古銃実弾射撃と薩邸浪士と赤報隊事件 | 幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

昨日は、研究家あさくらゆう先生のお誘いを受け、栃木の射撃場に行って参りました。

 

なんでも、秋頃より天皇即位イベント関連で、銃規制が厳しくなるらしく、実弾テスト射撃できるのは今しかないとのこと。そこで、急遽射撃場に行くということで、わたしも見学しに行ってきたわけです。

 

今回は、前回から不調だったスペンサー銃をあさくら先生自ら修理を行ったとのことで、そのテスト射撃でした。

上記写真が会津藩の山本八重が持っていたことで有名なスペンサー騎兵銃。幕末当時のものではなく、現代銃として再販されているものとのこと。しかし、不調は直らず実弾射撃ができませんでした。残念。

 

そのかわり、英式ミニェー銃(エンフィールド銃)の方は実弾射撃に成功しております。

今回は、あさくら先生が輸入したミニェー弾製作キットを使用して弾丸を自作しており、そのテスト射撃でした。

あさくら先生お手製のミニェー弾です。

しかし、やはり製作誤差というやつでしょうか、上手く発射されない時もあったりしていました。

 

今みたいに、精密度の高い工作機械や熟練工が作った精密部品の大量生産ができた時代ではありませんから、こうした手作業による製作誤差や、それによる不発や不具合なども幕末当時は多かったと思います。

 

さてさて、射撃場が出流山に近い場所にあるということで、出流山挙兵に関係した史跡を見学しております。

上記写真は、出流山挙兵に加わった志士「西山謙之助」の顕彰碑です。碑は錦着山護国神社にあります。

錦着山護国神社です。この碑の他にも日露戦争や西南戦争に関する碑もあり、地域の碑を全部集めてきたような感じで、いっぱい碑がありました。この顕彰碑の他にも西山謙之助のお墓も参拝します。

 

 この西山は、先にも言ったとおり出流山挙兵に参加して命を落とした人物で、この出流山挙兵は相楽総三ら薩摩藩邸に集まった倒幕派による関東三カ所での挙兵計画の一つでした。また、この関東三カ所での挙兵計画は倒幕の密勅と連動しており、薩長両藩は京都で挙兵し、東西同時挙兵して倒幕義軍を起こそうというものだったりします。

 ところが、徳川慶喜が先手を打って大政奉還に出たため、倒幕の密勅が有名無実化してしまい、結局取り消しの沙汰が下ります。薩長両藩は挙兵できなくなったわけです。ところが、相楽や伊牟田昇平など江戸薩摩藩邸に集まった関東の志士たちはヤル気満々です。結果、関東での挙兵計画だけが先走りました。それを知った薩摩藩がビックリします。京都の薩摩藩邸から使者が江戸に走り、薩邸浪士に「鎮静」にしていろと指示が飛んでいます。この「江戸攪乱計画の停止命令」は、大政奉還の後に一度目が、王政復古の大号令の後に二回目が出されています。しかし、薩邸浪士は京都からの命令を無視して相州甲州野州三カ所挙兵計画を決行!。相州では荻野山中藩の陣屋を襲撃してこれを壊滅させました。甲州は甲府城乗っ取りを計画したようですが、幕府の取り方が動きを察知し、彼らが遊郭で遊んでいるところを踏み込んで甲州襲撃組は挙兵前に壊滅します。そして、野州挙兵組は出流山での挙兵はできたものの、やはり八州廻の渋谷和四郎が迎撃準備を整えていたために戦果は上げられずに失敗してしまいます。

 こうした薩邸浪士の行動が、幕府を刺激して薩摩藩邸焼き討ち事件を引き起こし、それが京都に飛び火して鳥羽伏見の戦いに発展したことは、皆さんもご存じの通りかと思います。

 ちなみに、通説と違わなくない?。と思った人もおりましょう(苦笑)。実は、よく言われる通説では「王政復古の後、西郷隆盛が旧幕府軍を暴発させるための謀略で、江戸薩摩藩邸に相楽総三らを送り込んで暴れさせた」となります。しかし、諸史料を確認すると、これはおかしいんです。

 まず、相楽総三が西郷隆盛と会って挙兵計画を練ったのが慶応三年十月です。この頃に薩長が持っていた倒幕計画は「討幕の密勅」だけでした。この後、徳川慶喜が大政奉還を行う事など倒幕派の誰も想像していません。当然、大政奉還の巻き返し策である王政復古のクーデターなんて誰も考えていません。だから、関東挙兵計画は「倒幕の密勅」と連動しているのであって、王政復古と連動した作戦ではないのです。通説では、大政奉還で倒幕挙兵を封じられた西郷隆盛が、王政復古のあとに江戸の薩邸浪士に暴れるように指示したことになっていますが、そんな指示を出したという史料は存在しません。逆に「江戸攪乱を停止せよ」という指示が江戸に飛んでる史料が出てきます。

 

 薩摩藩京都留守居の吉井幸輔が江戸薩摩藩邸の益満休之助、園田正平に宛てた慶応三年十月二十五日付の書簡には、「云々之事件、御見合可被成候。東西繰違にては、大に不宜」とあり、薩邸浪士に対して「計画の見合わせ」を指示しています。

 また、王政復古の後に出された十二月十日付書簡では「誰ぞ東下可致候間、其内今形御鎮静被下候様、御一同へ宜御傳言可被下候」とあり、「誰か江戸に向かわせるから、それまでは鎮静にしているようにと江戸の同志に伝言してほしい」という内容の指示が出ています。

 これらは、『近世日本国民史 第六十六冊(徳富蘇峰著)』にキチンと書いてあるので、最近の新発見でもなんでもない。大昔からすでに言われていたことのはずです。

 だから、江戸薩摩藩邸焼き討ち事件が起きた際、それを聞いた西郷隆盛の箕田伝兵衛宛書簡(明治元年正月朔日)の第一報に「壮士の者暴発不致様御達御座候得共、いまだ譯も不相分(『大西郷全集 第二巻』)」とあるわけです。この書簡は通説では、島津久光に旧幕府を賊軍にしてしまう謀略を黙っていたので、西郷が惚けていたとされてきました。しかし、先の吉井との書簡を合わせると、話しが見事に合うんです。確かに江戸薩摩藩邸に計画の「見合わせ」や「鎮静」が指示されており、だから西郷は「壮士の者には暴発しないように言っていたはずだが……」と言っているわけです。

 

 ここまで史料が揃っていれば、今言われている「西郷陰謀説」の方が成立しない。通説を変えざるを得ないと私は思う訳です。

 

 薩摩藩邸焼き討ち事件の後、相楽総三は江戸を脱出して京都に入り、後に赤報隊を結成するものの偽官軍事件によって処刑されてしまいます。通説では、”年貢半減令を無かった事にするために相楽らを処刑した”と言われいます。が、これもおかしい……というより、赤報隊を研究されている西澤朱美氏をはじめ、各方面の研究者から「年貢半減令を最初から無かったことにする謀略」などなかったとする見解が出されています。では、なぜ彼らは偽官軍として処刑されなければならなかったのか?。私も研究者達がどんな結論を出すのか楽しみにしていた一人だったのです。

 

 ですが、年貢半減令を無かった事にする謀略などなかったとは言うものの、ではなぜ偽官軍になってしまったのかという見解が出て来ない。近年の歴史雑誌の低迷や不人気もあったでしょう。見解を述べるべき人達に、その機会が巡ってこないわけです。

 で、いつか誰かがまとめてくれるだろうと私ものほほんとしていた所、学研さまより依頼が来てしまい、私が赤報隊の記事を書くことになってしまいました(汗)。ライターとして何らかの見解を提示しなければならず、研究者と言われる人達が最終見解を出す前に、私が先走って見解を述べる形になっちゃったわけですね。

 で、まぁ発表した記事が2012年9月4日に発売された『ビジュアル幕末維新 人斬り・尊皇攘夷・明治維新・廃刀令 ―激動の時代を知る―(学研歴史群像編集部編)』という本に掲載されます。

 これは余談ですが、野州挙兵組の挙兵場所が「流山」になっていますが、正しくは「出流山」です。私がチェックした段階では、ちゃんと”出”の字があったのに、出版された本ではなぜか”出”が削除されてしまっていました。近藤勇が捕縛された流山は、下総ですから野州ではありませんので、考えればすぐに誤字だと解ることと思いますけども(苦笑)。

 

 まぁ、よくあるムック本ですし、研究者の皆様方が最終的に見解を出されるだろうから、最終的に通説はそちらに移るだろうと思っていたわけです。が、今現在も最終見解が出されていない……(困惑)。

 ついには、学術論文じゃないムック本の記事がウィキペディアの「赤報隊https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A0%B1%E9%9A%8A

」「相楽総三https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%A5%BD%E7%B7%8F%E4%B8%89」の項目に書かれてしまい、なんと通説がそちら移りつつある気配すらある(マジかよ?)。通説が変わるには、その通説に取ってかわる説が必要です。その取ってかわる説を私が出してしまった形になっちゃったわけです。もちろん、赤報隊研究の第一人者たる西澤先生あたりから最終見解が出されれば、そちらに通説は移るはずですが、出されていない現状では私の説を使うしかないと……えええっ!?マジで?。と私も思っちゃう事態です。

 しかもこの記事には、文字数制限もあって赤報隊事件の概略をかなり大雑把に説明したものですし、学術論文ではないので参考史料も提示していないのです。それが通説になるのはちと問題ありなのです。まー、説を唱えたお前が言うなというところでもありますが。

 

 ここでザックリ、赤報隊事件のことを述べると……まず重要な点は、赤報隊は東海道軍に配属された部隊であり、東山道軍所属では無いということ。また、相楽らは京都の岩倉具視や西郷隆盛といった上層部とは事前に相談していましたが、その後に人事が決まった東海道軍司令部や東山道軍司令部(各方面の総督府)と連絡を取っていません。つまり、明治新政府の上層部に言っておけば、あとは明治政府内部で連絡しておいてくれるだろうという感じで考えていたと思われます。

 ところが明治新政府軍とは、つまり諸藩連合の多国籍軍なのです。多国籍軍の指揮統制が難しいのは現代の湾岸戦争やイラク戦争を見れば解る事でしょう。日本が統一国家軍を持ったのは廃藩置県以降なのです。赤報隊事件を考える時、みんな勘違いしたのがこの点で、明治新政府軍(官軍)を統一国家軍と考えてしまい、指揮命令系統も一本化されていたという錯覚の元に事件を考えてしまった点でしょう。

 だから、相楽らに年貢半減令の指示などは明治新政府上層部は知っていましたが、各方面軍司令部にあたる東海道総督府や東山道総督府は知りません。赤報隊は東海道軍に所属指示が出ているので、とりあえず東海道総督府には赤報隊の存在を知らされていました。東海道軍の最優先事項は、朝敵となった桑名藩を攻略することでした。なので、赤報隊にも桑名へ向かうように指示が出されます。ところが、相楽ら赤報隊一番隊はこれを無視して、管轄違いの東山道を進んでしまいます。こうなると東山道軍は赤報隊の存在自体全く知らないわけですから大変です。

 東山道軍が進むにつれて、自分たちより先に官軍を名乗って先行する部隊がいることを知ります。東山道軍は自分たちが最初に東山道を進んでいると思っているわけですから、「官軍の偽物がいるのでは?」と東山道軍が疑い出します。相楽ら赤報隊一番隊は、碓氷峠を最重要な戦略的地点と見て、佐幕派が占領する前に自分たちで確保しようと急いでいますから、東山道軍への連絡は後回しにされました。これで、問題が悪化していくことになります。なお、赤報隊の所属問題に関しては『研究紀要 昭和45年度(徳川林政史研究所)』に収録された論文「明治元年赤報隊の展開」に詳しく論証されております。ただ、さすがに昭和45年の論文なので、依然として通説の「年貢半減令をなかったことにする謀略説」と「マルクス史観」の影響を受けており、そうした部分を割り引いて読む必要があります。

 さて、問題の年貢半減令ですが、これもまた誤解されている部分があります。この命令は正確には「徳川直轄領の年貢を半減」するもので、諸藩には何の影響も与えません。税の徴収は藩の命ですから、勝手に藩から年貢の税率を決める権利を奪うことは明治政府にもできませんから。ただし、徳川家は朝敵として「全領地を取り上げる」ように沙汰が下っているので、徳川家の領地の税率を決める権利が明治政府にはあったのです。そんなわけで、年貢半減令の効力は限定的であり、藩を越えて広い範囲と地域に適用されるものではありません。よく、年貢半減令が諸藩に与えた影響が大きいと書かれることがありますが、そんなことはないのです。

 話しを戻しましょう。この年貢半減令は、早々に取り消される命令が下されて撤回されてしまいます。赤報隊研究に携わる研究者からは、「西国方面にも年貢半減令が出されているため、赤報隊を処刑しても無かった事にはできない」という見解が出されています。なので、正式に「撤回命令」が明治政府から出されました。かわりに金などの援助金を提供し、庶民を慰撫することも行われていたようです。このように、年貢半減令が取り消される一方、藩に属さない浪人諸隊による押し借りや略奪といった問題が出て来るに及び、明治政府はこうした浪士軍の再編を計ります。そのために、こうした浪士軍に京都への帰還命令が発せられました。赤報隊二番隊と三番隊がこの命令で京都へ戻り、再編成されております。赤報隊二番隊だった高台寺党の残党、鈴木三樹三郎らが薩摩藩属になったのは、こうした理由があります。しかし、相楽ら一番隊は碓氷峠確保を優先し、京都帰還命令を無視してしまいます。

 こうした事情を知らない東山道軍は、信州諸藩に偽官軍の存在を知らせて警戒を呼び掛けました。この時点で赤報隊には偽官軍容疑が掛かります。信州諸藩は、すでに相楽らの指示で「官軍か賊軍か?。官軍に味方するなら軍資金を出せ」といった要求を受けて、金穀を拠出させられていました。そこに東山道総督府から「赤報隊と名乗る偽官軍がいるらしい。見つけたら捕縛せよ」と命令が来たのですから、赤報隊に騙されたと怒ります。特に小諸藩は、佐幕派として会津藩と並ぶ激闘を演じた越後長岡潘の分家で、同じ牧野氏でした。一度は本家の長岡藩と共に戦おうと考えたことさえある藩です。なので、赤報隊には悪感情しかありません。他の信州諸藩と連合し、赤報隊攻撃を始めます。いわゆる「小諸戦争」です。

 この時、相楽総三はようやく東山道総督府に出向き、事情を説明して東山道総督府付属となります。しかし、帰隊してみると赤報隊が信州諸藩の攻撃を受けて損害を出している。相楽らは怒って東山道総督府に連絡を入れますが、それと入れ違いに小諸藩など信州諸藩から相楽らが諸藩から強引な軍資金を集めていたことや、命令に従わなかったので攻撃した(信州諸藩は、奇襲で攻撃しているため、最初から捕縛の努力をしていない。東山道軍の指示は捕縛命令で、手に余れば攻撃せよなので、ここは信州諸藩が命令を無視している。つまり、命令に従わなかったので攻撃したという報告は、信州諸藩の戦争行為を正当化させるための嘘であろう)といった報告が東山道軍に出されてしまいます(『相楽総三・赤報隊史料集(西澤朱美編・マツノ書店発行)』)。

 この報告が出てしまうと、赤報隊を処分せざるを得ない。信州諸藩が連合しているため、赤報隊を庇えば小諸藩は越後長岡藩を後ろ盾にして抵抗するだろうし、信州諸藩がすべて佐幕派として官軍に敵対しかねないのです。しかも、東山道軍としては最初から赤報隊なんて部隊は知らないわけだから、庇う理由もないわけです。むしろ邪魔なだけでした。

 こうして、相楽総三らは偽官軍として処刑されていくことになってしまった。というのが私の見解です。本来であれば、先行研究者の学術論文から通説は作られるべきと考えますが、それが間に合わなかったために私の見解をムック本に書いたわけです。しかし、その後も先行研究者の統一結論がまだ出ていないと私は思っています。なので、この説がネットで一人歩きしてしまう状態はマズイのです。

 

といっても、通説は誰かが決めるものではなく、研究者の皆様が総意という感じでなんとなく作られるものですから、ライターの私がうだうだ言っても何にも出来なかったりするのですが(泣)。出来ますれば、一刻も早く学術論文という正しい形で、赤報隊偽官軍事件の総括を赤報隊研究をされている研究者さまに書いて頂きたいと切に願うばかりです。