2021年のお花見 | 幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

近所の桜が満開の季節になったので、花見をしてきた。

 

 むろんコロナ禍の中なので、皆でお花見会はできない。なので、皆、立ち飲み状態で花見をしている様子。

 

 我がサークル幕末ヤ撃団は、この場所で毎年夜桜お花見会を開き、歴史談義に花を咲かせるのが恒例なのだが、残念ながら友人のK氏は命に関わる持病があり、コロナ禍の中ではここまで来ることはできない。そして、もう一人の友人は数年前に一人で他界してしまったのでここにはいない。だから、私一人だけの夜桜お花見会である。長時間留まることはできない。缶ビール一つとチーズ鱈一袋、片手にカメラを持ってのお花見となった。

 

 他界してしまった友人は、私が東京に出てきてはじめての友達であり、幕末ヤ撃団の売り子スタッフとして長年サークルに関わって貰っていた。むろん、彼も地方出身者だったから、彼の家族には会ったこともないし、彼の家族も私の事は知るまい。だから、彼がこの世を去ったあと、私には何の情報もなく、お葬式はもとよりお墓参りも出来ずじまいだ。だから、彼が毎年必ず来てくれていたこの場所でのお花見に魂だけでも帰ってきているかも知れない。というより、ここでしか彼を弔うことができないと思っている。

 彼とともに笑いまくったこの桜の下で、彼とK氏の三人で飲む酒は楽しすぎる思い出となっている。なので、何があってもお花見会だけは欠かさずやりたいのだ。

 夜桜が好きなのだ。やはり映えるよなぁ~。

 暗くなればなるほど、夜桜は綺麗なのだ。

 

 私は基本缶ビール、彼には日本酒を。私も少しだけ頂きつつ、あとは彼が飲んだという形として川へ捧げる。

 

 さて、サークルの飲み会(私一人だけだが)なので、サークルの話しをせねばなるまい。

 去年から続くコロナ流行の前に、大型同人誌即売会が軒並み開催されず、今回こそはと期待していた5月のコミケット99も延期が決まってしまった。コロナが流行出す前の冬コミケには落選しており、2年前の秋のコミックスパークは台風で中止されてしまっているから、これで丸2年サークルの新刊が出せずじまいになっている。が、着々と新刊の準備は進んでいるわけで、現在は秋のコミックスパークにサークル参加し、そこで新刊を出そうと考えている次第。

 新刊は、伊東甲子太郎と鈴木三樹三郎兄弟にスポットを当て、彼らの武士道と武士(浪士)思想に関して論じようと思っている。元より人物史ではなく、思想史と位置づけているので新事実の新発見などはない。あくまでも幕末思想史の中で、彼らの行動と精神、思想を位置づけることが目的だ。

 ただし、この秋の新刊の前に研究家あさくらゆう先生の同人誌が発行される。今回は私も原稿依頼を受けたので、思想史関係で書く予定。なので、久しぶりに朱子学と陽明学の勉強をやっている最中だったりする。

 まー、この二つの学問はかなり前にガッツリ勉強してたりするのだけど、そのときはこれらの学問の論理を勉強しただけだったので。今回は、学問論理はもちろん、それがどのように幕末史に影響を与え、明治維新につながっていったのか。このあたりを重点的に論じようと思っている。

 このテーマで、やはり注目すべきは”脱藩”という行為と”浪士(志士)”と呼ばれる人々。彼らと朱子学や陽明学の関係を明らかにするのが一番だろう。ところが、こうした浪士達が明治維新を回顧するとき、「学問に従ったから」みたいな事は言わないのだな。多くは「俺はそうしたかったんだ」という感じ。なので、史料的に学問の影響で脱藩したんだと言いにくい部分もある。さて、どうしたものかと今考え中(苦笑)。

 

 そんな中、現在放送中の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一の回顧録は、後年渋沢自身が「何をするにも論語に従っておけば間違いない」みたいな事を言うぐらいに学問を意識した回顧談になっているので、割と貴重な史料だったりする。

 ちょっと、ネタバレになるが少し抜粋してみよう。

 

 幕末期、渋沢栄一と渋沢喜作(成一郎)が攘夷の企てとして、高崎城を乗っ取った上で横浜を焼き討ちし、夷敵を斬り殺そうと物騒なことを企てたことがあった。まー、これから大河ドラマでもやる話しだと思うのだけども。

 結局、この企ては無謀と言うことで実行せずじまいになるのだけれど、大まじめに実行しようとしていたとき、栄一は筋を通して父に事の次第を打ち明け、家を出ることを告げている。家の跡継ぎである以上、家を出て家を継げない身の上になることを言っておかねば渋沢家が廃絶しかねない。これは朱子学的に言えば”孝の道”に反してしまうからだ。話しをして子として筋を通し、父に家の存続に関して承知して貰わねばならなかったのだろう。

 このあたり、何も言わずに忽然と姿を消してしまう他の尊攘浪士たちと渋沢は違っている。

 

 で、面白いのは父も学問に長けた人だったこと。当然栄一も学問に長けているため、この攘夷実行と家を捨てることになる行為に対し、学問的に議論しているのだ。一晩まるまる議論し続け、夜が明けてしまったというから大激論だったのだろう。まー、そりゃそうだろうと思うケドも。

 

 栄一はここで、父に対し「天下は大いに乱れる形勢であるから、百姓だからといって安心して居る訳にはいかぬ。吾々も斯ういふ時世に生まれたのであるから、乱世に處する覚悟をしなければならぬだらう」と本題を語り出す。

 すると父は、栄一の言葉を遮り「お前の説は自分の本分を忘れて、謂はヾ非望を企てているふ事になる。それは間違った考えである。吾々は百姓に生まれたのであるから、其の本分を守らねばならぬ。天下の政事に対して別に其人があるから、そんな事を心配するのは寧ろ分を越えた考へといはなければならない。(中略)身分不相応の望みを起すやうな事は量見違いであるから、若しお前がそんな考えを抱いて居るやうであつたなら、飽迄も是れを止めなければならぬ」と言って諫止をはじめたらしい。

 父の反対に会っても栄一は首謀者なので計画を止めるとは簡単に言えない立場だ。栄一はこう反論したという。「私自身にさういふ望みがあるという訳ではないが、日本が奈何なるか分らぬといふやうな今日の状態では、百姓だから知らぬ振りで過すという訳にも行きますまい。日頃お父さんが世の成り行きに就いて嘆いて居られるが、私もそれと同感なのであつて、最早此の切迫した時勢となつては、百姓町人だからといつて、傍観する事は臣民の道ではあるまいと思います。渋沢家の事も大切であるが、それよりも日本の国の事がもつと大切でなければならぬと考えます。況んや私の一身に間違ひがあつたにしても、渋沢家の存亡にかかわる訳でもありませんし、道理の上から言つても小の蟲を殺して大の蟲を助けるといふこともありますから、お父さんのお説に反対する訳でもありませんが、私の説も間違ひではないと思います」と。

 この議論では、父子ともに「論語」や「孟子」の格言や記述を持ち出して激論したらしい。ただし、この場では高崎城乗っ取りや、横浜で偉人を斬るといった具体的なことまでは話していない。あくまでも渋沢家を出て国事に奔走したいという栄一や喜作に対し、それは百姓のすべきことではないと止めている父という形である。渋沢は回顧録のなかで、具体的は計画まで話さなかったのは「藪を突いて蛇を出しかねないから」としている。まー、そんな過激なことをしようとしているとわかれば、断固反対交渉決裂するのは明かだったろうしなぁ(苦笑)。

 ただ、最終的には栄一の決意に渋々同意したようだ。自分は百姓である立場を守っていくと言い、栄一たちには好きにしろと言ってくれたという。

 

 さて、上記の議論は史料『青淵回顧録』に記載されているのだが、江戸時代の常識から言って父である渋沢市郎右衛門の言っていることが正論である。朱子学では、一人一人の人間が修養し、家に孝を尽くす。それぞれの家(一家一族)が平穏ならば、自然とその国も平穏になるはずとする。逆に言えば、一つの家のことも守れない人間が、国を守れるはずはないだろうという理屈になってくるわけだ。また、江戸時代は士農工商という身分制度はないが、武士と庶民(農工商)という区分・職分があった。この職分を一人一人がしっかり守るということが社会の基本になっている。これを破るのは”分を超えた行為”であり、場合によっては罪に問われる。家の平穏を守るためには、家長に家長の、長男には長男の、妻には妻の分を守ることが必要だと朱子学では説かれるのだ。いわゆる「五倫」と言われるもので、「君臣の義」「父子の親」「夫婦の別」「長幼の序」「朋友の信」である。

 これら人間関係のルールを守ることで、家や家族の社会秩序を乱さないようにしていた。皆がそうすれば、すべての家族は円満となり、地域も平穏になる。地域が平穏ならば、その国も平和だ。だから、父である市郎右衛門は、百姓の分を守り、そこから出ないことを自らに課し、栄一にもそれを守れと諭している。もし、栄一のように一人の人間が分を超えた希望を持ち行動したら、我も我もと皆が分を超え始めてしまう。そうなれば、各々が守るべき職分など意味がなくなり、秩序も消えてしまうだろう。それこそ社会を乱す元凶になりかねない。まー、実際にそれをやっちゃった浪士たちが京都に集まっちゃったから、幕末の京都がしっちゃかめっちゃかになって新選組という治安組織が必要になってしまったわけだけども(苦笑)。

 これに対し、栄一は父の説に反対はしない(厳密には、できなかったはずだ)としつつも「百姓だから知らぬ振りで過すという訳にも行きますまい」と語り、「渋沢家の事も大切であるが、それよりも日本の国の事がもつと大切でなければならぬと考えます」と答えた。

 栄一の反論では、朱子学よりも水戸学の影響が出ている。武士はもちろん、百姓町民も尊王攘夷のために行動すべきと鼓舞したのは水戸学なのだ。日本に住むすべての人々が一致団結して攘夷に邁進する。水戸学は、こうした形で挙国一致体制を作り上げようとしていたのだから。珍しいのは、栄一の反論の中に「天皇のため」とか「朝廷のため」という言葉が見当たらないのは珍しい。唯一「臣民」という言葉に、天皇という存在を見ることができるのだが、この”臣民”という単語は明治時代の大日本帝国憲法で使われて以降一般化する言葉なので、江戸時代に栄一が臣民という言葉を使うのは不自然である。天皇の民というより、この時点では岡部藩(領内)の民百姓のはずだから。

 もっとも、一晩掛けての大激論だったから、回顧談のなかに書いてないというだけで実際には天皇のことも議論に上がっていたかも知れないけども。

 

 さて、ここで気になるのは、父と子の議論には論語はもちろん孟子も使われたというところ。論語も孟子も朱子学が重視する経典だが、より孟子を重視する学問が陽明学である。陽明学は「致良知」を重視する学問で、この致良知という言葉は孟子を出典とし「良心に従って行動を起こせ」と説く。

 孟子は「性善説」を取っており、人間は本来善だとする。陽明学もこれを引き継いでおり、さらにこの部分を重視して「私利私欲に染まっていない心(良知)が、良いと思う事は行うべし」とし、実際に行動することを重んじた。善である心が穢れてなければ、その心の判断は正しく間違っていない。間違っていない以上その行動は行うべきものということになるわけだ。

 そして、陽明学は経書を軽視はしないけれども、良知(善なる心)ほどには重視しない。つまり、父市郎右衛門の正論は朱子学の経書にも書かれていることだけども、それを突き破る論理が陽明学にはある。

 栄一は、父の説に反対しないが、自分の説も正しいというのはこの陽明学の論理が働いているからではないかと私は思う。

 ちなみに大河ドラマ「青天を衝け」で、栄一の剣術道場にある掛け軸に「心即理」と書かれているのだが、これは陽明学になる。朱子学の場合は「性即理」なので。ドラマ中では陽明学のことは何も語っていないのだが、意識はしているのだろうなと思う。

 栄一や喜作に論語を教えた儒学者は複数人いるが、そのうちの一人菊地菊城は陽明学者だったと言われる。もっとも、菊地菊城の師である儒学者山本北山は折衷派といわれる学派で、朱子学や陽明学など諸学問の良い所を融合させていくという学派なので、菊地菊城も折衷派だったと私は見ている。つまり、朱子学と陽明学の両方の知識があったはずだ。だから、栄一たちに論語を教えたとすれば、朱子学の解釈の他に陽明学の解釈もしていたと思われる。

 ちなみに、この菊地菊城は後に現在の神奈川県の方に移り、多摩地方にも出て漢学を教授した。その中に小野路村の小島鹿之助がおり、小島家はたびたび菊地菊城を招いて講義をして貰っている。もちろん論語も。この小島鹿之助は新選組局長近藤勇と義兄弟の関係を結んでいるから、間接的に近藤勇や土方歳三にも影響を与えていると見て良いだろう。小島家で行われていた講義に近藤や土方が出席していたならば、彼らの漢学の師匠の一人は渋沢栄一と同じだったことになるが、まだその確証まではないと思う。

 

 話しを戻そう。ともかく父の正論に栄一が対抗できたのは、陽明学の論理を転用したからだと考えられるわけだ。朱子学は分を超えるなと志士や浪士の行動を押さえる方向に働くが、陽明学では志士や浪士たちの行動を逆に後押しをする形で働く。朱子学的な常識を打ち破る論理を提供してしまうわけだ。これが陽明学が革命家に好まれる所以になっているわけだけども。

 

 とまぁ、そんな話しをもっと突き詰めたお話しを同人誌ではしていきたいと思っておりますので、乞うご期待くださいませ。

 

 ということで、今年のお花見は一人でしたが、来年こそはキチンとお花見ができることを祈りつつ、また1年頑張って参りたいと思います。