昨日のことになります。平成から令和と年号が変わった今年のGW。大型連休ということで、どこか行きたいなぁと思いまして、鎌倉は名越切通へ行ってきました。
鎌倉七口の一つ、最も古道らしい古道ですね。ここは、以前にも一度行っているのですが、その時は切通を歩き切ったことで満足し、帰宅してしまったという(汗)。帰宅した後で、「あれ?大切岸見てなくね?」と気が付き、再び行かねばと思ってはいたのです。
が、実はここは有名な”心霊スポット”でもあり、ちと一人で行くの怖い。そんなこんなで、今まで行けてませんでした(苦笑)。しかし、今回は同行者が現れたので、その方と共に行ってきた次第です。
このGW期間は、なんと普段は封鎖されている「まんだら堂やぐら群」の公開期間になっており、大切岸のほかまんだら堂やぐら群も見れちゃうという(嬉)。ということで、鎌倉・名越切通見学の模様をお届けします。
名越切通に向かうため、鎌倉駅からバスに乗り下車。切通に向かう途中にある史跡「日蓮乞水」です。喉が渇いた日蓮が、地面を杖で叩いたら水が湧いたという伝承があり、鎌倉五名水の一つに数えられています。
この史跡を後にして、いよいよ名越切通に入っていきます。
切通入り口辺りにある庚申塔とお地蔵様。首がないんだけども(汗)。しかし、古道があった証拠と申せましょう。今は5月の新緑の季節ということで、若葉の香りがすごいすごい!。なんだろ?周り360°黄緑色だし、ウグイスは鳴いてるし、他の小鳥のさえずりも!。いやぁ、気分がいいものですねぇ。
鎌倉側から入って最初の切通です。「第三切通」といわれるポイント。名越切通には、三つの切通があり、逗子側から鎌倉方面に向かって、第一、第二、第三切通と名前が付けられています。
両サイドから生えたシダ類が生い茂り、木漏れ日が漏れ、小鳥のさえずりが……いやぁ、いいっすねぇ~。
実は、GW前半が雨となり、雨が降るんじゃないか?雨が降らずとも曇でどんよりするんじゃないかと心配してたんですが、当日は太陽が顔を出して晴れてくれたので良かったです。やっぱね。景色が違うよね。
鎌倉切通名物の「置き石」です。敵が攻めてきた時に備え、敵が一直線に道を進めないよう、ワザと置いてあります。
上記は、名越切通の案内版です。ここを過ぎて、しばらく行くと特別公開中の「まんだら堂やぐら群」に到着します。
まぁ、見て下さいよ。この壮大なスケールのやぐら群を。”やぐら”というのは土地の狭い鎌倉で、墓地を確保しようとして作られた横穴墓です。ここはそれが集中しており、四階建てぐらいな感じになっております。都心部によくあるビルタイプの納骨堂の中世時代版と言えましょうか。
展望台がありますので、そちらに登り、やぐら群を望みます。空は青空が広がり、周りは新緑。眼前には壮大なやぐら史跡群です。最高です(喜)。
上記は、「まんだら堂やぐら群」の案内版です。
やぐらに近づいてみると、内部には中世時代のお墓、五輪塔がいっぱい並んでいました。
この史跡の他にも……
石敷の遺構なども発掘されているそうです。
やぐら群の前にある平場(広場)です。
この平場にも中世時代には何か建っていたらしいです。
「まんだら堂やぐら群」は、特別公開期間中に行かないと見ることができません。夏休みやゴールデンウィークといった大型連休中に公開期間が設けられることが多いです。前回、私が行った時は普通の土曜日とかに行ってましたので、見ることができなかった史跡の一つでした。やぐら群の見学をした後、再び切通見学に戻ります。
「第二切通」です。前日に雨が降ったせいで、地面がヌルヌルです(困惑)。そして……
名越切通最大の見せ場。第一切通です。両側から迫り出した岩のため、馬一頭しか通れないように狭くなっています。この狭さはワザとでして、敵の大軍は一度に通れないようにしているわけですね。
第一切通の片側に展望台がありますので登りました。狭い切通を通ることが出来ず、渋滞を起こした敵兵の頭上に、矢を降り注ぐには絶交の場所と言えましょう。鎌倉時代の鎌倉防禦の一端を知る事ができます。
第一切通を通ると、逗子側からの鎌倉へ向かう入り口に出ます。ちなみに、この切通も鎌倉時代のままというわけではなく、地震などで崩れる度に修復されて現在に至っています。なので、中世時代の面影を残した江戸時代の古道というべきかもしれません。また、鎌倉時代の道がズレた場所からも発掘されており、度重なる地震で、鎌倉時代からルートが変わっているとも言われております。
このまま進むと町中に入っていきます。前回来た時は、そのままバスで帰宅してしまいました。今回は「大切岸」を見なければ行けませんから、大切岸へ向かう道の分岐まで戻って進みます。
途中、石廟がありました。中には何かが収められていますが、それが何なのかはよくわかりません。鎌倉後期から南北朝時代のものと言われており、中には骨が収められているとか?。
その横にも祠がありました。詳細は良く解りません。ここを過ぎてさらに進むと、「お猿畠の大切岸」です。
大切岸の手前にある案内版です。そして……
眼前に広がる大パノラマと絶壁。で、この大切岸の真ん中に謎の人物が一人……(困惑)。
この人物は白髪のロン毛に上半身は裸。サングラスで、今にも「ロックンロール!」と叫びそうな雰囲気。イメージ的には「子連れ狼」で登場する「裏柳生のボス」に似ています。
とはいえ、大切岸のど真ん中に陣取っているので、史跡写真の撮影がしにくい……。
ちょっと角度を変えて、ロックンロールさんが映り込まないようにしてみましたが、頭だけちょっと出ちゃってます。まぁ、目立たないのでよしとしよう。
大切岸前の小道を進むと、一周回って切岸の上を歩く形で元の道に帰ることができます。逗子方面が一望できる絶景でした。
これで名越切通完全制覇完成です。切通見学を終えて、鎌倉へ戻りますけれども、近くに中世の房総半島を支配した千葉氏の、鎌倉での館跡がありますので見に行きます。
途中昼ご飯をたべ、しばらく歩いて着いた場所が「弁谷の碑」です。この辺りは「弁谷」と呼ばれていた地域になります。そして、このあたりに「千葉氏の館」があったとされています。が、諸説あって判然とはしていません。
こちら側にあったという説もあります。まぁ、この近辺にあったのだろうとは思いますが、館跡の正確な位置までは今だ不明のままです。
弁谷の碑を見たあと、鎌倉駅までバスに乗りました。鎌倉駅から鎌倉市役所方面に向かい、その近くにあるスーパーに向かいます。
このあたりに、やはり千葉氏の館があったらしい。
房総千葉氏は、関東八平氏の一派として房総半島に勢力を拡大し、源頼朝の挙兵に呼応して源氏を支援。鎌倉幕府が成立すると、鎌倉に館を建てています。とはいえ、常に鎌倉に居住したわけではなく、鎌倉と房総千葉を行ったり来たりしていたと思われます。
この千葉氏の凄いところは、平安時代に関東へ平氏が土着し、地方豪族と融合、房総に千葉氏とその武士団が成立する。それ以降も鎌倉時代、南北朝、室町、戦国時代と内部分裂や時代の混乱に翻弄されながらも生き残り、豊臣秀吉の小田原攻めの際には小田原北条に味方して敗れ、徳川家康の関東移封にともなって本家は没落するものの、分家の相馬氏などは大名として幕末まで続きました。また、本家の方も大名ではなくなりましたが血脈は残り、現代までまだ生き残っています。このため、家系図など信頼できる史料が現代まで残っているのです。平安時代の武士団成立から幕末、そして現代まで俯瞰して千葉一族を見る事が出来るわけで、武士の倫理思想精神、つまり武士道の時代変化を知る上で、最高の材料たり得るのですね。
ちょっと、今後はこの千葉氏に注目し、通史的な視野で武士の倫理思想を見ていきたいと思っています。
ということで、千葉一族のことは今後の宿題と致しまして、日が暮れる前に鶴岡八幡宮へ。
令和詣です(苦笑)。久しぶりに来たので、お守りの更新作業も行います。時刻はもう午後4時ですが、まだ明るいので近くにある巨福呂坂切通に行ってみます。
巨福呂坂切通は、途中で行き止まりになります。が、横の山の登ると昔の修験の尾根道に出るらしい。なので、ちょっと行ってみようと思いました。
巨福呂坂に向かう途中に、神社があります。
この青梅聖天社です。神社には階段を上っていくことになります。階段を上りきると社があります。
小さな社ですが、鎌倉時代から続く古刹でもあります。この社は巨福呂切通の頂上付近あったと古記録ありますから、先ほどの旧道が巨福呂坂切通であることの裏付となります。そして……
この階段が社へ向かう階段ですが、赤い手すりが途中で切れており、そこから山へ登る小さな道があります。そこを登って尾根道に出ようとしてみたのですが……。途中で道が無くなっており、山肌を垂直に登らなければならなくなってしまいました。
前日の雨で、山肌の土が崩れやすくなっており、また時間も午後四時を回っていますから暗くなる手前でもあります。何かあれば大変ですから、巨福呂坂切通の遺構探しは後日の宿題とし、今回は撤退することにしました。ちょっぴり残念。
そんなわけで、名残を惜しむように巨福呂坂新道を見に行きます。
この新道のこの場所が、巨福呂坂切通のあった場所となります。道の脇に碑があります。
ということで、今回はここで史跡巡りを終了しました。やっぱり鎌倉はいいですねぇ~。また来ようと思います。