今日は、中世千葉一族の史跡を求めて、千葉市内の史跡を巡ってきました。
千葉駅からモノレールに乗り換えて、千葉市立郷土博物館に向かいます。
遠くからもよく見える天守閣。そう!これが千葉城天守……じゃなくて、千葉市立郷土博物館です。千葉城(猪鼻城)は、中世初期の武士、千葉氏が作った城ですが、当初は「いのはな山」に作られた山城だったと思われます。その後、戦国期までに色々と改修され続けたと思われますが、それでも天守閣を持つ城郭にまでは拡張されてはいません。なので、この天守閣は「ナンチャッテ天守」ですね。中は、千葉市立郷土博物館になっており、五階建ての鉄筋コンクリート造かなと。
博物館の前にある「千葉常胤像」です。源頼朝が挙兵した際、いち早く源氏に総力をあげて味方し、平家を滅亡させたのちは鎌倉幕府の有力御家人として千葉氏を一大武士団へと成長させた人物となります。
この博物館の立つ場所が二の丸かなと思うんですが、この二の丸と本丸を隔てる場所に、土塁跡が残っています。
土塁跡。
土塁跡。
これも土塁跡。
土塁跡に囲まれているこの場所が本丸かなと。本丸と二の丸が同一の高さなのが特徴的です。まー、もしかすると本丸と二の丸が別れずに全体が本丸なのかも知れませんが、そうすると広場の真ん中を仕切っている形になっている土塁の説明がつかないので、たぶん本丸と二の丸が同一の高さだったので、土塁で仕切ったんだろうなと個人的には想像しています。
次に、いのはな山の先端部に向かうと堀切跡(だと思う)もありました。
手前側の尾根と向こうにある尾根が、本来はつながっていたはず。そこを堀切りにして防禦性能をアップさせているかと。堀切跡を整備して道にしちゃってますが(苦笑)。そして向こう側の尾根先端が平場になっており、現在は明神社があります。
尾根先端にある明神社。ここはかつて「見張り台」だった場所とされています。
そして、この場所に「史跡・猪鼻山城址」の碑もありました。
この見張り台跡を先に「お茶の水」という史跡があるので、尾根先端から下に下っていきます。
「お茶の水」と言われる湧き水。でも、枯れておりますが。
由緒書きには、源頼朝が来た時に、千葉常胤がこの水でお茶をたてたそうです。
以上が、城の遺構とされているものです。開発が進んでおり、遺構が少ないのが悲しいところですが、郷土博物館はさすがに千葉氏の歴史に関しての紹介が多く、結構長居しちゃいました。丁度、千葉市内の史跡を巡っている団体とはち合わせしてしまい、人が多かったのですが、なぜか史跡ガイドさんが解説をしてくれたり、解説されても「知ってマース」と心の中で呟くだけに留めたりしてたり(苦笑)。
ちなみに、今回中世千葉氏を調べた理由は、「武士道の歴史」を調べる上で、千葉一族が最高のサンプル素材になることがわかったからです。郷土博物館でも紹介していましたけれども、この場でザックリ説明すると……。まず天皇の子共が増えすぎて役職無しの親王が多くなり、親王の中から姓を貰って臣下に下る者が出ました。高望王は平の姓を貰って平家の祖となります。その子共にあたる平国香の子孫に平清盛が出るわけです。国香の兄弟にあたる平良文が千葉氏の祖にあたり、やはり兄弟の平良将の子が平将門です。この将門が朝廷に反旗を翻したのは特に有名でしょう。実は、平良文の孫になる平忠常も朝廷に対して反乱を起こしています。
この忠常の乱は、将門の乱よりもマイナーですが、規模では将門の反乱を遙かに凌ぎました。安房・上総・下総は亡国になったと朝廷には報告されています。しかも反乱期間も長期にわたっており、朝廷では三度も討伐軍を差し向けています。最後の三度目に忠常は戦わずして降伏しているのですが、ぶっちゃけ亡国になって国が荒れ果ててしまい、戦いを継続できなくなっていたのが実情かと思われます。
結局、こうして忠常の乱は収束し、房総には忠常の息子が選ばれて房総の復興に力を注いでいきます。
こうした事件が起こった時代に、武士もまた歴史上に登場してきており、特にこれら一連の事件と坂東武士の成長&武士団の成立に大きく影響を与えました。
忠常の子が房総に血脈を保ち、後に千葉氏を名乗ります。そして、前九年役や後三年役にも朝廷側に味方して出征して関わりました。この時、征夷大将軍として蝦夷討伐(奥羽平定)をした源氏、源義家などとの関係を深め、源氏の指揮下に入ります。
ところが、今度は保元の乱が起こって千葉氏は源義朝に味方して参戦。そして運命の平治の乱で平清盛が勝ち、源義朝が敗北。源氏は衰退します。嫡男の頼朝は伊豆に流され、義経は鞍馬寺に預けられました。源氏に味方した千葉氏も、数々の利権を平家に奪われます。が、今度は頼朝が平家打倒の挙兵を敢行。千葉氏は総力で頼朝に味方しました。
平家が滅亡すると鎌倉幕府が開かれて、千葉氏は有力御家人にのし上がり、北九州をはじめ各地の荘園を手に入れました。すると、今度は元寇が来ると北条時宗が言い出します。北九州に所領があるため、千葉氏は九州の地に赴き、元軍を相手に戦います。
この後、南北朝争乱では新田軍に味方したり、室町時代には鎌倉公方と関東管領上杉に争いが生じ、これにも参戦しています。このまま戦国時代に突入すると、今度は小田原北条氏を相手に戦い、後に小田原北条氏に降伏して家臣団に加わると、秀吉が小田原北条攻めを始めて”あうー!”になり、ついに大名としての千葉氏は滅びます。
が、その血脈は奥羽の相馬家などに受け継がれており、千葉姓の大名はいませんが別の姓で千葉の血脈は幕末まで残りました。また、在野に下った千葉一族の中から、幕末期には剣豪千葉周作が出て、周作の弟の定吉の子に千葉重太郎や千葉佐那が出て、坂本龍馬と関わり、最後は千葉重太郎が倒幕派の志士として、また鳥取藩士として戦い明治維新を向かえます。
以上、ザックリ説明しましたが、つまり千葉氏は武士の誕生から武士の終焉まで通して見続けることが可能なんです。これは武士道精神や武士思想を通史的に見たり、時代の変化の中で変わっていく武士倫理や道徳を論ずる上で最高のサンプルになるのですね。
これが、中世千葉氏を調べようと思った私の動機となります。なにしろ、日本史の中で重大な戦いのほとんどに千葉氏は関わってますから。市立博物館の展示でもそれがわかるので見る価値ありです。
ということで、博物館の展示物を見た後、お昼を食べて千葉地方裁判所へ向かいました。
ここが千葉地方裁判所です。かつて、この場所に中世時代の「千葉氏の館」があったとされています。普段はここで生活し、敵が来たら逃げ込む山が、さきの「いのはな山」。長い時代のなかで、いのはな山が山城として整備され、後に平山城に拡張されたのだろうと思われます。
そして、千葉氏を調べるのならば外せない場所がココ。
千葉神社です。千葉氏の守護神「妙見菩薩」を祀っています。源氏だと「八幡神」が守護神となりますが、千葉一族は「妙見菩薩」を守護神に定め、各地に勧請しまくりました。
この千葉神社の近くに「千葉常胤」の胸像もありました。
なんか背景が悪すぎなんですが、千葉常胤の胸像です。
以上で、行きたかった場所は全部行った感じになりましたが、まだ午後の2時ぐらいだったので、あと一カ所ぐらいはどっか行きたいなぁと思っていた所、博物館で出会ったガイドさんとまた会ってしまいます。奇遇だということで、史跡巡りの団体さんに配布されていた資料を貰っちゃいましました。それによると、近くに「千葉氏の羽衣伝説ゆかりの地」があるということで見に行きます。
羽衣の松だそうです。
上記が説明書きです。これによると、天女が降りてきて水浴びしているのを見た平常将が、羽衣を隠してしまいます。天に帰れない天女に「俺の嫁になれなれ~♪」と言って嫁にします。そして天女は男の子を産む。これを知った天皇が、常将に「千葉姓」を与えたと。ちなみに、この天女の正体は「妙見菩薩」だとも言われております。まー、伝承で伝えられてきた話しなのですが。
しかし、静岡県人として見逃せないのは……実は「羽衣伝説」は、静岡県は三保の松原の話であり、そこにも「羽衣の松」があるわけですよ。→https://www.shizuoka-citypromotion.jp/mihonomatsubara/learn/hagoromo.html
静岡県人として、千葉県人に「話しパクったでショー?パクったの誰-?」と問いたい(苦笑)。そんな気持ちで説明看板を読みました。
さて、この後に「千葉寺」を見に行きました。
千葉寺山門です。千葉市内最古のお寺で、千葉氏からも尊崇を受けたお寺です。
上記写真が、お寺の由緒説明版です。
残念ながら、本堂が改修工事中で囲いが全体を覆っており見ることができませんでした。でも、鎌倉鶴岡八幡宮にあった大銀杏に匹敵する大銀杏がここにもありましたので、それをじっくり見てきた次第です。
大きすぎて、カメラの中に入れるのが大変です。
大銀杏の説明版になります。
大銀杏の幹を撮影。枝から鍾乳石みたいなものが垂れているのです。ナニコレ的な感じ。これを煎じて飲むとお乳がいっぱい出るのだそうです。乳母の人が喜びそうですが、現代は粉ミルクがあるから乳母はいないかなと。現代だと「煎じて飲むと巨乳に……」だったら、盗んででも木の皮を削ってく人が多そうだけどなぁと(苦笑)。もちろん天然記念物ですから、今そんなことをすれば逮捕ですけども。
この千葉寺の近くに「三峯神社」がありましたのでお参りします。
稲荷神社っぽかったのですが、狐ではなく犬が両側に居ます。
由緒書きです。秩父の犬信仰から来ているようです。そういえば秩父も千葉氏と同じ坂東八平氏の系統で、強力な秩父武士団があったなぁ。何か関係あるかもデス。
以上、これを見終わると午後4時頃で夕方にりました。満足の一日で今日の史跡巡りを終えて帰宅致しました。