京都史跡巡り(後編) | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 京都”弾丸”史跡巡りの後編です。先週の話しになりますが、土曜日に京都に着き、この日は日曜日となります。一番行きたい新選組ファンの聖地「壬生」。しかし、八木邸は午前10時から開店とのこと。午前5時に目が醒めて起きてしまった私としては、時間が余りすぎる。いや、普段の出勤時間が家を出るのが6時ですので、5時頃に目が醒めるように体内時計がセットされとるんですわ。

 で、開店時間の10時まで待つのも時間の無駄ですから、午前7時ごろから河原町方面の史跡散策に出かけます。まだ早朝ということで、繁華街の河原町も人が少ない。写真を撮るなら今がチャンスという感じでした。

 

 ということで、まずは河原町駅から一番近い「古高俊太郎邸跡」へ。

 池田屋事件の発火点となった「枡屋跡」ですね。

 これが案内版です。今回は、異常なほど写真枚数が多いので、説明はほどほどにサクサク行きます。

 

 土佐藩士中岡慎太郎寓居跡です。

 高瀬川沿いは、江戸時代も繁華街であり、近くに土佐藩邸や長州藩邸があった事情で、史跡だらけっすね。ここは「本間精一郎暗殺現場」。

 上記はその案内版。

 

 高瀬川沿いにあった土佐藩邸跡。案内版には「この付近に……」とありますから、この場所にあったわけではなく、多少ズレた位置にあったのでしょう。

 上記は、その案内版です。土佐藩邸があっただけに、土佐勤王党による天誅事件や坂本龍馬、中岡慎太郎関連の史跡が多いです。

 土佐藩ゆかりの「岬神社」です。

 同案内版。

 境内には、小さな坂本龍馬像もありました。

 そして、坂本龍馬と中岡慎太郎暗殺現場跡。近江屋のあった場所ですね。

 近くには海援隊の京都本部「酢屋」もあります。

 そして、お馴染みの「池田屋」です。池田屋事件の現場ですね。ここのすぐ裏手にあるのが……。

 長州藩邸。

 大きなホテルになっております。そして、長州藩と言えばこの人。

 桂小五郎像もありました。以上、河原町と高瀬川沿いの史跡を巡って参りました。他にもいろいろとあったんですが、時間の都合で坂本龍馬と新選組関連を中心に見て回りました。ここから、同行者K氏の希望で、平安神宮へ向かいます。

 

 で、平安神宮へ向かうため、結局高瀬川沿いを歩くことに、途中「桂小五郎寓居跡」がありました。さらに……

 「佐久間象山・大村益次郎遭難の碑」にも出会います。両人共に京都で暗殺されてるもんなぁ。それにしても、河原町界隈の幕末史跡密集率は半端ないっすね。

 

 そして「平安神宮」。祭神は桓武天皇と孝明天皇。

 平安神宮の横にある駐車場には、「守護職屋敷門」が移築されております。

 ここで、かなり体力的に疲れました。ここから駅まで戻り、電車で移動し、また徒歩で次の史跡へ向かうという面倒くさい道程があり、かつまた移動に時間も掛かるということで……。幸い、平安神宮は超観光地で、道路上にタクシーが待機してくれています。なので、タクシー使ってワープしようという事になりました。

 本当は、平安神宮から黒谷光明寺が近いので行きたかったんだけどもね。時間と体力と気力が保たずカットです。

 どうしても行かねばならなかった場所の一つ。高台寺にある「御陵衛士屯所跡」。

 その案内版です。で、御陵衛士屯所跡を見学したあと、徒歩で駅まで向かった訳ですが、途中に「六波羅」という地名の場所がありますので立ち寄りします。

 ここは六波羅蜜寺。その境内に小さな碑があります。

 「平家屋敷・六波羅探題跡」です。碑にある通り「この付近」にあったとされております。なので、この場所はちょっと実際の位置からズレているはず。でも、ニュースで平家邸が発掘されたと言っていたので、場所は特定されたはず。そんな話をしていると、後ろのおじさんが「すぐそこだよ。今、見てきたところだ」とおっしゃる。どうやら近くに発掘現場があるらしいと知り、直ちに向かうことに(苦笑)。

 ニュースに出てきた「平家邸・六波羅政庁跡」の発掘現場です。行ってみると、なんと説明会の真っ最中じゃありませんか!。思わず参加する俺(感涙)。

 ニュースでも出てきた石垣跡。裏側から見てるので石積みの最上部の石しか見えませんけども。その向こうが堀跡。手前に小砂利が広がっておりますので、平家が活躍していた時代のこの場所が、砂利敷きだったのだろうと想像できます。

 そして、平家のみなさんが使ったであろう井戸跡。いずれも平安時代後期の地層から発掘されており、ズバリ「平家に非ずんば人にあらず」と言われた平家全盛期にあたります。つまり、平清盛時代ともいえ、まさにこの場所が六波羅にあった平清盛屋敷跡であろうと。そして、その屋敷で清盛の政治が行われていたのですがから「六波羅政庁跡」となります。後に勝利した源氏が、ここに六波羅探題を設置します。

 この発掘は、新築ビルを建てる前に調査した結果出てきたものらしく、調査が終われば跡地にはビルが建つんだろうなと思うと、たぶんもう二度と見る事は無いだろう遺構で、しかもそれが平安末期の武士の時代到来の魁であり中心地たる六波羅の遺構なので、感動以外のなにものでもない。

 しかも、777の確率変動的運の良さは、この説明会が日曜日の午後10時から正午までという短い時間の間で開催されたものだという点。元々、新選組関連史跡を中心にしていたので、説明会の時間も知らなかったし、場所さえもしらなかったわけで。この説明会に参加できたのは偶然でしかない。もし、平安神宮から高台寺までタクシーで移動していなかったら、たぶん見れなかったはず。

 いやか、いいものが見れました。幸せです。つか、本当にいい日に京都行ったよなぁと(苦笑)。

 

 さて、再び幕末史跡巡りに戻ります。次のターゲットは御所です。

 再びタクシー移動で、蛤御門へワープ。ここが禁門の変激戦区です。

 

 蛤御門を守っていたのは会津藩。そして、ココを突破して御所に雪崩れ込もうとしたのが長州藩です。

 この門の至る所に「弾痕」があります。その数推して知るべし。

 この凹みも弾痕。上野戦争での黒門の弾痕も凄かったけれど、蛤御門はそれ以上でした。激戦を物語りますなぁ。

 

 遠くに見えるのが蛤御門。長州勢は会津藩の守りを強行突破し、御所九門内に突入。目指す御所を目前にして駆け付けた薩摩勢に阻まれます。ここで長州藩来島又兵衞が戦死し、長州藩が敗北、朝敵となります。

 御所です。さすがにこの中には入れません(苦笑)。

 御所の真正面に有栖川宮邸があり、その横に「お花畑」がありました。写真がその位置になります。8.18の政変時、筆頭局長芹澤鴨率いる新選組が警備した場所がココだったはず。

 そして、御所の鬼門有る角がここ。

 公卿姉小路公知暗殺現場となる「猿ヶ辻」です。

 これが案内版です。ここから南へ真っ直ぐに行くと……。

 幕末のアイドル!我等が”和宮”さま生誕の地、橋本家跡ですね。さらに……

 「学習院発祥の地」もあったりします。ここで、尊攘派が公家さんを教育してたりとかします(苦笑)。さらにずっと南方面に行くと……。

 関白九条尚忠邸跡。幕府と協調路線を撮ろうとして攘夷派と対立した人でした。そのお向かいにあるのが……。

 「鷹司邸跡」です。こちらは攘夷派公家として長州藩と密接な関係をもっていました。禁門の変の時にも久坂玄瑞や寺島忠三郎、入江九一が籠もり、久坂と寺島はココで自刃。入江も脱出に失敗して死亡しています。この鷹司邸と隣接する形であったのが……

 「境町御門」です。8.18の政変以前であれば、長州藩が警備を担当していました。政変時、ここに会津薩摩の兵が集結して占拠、驚いて集まってきた長州勢に、天皇からの「追放」を言い渡すと。

 上記が案内版です。もちろん、禁門の変でも激戦区の一箇所でした。

 以上、御所の見学を足早に済ませ、一路一番見たかった壬生へと向かいます。

 

 新選組ファンの聖地「壬生寺」です。ここで芹澤鴨のお墓などを参拝します。その横が新選組壬生屯所の八木邸です。が、先に前川邸に行きました。

 壬生前川邸ですね。中の一部を公開してました。ここでお土産を買ってみたりしています。そして……。

 最後の最後となりましたが、壬生八木邸。芹澤鴨最後の地です。ガイドさんからいろいろと説明を受けた後、各部屋を見学しました。もちろん仏壇にある芹澤鴨の位牌にも手を合わせます。

 

 ということで、一泊二日の京都史跡巡りを終え、一路東京へ帰還しました。いやぁ、さすが史跡の宝庫たる京都ですわ。ちょっと歩けば史跡に当たると言わんばかりに見所多すぎでした。また来ようと思うばかりです。