哲学と思想 | 幕末ヤ撃団

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勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 今日は暇なので、久しぶりにブログの更新でもしよう(苦笑)。

 

話す内容としては、「思想哲学」といったものに関して、私が思っている事を書いていきたい。

 

まず、「哲学」とは何か?。

 

 簡単に言えば「哲学は「本質」を洞察することで、その問題を解き明かすための「考え方」を見出す営み」だ。ぶっちゃけ「考える」事自体を哲学と言ってもいいのかもしれない。

 

 例えば吉田松陰は哲学史の世界でも扱われているが、それは彼が「草莽崛起の思想」を考え出したりして、”考える人”だったからだろう。こうした物事について、その本質を考え見極めようとする行為は哲学と呼ぶように思う。

 

 これに対して、「思想」というものがある。これは「人間が自分自身および自分の周囲について、あるいは自分が感じ思考できるものごとについて抱く、あるまとまった考えのことである」という。

 

 また吉田松陰を例に説明すると、吉田松陰は「草莽崛起」という考えを生み出したが、それはあくまでも彼個人の”考え”に過ぎず、誰も相手にしなかったならば、この草莽崛起という考えも、何の影響力も無く消え失せる。この場合は、単なる”考え=思いつき”に過ぎない。逆に、この草莽崛起の考えから影響を受けた人物たちが、複数人に増え始めたらどうだろう?。例えば高杉晋作や久坂玄瑞らがこの考え方に共鳴し、「草莽崛起」という共通の考え方を持って活動を始めたら?。これが「思想」と呼ばれているものの正体だ。ここで重要な点は「まとまった考え」だという点だろう。

 無論、複数の人が受け入れて、はじめて思想になるという訳では無い。考えた事を本などで出版したならば、それは”まとめられた考え”となり、思想として扱われる。

 要は、単に考えたというだけではなく、その考えを整理してまとめ、発表などを行って”影響力”を発揮する条件を整えたならば、それは思想と呼ぶべきものとなる。

 

 つまり、この思想と哲学は兄弟みたいなものなのだ。まず最初に考える行為(哲学)があり、その結果生み出された考えが広がって思想となる。

 

 私が今、一番興味があるのがこの「思想」である。それは歴史の中で思想が果たした役割が巨大であることに気付いたからだ。

 

 「なぜ、明治維新が起きたのか?」

 

 この問いに答える為には、この思想を押さえなければならないと否応無く知ってしまったからに他ならない。

 

 近藤勇や土方歳三の人物像をどんなに調べても、解ることといえば近藤勇と土方歳三の事だけだ。それでは明治維新が幕末に起きてしまった理由までは分からない。

 もちろん、彼らの人物史を知ることで、明治維新の断片を知る事はできる。その中にヒントも隠されている。だが、それはあくまでもヒントに過ぎない。

 もっと、幅広く多くの人の考えや行動を知ることで、彼らが一定の共通した理念や考え方をしている点に気が付く。それが”思想”なのだ。だから、思想史を知ることで、上記の疑問に迫れると私は思っている。

 

 そんなわけで、哲学と思想は違うのだが、兄弟のような関係であるために、ジャンル的には「思想哲学」とワンパックにされている場合が多いんだな。

 

 さらにこの「思想史」という場合、それは歴史学の範疇ではあるのだが、人物史とは違ったアプローチが必要になってくる。

 新選組ファンや歴史ファンの方々なら、古戦場巡りや史跡巡りといった事を行って歴史に触れることをしたことがあると思う。実は、思想史の場合は、これだけではダメなのだ。何故かといえば、古戦場や史跡は物体としてソコに存在しているが、これらは”何も語らない”からだ。

 確かに史跡を見て思う事、気が付いた事はある。だが、それはあくまでも”歴史家本人が思った事”でしかない。ましてや思想という場合は、人の考え方を相手にしているため、史跡巡りだけではまったく意味が無い。そこに”言葉”がなければならないのだ。

 

 『概説 日本思想史(佐藤弘夫編・ミネルヴァ書房)』という本には、「私たちがあれこれ考える時、頭の中を言葉が駆け巡る。考える営みや考えられたもの、つまり思想は言葉と共にある」と記されている。

 つまり、言葉で表されて始めて思想というものが解るのだ。逆に言えば、考古学的に発掘された遺物や史跡は、”モノ”であって”言葉”ではないために、思想史的には苦しい。

 無論、古代の鎧が発掘されれば、そこから当時の防具の在り方について一定の思想は理解できる。たとえば、中国様式の鎧が多ければ、中国の軍事思想の影響を当時は受けていたのだろうぐらいは解る。だが、それだけなのだ。

 「沈黙する遺跡や遺物に比べれば、文字はまことに多弁である。言葉を用いて考えるという営み、言葉を文字によって書き連ねるという営み、書き連ねられたものが今日にまで伝えられてきたという幸運、それがあってはじめて思想史の研究が可能になる」と前述した『概説 日本思想史』にも記されている。

 つまり、古代史に関して言えば”漠然”とした思想だけが汲み取れるだけで、それ以上のことは解らない。『古事記』や『日本書紀』といった文字で記されたものが出てくる平安時代ごろになって、はじめて思想史が可能になる。

 

例えば、恋人にしたい異性がいたとしよう。

その異性に指輪とか花束といった”モノ”を何度贈っても、「私は君が好きだ」という考えが伝わる可能性は低い。仮に伝わったとしても、相手が「好意があるのかな」ぐらいしか伝わらず、恋人同士になるのは難しい。

だが、「好きだ」と言葉にして相手に伝えれば?。或いはラブレターという形で言葉を伝えたら?。これは恋人同士になる可能性は高い。なぜなら、気持ちを言葉にして相手にハッキリと伝えているからだ。

 

思想史として上記行為を見るならば、第三者の立場になるからさらに難しい。だが、告白という行為の事実、あるいはラブレターという形での文書が残されていれば、これは当事者の意志を明確に証明できる。

したがって、思想史という場合、どうしても「言葉」が必要になってくるのだ。

この点が、思想史と他の歴史分野との最大の違いと言えよう。

 

 だから、新選組や斎藤一の思想をしろうとした時、私は『赤穂事件(忠臣蔵)』や『保科正之』の本を読んでいた。これを見た友人から怪訝な目で見られたりもしたが、私自身の考えでは”近藤勇の思想を知ろう”と思うならば、近藤勇を見ていてはダメだ。それでは近藤勇の事は良く解るだろうが、近藤勇の考えまでは解らない。近藤勇が見ていたであろうモノ、つまり当時”義士”と呼ばれて忠臣蔵と言う伝説になった赤穂浪士たちを見なければならなかった。なぜなら、近藤勇たちが新選組を結成した時、この赤穂義士が着たダンダラ模様を隊服にしたぐらい彼らは”憧れ”ていたからだ。

 

 まぁ、そんな感じで私は思想史に取り組んでいる。”本丸を落としたいなら、まず外堀から埋めないとダメだ”という気持ちで。