18日から19日と一泊二日で京都の史跡を巡る旅を敢行してきました。というのも、次の同人誌のテーマが永倉新八ということで、掲載する写真として、どうしても京都の史跡写真が必要になったのです。
この計画自体は、三月ごろから考えはじめてたりします。当初はゴールデンウィーク連休を使って……と考えていたわけですが、今年のGWに年号がかわり、最大級の長期連休となるや、各地観光旅行者が増大したということで……(汗)。むしろ、GWを外そうということになり、日野新選組祭りはあさくら先生の手伝いが確定したので、翌週の18日、19日となったわけです。
ところが、一週間前から「雨」予報が示されて戦々恐々としていたのですが、なんとか両日共に雨に降られずに済んでラッキーでした。しかも、このラッキーは777だったらしく、確率変動突入!。なんと、先週の金曜日あたりに「京都東山の六波羅政庁(探題)跡で、平清盛時代の遺構が発見!」というニュースが!。
このニュースを、土曜日の京都へ向かう新幹線の電光掲示板で知った私は……。
「今、京都に行くところなんですけど!?」
「京都駅と高台寺(御陵護士屯所跡)の中間地点で、寄り道すれば発掘現場に立ち寄れるんですけど!?」
と……(苦笑)。
とはいえ、あくまでも京都の新選組関連史跡を巡り、同人誌掲載用の写真を撮影することが主目的です。ということで、今回は同行者のK氏と共に、二人で巡った京都史跡の前編をお送りします~。
京都駅に降り立ち、まず行ったところは駅からほど近い「新選組不動堂村屯所跡」です。
この碑のある場所が屯所になっていたわけではなく、案内版にある通り「この付近に……」あったであろうということで、これまで謎の不動堂村屯所と言われていたらしいです。
ところが先日、研究家あさくら先生から京都龍馬会の会報「近時新聞」を見させて頂き、新史料の発見によって正確な場所が特定されつつあるそうです。もちろん、この場所ではないです。
ただ、この資料を持ってくるのを忘れてしまったので、正確な場所に行くことは適わず、とりあえずこの碑を撮影することにしました。
そして、道を真っ直ぐに歩いて行くと「西本願寺」に到着しました。
上記写真が西本願寺です。壬生の屯所が手狭になってきた新選組が、新たな屯所にした場所がココ、西本願寺でした。
新選組は、この西本願寺の北集会所と太鼓楼を屯所として使用していたといいます。写真は、北集会所があった場所と思われる場所となります。すぐ横に太鼓楼が建っています。
北集会所の建物は、別の場所に移築されてココにはありませんが、唯一新選組ゆかりの建物として太鼓楼が現存しています。
上記が、案内版です。新選組は、西本願寺の境内などで調練などを行った為、寺側が非常に迷惑がり、西本願寺が経費を持つ形で先に紹介した不動堂村屯所へと引っ越しさせたらしいです。
この西本願寺のある大通りの隣にある通りが「油小路」という道でして、すぐ近くに「天満屋跡」がありますので行ってみました。
お堂の横に小さな碑があり「中井正五郎遭難の碑」として建っていました。幕末、紀州藩士の三浦休太郎は海援隊士から命を狙われており、この三浦を新選組が護衛することになった。剣の腕は沖田総司に匹敵するとも言われた斎藤一を筆頭に、新選組隊士達が三浦を護衛しながら料亭天満屋で酒を飲んでいたところ、海援隊士らの斬り込みがあり、こうして天満屋事件が起きます。
斎藤一も一瞬気が緩んでいたらしく、鎖帷子を脱いでしまおうとしてたらしいですが、まさにその時に斬り込まれ、猛反撃を開始して襲撃側を撃退して三浦を守り通しました。
っていうか、新選組側全員酒が入ってほろ酔いだったはずなんだがなぁ……。その意味では、襲撃側の海援隊側に奇襲効果があったわけで圧倒的有利だったはずなのに、これを返り討ちにしちゃうところが新選組なんだよなぁ(苦笑)。
余談ですが、襲撃する側とされる側では、圧倒的に襲撃する側が有利となります。それは心理的効果というやつで、奇襲側が有利になるのと同じ事。好例が池田屋事件で、池田屋に最初に乗り込んだ近藤隊の人数は、たったの四名。尊攘派が逃げ出せないように池田屋の表と裏に人数を配置しなければならないため、突入組の人数が減っています。
これに対して、尊攘派は20人以上で飲み食いしていたわけで、数の上では新選組を圧倒していました。武器を店に預けて刀無しだったことを考慮しても、机や手短なものを武器に一斉に反撃すれば、いかに近藤勇や沖田総司でも手を焼いたはず。ところが、実際には一方的に尊攘派を斬り、圧勝します。尊攘派側が最初から逃走をはじめ、反撃することを考えなかったからです。襲撃されてる方は、襲撃側の人数が解らない訳ですから、逃げに徹しようとするのも当然ですわな。
つまり、戦いのイニシアチブは常に襲撃側にあるんです。これが襲撃側が圧倒的優勢でいられる理由です。
ところが、天満屋はそうではなかった。襲撃されている側の新選組が勝ったわけで(しかも酔っ払った状態で)、襲撃者の一人「中井正五郎」は、ここで命を落としています。新選組の強さの一端を示した場所こそココだと言えましょう。
さて、この天満屋が油小路にあったわけですから、この小道をずっと進むと……。
あい、「伊東甲子太郎受難の地」となります。もはや新選組ファンの皆さんには説明不要かと思うので、説明せずに次に行きます(苦笑)。
まず、最初に伊東が新選組を襲われて命を落とした訳ですが、その遺体を「油小路七条の辻」に放置し、御陵衛士が駆け付けるのを待ちました。ほどなく藤堂平助をはじめとする御陵衛士がやってきた。このタイミングで御陵衛士を殲滅すべく新選組が襲撃。激しい斬り合いが起こります。世に言う「油小路事件」です。
上記写真が、事件現場となった「油小路七条の辻」です。つまり、ここで新選組血盟以来の同志「藤堂平助」が命を落とします。
さて、ここから再び西本願寺方面に向かい、西本願寺の裏手側に位置する「島原」に行ってみました。
上記写真が「島原大門」で、この門の先が島原と呼ばれた江戸時代の歓楽街となります。
現在もなお当時の面影を残す史跡として「輪違屋」と「角屋」が残っていますので見学します。
新選組隊士も常連客だったという置屋兼揚屋の「輪違屋」。
上記写真が、案内版です。そして……最も新選組と縁深いのが……ココ。
「角屋」です。門の横に立つ碑には「新選組刀傷の角屋」とあります……えっ?営業文句?(苦笑)。ちなみに、外にはこんな碑もありました。
「長州藩久坂玄瑞密議の角屋」えっ?営業文句?(苦笑)。うん……まぁ、新選組だけでなく尊攘派も通ってたよということで(苦笑)。
これは角屋の案内版です。んで、ここは屋敷内を見学できるみたいなので見学してきました。
ガイドさんに案内されながら、屋敷内を見学します。ガラスケースに入った展示品は撮影禁止とのことですが、屋敷内それ自体は撮影可能ということでしたので、角屋の目玉たる「刀傷」を撮影します。新選組隊士が暴れて付けた傷だとの説明を受けました。たぶん、伝承としてそう伝わっているのでしょう。
また、文書史料としてガラスケースの中に「隊士のツケ」に関するものが展示されておりました。隊士達が支払いを”ツケ”にしていたらしく、それが溜まりに溜まったと。押し借りや借金と違い、ツケは年内支払いが基本で、年を越してしまうとチャラになる。角屋も12月は必死だったでしょう。新選組へツケの支払いを要求したでしょうし、会津藩へも訴えたんじゃないでしょうか。調べていないのでなんともいえませんが、結局、会津藩が隊士達のツケを肩代わりしたらしいとガイドさんに聞きました。ガラスケースの文書は、新選組から角屋に出されたもので「隊士達のツケは、今後一切支払わないから角屋の方でも、隊士達のツケを認めず、その場で支払わせるように」的な内容だったかなぁ。
「暴れ者の多い隊士にツケは認めないから、飲み食いしたらすぐに支払え」と店側から言い出すのは大変ですよ。とガイドさんもそんな感じで説明されていたかと思います。たぶん、会津藩から新選組へ苦言が出ているような気がするな(苦笑)。んで、土方歳三あたりがこーゆー文書を出してそう(笑)。
そして、やはり角屋のメインはこの部屋でしょう。
角屋の最奥にある大部屋。芹澤鴨最後の晩餐……ではありませんが、ここで芹澤鴨ら新選組が宴会を行い、酔って屯所に帰り、寝付いたところを近藤一派が襲撃、芹澤鴨ら新選組水戸派が壊滅すると。
芹澤鴨は、大酔いしていたので角屋から屯所へ帰る際に駕籠で帰ったと言います。写真の駕籠は、角屋常備の駕籠ということで、芹澤鴨はこの駕籠に乗って屯所に帰り、暗殺されてしまったとの説明を受けました。伝承として、そう言い伝えられているのでしょうなぁ。
さて、島原を後にして、次に向かう場所は新選組ファンの聖地「壬生」。と、行きたいトコロなのですが、歩くことに疲れたので電車で移動したい。でも、最寄りの駅だと壬生に行かずに二条城近くに飛んでしまうと(汗)。しかたないので、壬生は翌日に行くことにして二条城を見学しに電車で移動しました。
でも、二条城のちょっと北側に、とある史跡があります。「大極殿跡」です。中世は平安京と呼ばれた京都。その平安京の中心部が大内裏。大内裏の中心的な建物で、天皇が政務を執った心臓部こそ「大極殿」です。中世史にも手を出して、下野国府やら武蔵国衙にも行っている私としては、これまでの朝廷の出先機関として地方行政を担った場所ではなく、まさに朝廷その最大中心部たる平安京の大極殿は是非見ておきたい。ということで行って来ちゃった。
四つ角の歩道に……(苦笑)。いやいや、ここも大極殿跡なのでしょうが、碑もちゃんとあります。
大極殿跡と書かれた四つ角の近くに公園があり、そこに大きな碑が建っていました。こここそ、平安京の心臓部です。
大極殿の柱が建っていた後には、その痕跡の場所を示す丸い石(?)が置かれています。柱が規則正しく並んでいることが解ります。
さて、中世史への興味を満足させたあと、大政奉還が宣言された二条城へ向かいます。
ひゃー。さすが観光名所の二条城。チケット買うのに並んだわい。
二条城二の丸御殿です。時間は三時を回っており、御殿内部を見れるのは四時までというので、何がともあれ大政奉還宣言が行われた大広間を見学します。内部は撮影禁止なので、写真はなしです。
大広間は広いと言えば広いのですが、よく大政奉還の様子として使用される絵と比べると、意外に狭いようにも思えました。しかし、まー、ウグイス張りの廊下がキーキーと(苦笑)。見学者多すぎなので、キーキー音がすげぇすげぇ(苦笑)。
ちなみに、二条城内でうろうろしていたら午後四時三十分になり、もう閉めるから出て行けの放送が。急いで敷地外に出ようとした際に撮った二の丸御殿の写真を掲載しております。誰もいないの(苦笑)。
で、まぁ二の丸御殿だけでなく、二条城本丸もキチンと見学しております。写真は本丸天守台跡です。天守は火事で焼失とのこと。
ということで、午後五時近くになり、もう暗くなる一方なので写真撮影には向かない。とりあえず、泊まるホテルに向かいます。といっても、宿泊費を安くするために、素泊まりの上にチェックインは午後九時と設定されているので、三時間ほど暇つぶししなきゃいけませんが(苦笑)。ということで、歩いてホテルに向かっている途中、こんな史跡を見つけちゃいました。
「二条陣屋」だそうです。機能としては、よく宿場にある陣屋と同じらしいです。宿場に陣屋があるのは知っていましたが、各藩が藩邸を構える京都にも陣屋あるんだなぁと。
上記写真が、その案内版です。京都藩邸を持っていない藩が利用したのかなかな?。ってか、あれかー、本来京都に藩邸は作ってはいけなかったはず(諸藩が幕府を介在しないで、直接朝廷とつながるような行為は禁止していた)なので、そうした京都藩邸なしの時代には、このような陣屋が必要だったのかな、
また、ホテルへの帰路上にあったので、おまけで見といた史跡がコレ。
「本能寺跡」。もはや説明は不要でござろうから、説明は省きます(苦笑)。
ということで、この後はチェックインの予定時間が来るまで、一杯飲んでました(苦笑)。以上、こうして京都史跡巡り第一日目は終了と。
そして二日目は、御所と禁門の変関連史跡、池田屋、と河原町周辺の史跡を巡りました。もちろん、坂本龍馬暗殺に関連する史跡も見ています。そして高台寺の御陵衛士屯所……そしてそして、中世は六波羅政庁(六波羅探題)跡。その発掘現場では、なんと偶然にも説明会が開かれており、発掘現場が大公開されているという幸運に恵まれました!!。もちろん、じっくり見てきちゃいましたよ~♪。
ということで、次回のブログでは「京都史跡巡り(後編)」をお送りします。乞うご期待ください。
写真:京都六波羅政庁発掘調査現場。平安時代後期、平清盛時代の館跡が、つい先日に発見されました。平家が源氏に滅ぼされ鎌倉幕府が開かれると、幕府の出先機関として六波羅探題が置かれた場所となります。写真は、その発見説明会での様子を写した一枚です。
https://www.sankei.com/life/news/190516/lif1905160034-n1.html