江戸薩摩藩邸焼き討ち事件関連の史跡 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 今日は、戊辰戦争の発火点となった江戸薩摩藩邸焼き討ち事件に関連する史跡を見て回ってきました。

 

 現在、私の興味をそそっている相州荻野山中藩が、この事件に巻き込まれている関係で、調べざるを得なかったというのが実情ではあるんですが(苦笑)。

 

 荻野山中藩は、神奈川県は厚木あたりにある譜代の小藩で、小田原藩の支藩にあたります。この荻野山中藩の本拠地、荻野山中陣屋が、薩摩藩邸の浪士達に襲撃されて炎上するという事件があったわけです。

 小なりといえども譜代の小藩であり、どこの誰だかも解らぬ不逞の輩に本城ともいうべき陣屋を破壊されたわけで、ただちに江戸の幕府に報じられ、本藩たる小田原藩から捕縛部隊が派遣され、幕府からは八王子千人同心が現場に急行しました。

 こうした事件が、最終的に薩摩藩邸焼き討ち事件という形になっていくわけです。

 

 まず最初に向かった場所は「赤羽橋」です。いや、単に家から電車で直行できるんで(苦笑)。

 

 

 『相楽総三とその同志・上巻(長谷川伸著・中央公論社)』には、

 

 「庄内藩に属していた新徴組六番組の小頭・中川八郎、庄内藩の徒士目附鈴木弥源太が、一組二十五人の部下を率いて、持場である芝三田界隈を巡邏して、赤羽橋際にあった蕎麦屋で美濃屋というのが屯所になっていた。そこへ帰って来て、夜食をとるため大半の者が草鞋を解いた。既に足を洗って畳の上へあがった者もあれば、足を洗っている者もある。そういう折柄、外から小銃がパラパラ射ちこまれた。六番隊の者がぎょッとしている中で、大島百太郎という気丈で気早のものが、刀を引ッつかみ、裸足で外へ飛んで出て、左右を見たが、中の橋方面にものそ反対の今の芝園橋方面にも、人影がまるでない。察するに射ちこみッ放しで、すぐ姿を隠したものらしい。そのうち全員が出て四方に追跡を試みたが姿が見えない。とはいうものの、感じでは、すぐ近くの薩摩屋敷へはいったと思える。さもなくして急に十人以上二十人ぐらいと思える人間の姿が見えなくなるということはない、こう思った」

 

とある。

 まぁ、今の赤羽橋の位置が江戸時代から変わっていないという保証は無く、その点は調べてません(苦笑)。私の興味は荻野山中藩であって、新徴組や薩邸浪士のことを専門的に調べているわけではないんで。今回は、あくまでも薩摩藩邸焼き討ち事件に関わる場所の距離感を掴むことが主たる目的ですから、この付近に新徴組が屯所にしていた蕎麦屋があったのだろうなぁ~ぐらいで私は十分なんですな。興味のある方は、古地図などで裏付けを取るなどして頂いて、後でこそーり教えて頂けると嬉しいかも(苦笑)。

 

 

 赤羽橋は、この古川にかかる橋でした。この古川は渋谷川ともよばれてもいます。いまはもう昔の面影もなさそうですが。このあたりに屯所があったのでしょうなぁ。ついでに言うと、この赤羽橋のあたりが薩摩藩邸攻撃部隊の集合地点にもなっており、四藩の藩兵が集まって三田の薩摩藩邸に向かったらしいです。

 

 さて、ここから”近くにあった”という薩摩屋敷まで徒歩で目指します。距離感を掴むために、あえて交通機関は使いません。というか、乗り換えが悪すぎなんで(苦笑)。

 

 

 てなわけで、地下鉄一駅分から二駅ぐらいの距離で到着しました。三田の薩摩屋敷です。ココが薩摩藩邸焼き討ち事件の舞台です。今は、NECという超有名な企業のビルが、”どーん!”と建っています。

 

 

 こんな感じで、”どーん!”と建ってます。バベルの塔みたい。

 

 ここを根城に動き回ってたのが相楽総三らを中心とする薩摩藩邸浪士の皆さんです。さて、ここからまた歩いて新整組のたまり場に行ってみます。

 

 

 

 三田にある春日神社です。再び『相楽総三とその同志・上巻(長谷川伸著・中央公論社)』を見てみましょう。

 

 「またも小銃の射ちこみがあった。今度は美濃屋の屯所でなく、今の三田通りの東側、春日神社の前に吹貫という寄席があった、そこを借りて庄内藩士の次三男ばかりで編成した火器隊のもの(新整隊)が、休息時間で、晩飯を集まって食っている。そこへ、十発か二十発か射ちこんだ。銃声に驚いて二階住居であった寄席の亭主が、梯子段をどンどンと急いでおりたが、その足音を聞いて応戦に出たと思ったのかたちまち射殺した。死者は亭主ともう一人、寄席の雇人の男が台所で即死を遂げた。この方は流弾にあたったのである。このときも何者が射ちこんだか、追跡したが姿が見当らない。いよいよこれは近くの薩邸の浪士のやったことだと、庄内藩側のものの勘が働いた」

 

 とあります。

 

 

 春日神社の前というと、ここらへんですかねぇ。春日神社の向かいを見回しています。まぁ、大雑把ですが、このへんなんだとという認識で、薩摩屋敷との距離を考えると……”マジで目の鼻の先”です。

 いや、まぁこんなところを庄内藩が警備でうろうろし、集団で詰めてたら…薩摩藩側からは”目障り”以外の何物でもないでしょう(苦笑)。まぁ、庄内藩から見れば、江戸の町を荒らしてんだから、自業自得で逆恨みもいいところという所ですが(苦笑)。どちらにせよ、江戸の警備を担う庄内藩や新徴組が、かなり薩摩屋敷を見張りまくったんじゃないかな。それが目障りで薩摩藩側の神経を逆なでしたのであろうという想像はできますが、まぁ史料的根拠が無いので証明はできないけどねぇ。

 

 とりあえず、春日神社に入ってお参りします。

 

 何か”茅の輪”とかあったので、御利益有りそうですね。とても綺麗な社殿でした。

 

 これで目的の史跡は見たのですが、時間があまったので飯田橋にある新徴組屯所跡にも行ってみました。

 

 

 こんな感じで、飯田橋に碑が建っております。

 

 

 近くには「日本赤十字社跡」とか写真の「東京農業大学開校の地」といった碑が建っています。榎本武揚が関係する大学ですね。

 

 荻野山中藩を調べている私にとっては、今回紹介した史籍は予備的なもので、メインではないんですが、戊辰戦争の発火点だという部分は重要で外せない場所でもあります。荻野山中藩の史跡も巡ってはおりますが、ご紹介するのはまたの機会の時にということで。