幕府遊撃隊・箱根戦争史跡巡り(リベンジ編) | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 小田原城です。今日は、前回は雨に祟られて満足に廻れなかった幕府遊撃隊による箱根戦争と、それに関わった小田原藩の史跡を廻ってきました。まぁ、主たる理由は、箱根湯本にある「箱根町立郷土資料館」で開催中の「戊辰箱根戦争 小田原藩×遊撃隊」展を見たかったのです。この企画展が今月末で終わってしまうので、ぜひとも見ておきたかった。当初はそれが理由だったのですが、そこで昔に遊撃隊関連史跡を巡った時に見れなかったり、諦めたりした史跡も見ておきたいと欲張った次第(苦笑)。そんなわけで、いろいろとリベンジな史跡巡りでした。

 上記写真も、改装後のピカピカ小田原城を写真に撮りたいと思っていたのですが、前回は雨でロケーションに問題有りとなり、禍根を残していた。今回は晴れの中での小田原城を撮れて大満足です。で、小田原城は一番最後に行った場所でして、まず最初に行ったのは箱根町立郷土資料館です。今回は、友人のK氏と二人での史跡巡りとなります。K氏は古くからの友人で、共に歴史探索とかしている仲なのですが、最近は大病を患ったために満足に史跡巡りができていなかったという事情もあります。今回は比較的に平地を歩くし、たまたま電話する機会があったので、ついでに誘ってみたのでした。

 ここで、「戊辰箱根戦争 小田原藩×遊撃隊」展を見学します。史料中心の展示でした。が、加藤音弥が誤報を小田原藩に伝え、小田原藩を挙兵させた経緯などが書かれた史料(写真展示で本物の史料ではありませんでしたが)を見たりしました。このあたりは箱根戦争のキモの部分ですので、じっくり拝見できたのは嬉しかったなぁ。その他、箱根の庶民の事や小田原藩を中心に置いた展示だっだ点に高評価です。多くの歴史雑誌記事では、伊庭八郎がいた遊撃隊を中心の視点にしてしまうので、小田原藩の苦悩や間違いが見逃されて「勤王と佐幕の間で判断が鈍った日和見藩」として説明されてしまう。なるほど、確かに失態は失態ですが、それを”まぬけ、腰抜け”で終わらせてはダメです。小田原藩には小田原藩の苦悩がある。それを見逃して、遊撃隊だけの事情で説明されては片手落ちというものと思う次第。

 また、その結果として無関係の庶民が戦禍に焼かれて家を失っている。遊撃隊カッコイイ!だけではなく、その格好良さの背後にある負の部分も見なければ歴史とは言えません。その意味では、非常に良い企画展だったと思います。

 次に行く場所は「早雲寺」です。早雲寺はちとやっかいで、私の様な健康者ならばいざしらず、身体が健康ではないK氏には危険が伴う。やむを得ず、K氏には資料館で休憩して貰って、その間にひとっ走り行って来ました。

 上記写真は、早雲寺本堂です。ここには「遊撃隊戦死墓」がありますので、お参りします。

 上記写真が、「遊撃隊戦死墓」となります。数名の方が箱根戦争で命を落としているので、それを祭祀するために建立されたらしいです。

例によって、お墓を掲載するのは気が引けるわけですが、今回は「故人の存在証明」の史料として掲載することにします。皆様もお墓には敬意を払って、手を合わせて下さいマセ。

 話しを戻して、このお寺には「北条五代の墓」もあります。

 戦国時代の後北条家のお墓が並びます。これにも手を合わせてきました。

 上記が墓域に立つ説明看板です。以上で、早雲寺でのお参りを終え、資料館に立ち返ってK氏と合流し、次の史跡に向かいます。

三枚橋です。この橋を巡り、遊撃隊と明治新政府軍が激突しました。新政府軍は、最初遊撃隊に味方し、後に明治新政府側に帰順した小田原藩を疑い、小田原藩兵を前面に押し立てて遊撃隊を攻撃します。早川に掛かる三枚橋を巡る戦いは、遊撃隊の敗北となるわけですが、ここで伊庭八郎の片腕が切られたと言われています。ただし、伊庭八郎が片腕を失う話しには諸説ありますが(苦笑)。

三枚橋と早川の全景です。ここさらさらに徒歩で、山崎の古戦場へと向かいます。

「山崎古戦場の碑」です。何年か前に来たときは、道路工事でこの碑石が撤去されてしまい、見ることが適いませんでした。これが心残りで、今回は無事にリベンジを果たすことができました。

 山崎古戦場の全景です。右下の方に、さきほどの「山崎古戦場の碑」があります。ここは両側から山が迫ってくる狭隘路となっており、敵の迂回攻撃を防止できる防禦に適した場所と言えましょう。ちなみに、「山崎古戦場の碑」はもう一つあったりします(苦笑)。

 碑というよりは説明看板でしょうか。先ほどの碑石とはずいぶんと離れた場所にあります。前回来た時は、碑石を見ることが適わず、この説明看板を見て満足して帰った記憶があります。

 前回来た時は、メチャメチャ傷だらけの上に汚れてて、何にも読めなかったのですが、その後に磨いたようで読めるようになってました。よかったよかった。あのままだったら「説明看板の意味をなさない」と思ってましたからねぇ。

 ここまで来てしまうと、箱根登山鉄道の入生田駅が近いので、そちらに向かいます。電車を二駅ほど行くと、箱根板橋駅がありますので下車し、次の史跡に向かいます。

 板橋地蔵尊です。ここには遊撃隊+小田原藩によって殺された官軍軍監中井範五郎をはじめとする13人の官軍慰霊碑があります。

上記写真が慰霊碑となります。墓石には13人の名が刻まれています。その中には小田原藩支藩荻野山中藩士・小野木守三の名もあります。摩耗して読めなかったのが残念無念……。前回来た時は、ここで豪雨に降られ、写真はなんとか撮れたものの濡れた状態でした。今回は晴れて渇いた状態の慰霊碑が撮影できたのでリベンジできました。

 この板橋地蔵尊の横に「常光寺」があります。

上記写真が常光寺です。ここには、小田原藩家老・渡邊了叟のお墓があります。あまり有名ではないので、存在をお知らせする意味で重要かと思いますので、史跡ではなく、お墓ですがご紹介しておきます。

 小田原藩家老渡邊家累代のお墓です。このお墓の背面にひっそりと立つ墓石があります。

 この墓石が渡邊了叟のお墓となります。加藤音袮が小田原藩に伝えた”徳川の大軍が来る=徳川宗家が挙兵しましたという意味になる”という誤報を真に受けて、小田原藩を主戦論に傾けさせて遊撃隊との同盟に踏み切った人物です。いわば、藩の進むべき道を誤らせてしまった家老となりますが、彼も当初は遊撃隊と組むことには慎重で、遊撃隊と藩主の対面は拒否していました。しかし、幕臣の怒りと不満は良く理解していたので、遊撃隊に温情的だった部分もありました。が、それが加藤のもたらした誤報を信じやすいという心理状況にも作り出してしまう。悲劇の家老でした。小田原藩挙兵を聞いた小田原藩江戸藩邸留守居の中垣斎宮は真っ青になり、急ぎ小田原藩に帰り「徳川家は恭順しており、徳川の大軍が来るというは誤報。遊撃隊に謀られたのです」というような説得を行います。もちろん、小田原藩首脳陣も真っ青です。急遽、再び明治政府軍に帰順を表明すると共に、遊撃隊には同盟関係は手切れと伝えることになります。

 このときに、伊庭八郎が言った有名な決め台詞が「反復再三怯懦千万堂々たる十二万石中復一人の男児無きか」ですね。以後、小田原藩は優柔不断の日和見藩として有名になってしまうのです。が、小田原藩にも苦悩があったのです。迷いまくっているのですよ。

 結局、家老渡邊了叟は、この後に小田原藩兵を率いて、遊撃隊攻撃に出陣します。一説では、この戦いで責任を取って戦死しようとしていたとも言われており、実際に負傷もしています。家老という上級武士は、普通戦場の後方で藩兵を指揮しますので、怪我とはあまりしません。負け戦ならばいざしらず、山崎の戦いは新政府軍の勝利、つまり小田原藩兵側の勝利ですから。そこから考えると、渡邊は最前線に自ら出て行っており、戦死を望んでいたという動機もあるわけで、あながち的外れではないだろうと私は思っています。

 戊辰戦争終了後、正式な小田原藩処分が決まると、彼は藩命により小田原藩の罪を一身に背負って自刃します。一つの悲劇と言って良いでしょう。だが、悲劇は彼一人じゃなかった……。

ここから箱根板橋からバスで小田原駅に行きます。

 

 

 前回、やっぱり豪雨に遭って疲れ果て、探す事を諦めた家老岩瀬大江進正敬のお墓がある「誓願寺」です。

墓域には閂が掛かっておりましたので、住職様に挨拶し、事情を説明してお墓を見せて頂きました。

 これが家老岩瀬大江進のお墓となります。手を合わせてお参りします。

岩瀬は、小田原藩執政でした。彼は特別に何かを決断したというわけではなかったと思います。確かに渡邊了叟の意見を入れてしまったということはあるのでしょうが、遊撃隊との同盟は渡邊の方に主導権がありました。まして、譜代の大藩として佐幕派が多い小田原藩ですから、さらに渡邊の権勢は強かったと思います。そうした背景から、執政の岩瀬も渡邊に同調したのものと思っています。

 が、結果は小田原藩の大間違いだったわけで、いきなり”賊軍”の名が降ってきます。それは小田原藩大久保家の存亡の危機を招いたことを意味します。結局、渡邊了叟が罪を一身に背負って切腹し、藩は現藩主の隠居と減封で家名の存続は許されました。

 家老の岩瀬も罪は無かったのですが、彼は自責の念に駆られます。あのとき、渡邊の意見をすぐに入れず、江戸藩邸などに確認を取りさえすれば、こんな間違いは犯さなかったものを……という悔いがあったかもしれません。

 また、渡邊が罪を一身に背負っただけに、自分が何もせずに生き長らえることに対しての自責の念もあったかもしれません。

 彼は、「殿様御謝罪、万分の御一端にも」なれば本懐至極と書いた遺書を残して自殺を遂げます……。

 

 考えて見て欲しい。長州藩が朝敵になった時に要求されたのは、「家老三人の首」でした。これが賊軍となった藩への罰として前例となり、会津戦争の際には、会津藩にも「家老三人の首を出さないと」という交渉が行われています。長州藩や会津藩が、ある意味で”ガッツリ”戦った訳ですからわからなくもない。でも、小田原藩は勘違いなんです。ガッツリ抗戦したわけじゃない。ただ、官軍軍監一行を遊撃隊と組んで殺害したという罪はあるものの、別の官軍軍監の三雲は小田原藩士の機転で小田原城下から脱出させてもいます。

 しかし、結果的には家老二人を失うという大損失となりました。日和見藩だったと一言で終わらせていい損失じゃないんですわ。

 そんなことを考えながらの史跡巡りでしたねぇ~。

 そして、最後に小田原城に立ち寄り、”晴れた日の小田原城”を撮影。ここで、本日の行きたい史跡を全部行けてリベンジを果たして満足し、帰宅しました。