「本田家と江戸の文人たち展」と武蔵国府&国分寺巡り | 幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

本題に入る前にサークルの再告知です。

歴史同人サークル「幕末ヤ撃団」は、冬コミケにサークル参加します。

 

サークル「幕末ヤ撃団」

イベント:コミックマーケット95

日にち:12月29日(土曜日)

サークルブース:ほ-22b

 

 新刊は『新選組の武士道 近藤勇』を予定しています。前作の芹沢鴨も登場し、二人の絡み合いを中心にしつつ、武士道とその倫理観について考察しました。乞うご期待くださいませ。

 

 と、いうことで今月末に行われるコミケに出す新刊を、現在絶賛制作中であります。が、ほぼほぼ原稿が仕上がり、一回目の校正を終わらせております。今週と来週で、再度の悪文撲滅と誤字脱字チェックを行い、表紙やらあとがきやらを書いて印刷製本生産で完了。まぁ、余裕でしょうという感じになっております。今日一日ぐらい作業しなくても問題はない。ないんだったら、今週で展示が終わってしまう「本田家と江戸の文人たち展」を見に行っておくべきじゃね?。ということで、新刊原稿の作成作業を離れてお出かけしてきました。

 

 

 

 展示は「くにたち郷土文化館」で行われております。下谷保村の名主にして医者でもある本田昂斎を中心に、江戸の文化人たちの交流とネットワークをテーマにした展示です。本田昂斎って誰だよとか言われちゃいそうですが、ぶっちゃけ石田村の土方歳三とは親戚の間柄の本田家の昂斎です。昂斎の後を継いだのが本田覚庵です。と、いえば土方歳三ファンの人ならご理解頂けるかと思う(苦笑)。

 ちょこっと説明しておくと、名主にして医者の本田覚庵は、若かった頃の土方歳三が大病を患ったときに治療にあたった人であり、書家でもありました。その意味では文化人でもありました。また、日野宿名主の佐藤彦五郎や小野路村名主の小島鹿之助とも強くつながっております。近年の研究で、こうした名主のネットワークが文化人ネットワークとも言える関係にあることも解ってきたわけです。私は、江戸の文化人の知識はからっきしなかったりしますが(苦笑)、ただ詩や俳句といった文化の進展には国学が強く関係してくる。水戸学はちと例外ですが、国学の本流たる本居宣長の本居国学や、平田篤胤の平田国学など、基本的には俳句や短歌研究の中から出てきた学問なんです。日本的文化精神の根底には、こうした国学による「古事記研究」や「万葉集研究」、「古今和歌集研究」がある。こうした書物の中にある歌や俳句を研究する中で、日本国を見出し、かつ宮廷(朝廷)研究にも目を向けた。そこから汲み取られた思想が「尊皇思想」ということになります。

 その意味からも、こうした文化人ネットワークを知っておく必要があったわけですな。日本の文化は素晴らしい=外国の文化よりも日本の文化を大切にしよう!=異国の文化なんかダメダメで、日本の文化が一番優れている→攘夷じゃああああっ!的な(苦笑)感じで、尊皇と攘夷は、文化人の心中に入りやすいと思うのです。

 とくに多摩は、こうした文化人ネットワークが豪農層を中心に広がっており、その関係で近藤勇や土方歳三は文化人の中で育ってきた。土方が俳句を趣味にしているのもそうした理由があるからだろうと思う訳です。

 そんなところから、佐藤彦五郎と小島鹿之助、本田覚庵は押さえておかねばと思った次第です。

 

 で、幕末の混乱が始まる前の時代ですので、さほど私も知識を持っているわけではなかったのですが、展示の一部には土方歳三との関係で、新選組の史料も展示されておりました。土方から本田家に送られたお皿とかの展示でしたな。

 一通り展示を見終わり、図録類をゲットして次の史跡に向かいます。せっかくここまで来たのですから、一駅だけ移動して「本田家住宅母屋」を見に行くことにしました。

 

 上記写真が、「本田家住宅母屋」です。だいぶ傷んでいるということで内部は非公開です。外から眺められる部分だけ見てきました。

敷地に入るための門がありますが、これが「薬医門」で、文化財指定で、幕末期に建築されたと推定されております。ということは、”石田村の歳蔵(覚庵日記中での土方歳三の表記)”も、この門をくぐってたかもしれんですね。

上記写真は、薬医門に掲げられた表札です。

 で、まあ中には入れませんので、門の写真を何枚か撮影して終了となります……が、このままだと食い足りない(苦笑)。もちっと史跡が見たいということで、南部線で二駅ほど移動して府中本町駅を出ます。その駅の横に「武蔵国府跡」があります。

 

 上記写真に「武蔵国府跡」とありますが、ここは国府の「御殿地地区(国司館地区)」となります。中央(朝廷)から任命された国司が詰めていた館跡です。

 柱がぼこぼこ立ってます。まー、奈良時代の史跡ですからw柱を立てた土台の石ぐらいしか残ってないでしょうし、そうした石の位置から柱の位置を割り出し、柱っぽいものを立てて示しているという感じでしょうか。地面はアスファルトで完全に固めております。発掘調査後に埋め戻した上に、アスファルトコーティングで防禦し、遺構を完全保護しているのでしょう。

 

 模型も展示されておりました。けっこう雰囲気出てますなぁ。ここから国府中心部へと歩を進めていきます。

 

「大國魂神社」です。せっかくですのでお参りします。でも、ここが武蔵国府中心部だったりもします(苦笑)。

この神社の横に、国衙跡があります。

 

 またもや柱がぼこぼこと……地面はアスファルトで完全防護されています。これが「武蔵国衙跡」となります。

 国衙は、今で言う県庁で、税などの徴収などを行って、中央(朝廷)に送ったりしていた行政機関となります。が、武士が登場してくると、この国衙に武力を提供することで、武士達は公的権力に食い入ろうとしていきます。武士という存在が公的権力を握るための突破口であり、武士発生を論ずる上でも重要な場所となります。そして、武蔵国府は国府としては大型タイプに属しているとのこと。まー、坂東を統括している役所ですしねぇ。

 このあと、ついでに大國魂神社境内にある「ふるさと府中歴史館」に入って、国府内で発見されたものなどを見学。なぜか戊辰戦争で活躍した「四斤山砲のリベット砲弾」が展示されてました(苦笑)。府中で偶然に発掘されたとのことで、なぜこんな所から発掘されたのか不明らしいです。このあたりでは戦闘してなかったはずだものなぁ。

 

 で、武蔵国府も見終わりました。これで帰宅してよかったのですが……欲が出ました(苦笑)。帰宅途中の乗り換え駅が「西国分寺」で、ここで途中下車すると「武蔵国分寺跡」を見ることができるよねぇと。食えるものは全部食う主義です。なので途中下車けってーい!です。

 

 国分寺跡に向かう途中に「国分寺薬師堂」がありますので、立ち寄りました。

 下に説明看板を掲載します。

 通説では、鎌倉末期に新田義貞が鎌倉攻めを行うわけですが、その時にここからほど近い「分倍河原」で、迎撃した鎌倉幕府勢と大決戦が行われます。その際に武蔵国分寺が焼かれてしまい焼失したらしい。鎌倉幕府滅亡後に、新田義貞がこの薬師堂を寄進して、国分寺消失の埋め合わせにしたらしいと……。ただ、あくまでも「伝承」で、史実的にはどうなんかなぁと(苦笑)。

 

 そして、「武蔵国分寺跡」に到着です。碑石の裏にある遺構が、「金堂跡」で、絶賛「アスファルトコーティング中」です。コーティングが終了したら中に立ち入れるようになるんだと思われです。

 上記写真が説明看板です。大和朝廷による日本仏教化計画……つか、疫病や天変地異をなんとかしようと奈良東大寺を総本山に、日本全国にチェーン展開したお寺の代表ッスね。この時代の仏教は、一般庶民には展開されておりませんから、基本的には国家のための国家鎮護を目的とする官営のお寺となります。

 

 上記写真が、「講堂跡」です。柱を立てた礎石が規則正しく並んでるだけだったりもしますが。この他、五重の塔跡とか、壁の跡や中門跡もあります。が、すべてアスファルトやコンクリで防護コーティングされており、遺構のある場所はわかりますが遺構そのものは見れなかったりします。

 次に「国分尼寺」が近くにありますので、行ってみます。

 

 途中に「文化財資料展示室」がありましたので、トイレを借りるついでに立ち寄りました。ボランティアの方でしょうか?いろいろと説明して貰っちゃったりします。なんでも、この展示室は学校の一階に併設されているんですが、国分寺遺跡内に学校を建てねばならない事情から、建てる際に徹底的な発掘調査を行ったあとで、学校を建てたとのこと。その際の出土品をこの展示室に集めてあるとのことでした。

 

 展示室からさらに歩くと「国分尼寺跡」に到着します。小規模な「国分寺」という感じでしょうか。やはり礎石のあった場所に印が付けられて、アスファルトやコンクリでコーティングされております。

 大きな土盛りと、そのまえ柱が四本立てたれております。この柱は、建物の柱ではなく「幟というか旗みたいなものを立てるためのポールの跡」らしいです。大きな土盛りは「国分尼寺」の「金堂跡」となります。

 以上で、国分寺関連史跡を一通り見終わりました。あとは近くにさきほどの展示室とは違う「武蔵国分寺跡資料館」がありますので、行ってみることにしました。と、その前に「湧水群」もあるらしいので、日が暮れる前にそちらを先に見ることにしました。

 

 ここらか水が湧き出しているとのこと。

 上記が説明看板となります。こうした湧水がたくさんあり、水の便がよかったらしいです。国分寺がこの地に立てられたのも、水が豊富だからというのも理由の一つだそうです。

 湧水ポイントに弁財天が祭られています。

 

 いろいろといわくのある湧水群らしいです。詳しくは説明看板を参照して下さい。湧水というと庄園との関係を連想してしまうのですが、国分寺が建てられたのは奈良時代ですので、まだ庄園は登場していないと。とはいえ、水と農作は切り離せませんからなぁ。水が豊富ならば、それだけで古くから栄えた土地柄だったのだろうと想像できます。ただ、残念なのは新田荘園で見た湧水群と違い、底がジャリだったりするので水が湧き出す場所がわかりませんでした。新田荘園の方は、砂が巻き上がっていたので特定できたんですが、ちと残念です。

 さて、それでは「武蔵国分寺跡資料館」に向かい、発掘品を見学しましょう。

 

 資料館は、「おたかの道湧水園」内にあります。また、ここには「旧本多家住宅長屋門・倉」も展示されておりました。

 上記写真が、長屋門です。公開中ですので1階や2階に上り、部屋の中を見学できます。

 上記が説明看板となります。幕末時代は国分寺村の名主、本多雖軒の住まいだったとのこと。またこの人物は医者でもあったとのことで、なんだか本田覚庵と共通点があるなぁと。本田邸は非公開で内部が見れませんでしたから、名主にして医者の住まいとはどのようなものか、参考にじっくり見ることに……そして、すべてを見終わったあと思った事は……

この人、本田覚庵の弟子じゃん! 

ということで、マジでした(汗)。多摩の名主ネットワーク……ハンパねぇ!どんだけすげーんだ!。

 

 長屋門以外にも倉があります。

 

 上記が、倉の説明看板です。この後は現代建築の「武蔵国分寺資料館」に入り、国分寺の模型や発掘品などをじっくりと見学しました。資料館を出ると、もう日が傾いていましたので、帰宅の途につきました。しかし、最後の最後に多摩名主ネットワークがオチになり、今回は、なかなか濃い史跡巡りになったなぁ~。