戊辰戦争・小田原藩の史跡 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 お盆連休中だというのに、今週一週間は関東の天候は雨模様。そんな中、少なくとも昨日の昼頃までは「曇り」という予報でした。なので、小田原に行くなら今日しか無いと決意を固めていたわけですよ。

 ところが、昨日の夜に予報は「曇り時々雨」と変わりました。ショックでしたが、それでも「時々雨」が降るぐらいならと、今日の早朝から小田原へ向けて出発したわけです。

 いや、まぁ実は通勤で厚木あたりまでは毎日行っている訳でして、実は小田原まで行くのに交通費はさほどかかりません(苦笑)。小田原藩支藩の荻野山中藩(厚木)にいたっては、電車代は通勤定期で全額出てしまうので、バス代しか掛からなかったりします(苦笑)。まぁ、行きやすいんですね。

 それはともかく、小田原です。

 

 

 小田原駅を出ると「北条早雲像」が見えます。今回は、小田原藩の戊辰戦争がテーマですから、戦国後北条は関係ありませんので写真だけ記念に取っただけです。まずは、ここから徒歩で「大久保神社」へ向かいます。

 この像の写真を撮っている時、ぽつぽつと小雨が降ってきました。予報は「時々雨」ですから、まぁ振りもするでしょうと、気にもせずに歩き出します。

 

 上り坂をてくてくと歩いて行く訳ですが、雨が次第に強くなります。「まじか?」と思いながら、すぐ止むことを祈りつつ坂道を登っていきました。外から雨水が、内側からは汗が服を濡らしていきます。むしむししてて湿気が多く、不快感がたまりません……。さほど歩いたわけでもないのに、大久保神社に着いたときは疲労がかなり溜まりました。

 

 

 大久保神社についた頃は、雨が次第に強くなりだした頃で、疲れ果てて境内で雨宿りをしつつ休憩します。

 この大久保神社は、小田原藩初代藩主大久保忠世、10代藩主忠真を奉る神社です。そして、ここに来た目的は下の写真にある碑を見たかったからです。

 

 

 この碑は「小田原藩士中垣謙斎が従五位になった事を記念して建てられた」碑でして、中垣は小田原藩が幕府遊撃隊と同盟を結んで明治新政府に敵対を決意した際、江戸から駆け付けてその無謀を藩主に説き、小田原藩を再び明治新政府側に鞍替えさせました。結果的に、小田原の町は戦禍を免れ、町を救った名士となっています。

 

 さて、この場所から次の史跡に移動しようと思い、地図を見ながら歩き出したんですが、地図上だと直線距離で行けそうなんだけれども、実は”山を1.2個越え”なきゃならない……。舗装されているので車なら楽なんでしょうが、徒歩だと「マジか?」ってなもんで、それに気付いて挫折します(苦笑)。いや、汗でぐっしょりだし雨は降るしで気力も削ってるんで。

 一旦、小田原駅まで戻り、箱根登山鉄道を一駅だけ使って移動する事にしました。小田原駅の売店で、おみやげ用の”小田原北条Tシャツ”が目にうつり、2000円という高値でも購入を決意します。単に”この濡れたTシャツから乾いたTシャツに着替えたい!”という一念だけっすね。とはいえ、ここで着替えるわけにはいきませんから、ともかく登山鉄道に乗って”箱根板橋駅”に向かいます。

 駅に到着し、また徒歩で目的地に向かいました。雨はさらに強くなります。「時々雨」ってどうなったのよ?と思いながら歩き続け、目的地の「板橋地蔵堂」に到着します。

 

 

 ここには、官軍(明治新政府)の慰霊碑があります。幕府遊撃隊と小田原藩が同盟を組んだ際、そうとは知らずに箱根を守る小田原藩兵を督戦すべく、箱根に向かっていた明治新政府軍軍監で鳥取藩士中井範五郎の一行が、幕府遊撃隊の襲撃を受けて殺されてしまいました。

 遊撃隊は、小田原藩と同盟したので小田原藩兵と共に小田原城へ向かっており、逆に箱根に向かっていた中井の一行とはち合わせたという訳です。行きがけの駄賃とばかりに、中井たち十三人は殺され、これにより小田原藩の明治新政府敵対が決定的となります。

 この中には、小田原藩支藩荻野山中藩士小野木守三もおり、中井と共に殺されてしまいます。

 さて、補足しておきます(苦笑)。上記説明は”小田原藩の公式的な主張”を受け入れた形の通説でして、実は下手人は遊撃隊ではなく、小田原藩だというのが濃厚なんですよね(苦笑)。というのも、小田原藩はかなり迷っており、ここで官軍軍監を血祭りにあげて腰の定まらない小田原藩の藩論を”主戦”で統一したいという政治目的もあった暗殺なんですわ。まぁ、小田原藩が再び明治新政府側に帰順した際、”下手人は遊撃隊で俺たちじゃないっす”とか言ってますし、これをとりあえず受け入れとかないと”何かと処分がメンドくさくなる(苦笑)”ので明治新政府側が認めたという感じです。確かに現場に遊撃隊はいましたが、この遊撃隊と一緒に主戦派の小田原藩士も一緒にいましたからね。まぁ、遊撃隊と小田原藩で共同して殺したのだと思います。同盟の結束を固める意味で、共同作戦で一蓮托生だよと。なので、下手人は遊撃隊と小田原藩の両方だというのが真相じゃ無いかなと思います。まぁ、確証はないんですけどもね(苦笑)。

 

 

 上記写真が、殺された十三名の慰霊碑です。また、山県有朋の書で忠魂碑(小田原市大窪地区出身戦没者慰霊碑)も建てられています。

 

 

 上記写真が、忠魂碑となります。

 

 再び箱根板橋駅に戻り、小田原駅へ。

 

 

 雨の中、戊辰戦争の際の反逆の罪を負って自刃した小田原藩家老二人の墓を探して廻ったんですが、ううん…調査不足の上に疲労困憊で挫折します(苦笑)。とにかく、雨が…強いんです…。

 もういいや、晴れの日にまた来ようと決意をかため、せっかく来たのだし小田原城に立ち寄りです。晴れた日の小田原城を撮影したかった……と思いつつ撮影。

 ともかく、疲労は溜まるし腹は減るしということで、迷わず本丸茶屋(飲食店)に入り、”たぬきそば(冷)”を食しました。いや、美味い。私の気力が10ポイントほど回復です(苦笑)。

 

 ちびっとだけ回復したので、最後の史跡に向かいました。

 

 

 再び小田原駅に戻り、東海道線で一駅のところにある「早川駅」で下車。再び徒歩でてくてくと「真福寺」に向かいます。ここには小田原藩士で箱根の戦いで戦死した人のお墓があります。

 

 「小田原藩士・鏡信一刀流の剣客高橋藤太郎」のお墓です。この人、あの”隻腕の美剣士”で有名な伊庭八郎の左腕を切り落とした人と言われています。まぁ、伝承なんで確証はないらしいんですけども(苦笑)。

 なにしろ、伊庭八郎が片腕になる話しには諸説あって、その諸説の一つが彼が切り落としたという説なんですね。どの説が正解なのか解らないので、本当かどうかは解りませんが、否定する事もできないですから。そして、高橋もこの戦いで戦死してるんですが、伊庭八郎に逆襲されたとか、片腕を切った後で四方から銃撃されて死んだとか、いろいろ諸説あるみたいです。

 

 ということで、ここで一応目的の史跡は見たということで、帰宅の途につきました。いや、何気にコミケよりも疲れたよ今日は。

 まぁ、晴れた日の小田原城の写真が欲しいとか、小田原藩の二人の家老のお墓の確認しなければという課題を後日に残しておりますので、近い内に再び小田原に行きたいと思っております。