江戸薩摩藩邸浪士と荻野山中陣屋 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

さて、今日は先日お話しした相州荻野山中藩の陣屋跡のご紹介です。

 

 荻野山中藩は、神奈川県厚木のあたりにあった一万三千石の譜代藩で、小田原藩の支藩にあたります。藩主は、大久保教義でした。

 元々は、駿河(静岡県)に領地を持っていましたが、後に相模国(神奈川県)にも領地を得ます。そして、藩庁である陣屋を愛甲郡荻野に移し、荻野山中藩となりました。

 

 

 上記写真は、現在は公園として整備された荻野山中陣屋跡に建てられた碑です。陣屋は、荻野台地から半島状に突き出た要害に作られています。『日本城郭大系・千葉・神奈川の城郭(新人物往来社発行)』によれば、「関東への陣屋移設という、通常では許可されない条件下では、これが要害地取りの限界であったと思われる」とあります。

 ザックリ地形を見渡すと、確かにこの陣屋の片側だけは低地であり、水田が広がっていました。逆に荻野台地の上からは普通に平地でつながっているので、そこから見れば要害とも思えないような地形です。

 もっとも、戦国時代とは違い、天下太平の世の中で出来た陣屋ですし、その目的も参勤交代の費用を軽減したいという思惑もあり、戦闘を目的とした砦では無いというのも大きいのかなと。

 

 

 上記写真は、陣屋跡である荻野台地と低地の境目です。石垣と平場のような造形がありますが、この地形が遺構なのか違うのか解らない。たぶん、公園へ整備する際に作られたものだろうと思うんだけどもどうなんだろ?。知っている方がおりましたら教えて下さい。

 

 

 公園のグラウンドの写真です。陣屋の遺構は、保存のために埋め戻され、盛り土をされておりますので見る事はできません。たぶん、このグラウンドの下に遺構が埋まっているのだろうと思うんですが。

 

 

 

 現在、遺構と呼べそうなものは、上記写真の「陣屋稲荷」だけかと思う。この小さな稲荷社は、陣屋中央部にあった藩主屋敷の鬼門に建てられたものだそうです。

 

 この荻野山中陣屋は、幕末に芝三田に集まった薩摩藩邸浪士に襲撃され炎上してしまいます。ここを襲ったのは薩邸浪士の内の相州挙兵グループで、鯉渕四郎に率いられていた一団だったらしい。

 その時の様子を、『相楽総三とその同志 上巻(長谷川伸著・中央公論社)』から見てみよう。

 

 「鯉渕四郎の一隊は陣屋に行き、陣代にむかい、長州萩藩の海野武助の一行であるが、国家百年の計のため、軍用金を納められたいと談判した。陣代はそれに応ぜず、遂に談判不調となった。浪士隊はあらかじめそれを承知できている。手早く陣屋に放火し、陣屋の武士以下を死傷させ、追いはらい、武器武具を奪い、倉庫にあった米などは使った人足たちに与え、宿舎を下平井村の久保田惣右衛門方にその日はとった」

 

 とあります。これだけだと、単に放火襲撃したという感じなんですが、実際には銃撃戦も起こっているらしい。この陣屋襲撃時に陣屋内にいた藩士天野政立の自伝『所世録(天野政立著・相模原自由民権百二十周年建碑実行委員会)』によると

 

「午後十時、神仏ノ燈明将サニ消ントスルニ当リ、荻野山中ノ陣屋表門ヨリ発砲、其音響数雷ノ一時ニ落ルガ如キニ驚キ、余ハ子供ナガラモ胸ニ浮ミ、之レ浪人ノ乱入ナラント感ジ、直チニ戸外ニ出テ見レバ、砲声連続火煙三方ニ揚リ、所謂焼キ打チナリ。」

 

 と、この事件の衝撃を伝えています。

 

 この時、薩摩藩邸浪士側の計画は「徳川慶喜による大政奉還によって討幕の密勅を潰された武力討幕派の西郷隆盛が、薩摩藩邸浪士に命じて旧幕府側を挑発し、暴発させようとした」というものだったと通説では言われています。

 しかし、私はこれは間違いだと確信をもっている次第。

 

 その根拠は、相楽総三ら西郷隆盛にあって指示を受けた慶応三年十月の時点での討幕派の計画は「討幕の密勅による挙兵」だけであり、大政奉還など想定していないこと。大政奉還が行われた後、薩摩藩京都留守居の吉井幸輔が江戸の薩摩藩邸益満休之助、伊牟田尚平に向けた書簡には、「云々之事(関東挙兵)状御見合可被成候、東西繰違ニテハ大ニ不便」とか「」其内今形御鎮静被下候様、御一同へ宜御伝言可被下候」と書かれており、江戸薩摩藩邸浪士に行動計画に対して「計画を見合わせるよう」に通達し、重ねて「鎮静にするよう」に指示している。(参考史料『相楽総三・赤報隊史料集(西澤朱美編・マツノ書店)』)

 これは、通説で良く言われている「大政奉還の後、窮した討幕派が江戸薩摩藩邸浪士に暴れて幕府を挑発するように指示した」とする説明と完全に真逆なのです。

 

 これらの史料を裏付けるものとして、西郷隆盛が江戸薩摩藩邸焼き討ち事件を聞いたという第一報の中で「壮士之者暴発不致様御達御座候得共、いまた訳も不相分…」と書いており、西郷隆盛自身が江戸の薩摩藩邸に「暴発しないように指示していた」ことが理解できるかと思います。しかも、西郷自身は同書簡の中で、幕府側に先に先手を打たれたと悔しがっているのです。謀略があったとすれば、逆に罠にかかったと大喜びする場面のはず。

 

 つまり薩摩藩邸浪士の行動に関して、当初は”討幕の密勅”によって薩長両藩が京都で挙兵したら、薩摩藩邸浪士達は関東で挙兵し、”東西同時挙兵”して旧幕府軍を全力で戦えなくする作戦だったのです。ところが、大政奉還によって討幕の密勅が無効にされてしまったため、薩長両藩は挙兵する口実を失います。それを江戸に知らせなければ、江戸の薩摩藩邸浪士が単独で挙兵してしまう。西は挙兵せずに、東だけが挙兵してしまっては困る。これが書簡にある「東西繰違ニテハ大ニ不便」という文言です。だから「見合わせ」ろと指示している。

 さらにその後の書簡では、かさねて「鎮静にするように、一同に伝言してくれ」と伝えています。これは、たぶん「見合わせる」ように指示したにも関わらず、薩摩藩邸浪士たちは”見合わせようとはしなかった”からこそ、改めて「鎮静にして何もするな」と指示しているのだろうと私は考えています。

 

 つまり、「西郷隆盛の謀略」なんて無い。と、私は考えます。まぁ、通説を変えるにはキチンとした揺るぎない根拠が必要なわけです。

 

 ちなみに、じゃあ「西郷謀略説」って、どこから出てきたの?という疑問が当然出てくるんですが、この説の出所もハッキリしており”旧幕臣(佐幕派)たちの一般認識”からです。

 戊辰戦争当時の佐幕派側の史料の多くから「薩長ら討幕派の罠にかかった」といった感じの記述が見られますので。

 

 では、最後の写真のご紹介を。

 

 

 この写真は、「烏山藩厚木役所跡」です。この烏山藩もまた小田原藩の分家にあたりますが、やはり薩摩藩邸浪士の襲撃を受けました。

 

 まぁ、こうした荻野山中藩の戊辰戦争を調べている真っ最中だったりするわけですね。