鎌倉時代最大の特徴が、鎌倉幕府という武家政権の誕生にあることはすでに述べた通りである。しかし、この「幕府」なる組織がいったい何なのかという定義については、今現在も歴史学会で議論が続いており、定説が確定しているわけではない。近年、鎌倉幕府の成立年度が「1192年」から「1185年」へと変更されたが、これとても学会での議論が「源頼朝が征夷大将軍に就任した日をもって、鎌倉幕府が成立した」という解釈から、「朝廷が源頼朝に全国規模で守護・地頭の設置を許したことで、頼朝の支配とその影響力が日本全国に及ぶ状態となった日をもって、鎌倉幕府成立した日とする」と解釈が変更されたからだ。この議論は現在も続けられており、なかには「武家が政治の実権を握った」ことを幕府の成立と定義するのであれば、平清盛の平家政権こそが日本最初の武家政権となるから、清盛の館があった場所から「六波羅幕府」と名付け、これを日本最初の武家政権とすべきといった議論もある。
↑平氏六波羅政庁跡(京都府・六波羅蜜寺)
この他にも、日本全土統一政権という定義を取らず、武士が独自に政治行政府を作れば幕府と呼べるのではないかという定義をする歴史家もおり、この場合は奥州藤原氏による平泉幕府といったものも提唱されている。
そもそも、幕府なる組織名自体が後世に名付けられたものであり、鎌倉幕府初代の源頼朝も室町幕府初代の足利尊氏も、江戸幕府の徳川家康まで「幕府を開く」と宣言したわけではないため、幕府の成立年度も幕府という組織の定義も歴史家の解釈に任されているというのが現状だ。したがって、鎌倉幕府の成立も今は1185年だが、解釈が変わればまた変更されることになろうかと思う。このように「幕府」という組織は定説がなく、実は把握が難しい状態だ。歴史学の世界では、混乱を避けるためにあえて「幕府」という用語を用いずに「武家政権」という用語の場合もあるようだ。
ここでは武家社会と武士道精神を連結させて論じている都合上、この幕府なる組織の本質を見極めておく必要がある。そこで、幕府とは何であるかを少しだけ論じてみたい。
【1.幕府とは何か】
まず最初に、この幕府という用語の起源から論じて行こう。先にも述べた通り、幕府を創設した源頼朝、足利尊氏、徳川家康らは「幕府を開く」といった宣言は全くしていない。このことから幕府とは後世の人々が京都朝廷と区別するために用いた武家政権の呼び名である。天皇の朝廷と将軍の幕府という見方だ。
この幕府というものも、「幕」は陣幕や天幕を指し、「府」は役所を意味する。また「幕府」も中国史において将軍が現地で陣地を作り幕を張って配下の部隊に命令を発したところから「幕府」という用語が使われ、日本でも近衛大将(左/右近衛大将。頼朝は右近衛大将に任官している)の「唐名」として用いた。
簡単に言えば幕府とは、中央から地方に派遣された軍の総司令部、もしくは近衛大将の総司令部のことを指す。例えば軍を率いる総司令官を直接補佐する人々を「幕僚」と呼んだり、総司令官と幕僚が揃っている指揮所や役所を「幕僚府」と呼ぶ。現在でも陸海空のトップは自衛隊の総司令官たる総理大臣を補佐する職として「幕僚長」と呼ぶのと同じである。
つまり、幕府とは本来「軍の総司令部」の意味だ。これは古代日本でも同じである。
加えて幕府と征夷大将軍という役職も本来は全然関係がなかった。というより鎌倉幕府成立以前となると征夷大将軍は、鎌倉幕府成立以降のように武家から特別視されるような役職ではない。
奈良時代から平安時代にかけて、大和朝廷は東国蝦夷を相手に三十八年にも及ぶ長期戦を戦っていた。当然、中央の奈良や京都から遠く離れた東北地方へ軍を派遣し続けていたわけだが、この際に用いられていた役職名は、征東大将軍や征東大使である。これらはいずれも令外官で臨時に設置された役職で、任務が終われば解散した。しかし、蝦夷と長い戦いの中で、奥羽を常時監視し必要に応じて軍を動かせる役職を設置する必要が出てきたため、「鎮守府将軍」という役職が設置される。鎮守府将軍は蝦夷と戦う総司令官として陸奥国府や多賀城に常駐した。これが常態化して朝廷内の武官役職名として定着している。例えば、平将門の父平良将(良持)が鎮守府将軍になっており、将門はその子として最初から武士の血統として朝廷内で滝口の武士の役に付いている。
こうした将軍職にある者は、武官として軍事を総指揮する立場ではあったが、東北地方の政治行政は国司(受領)が担当していた。その意味では大将軍はあくまでも軍事を司り、軍を率いることに限定されていたと言えよう。
しかし、鎮守府将軍の指揮でも戦局が思わしくない場合、鎮守府将軍とは別に征東大将軍などが任命される。いわば鎮守府将軍の援軍という形になるのが順当だが、鎮守府将軍の指揮権を取り上げ、別の大将軍に指揮させたいと朝廷が思った場合は、征東大将軍の指揮下に鎮守府将軍が置かれたりしている。また征東大将軍と違う名称として征夷大将軍の役職名が使われたりした。征東も征夷も敵は東国の蝦夷であって同じ意味でしかない。
794年に日本史上最初の征夷大将軍は、古代軍事氏族の代表格大伴氏の大伴弟麻呂だ。同族に『万葉集』を編纂した大伴家持がいる。家持は歌人として有名だが、本来は古代軍事貴族であり大和朝廷の武官として782年に陸奥国鎮守府将軍に任命されている。
この大伴弟麻呂が征夷大将軍になった時、副将軍の立場で活躍したのが坂上田村麻呂だった。
797年、再び蝦夷征討する際に征夷大将軍になった坂上田村麻呂は、この数年前から陸奥国司と陸奥国鎮守将軍を兼務しており、新たに征夷大将軍の役職が兼務で追加されている。このため、陸奥国の地方政治行政と軍事全般全てを担当する立場になった。そして蝦夷の長アテルイを倒して奥羽を平定することに成功する。
この時、坂上田村麻呂は軍事行政を行う役所(陸奥国府・多賀城)にあって、敵将の処遇や占領地の行政も行っており、さらに配下の武官達を指揮する場所(例えば多賀城)に在陣していたから「幕府」的な機能を持っていたはずである。
このように大将軍になった者が軍を率いる総司令部や幕僚府の設置については、律令法令にも記載があるのだ。
『養老律令』には下記のような条文があった。
軍防令 24条
「将帥の出征に関して、兵が10000人以上を満たしたなら、将軍1人、副将軍2人、軍監2人、軍曹4人、録事4人(を置くこと)。5000人以上ならば、(そこから)副将軍・軍監を各1人、録事2人を減らすこと。3000人以上ならば、(さらに)軍曹を2人減らすこと。それぞれ1軍とすること。3軍ごとにそれを統括する大将軍1人(を置くこと)。」
軍防令 25条
「大将の出征にあたって、軍に臨んで敵に対しているときに、大毅以下が軍令(大将のみが出すことのできる作戦指令)に従わず、また、軍事を怠ったり違反して緊張に欠け覇気を乏しくすることがあれば、(律によって)死罪以下(に相当するもの)は、いずれも大将が斟酌して(勅裁を経ずに)決定するのを許可すること。帰還の日に、事情をつぶさにして太政官に申告すること。もし敵や賊に臨んでいない場合は、この令は用いない。」
とあり、大将軍が軍を総指揮する上での人材(幕僚)の規定があり、かつ遠征地での指揮や軍の統制のための刑罰や敵将の処遇といった決裁権も総司令官たる大将軍が保持しており、天皇や朝廷の裁可を求める必要なしとなっている。
坂上田村麻呂は奥羽征伐完了すると京都へ帰還。征夷大将軍の任も任務完了で解かれた。大伴弟麻呂も同様である。征夷大将軍は蝦夷を討伐することが任務であり、それが終われば解体解散するのは当然だったのだ。解体されれば征夷大将軍の元で働いた武官・幕僚も役職を解かれ、褒美と共に新たな役職を得た。征夷大将軍という役職は、あくまでも戦時における臨時職だったのである。

↑鎌倉のミニチュア(国立民族学歴史館)
【2.鎌倉幕府における征夷大将軍】
前述したように征夷大将軍という役職に特別な意味はなく、読んで字の如く蝦夷を征伐する大将軍という意味しかなかった。それは征東大将軍と同列のものである。これを武家の棟梁の意味を加え、武士にとって特別な役職に押し上げたのが源頼朝だ。無論、頼朝が意図的にそうしたわけではない。これは結果的にそうなったというだけで、頼朝はほとんど意識していなかったろう。
1180年よりはじまった治承寿永の乱、いわゆる源平合戦において頼朝が当初は官位を剥奪された罪人でしか無かったことはすでに述べた通りだ。当然、罪人の立場である頼朝には、本来は地方の武士たちに対する所領安堵や新しい所領を与える新恩給与といった権限は本来ない。ないにも関わらず、頼朝は天皇や朝廷の許可を得ずに勝手にこれを行い、関東の武士(兵・つわもの)たちもこれを受け入れて従った。結果的に、頼朝軍は早い段階で軍を率いるための機能を備えることになる。頼朝の元には外戚の北条氏や有力な地方武士団たる三浦党や千葉氏、上総氏が頼朝を支え、その幕僚となっている。
1180年10月に頼朝は鎌倉入りを果たすが、その二ヶ月後には侍所を設置して関東武士団を総指揮、統制するための役所を設置。三浦党の和田義盛を侍所別当(長官)に任じた。これによって、頼朝が自分に従う地方武士団を統括することが可能となる。歴史家によっては、ここから鎌倉幕府が始まったとして1180年を鎌倉幕府成立の年とする見解があるほどだ。
治承寿永の乱によって平家を滅ぼすと、今度は頼朝と義経の確執が深まり、ついに両者は武力対立へと発展した。といっても義経の元には武士団が集まらず、戦わずして義経は敗北してしまい奥州へ落ち延びる。一方、頼朝は義経追捕を理由に日本全国に捜査網を広めようとし、朝廷に対して日本全国の警察軍事権を自分に任せるように要請。1185年に「文治の勅許」を得た。これによって、頼朝は「日本国総追捕使・総地頭」の地位を認められた。こうして頼朝は日本全国の守護・地頭の任命権を手に入れる。同時にそれまで頼朝が勝手に任命していた在地武士への地頭職も、朝廷は事後承諾の形で認めることになる。
かくして頼朝が日本全国規模での軍事・警察権を掌握したことで、頼朝の影響力は日本全土に及ぶことになった。それまでは頼朝が侍所を作ったとはいえ、それは朝廷公認のものではなかったし、あくまでも関東という一地域で行われる地方政府でしかなかった。だが朝廷が全国規模で行う事を許可したこの「文治の勅許」によって、頼朝が作った関東地方政府は、日本全土の治安維持・安全保障を担うこととなり、かつ天皇・朝廷の軍事力をも総括する軍事組織となる。現在、これをもって鎌倉幕府の成立した年とするのが通説だ。
だが、それはあくまでも朝廷が許可したというだけで、実際には奥州藤原氏は鎌倉幕府とは別の勢力として残っていたし、西国でも平家の所領は取り上げて鎌倉幕府配下の武士たちに分け与えたものの、天皇や皇族、藤原摂関家といった京都朝廷の上級王臣貴族の所領については頼朝も手は出せない。その意味では、こうした地域は鎌倉幕府の支配からは外れており、1185年に幕府が成立したと認定しているものの、鎌倉幕府が日本全土を実質的に支配できていたかといえば否となろう。
1189年、頼朝は奥州へ侵攻して奥州藤原氏を滅ぼし、ようやく東北地方をその影響下に収めた。これによって東国の支配は完了したのだが、依然として天皇や皇室の所領、上級王臣貴族の所領には手が出せない。
また頼朝軍の財政や軍資金を統括する役所「公文所」や「問注所」が設置されたのは1184年で、1185年の「文治の勅許」を待たず幕府の各行政機関と役所は設置されている。
1190年に頼朝が右近衛大将に任官して公卿に列せられた。これに合わせて「公文所」が「政所」に改称した。これらの事実から、朝廷の承諾を得る前の段階で鎌倉幕府の政治行政機能とその役所は整えられていたといえよう。
「幕府」という名称も近衛大将を指す唐名である以上、征夷大将軍よりも右近衛大将への任官が重視される。頼朝が右近衛大将の官職を得たことで、頼朝率いる軍の本陣(総司令部・幕僚府)は幕府と呼ぶべき組織体となるからだ。
そして1192年、ついに頼朝が征夷大将軍に任官した。大将軍になったことで配下の武士や幕僚、敵将に対する賞罰や刑罰の裁定権を得た形となる。もっとも頼朝はすでにそうした行為は以前から行っていたから、後付けで体裁を整えた程度であったろう。
征夷大将軍という役職も、『平家物語』などの軍記物では頼朝が切望したものとして描かれるが、より信頼性の高い史料『山槐記』によると、実は大将軍であれば何でも良かったらしい。ただ「惣官(畿内の治安維持と行政監督を行う)」は平宗盛が任官しており、征東大将軍は木曽義仲が任官していた。両社共に滅ぼされているため凶例として敬遠され、鎮守府将軍は奥州藤原氏三代目の藤原秀衡が任官している。したがって征夷大将軍しかなく、これならば蝦夷を征伐した坂上田村麻呂の吉例になるとして採用に至ったようだ。
なお、木曽義仲が征夷大将軍に任官し、旭将軍と言われていたとする従来の通説は史料『吾妻鑑』や『平家物語』に見えるが、近年の最新研究によると『山槐記』等の公家の史料から征東大将軍に就任したとされており、史料の信頼性から後者の説が支持を集めている。『吾妻鑑』や『平家物語』は後世の作であり、著者による作為や誇張も入っているのに対し、『山槐記』は公家中山忠親の日記なので史料としての信憑性が高いのだ。したがって本稿でも最新の木曽義仲は征夷大将軍ではなく征東大将軍だったとする説を採用して論じることとする。
これによって鎌倉幕府成立のすべての条件が整ったのかと言えば疑問も残されており、畿内西国の天皇皇室の領地や藤原摂関家などの上級貴族の所領や庄園に対する影響力を鎌倉幕府は持っていなかったから、日本全土を支配下に収めていたわけではないという問題が残されている。しかし、ここで注目すべきは臨時職であったはずの征夷大将軍と率いている軍を、頼朝は常設にしてしまったことだろう。頼朝以前の征夷大将軍たち、例えば坂上田村麻呂など任務を完了したら征夷大将軍の任は解かれ、その軍や総司令部は解散している。ところが頼朝は治承寿永の乱が終熄し、ある程度平穏な情勢下でも関東諸武士団の棟梁「鎌倉殿」として君臨、征夷大将軍の官職を得ることで配下の武士達の賞罰を決定できる権限を保持維持した。有力な武士団の長も鎌倉に屋敷を構えて常駐する体制は、頼朝軍の総司令部が平時でも”常在戦場”のままの戦時体制だったことを示す。つまり、頼朝によって作られた武家政権=幕府とは、戦時体制を維持することで軍総司令部を常態固定化したのである。軍の構成員や敵軍の賞罰は征夷大将軍つまり幕府の専断事項なのは当然で、朝廷が作った「律令法」にある通り大将軍(征夷大将軍・近衛将軍)の職務上の権利である以上、天皇や朝廷といえども口出しはできない。画期的だったのは、頼朝はこうした戦時情況での大将軍の権限を利用し、武家政権を確立したことだ。これ以後、前例主義に基づき、幕府とはそのようなものとして固定化された。
そして、鎌倉幕府以降から続く室町幕府や江戸幕府も考え方は同じで、武士達には平和な平時であっても、心構えとしては”常在戦場”であることが求められたのである。
【3.天皇と朝廷を屈服させる鎌倉幕府】
鎌倉幕府が手を出せなかった天皇皇室領や上級王臣貴族の所領を支配するのは、頼朝が死去した1199年より22年後となる1221年のことだ。この年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時を討伐しようとした。この時、北条義時は鎌倉幕府内の権力抗争で有力御家人との軋轢もあり、鎌倉幕府内の結束は乱れていたのだが、北条政子の呼び掛けによって御家人たちは一時的に結束し、朝廷軍が鎌倉に攻め上る前に逆に京都へ攻めかかる作戦を取る。
鎌倉幕府軍の動きは早く、後鳥羽上皇側は西国武士団の招集が間に合わない。その結果、朝廷軍は鎌倉幕府軍に敗れてしまう。勝者となった鎌倉幕府と執権北条義時は、鎌倉幕府の「ご恩と奉公」の論理にしたがって敗者の領地を奪い、働きのあった武士に新恩給与として与えた。つまり、それまで手を付けることができなかった天皇領や摂関家など、上級王臣貴族の所領を没収し、戦功のあった幕府御家人(武士)を地頭として送り込んだのである。
さらに後鳥羽上皇や時の天皇たる仲恭天皇は廃位とした。北条義時は、日本史上初めて上皇や天皇を処罰した武士となり、鎌倉幕府は朝廷すら処罰できるという実力を世に示すことに成功する。これ以後、天皇や朝廷は幕府の意向を無視できなくなり、朝廷と幕府の権力地位が逆転してしまう。実際、鎌倉末期となると幕府は朝廷の上にあるという意識が武士の間で一般化した。滑稽なことに後醍醐天皇の倒幕計画が露顕した際は、幕府内で「天皇御謀反」と騒がれている。幕府のトップたる征夷大将軍位は、日本国王たる天皇から与えられているのにだ。この一事を見ても、朝廷と幕府の立場逆転が起こっていたことが解る。
話を戻そう。この承久の乱の勝者となった鎌倉幕府は、近畿西国地域も鎌倉幕府の影響下に置くことに成功した。これによって、ようやく鎌倉幕府は名実共に日本全土に影響力を及ぼせる政権の地位を確立したといえよう。
ただし、征夷大将軍は「鎌倉殿」と呼称されており、「将軍」という名称では呼んでいない。このことからも征夷大将軍という官職はお飾りや建前に過ぎず、鎌倉幕府権力の正当性上必要な肩書きでしか無かったろうと思われる。実際、この後は征夷大将軍は正にお飾りとなり、実質的に実権を握るのは執権あるいは得宗と言われた北条氏となっていく。
【4.幕府という名の武家政権の本質】
以上、こうした経緯から鎌倉幕府という組織体の成立過程を見ると、鎌倉幕府というものが結果的に出来上がったものであり、頼朝は最初から鎌倉幕府という政権を作ろうとはしていなかったことが解る。また「幕府」という名称も、本来は右近衛大将に任官した頼朝の政庁程度の認識に過ぎず、幕府なる名称が認識されるのも鎌倉時代末期の後醍醐天皇が討幕を意識されてからだ。それまでは、「鎌倉幕府」と言うよりも「鎌倉殿」あるいは単に「関東」と言われていた。
また、幕府の場所も政庁とされてはいるが、実態としては政権の中心人物の住居・館で政治行政が決定されていたことから、館が政庁であり幕府の所在とされていたらしい。例えば初代将軍頼朝の屋敷が大蔵にあったから「大蔵御所(幕府)」と呼ばれ、後に四代将軍九条頼経の館が「宇都宮辻子御所(幕府)」、手狭になってきたために引っ越せば「若宮大路御所(幕府)」と御所(幕府)の名を変えている。これは多少なりと幕僚府の意味が残っていたため、陣幕(将軍の本陣)の位置が変われば名も変わったものと思われるが、そもそもすべて「鎌倉殿」と言われていたのだから名称変更は後世に便宜上付けられたものと私は推測する。
↑大蔵幕府跡・源頼朝館跡(鎌倉市)
↑宇都宮辻子幕府跡(鎌倉市)
↑若宮大路幕府跡(鎌倉市)
幕府という名称と征夷大将軍という役職が結びつき意識されてくる切っ掛けは、鎌倉時代末期の後醍醐天皇の討幕活動と続く南北朝戦乱時に、室町幕府初代将軍となる足利尊氏が征夷大将軍の役職を欲したことだった。鎌倉幕府の長い支配体制のなかで鎌倉幕府のトップが征夷大将軍だったことが慣例化し、幕府を開くためには征夷大将軍の官職が必要だという認識が持たれるようになったのである。同時に朝廷のトップは天皇、武家のトップは征夷大将軍という認識も慣例化し、かつ朝廷権力は公家を幕府権力は武家をまとめるという住み分けも慣例化していた。
加えて「征夷大将軍になれるのは、軍事貴族のなかでは源氏だけ」という認識も、南北朝争乱と室町幕府成立の過程で作られ成立した。これは鎌倉幕府時代を通じて将軍となった者が源頼朝といった源氏の血統か、天皇の血統である摂家(上級公卿)、親王に限定されており、桓武平氏だった北条一門が征夷大将軍に就任していないことから作られていった。勿論、北条得宗家が征夷大将軍の地位を欲しなかった理由は、血統の問題とはまったく関係がない。実権を握っていた北条得宗家といえども、幕府内の公式的な立場は、源氏たる足利氏や新田氏と同じ御家人なのである。北条家が征夷大将軍になってしまうと、本来同格であるはずの御家人たちの不満を抑えきれなくなることが予想された。なぜなら御家人達に新恩給与したり本領安堵している主体は、あくまでも征夷大将軍であって北条氏ではないからだ。御家人達が「ご恩と奉公」の関係のなかで忠義を向ける相手は、征夷大将軍であって、御家人としては同格の北条氏の家臣になることは認めがたい話であったろう。それを理解していた北条家はあえて将軍の位を欲せず、京都の摂関藤原氏や天皇の血族たる親王を将軍として擁立、自分も他の御家人同様に将軍に仕え補佐する立場に居続けたのである。
鎌倉時代末期に公家一党の政治を目指し、武家を公家の下に置いて支配しようとした後醍醐天皇は、足利尊氏の征夷大将軍就任要請を拒絶、両者の対立は深まり、ついに朝廷が南北二つに割れた南北朝戦乱を引き起こす。足利尊氏は北朝を成立させた後に光明天皇より征夷大将軍に任命され、強引に室町幕府を成立させた。
ただ足利尊氏は右近衛大将へは任官していないため、本来なら彼の政庁に幕府の名を用いるのは変だ。後の二代室町幕府将軍足利義詮も右近衛大将に任官しておらず、三代足利義満でようやく右近衛大将を任官し体裁を整えた。このことから、本来なら近衛大将の総司令部を意味する幕府という意味が消えてしまい、逆に征夷大将軍との結びつきが強くなっていたことが理解できる、
以後、征夷大将軍の役職と幕府は武家政権・武家の棟梁の名となっていくが、戦国時代の織田信長や豊臣秀吉は征夷大将軍と幕府を意識したものの、是が非でも手に入れねばならないものという認識ではなかったようだ。信長や秀吉の時代には、まだ室町幕府は存在しており、十五代将軍足利義昭も存命だったからだろう。しかし、力を失った室町幕府に利用価値と見た信長は、将軍職のまま足利義昭を追放した。その後、信長死して秀吉後を引き継ぎ、関白に就任していた豊臣秀吉の説得で足利義昭は征夷大将軍の地位を辞職し、室町幕府派ここで正式に滅ぶことになる。
徳川家康が征夷大将軍に任官したもの、豊臣家が公家の最上位である関白家となっていたことの対比で、武家の棟梁たる役職として征夷大将軍と幕府が意識されたに過ぎないと私は考えている。
以上、簡単ではあるが幕府というものを論じてきた。鎌倉幕府の成立過程を見ると、良く言われるのは鎌倉幕府は段階的に成立したというものだ。私にはその場その場で対応しているうちに、結果的に成立した政体が鎌倉幕府という武家政権なのだろうと考思える。それゆえに、鎌倉幕府に限らず室町幕府も武家政権として最初から制度設計されたものではない不完全なものだった。不完全なものを是正していくうちに、武家政権として完成された形になっていった。当然、頼朝も尊氏もその完成形を想像して自身の武家政権を成立させていたわけではない。不完全な部分をその都度付け足していった結果なのだ。
同様のことは徳川家康の江戸幕府にも言えるだろう。家康から家光までの間は徳川一強体制で強権政権、武断政治だった。これは織田信長や豊臣秀吉と同じく戦国時代の論理での支配であり、あくまでも徳川家の私的権力となる。だが、四代目以降の家綱と保科正之は朱子学道徳を重視し、文治政治に切り替えた。これによって江戸幕府は「公儀」と称される公的権力に脱皮する。私的権力である限り、別の私的権力(例えば薩摩藩島津家や長州藩毛利家といった藩・大名)からは警戒され、時には敵対もされるのだ。しかし、公的権力はそうではない。平等を建前とする公的権力は、私的権力の上位に位置して彼らを平等に扱おうとするからだ。徳川三代までの武断政治が行ったように、徳川家が恣意的に敵対勢力たる外様大名潰しをしない。外様といえども徳川家に従う限り譜代大名と同等に扱うとなれば、関ヶ原合戦時に敵対した島津氏や毛利氏として、もあえて徳川幕府に逆らう必要がない。むしろ、徳川幕府の元で安寧な社会を維持した方が良いということになろう。藩同士の諍いも、戦国時代ならば直ちに合戦を行って力で解決しなければならないが、江戸幕府が公権力となって藩同士の諍いの裁定を下し、従わない側を幕府が罰するということであれば危険な合戦を行わなくても良いということになる。
ただし幕府権力が公的権力になった事で、武士の論理たる「自力救済」は否定された。すべての争いやトラブルは、公的権力たる幕府権力が裁定する形となるからだ。私的な解決、たとえば合戦で決着させるという中世武士の論理は否定せざるを得ない。勝手に合戦などされては、公権力として治安維持を行う江戸幕府の権威に関わるからである。結果として平和な天下泰平の世が成立したわけだが、それは戦闘者としての武士の存在意義を失うこととなった。
合戦がない世の中で、武士は何のために存在しているのか?。合戦がないのであれば刀槍で武装する必要はなく、武士という存在自体、必要がないのではないか?。それを改めて幕府という権力に突き付けたのが、元禄年間第五代将軍徳川綱吉の時代に起きた赤穂事件である。いわゆる「忠臣蔵」だ。武士は戦うべき時に戦うべきか?。それもと戦いを避けて世を平穏に保つべきなのか。戦わない武士は、果たして武士と言えるのか?。これはまた別項立て、江戸時代を論じるときに考えていきたいと思う。
【参考文献】
『図説 鎌倉幕府(田中大喜編・戒光祥出版)』
『図説 室町幕府(丸山祐之編・戒光祥出版)』
『鎌倉武士の世界(阿部猛著・東京堂出版)』
『戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争(鈴木拓也著・吉川弘文館)』
『戦争の日本史6 源平の争乱(上杉和彦著・吉川弘文館)』
『古代国家と軍隊(笹山晴生著・講談社学術文庫)』
『大伴家持(藤井一二著・中公新書)』
『人物叢書 坂上田村麻呂(高橋祟著・吉川弘文館)』









































































































