明王として奉られています。

 

 上記二枚の写真は、胴塚の近くにある碑石を撮影した物です。将門一族のお墓が古墳になっている史跡が他にもあるのだけれど……さすがに平安時代は古墳は作らないので~。うーん、なんで古墳になっているのかよくわからんです。とりあえずお墓と思われるものに古墳と付けちゃったのか、古墳だった場所をお墓にしちゃったのか?。どうなんでしょう??。

 

 ともかく、現在は「大威徳将門明王」の神名で奉られていましたので、疫病退散を願いお参りしてきました。

大威徳明王と言えば、将門が乱を起こした際、朝廷は藤原秀郷や平貞盛を討伐軍として派遣する一方、陰陽師や寺社にも調伏の祈祷をさせています。比叡山では僧侶浄蔵が大威徳明王法をもって調伏に挑んでおり、その霊験によって将門は倒されたとされました。ちなみに、天神様で有名な菅原道真の怨霊とも戦ってたりする人だったりもします。

 ということで、この大威徳明王と将門が習合しちゃったのだろうかとか思いつつお参りした次第です。大威徳明王は、閻魔大王でさえ屈服させるほどの武力のある明王として、戦勝祈願などで良く奉られるだけに「疫病退散」も得意ではないだろうかと思います♪。

 

 以上、今回は電車や徒歩では難しい史跡を中心に見て回ってきました。私がブログで書いている「武士道論」も、いよいよ戦争パート、将門の乱は外せないテーマですので、それに使用したい資料写真がこれで一通り揃った感じ。心置きなく書けます~。とはいえ、先にコミケ用新刊のテーマである伊東甲子太郎の原稿を書くのが先ですし、その後はあさくら先生の同人誌の記事原稿が合間に入る予定ですけども。

 

 ということで、あさくら先生、昨日はありがとうございました♪。そして、お疲れ様でした~。