今日、前々から行きたかった足利氏の本拠地たる足利市の史跡を巡ってきました。

↑足利学校
足利は、言わずと知れた室町幕府を作り上げた足利氏の本拠地で、隣には新田氏の本拠地”新田荘”があります。新田の方は、あさくらゆう先生が存命中に何度か足を運んでいました。というのも、あさくら先生が調べている人物が新田の方にいたことから、レンタカーを借りて何度か行っていたんですね。その際、中世の武士道を調べていた都合で新田義貞に興味があったため、利害が一致して一緒にに行っておりました。足利市はその都度通過するだけで、ときより「足利学校」の看板が路上で出るたびに行ってみたいと思いつつもスルーし続けていたわけです。というのも、行き安さで考えた場合、足利市は電車線路が二社入っている上、各史跡も駅周辺に集中している。対して新田は史跡が駅から遠く離れすぎており、車がないとどうにもならなかったわけです。あさくら先生がレンタカーを借りてくれているから行けてたんですね。逆に言えば、足利の史跡は一人で行きたい時に行けば良い。新田はあさくら先生が調査に赴くタイミングをつかまえて、調査のついでに近場を通ったら立ち寄って貰っていた感じでした。
しかし、いい加減いつまでも”いつか行きたい”と思っているだけではダメだろうし、ブログ連載している「武士道論」も鎌倉時代に入り、いよいよ源頼朝だけでなく、鎌倉幕府で平氏の北条氏が台頭すると同時に源氏嫡流としての足利氏がクローズアップされてくる段階です。で、今回はGWを利用して行ってこようとということになりました。
電車で行ける場所の上に、見たい史跡も駅周辺に集中しているため、これまでみたいに歩き回って筋肉痛に苦しむことはないだろうと安易に考えていましたが、まぁ電車で行けるけど乗り換えが多く、電車乗ってる時間が長いんですわ。片道2時間30分罹りました。とはいえ、足利駅に着いてしまえば早いわけで、いつもの史跡巡りと比べれば疲労はしなかったなぁと(苦笑)。
まー、テーマが平安~鎌倉時代関連の史跡に限定してしまえば、足利氏居館跡と足利学校の二ヵ所、いずれも駅から徒歩15分内なので楽なんですが、戦国時代まで含めると山城があるので登山になってしまう。さすがにそこまでの時間は無いということで、室町戦国期の史跡は外しております(苦笑)。
ということで、今回も写真が多いので、解説はそこそこにしてサクサク進めて行こうと思います。

↑足利学校跡・入徳門
まず行った場所は「足利学校」です。日本最古の学校として神奈川の金沢文庫と並び称される学校です。金沢文庫は鎌倉時代に作られていますが、こちらは奈良説や平安説、鎌倉時代(初期)の創建とされています。諸説あって創建時期が特定できませんが、間違いなく金沢文庫よりも古いと思われるわけです。
史料的に確認できるのは、室町時代の関東管領上杉憲実が漢書を寄進したことがわかっているため、それ以前に学校として存在していたことは間違いないと思われます。
何を勉強していたのかと言えば、当然”漢学&儒学”です。というか明治時代になって西洋学問が入って来ない限り、日本で学問といったら普通は漢学&儒学を指します。余談ですが、歴史出版社の武将ジャパンで商売しているライターたちが「坂東武者は文字の読み書きができない」と”坂東武士はバカしかいない”的な喧伝し広めていますが、この時代の読み書きって「漢文」ですよ。ひらがなじゃない……。あのライター陣に「漢文読めるか?」と問えば、一体何人のライターが「文字の読み書きができるライター」になるのでしょうね?(苦笑)。実際問題、年貢や税を納めたり集めたりするのが武士です。ひらがなも含めて完全に読み書きできなかったら、そういう武士はどうやって年貢の量や規定量の税を庶民から取り立てたり、朝廷に税を納めたりするんでしょうか?。ご存じの通り、京都の朝廷からは文字が読める徴税士みないな取り立て人がチェックしに来るなんてことはないわけです。武士が庶民から規定量を取り立て、中間マージンを差し引いた上で朝廷に税を納めてる。文字や数字が読めなかったら武士にはなれません。ということぐらいプロライターなら考えついて欲しいなぁと思っています。閑話休題。

↑足利学校由緒

↑学校門

↑孔子廟

↑説明
儒学なので、孔子像が置かれた孔子廟があります。孔子を奉っているのですね。この点、江戸の湯島聖堂や水戸弘道館と同じです。とはいえ、湯島聖堂や水戸弘道館と比べるとこじんまりとした印象があり、コンパクトでした。まぁ江戸時代は完全に儒学を武士の義務教育としていたので、幕府や藩がキッチリ家臣全員が学べるように整備していたのに対し、足利学校の基本は「自学自習」です。そのために多くの漢書を所蔵し、必要に応じて読むことが出来る図書館の役目が主たるものだったろうと思います。

↑方丈(教室・学問を講義したり自習したりする場所)

↑方丈内部
方丈の内部が上記写真となります。広いといえば確かに広いんですが、それが一部屋だけなんですよね。水戸弘道館だとこうした部屋が数部屋ありますので、やはり比べてしまうと規模的には小さいのかなと思います。

↑上杉憲実像

↑説明
関東管領上杉憲実像です。関東管領として鎌倉公方を補佐する立場でしたが、鎌倉公方足利持氏が室町幕府六代将軍足利義教へのライバル心から対立。憲実は幕府との調和を保とうとしたために鎌倉公方から幕府側と見られ、ついに永享の乱に発展していきます。結局、室町幕府が持氏討伐に出てきたため、鎌倉公方側が敗北して乱は終わりましたが、これが後々しこりとして残り、関東戦国時代の幕開けとなる享徳の乱を誘発させていくことになります。

↑礼記正義

↑説明

↑尚書正義

↑説明

↑周易注疏

↑説明
これらは関東管領上杉氏から寄贈された漢書となります。特に『礼記』は四書五経の一書であり、朱子学を創始した朱熹は、この『礼記』の一節だった『大学』や『中庸』を抜き出して一書とし、四書五経の列に加えました。内容的には中国古代の王朝”周”の頃の宮廷儀礼や礼儀作法、冠婚葬祭の方法などを細かく記してまとめた大著となります。

↑文選

↑説明
これは以外でした。戦国期の小田原北条氏四代目、北条氏政も漢書を寄贈してたんですねぇ。後に豊臣秀吉に対して徹底抗戦し、小田原北条攻めで滅ぼされてしまうことになりますが……。

↑足利学校の外郭にある土塁と水堀
足利学校の敷地は正方形となっており、武士の中世居館と同じように土塁と堀に囲われています。いざという時の防禦構築なんでしょうかね?。
とりあえず足利学校の方は一通り巡りましたので、次の「足利氏居館跡」に向かいます。といってもすぐ隣ぐらいの近さなんですが……。

↑足利尊氏像

↑足利尊氏像

↑説明
途中に足利尊氏像がありました。尊氏に関しては誕生地がはっきりしておらず謎です。ただ、可能性が高いのが鎌倉説。鎌倉幕府の元では有力な武士は皆鎌倉に館を持ち、そこを拠点に領地支配をしていました。足利氏も本拠地こそ足利荘ですが、生活地は鎌倉です。なので順当に考えれば足利尊氏も鎌倉で生まれ、鎌倉で少年時代を過ごしていたと考えられるわけです。が、史料的根拠が全くないなので、尊氏の少年時代は謎のままというのが現状となります。

↑足利氏居館跡「鑁阿寺」
上記の場所が、足利氏居館跡となります。伝承では八幡太郎源義家の子源義国と義国の子義康の二代に渡ってここを居館としてたと伝わります。後に義康の子であり、源頼朝の従弟でもある足利義兼がここに鑁阿寺を創建。以来、奇跡的に戦乱の戦禍に一度も合うことなく現在に至っていると言います。
ということは、平安時代末期の武家居館のまま現代まで残っているという部分が奇跡だったりするのです。もっとも、江戸時代以前の大寺は僧兵に守られていたりするのが普通なので、防禦用の土塁や堀といった防禦遺構は後々増設されているでしょうから平安鎌倉時代のままということはないと思いますケドも。また、近年の武士居館研究の進展から、平安鎌倉時代の武士の居館は、土塀や板塀程度の防禦であって堀などはなかったとされていますので、大きな土塁と水堀は室町期のものである可能性が高い。とはいえ、土塀や板塀だけの武士館は鎌倉の館の話であって、武士の本拠地たる本貫地の居館は土塁と堀によって守られていたという可能性は少なからずあるのではと個人的に思っていたりもしますが……この点は、後の研究進展を待つ他ないと思っています。

↑反橋

↑楼門

↑説明
上記が鑁阿寺の正面玄関たる山門になります。

↑鑁阿寺由緒

↑鐘楼

↑説明
鎌倉時代の創建時のまま残っているという鐘楼です。

↑本堂

↑説明
やはり鎌倉時代の創建時のまま残っている本堂となります。長い歴史のなかで一度も戦禍に合っていないので、創建時のまま(まぁ改修とか修繕とかはあったのでしょうが)残っているのは凄すぎです。そりゃあ国宝にもなりましょう。

↑御霊屋

↑説明
源氏祖先を奉る御霊屋です。源義国や義康など足利氏の祖先を奉っているのだそうです。説明にあるとおり、本殿の最奥部に義国・義康の墓と思われる石塔がありました。

↑経堂

↑説明
やはり創建時のままの形態を守っている経堂。普段は非公開ですが、私が行った時は特別公開となっており、内部に収められている足利15代の木造を拝見できました。加えて足利氏が奉納したお経が収められているという輪蔵を回しても良いと言われてしまったので、お恐れながらと一周回させて頂いた次第です(苦笑)。っていうか、最初はチベット仏教とかにあるお経が掘られた小さな車(マニ車)を回すのだろうと思って探していたら、係員の人に「コレ」と言われ、経堂のど真ん中の中心に置かれている巨大な八角の書架を指さしたのでビビリました。「こ…これかい!これを回せと!?」という感じで、巨大な八角形の書架を回してきたですよ(苦笑)。
他にも境内には多くの建物があり、いずれも文化財指定を受けております。写真撮影だけはしてありますが、ここでは割愛します。そんな感じで、建物関係を一通り見て回ったので、次は外周を取り囲む土塁と水堀を一周~二周して見て回ってきました。

↑土塁と水堀
鑁阿寺は武士の居館跡でもあるので、中世武士居館の跡がそのまま残っている形になっています。居館の形は一辺約200メートルの正方形。上記写真はその一辺の土塁と水堀を撮影しています。四方ともこんな感じです。

↑土塁上部

↑土塁上部
土塁は上れるように階段がありますので上ってみました。いやぁ中世居館の雰囲気が感じられて良いですなぁ~。ずっと寺だったこともあって整備が行き届いております。ちゃんと正方形に土塁と水堀で囲っており、四方それぞれに門がありました。
ということで2周ぐらい見て回りまして、これで今日みたいものは一通り見た感じとなります。

↑鑁阿寺の売店でやきそばを食います。
時間的にはお昼過ぎぐらいに一通り見終わった感じでした。まだ時間はたっぷりありますので、お昼ご飯にやきそばを頂きます。というか、よく考えたら朝ご飯を食べるのを忘れていたのでした(苦笑)。
食べ終わったところで帰宅の途についても良かったのですが、最後に一ヵ所だけ見て回るべきところがありますので、そちらに向かいます。

↑国府野遺跡

説明
鑁阿寺・足利学校とは線路を挟んだ反対側に「国府野遺跡」があります。遺構は埋め戻されてしまっているので、一見単なる市街地でしかありませんが、ここから古代の建物跡が発掘されており、古代足利郡の郡衙跡だろうと推定されている場所となります。一節では、足利学校も元々はこちらにあり、後に現在の場所に移されたという説もあります。ここに郡衙があったとすれば、併設される形で古寺が会った可能性も否定できません。真偽の程はわかりませんが、少なくとも奈良時代以前の古代において、この場所が足利の中心ではあったのだろうと思われます。
以上、非常に有意義な見学をさせて頂いた一日となり、とても楽しかったです。これで新田荘と足利荘を制覇ということで、安心して武士道論の方を鎌倉時代から南北朝、室町時代へと薦められる準備が整ってきたといったところです。

↑ゲットしてきたもの
図録やブックレットなど、買ってよさそうなものは全部購入(苦笑)。特に室町時代の儒学に関しては、まだ知見がないので調べなきゃと思っているところですので。すると次の目的地は「金沢文庫」かねぇ。
ということで、そろそろ室町中期から後期、戦国期の史跡も巡っていきたいと思いますので、今後とも乞うご期待ください。