幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 鎌倉時代最大の特徴が、鎌倉幕府という武家政権の誕生にあることはすでに述べた通りである。しかし、この「幕府」なる組織がいったい何なのかという定義については、今現在も歴史学会で議論が続いており、定説が確定しているわけではない。近年、鎌倉幕府の成立年度が「1192年」から「1185年」へと変更されたが、これとても学会での議論が「源頼朝が征夷大将軍に就任した日をもって、鎌倉幕府が成立した」という解釈から、「朝廷が源頼朝に全国規模で守護・地頭の設置を許したことで、頼朝の支配とその影響力が日本全国に及ぶ状態となった日をもって、鎌倉幕府成立した日とする」と解釈が変更されたからだ。この議論は現在も続けられており、なかには「武家が政治の実権を握った」ことを幕府の成立と定義するのであれば、平清盛の平家政権こそが日本最初の武家政権となるから、清盛の館があった場所から「六波羅幕府」と名付け、これを日本最初の武家政権とすべきといった議論もある。

↑平氏六波羅政庁跡(京都府・六波羅蜜寺)


 この他にも、日本全土統一政権という定義を取らず、武士が独自に政治行政府を作れば幕府と呼べるのではないかという定義をする歴史家もおり、この場合は奥州藤原氏による平泉幕府といったものも提唱されている。
 そもそも、幕府なる組織名自体が後世に名付けられたものであり、鎌倉幕府初代の源頼朝も室町幕府初代の足利尊氏も、江戸幕府の徳川家康まで「幕府を開く」と宣言したわけではないため、幕府の成立年度も幕府という組織の定義も歴史家の解釈に任されているというのが現状だ。したがって、鎌倉幕府の成立も今は1185年だが、解釈が変わればまた変更されることになろうかと思う。このように「幕府」という組織は定説がなく、実は把握が難しい状態だ。歴史学の世界では、混乱を避けるためにあえて「幕府」という用語を用いずに「武家政権」という用語の場合もあるようだ。

 ここでは武家社会と武士道精神を連結させて論じている都合上、この幕府なる組織の本質を見極めておく必要がある。そこで、幕府とは何であるかを少しだけ論じてみたい。

【1.幕府とは何か】

 まず最初に、この幕府という用語の起源から論じて行こう。先にも述べた通り、幕府を創設した源頼朝、足利尊氏、徳川家康らは「幕府を開く」といった宣言は全くしていない。このことから幕府とは後世の人々が京都朝廷と区別するために用いた武家政権の呼び名である。天皇の朝廷と将軍の幕府という見方だ。
 この幕府というものも、「幕」は陣幕や天幕を指し、「府」は役所を意味する。また「幕府」も中国史において将軍が現地で陣地を作り幕を張って配下の部隊に命令を発したところから「幕府」という用語が使われ、日本でも近衛大将(左/右近衛大将。頼朝は右近衛大将に任官している)の「唐名」として用いた。

 簡単に言えば幕府とは、中央から地方に派遣された軍の総司令部、もしくは近衛大将の総司令部のことを指す。例えば軍を率いる総司令官を直接補佐する人々を「幕僚」と呼んだり、総司令官と幕僚が揃っている指揮所や役所を「幕僚府」と呼ぶ。現在でも陸海空のトップは自衛隊の総司令官たる総理大臣を補佐する職として「幕僚長」と呼ぶのと同じである。
 つまり、幕府とは本来「軍の総司令部」の意味だ。これは古代日本でも同じである。

 加えて幕府と征夷大将軍という役職も本来は全然関係がなかった。というより鎌倉幕府成立以前となると征夷大将軍は、鎌倉幕府成立以降のように武家から特別視されるような役職ではない。
 奈良時代から平安時代にかけて、大和朝廷は東国蝦夷を相手に三十八年にも及ぶ長期戦を戦っていた。当然、中央の奈良や京都から遠く離れた東北地方へ軍を派遣し続けていたわけだが、この際に用いられていた役職名は、征東大将軍や征東大使である。これらはいずれも令外官で臨時に設置された役職で、任務が終われば解散した。しかし、蝦夷と長い戦いの中で、奥羽を常時監視し必要に応じて軍を動かせる役職を設置する必要が出てきたため、「鎮守府将軍」という役職が設置される。鎮守府将軍は蝦夷と戦う総司令官として陸奥国府や多賀城に常駐した。これが常態化して朝廷内の武官役職名として定着している。例えば、平将門の父平良将(良持)が鎮守府将軍になっており、将門はその子として最初から武士の血統として朝廷内で滝口の武士の役に付いている。
 こうした将軍職にある者は、武官として軍事を総指揮する立場ではあったが、東北地方の政治行政は国司(受領)が担当していた。その意味では大将軍はあくまでも軍事を司り、軍を率いることに限定されていたと言えよう。
 しかし、鎮守府将軍の指揮でも戦局が思わしくない場合、鎮守府将軍とは別に征東大将軍などが任命される。いわば鎮守府将軍の援軍という形になるのが順当だが、鎮守府将軍の指揮権を取り上げ、別の大将軍に指揮させたいと朝廷が思った場合は、征東大将軍の指揮下に鎮守府将軍が置かれたりしている。また征東大将軍と違う名称として征夷大将軍の役職名が使われたりした。征東も征夷も敵は東国の蝦夷であって同じ意味でしかない。
 
 794年に日本史上最初の征夷大将軍は、古代軍事氏族の代表格大伴氏の大伴弟麻呂だ。同族に『万葉集』を編纂した大伴家持がいる。家持は歌人として有名だが、本来は古代軍事貴族であり大和朝廷の武官として782年に陸奥国鎮守府将軍に任命されている。
 この大伴弟麻呂が征夷大将軍になった時、副将軍の立場で活躍したのが坂上田村麻呂だった。
 797年、再び蝦夷征討する際に征夷大将軍になった坂上田村麻呂は、この数年前から陸奥国司と陸奥国鎮守将軍を兼務しており、新たに征夷大将軍の役職が兼務で追加されている。このため、陸奥国の地方政治行政と軍事全般全てを担当する立場になった。そして蝦夷の長アテルイを倒して奥羽を平定することに成功する。
 この時、坂上田村麻呂は軍事行政を行う役所(陸奥国府・多賀城)にあって、敵将の処遇や占領地の行政も行っており、さらに配下の武官達を指揮する場所(例えば多賀城)に在陣していたから「幕府」的な機能を持っていたはずである。
 このように大将軍になった者が軍を率いる総司令部や幕僚府の設置については、律令法令にも記載があるのだ。

 

 『養老律令』には下記のような条文があった。

軍防令 24条
「将帥の出征に関して、兵が10000人以上を満たしたなら、将軍1人、副将軍2人、軍監2人、軍曹4人、録事4人(を置くこと)。5000人以上ならば、(そこから)副将軍・軍監を各1人、録事2人を減らすこと。3000人以上ならば、(さらに)軍曹を2人減らすこと。それぞれ1軍とすること。3軍ごとにそれを統括する大将軍1人(を置くこと)。」
軍防令 25条
「大将の出征にあたって、軍に臨んで敵に対しているときに、大毅以下が軍令(大将のみが出すことのできる作戦指令)に従わず、また、軍事を怠ったり違反して緊張に欠け覇気を乏しくすることがあれば、(律によって)死罪以下(に相当するもの)は、いずれも大将が斟酌して(勅裁を経ずに)決定するのを許可すること。帰還の日に、事情をつぶさにして太政官に申告すること。もし敵や賊に臨んでいない場合は、この令は用いない。」

 とあり、大将軍が軍を総指揮する上での人材(幕僚)の規定があり、かつ遠征地での指揮や軍の統制のための刑罰や敵将の処遇といった決裁権も総司令官たる大将軍が保持しており、天皇や朝廷の裁可を求める必要なしとなっている。

 坂上田村麻呂は奥羽征伐完了すると京都へ帰還。征夷大将軍の任も任務完了で解かれた。大伴弟麻呂も同様である。征夷大将軍は蝦夷を討伐することが任務であり、それが終われば解体解散するのは当然だったのだ。解体されれば征夷大将軍の元で働いた武官・幕僚も役職を解かれ、褒美と共に新たな役職を得た。征夷大将軍という役職は、あくまでも戦時における臨時職だったのである。

↑鎌倉のミニチュア(国立民族学歴史館)


【2.鎌倉幕府における征夷大将軍】

 前述したように征夷大将軍という役職に特別な意味はなく、読んで字の如く蝦夷を征伐する大将軍という意味しかなかった。それは征東大将軍と同列のものである。これを武家の棟梁の意味を加え、武士にとって特別な役職に押し上げたのが源頼朝だ。無論、頼朝が意図的にそうしたわけではない。これは結果的にそうなったというだけで、頼朝はほとんど意識していなかったろう。
 1180年よりはじまった治承寿永の乱、いわゆる源平合戦において頼朝が当初は官位を剥奪された罪人でしか無かったことはすでに述べた通りだ。当然、罪人の立場である頼朝には、本来は地方の武士たちに対する所領安堵や新しい所領を与える新恩給与といった権限は本来ない。ないにも関わらず、頼朝は天皇や朝廷の許可を得ずに勝手にこれを行い、関東の武士(兵・つわもの)たちもこれを受け入れて従った。結果的に、頼朝軍は早い段階で軍を率いるための機能を備えることになる。頼朝の元には外戚の北条氏や有力な地方武士団たる三浦党や千葉氏、上総氏が頼朝を支え、その幕僚となっている。
 1180年10月に頼朝は鎌倉入りを果たすが、その二ヶ月後には侍所を設置して関東武士団を総指揮、統制するための役所を設置。三浦党の和田義盛を侍所別当(長官)に任じた。これによって、頼朝が自分に従う地方武士団を統括することが可能となる。歴史家によっては、ここから鎌倉幕府が始まったとして1180年を鎌倉幕府成立の年とする見解があるほどだ。
 治承寿永の乱によって平家を滅ぼすと、今度は頼朝と義経の確執が深まり、ついに両者は武力対立へと発展した。といっても義経の元には武士団が集まらず、戦わずして義経は敗北してしまい奥州へ落ち延びる。一方、頼朝は義経追捕を理由に日本全国に捜査網を広めようとし、朝廷に対して日本全国の警察軍事権を自分に任せるように要請。1185年に「文治の勅許」を得た。これによって、頼朝は「日本国総追捕使・総地頭」の地位を認められた。こうして頼朝は日本全国の守護・地頭の任命権を手に入れる。同時にそれまで頼朝が勝手に任命していた在地武士への地頭職も、朝廷は事後承諾の形で認めることになる。

 かくして頼朝が日本全国規模での軍事・警察権を掌握したことで、頼朝の影響力は日本全土に及ぶことになった。それまでは頼朝が侍所を作ったとはいえ、それは朝廷公認のものではなかったし、あくまでも関東という一地域で行われる地方政府でしかなかった。だが朝廷が全国規模で行う事を許可したこの「文治の勅許」によって、頼朝が作った関東地方政府は、日本全土の治安維持・安全保障を担うこととなり、かつ天皇・朝廷の軍事力をも総括する軍事組織となる。現在、これをもって鎌倉幕府の成立した年とするのが通説だ。
 だが、それはあくまでも朝廷が許可したというだけで、実際には奥州藤原氏は鎌倉幕府とは別の勢力として残っていたし、西国でも平家の所領は取り上げて鎌倉幕府配下の武士たちに分け与えたものの、天皇や皇族、藤原摂関家といった京都朝廷の上級王臣貴族の所領については頼朝も手は出せない。その意味では、こうした地域は鎌倉幕府の支配からは外れており、1185年に幕府が成立したと認定しているものの、鎌倉幕府が日本全土を実質的に支配できていたかといえば否となろう。
 1189年、頼朝は奥州へ侵攻して奥州藤原氏を滅ぼし、ようやく東北地方をその影響下に収めた。これによって東国の支配は完了したのだが、依然として天皇や皇室の所領、上級王臣貴族の所領には手が出せない。
 また頼朝軍の財政や軍資金を統括する役所「公文所」や「問注所」が設置されたのは1184年で、1185年の「文治の勅許」を待たず幕府の各行政機関と役所は設置されている。

 1190年に頼朝が右近衛大将に任官して公卿に列せられた。これに合わせて「公文所」が「政所」に改称した。これらの事実から、朝廷の承諾を得る前の段階で鎌倉幕府の政治行政機能とその役所は整えられていたといえよう。
 「幕府」という名称も近衛大将を指す唐名である以上、征夷大将軍よりも右近衛大将への任官が重視される。頼朝が右近衛大将の官職を得たことで、頼朝率いる軍の本陣(総司令部・幕僚府)は幕府と呼ぶべき組織体となるからだ。
 そして1192年、ついに頼朝が征夷大将軍に任官した。大将軍になったことで配下の武士や幕僚、敵将に対する賞罰や刑罰の裁定権を得た形となる。もっとも頼朝はすでにそうした行為は以前から行っていたから、後付けで体裁を整えた程度であったろう。
 征夷大将軍という役職も、『平家物語』などの軍記物では頼朝が切望したものとして描かれるが、より信頼性の高い史料『山槐記』によると、実は大将軍であれば何でも良かったらしい。ただ「惣官(畿内の治安維持と行政監督を行う)」は平宗盛が任官しており、征東大将軍は木曽義仲が任官していた。両社共に滅ぼされているため凶例として敬遠され、鎮守府将軍は奥州藤原氏三代目の藤原秀衡が任官している。したがって征夷大将軍しかなく、これならば蝦夷を征伐した坂上田村麻呂の吉例になるとして採用に至ったようだ。

 なお、木曽義仲が征夷大将軍に任官し、旭将軍と言われていたとする従来の通説は史料『吾妻鑑』や『平家物語』に見えるが、近年の最新研究によると『山槐記』等の公家の史料から征東大将軍に就任したとされており、史料の信頼性から後者の説が支持を集めている。『吾妻鑑』や『平家物語』は後世の作であり、著者による作為や誇張も入っているのに対し、『山槐記』は公家中山忠親の日記なので史料としての信憑性が高いのだ。したがって本稿でも最新の木曽義仲は征夷大将軍ではなく征東大将軍だったとする説を採用して論じることとする。
 これによって鎌倉幕府成立のすべての条件が整ったのかと言えば疑問も残されており、畿内西国の天皇皇室の領地や藤原摂関家などの上級貴族の所領や庄園に対する影響力を鎌倉幕府は持っていなかったから、日本全土を支配下に収めていたわけではないという問題が残されている。しかし、ここで注目すべきは臨時職であったはずの征夷大将軍と率いている軍を、頼朝は常設にしてしまったことだろう。頼朝以前の征夷大将軍たち、例えば坂上田村麻呂など任務を完了したら征夷大将軍の任は解かれ、その軍や総司令部は解散している。ところが頼朝は治承寿永の乱が終熄し、ある程度平穏な情勢下でも関東諸武士団の棟梁「鎌倉殿」として君臨、征夷大将軍の官職を得ることで配下の武士達の賞罰を決定できる権限を保持維持した。有力な武士団の長も鎌倉に屋敷を構えて常駐する体制は、頼朝軍の総司令部が平時でも”常在戦場”のままの戦時体制だったことを示す。つまり、頼朝によって作られた武家政権=幕府とは、戦時体制を維持することで軍総司令部を常態固定化したのである。軍の構成員や敵軍の賞罰は征夷大将軍つまり幕府の専断事項なのは当然で、朝廷が作った「律令法」にある通り大将軍(征夷大将軍・近衛将軍)の職務上の権利である以上、天皇や朝廷といえども口出しはできない。画期的だったのは、頼朝はこうした戦時情況での大将軍の権限を利用し、武家政権を確立したことだ。これ以後、前例主義に基づき、幕府とはそのようなものとして固定化された。

 そして、鎌倉幕府以降から続く室町幕府や江戸幕府も考え方は同じで、武士達には平和な平時であっても、心構えとしては”常在戦場”であることが求められたのである。

【3.天皇と朝廷を屈服させる鎌倉幕府】

 鎌倉幕府が手を出せなかった天皇皇室領や上級王臣貴族の所領を支配するのは、頼朝が死去した1199年より22年後となる1221年のことだ。この年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時を討伐しようとした。この時、北条義時は鎌倉幕府内の権力抗争で有力御家人との軋轢もあり、鎌倉幕府内の結束は乱れていたのだが、北条政子の呼び掛けによって御家人たちは一時的に結束し、朝廷軍が鎌倉に攻め上る前に逆に京都へ攻めかかる作戦を取る。
 鎌倉幕府軍の動きは早く、後鳥羽上皇側は西国武士団の招集が間に合わない。その結果、朝廷軍は鎌倉幕府軍に敗れてしまう。勝者となった鎌倉幕府と執権北条義時は、鎌倉幕府の「ご恩と奉公」の論理にしたがって敗者の領地を奪い、働きのあった武士に新恩給与として与えた。つまり、それまで手を付けることができなかった天皇領や摂関家など、上級王臣貴族の所領を没収し、戦功のあった幕府御家人(武士)を地頭として送り込んだのである。

 さらに後鳥羽上皇や時の天皇たる仲恭天皇は廃位とした。北条義時は、日本史上初めて上皇や天皇を処罰した武士となり、鎌倉幕府は朝廷すら処罰できるという実力を世に示すことに成功する。これ以後、天皇や朝廷は幕府の意向を無視できなくなり、朝廷と幕府の権力地位が逆転してしまう。実際、鎌倉末期となると幕府は朝廷の上にあるという意識が武士の間で一般化した。滑稽なことに後醍醐天皇の倒幕計画が露顕した際は、幕府内で「天皇御謀反」と騒がれている。幕府のトップたる征夷大将軍位は、日本国王たる天皇から与えられているのにだ。この一事を見ても、朝廷と幕府の立場逆転が起こっていたことが解る。

 話を戻そう。この承久の乱の勝者となった鎌倉幕府は、近畿西国地域も鎌倉幕府の影響下に置くことに成功した。これによって、ようやく鎌倉幕府は名実共に日本全土に影響力を及ぼせる政権の地位を確立したといえよう。
 ただし、征夷大将軍は「鎌倉殿」と呼称されており、「将軍」という名称では呼んでいない。このことからも征夷大将軍という官職はお飾りや建前に過ぎず、鎌倉幕府権力の正当性上必要な肩書きでしか無かったろうと思われる。実際、この後は征夷大将軍は正にお飾りとなり、実質的に実権を握るのは執権あるいは得宗と言われた北条氏となっていく。

【4.幕府という名の武家政権の本質】


 以上、こうした経緯から鎌倉幕府という組織体の成立過程を見ると、鎌倉幕府というものが結果的に出来上がったものであり、頼朝は最初から鎌倉幕府という政権を作ろうとはしていなかったことが解る。また「幕府」という名称も、本来は右近衛大将に任官した頼朝の政庁程度の認識に過ぎず、幕府なる名称が認識されるのも鎌倉時代末期の後醍醐天皇が討幕を意識されてからだ。それまでは、「鎌倉幕府」と言うよりも「鎌倉殿」あるいは単に「関東」と言われていた。
 また、幕府の場所も政庁とされてはいるが、実態としては政権の中心人物の住居・館で政治行政が決定されていたことから、館が政庁であり幕府の所在とされていたらしい。例えば初代将軍頼朝の屋敷が大蔵にあったから「大蔵御所(幕府)」と呼ばれ、後に四代将軍九条頼経の館が「宇都宮辻子御所(幕府)」、手狭になってきたために引っ越せば「若宮大路御所(幕府)」と御所(幕府)の名を変えている。これは多少なりと幕僚府の意味が残っていたため、陣幕(将軍の本陣)の位置が変われば名も変わったものと思われるが、そもそもすべて「鎌倉殿」と言われていたのだから名称変更は後世に便宜上付けられたものと私は推測する。

↑大蔵幕府跡・源頼朝館跡(鎌倉市)

↑宇都宮辻子幕府跡(鎌倉市)

↑若宮大路幕府跡(鎌倉市)

 幕府という名称と征夷大将軍という役職が結びつき意識されてくる切っ掛けは、鎌倉時代末期の後醍醐天皇の討幕活動と続く南北朝戦乱時に、室町幕府初代将軍となる足利尊氏が征夷大将軍の役職を欲したことだった。鎌倉幕府の長い支配体制のなかで鎌倉幕府のトップが征夷大将軍だったことが慣例化し、幕府を開くためには征夷大将軍の官職が必要だという認識が持たれるようになったのである。同時に朝廷のトップは天皇、武家のトップは征夷大将軍という認識も慣例化し、かつ朝廷権力は公家を幕府権力は武家をまとめるという住み分けも慣例化していた。

 加えて「征夷大将軍になれるのは、軍事貴族のなかでは源氏だけ」という認識も、南北朝争乱と室町幕府成立の過程で作られ成立した。これは鎌倉幕府時代を通じて将軍となった者が源頼朝といった源氏の血統か、天皇の血統である摂家(上級公卿)、親王に限定されており、桓武平氏だった北条一門が征夷大将軍に就任していないことから作られていった。勿論、北条得宗家が征夷大将軍の地位を欲しなかった理由は、血統の問題とはまったく関係がない。実権を握っていた北条得宗家といえども、幕府内の公式的な立場は、源氏たる足利氏や新田氏と同じ御家人なのである。北条家が征夷大将軍になってしまうと、本来同格であるはずの御家人たちの不満を抑えきれなくなることが予想された。なぜなら御家人達に新恩給与したり本領安堵している主体は、あくまでも征夷大将軍であって北条氏ではないからだ。御家人達が「ご恩と奉公」の関係のなかで忠義を向ける相手は、征夷大将軍であって、御家人としては同格の北条氏の家臣になることは認めがたい話であったろう。それを理解していた北条家はあえて将軍の位を欲せず、京都の摂関藤原氏や天皇の血族たる親王を将軍として擁立、自分も他の御家人同様に将軍に仕え補佐する立場に居続けたのである。

 鎌倉時代末期に公家一党の政治を目指し、武家を公家の下に置いて支配しようとした後醍醐天皇は、足利尊氏の征夷大将軍就任要請を拒絶、両者の対立は深まり、ついに朝廷が南北二つに割れた南北朝戦乱を引き起こす。足利尊氏は北朝を成立させた後に光明天皇より征夷大将軍に任命され、強引に室町幕府を成立させた。
 ただ足利尊氏は右近衛大将へは任官していないため、本来なら彼の政庁に幕府の名を用いるのは変だ。後の二代室町幕府将軍足利義詮も右近衛大将に任官しておらず、三代足利義満でようやく右近衛大将を任官し体裁を整えた。このことから、本来なら近衛大将の総司令部を意味する幕府という意味が消えてしまい、逆に征夷大将軍との結びつきが強くなっていたことが理解できる、
 以後、征夷大将軍の役職と幕府は武家政権・武家の棟梁の名となっていくが、戦国時代の織田信長や豊臣秀吉は征夷大将軍と幕府を意識したものの、是が非でも手に入れねばならないものという認識ではなかったようだ。信長や秀吉の時代には、まだ室町幕府は存在しており、十五代将軍足利義昭も存命だったからだろう。しかし、力を失った室町幕府に利用価値と見た信長は、将軍職のまま足利義昭を追放した。その後、信長死して秀吉後を引き継ぎ、関白に就任していた豊臣秀吉の説得で足利義昭は征夷大将軍の地位を辞職し、室町幕府派ここで正式に滅ぶことになる。

 徳川家康が征夷大将軍に任官したもの、豊臣家が公家の最上位である関白家となっていたことの対比で、武家の棟梁たる役職として征夷大将軍と幕府が意識されたに過ぎないと私は考えている。
 
 以上、簡単ではあるが幕府というものを論じてきた。鎌倉幕府の成立過程を見ると、良く言われるのは鎌倉幕府は段階的に成立したというものだ。私にはその場その場で対応しているうちに、結果的に成立した政体が鎌倉幕府という武家政権なのだろうと考思える。それゆえに、鎌倉幕府に限らず室町幕府も武家政権として最初から制度設計されたものではない不完全なものだった。不完全なものを是正していくうちに、武家政権として完成された形になっていった。当然、頼朝も尊氏もその完成形を想像して自身の武家政権を成立させていたわけではない。不完全な部分をその都度付け足していった結果なのだ。
 同様のことは徳川家康の江戸幕府にも言えるだろう。家康から家光までの間は徳川一強体制で強権政権、武断政治だった。これは織田信長や豊臣秀吉と同じく戦国時代の論理での支配であり、あくまでも徳川家の私的権力となる。だが、四代目以降の家綱と保科正之は朱子学道徳を重視し、文治政治に切り替えた。これによって江戸幕府は「公儀」と称される公的権力に脱皮する。私的権力である限り、別の私的権力(例えば薩摩藩島津家や長州藩毛利家といった藩・大名)からは警戒され、時には敵対もされるのだ。しかし、公的権力はそうではない。平等を建前とする公的権力は、私的権力の上位に位置して彼らを平等に扱おうとするからだ。徳川三代までの武断政治が行ったように、徳川家が恣意的に敵対勢力たる外様大名潰しをしない。外様といえども徳川家に従う限り譜代大名と同等に扱うとなれば、関ヶ原合戦時に敵対した島津氏や毛利氏として、もあえて徳川幕府に逆らう必要がない。むしろ、徳川幕府の元で安寧な社会を維持した方が良いということになろう。藩同士の諍いも、戦国時代ならば直ちに合戦を行って力で解決しなければならないが、江戸幕府が公権力となって藩同士の諍いの裁定を下し、従わない側を幕府が罰するということであれば危険な合戦を行わなくても良いということになる。
 ただし幕府権力が公的権力になった事で、武士の論理たる「自力救済」は否定された。すべての争いやトラブルは、公的権力たる幕府権力が裁定する形となるからだ。私的な解決、たとえば合戦で決着させるという中世武士の論理は否定せざるを得ない。勝手に合戦などされては、公権力として治安維持を行う江戸幕府の権威に関わるからである。結果として平和な天下泰平の世が成立したわけだが、それは戦闘者としての武士の存在意義を失うこととなった。

 合戦がない世の中で、武士は何のために存在しているのか?。合戦がないのであれば刀槍で武装する必要はなく、武士という存在自体、必要がないのではないか?。それを改めて幕府という権力に突き付けたのが、元禄年間第五代将軍徳川綱吉の時代に起きた赤穂事件である。いわゆる「忠臣蔵」だ。武士は戦うべき時に戦うべきか?。それもと戦いを避けて世を平穏に保つべきなのか。戦わない武士は、果たして武士と言えるのか?。これはまた別項立て、江戸時代を論じるときに考えていきたいと思う。

【参考文献】
『図説 鎌倉幕府(田中大喜編・戒光祥出版)』 
『図説 室町幕府(丸山祐之編・戒光祥出版)』
『鎌倉武士の世界(阿部猛著・東京堂出版)』
『戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争(鈴木拓也著・吉川弘文館)』
『戦争の日本史6 源平の争乱(上杉和彦著・吉川弘文館)』
『古代国家と軍隊(笹山晴生著・講談社学術文庫)』
『大伴家持(藤井一二著・中公新書)』
『人物叢書 坂上田村麻呂(高橋祟著・吉川弘文館)』 

 

 

 

 今日は小ネタだけとなるが、近年の”オールドメディア”が余りに酷いので一言申し述べておこうかなと。

 

 日本初の女性総理となった高市政権が成立し、ジェンダー問題を取り上げてきたオールドメディア界が喜ぶかと思ったが、結果的には逆で”極右政権”と非難した。これはどうしたことだろうか?。高市政権が成立する以前には、日本の政権には女性閣僚が少ないとオールドメディアは日本の政治の有り様を批判し続けていたのにである。

 

 ジャーナリストと言われる人々は、まぁ”記者”と言われる人々のことだが、彼らは時として”国民の知る権利”を自分の楯として利用する。それはあたかも国民の代表のように振る舞い、政治家へ取材と言ってアクションを取る。だが、我々国民が、ジャーナリストを国民の代表として選んだことなどない。政治家は選挙で選んでいるのだから、政治家こそが国民の代表である。ジャーナリストはそうではない。彼らは職業選択の自由の権利の元、彼等自身がジャーナリストという職業を選び、新聞社など報道機関に就職した”ただの一般社会人”でしかないと私は考えている。

 なので、近年のジャーナリスト達の振る舞いを見ると、違和感を感じざるを得ないわけだな。

 

 オールドメディアに対するニューメディアは、ユーチューブなどに代表される”インターネット”情報となるが、このインターネット上の情報もオールドメディア以上に信頼できないものであることを考えると、極端な話し日本のジャーナリズムは事実上崩壊しているのではないのかとも思える。

 

 で、この日本のジャーナリズムというものを考えた時、そのスタートは江戸時代末期の幕末日本だ。明治維新を向かえた後は、薩長土肥などが明治新政府内で主導的立場を確立する一方、薩長両藩以上に知識人がいた旧幕臣たちが在野へと下り、いわゆる新聞社や出版業界に入っている。啓蒙思想界も西周や福沢諭吉といった旧幕府出身者が活躍し、政治論や啓蒙思想を牽引して発展させていた。しかし、非常に残念なことにジャーナリズム(報道)の分野はその最初からねじ曲がっていたと言わざるを得ない。

 

 ジャーナリズム史に関しては私の専門ではないから、あまりハッキリとは言えないが私の記憶するところをつらつら書くと、幕末戊辰戦争中に発行された新聞『もしほ草』が恒例を示していると思うので紹介しておこう。

 この『もしほ草』は、横浜外国人居留地で発行された日本最初期の新聞の一つである。他にもいくつか新聞社が設立されていたが、明治政府の行う言論統制によって叩きつぶされている会社も少なからずあった。なぜ明治政府が言論統制を行ったのかと言えば、あまりにも佐幕派よりの見解を新聞社が記事として発行していたからである。

 場所的にも江戸という場所で発行される新聞なのだから、どうしても徳川贔屓にならざるを得ないのだ。徳川贔屓であれば、江戸占領軍である薩長両藩といった西国出身者で固められた明治新政府に対しては批判的になる。つまり中立性を欠く。明治政府にしてみれば、こうしたメディアの体質は好ましくない。日本唯一の統一政権であると諸外国に認めさせるのが明治政府の一つの目標だったからだ。同じ日本人が明治政府を否定する論調を広められては、諸外国に日本政府と認めさせることが難しくなる。なによりも明治政府が日本の正当な政府ではないと諸外国に決め付けられてしまえば、日本国内には正当な政府がないということになってしまい、それは諸外国が居留民保護を名目に”誰も支配していない土地を自国領とする”といった侵略を許すことにもなりかねない。だからこそ、明治政府は言論統制を行い、徳川家や佐幕派を応援するかのような論調の新聞社は潰す方向で動いた。

 そんな情勢下のなか、この明治政府の言論統制を逃れた新聞の一つが、この『もしほ草』である。『もしほ草』は、発行場所が横浜外国人居留地内であったこと、発行代表者がアメリカ人ヴェンリードだったことで明治政府の言論統制から逃れることができた。結果、明治政府に忖度することなく新聞を発行し続けることができたのである。

↑外国人居留地・英一番館跡(横浜)

 

 ここで『もしほ草』が、真のジャーナリズムに基づき”真実を伝える情報ツール”であったなら、日本のジャーナリズムもまともに成長できたのかもしれない。しかし、残念ながらそうはならず、徳川佐幕派贔屓の論調で記事が書かれ続けられた。戊辰戦争中なので記事の多くが戊辰戦争の戦局を伝える内容となるが、ほとんどの記事が「旧幕府脱走軍&会津藩の勝利」あるいは「奥羽越列藩同盟の勝利」で書かれている。それこそ会津藩や奥羽越列藩同盟が奥羽地域から明治新政府(官軍)を駆逐し、利根川を越え、会津藩と奥羽越列藩同盟軍が明日にでも江戸奪還戦を開始すると言わんばかりの記事が書かれているのだ。会津藩の戦い振りなどすごいもので、ほとんど全勝している。にも関わらず八月後半に突如降伏となるので、当時の読者は面食らったのではなかろうか。

 つまり、記事の多くが捏造記事だったのである。なぜ、そうまでして徳川・佐幕派有利の記事を書き続けたのだろうか。それは「売れるから」だった。元より想定する読者は江戸住まいの関東人だ。関東人は土地柄から多くが徳川佐幕派贔屓なのだから徳川佐幕派が勝ち、地方から出てきた田舎者たる薩長人が負けている痛快は話の方が好まれる。好まれるとは、つまり「新聞が売れる」ことを意味するのだ。売れれば「儲け」られる。だから日本に登場した当時のジャーナリスト達は皆が皆、揃いも揃って「捏造」しまくった。それは江戸時代の『かわら版』と何ら変わらない。明治政府が言論統制したのも必然だったのである。

 実際、発行第一号で房総の徳川義軍府(脱走幕臣)と新政府軍(備前岡山藩・津藩)が戦った市川船橋戦争の記事において、『もしほ草』は、新政府軍の大敗北とする記事を掲載発行した。確かに序盤において岡山・津両藩は敗色が濃かったが、後に増援が駆け付けたことで明治新政府軍が盛り返し、旧幕脱走軍を破っているから最終的な勝敗に関しては記事が間違っている。これを知った岡山藩の兵が江戸の売捌店(うりさばき店)であった蛭子屋に押しかけ、記事を書いた者の名前を詰問し、岸田の名を聞き出している。そして、岸田を出せと騒いで動かない。記事を書いた当時のジャーナリストと言うべき岸田はこの時に同建物の2階にいたのだだが、岸田は横浜へ行ったことにして誤魔化そうとしている。だが、岡山藩の兵はそれを聞いても疑い、2階に押し入って岸田を捜索した。岸田は印刷工のフリをして難を逃れたものの、同店主人は連れて行かれ、書き直しを命ぜられて記事を修正したという。

 しかし、その後の『もしほ草』には下記のような文章を掲載して開き直るのである。

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『もしほ草 第八篇(慶応四年戊辰五月二日号)』

「○新聞紙は、なりたけ実説をもとめて、出板すべき事なり。されども遠境の事などは、一々その確否をたださんとするうちに、月日もすぎゆきて、世間の人々もみなしりたらんには、陳腐のむかしかたりとなりてつまらず、さればたとへ少しは、実事にたがひたりともいづくにてかかる事のはべりし。どこでどんな事があつたと、ゆや、かみゆひどここのはなしも、その人の口から出て。この人々の耳に入るは、やがてそれが新聞にぞありける。いかにとなれば、則そこにてその事あればなり」

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 新聞(ジャーナリズムと言って良いだろう)は、事実を求めて出版すべきだと認めながらも、正否を確かめるためには時間が必要で、それをしていたらリアルタイム性を失ってしまう。これでは人々も興味を失っておりおもしろくない。人々が興味を失わないうちに記事を出すというタイムリー加減を考えれば、ある程度の事実誤認はやむを得ないという論調だ。情報の正確性よりも情報伝達速度を優先する。それが新聞でありジャーナリズムなのだろう。

↑旧幕脱走軍が本陣を置いた中山法華経寺(市川市)

 

 この正否確度の違いが、ジャーナリストと歴史家(歴史研究者)の差である。近年、池○なんとかというジャーナリストがTVの歴史番組をやってたりするのだが、こうした行為はチャンチャラおかしいということだ。歴史研究は正確性と事実の正否を最も重視するが、ジャーナリズムは違うと幕末時代にもうジャーナリズム側が言っているのだから。

 しかも、多少の間違いは仕方が無いと言いつつ、会津藩と奥羽越列藩同盟が連戦連勝の記事を掲載し続け、その勢いは江戸を奪還を現実味をもって伝えるぐらいとあっては多少の間違いどころではなない。まるっきり全部違う(苦笑)。それだけではなく、誰が書いたのかもわからない「旧幕臣の檄文」なるものを数回掲載し、旧幕臣や江戸市民に向けて明治政府を非を訴え、佐幕派の支援を呼びかけているぐらいだ。

 では、彼らジャーナリスト達は徳川家の再来、江戸幕府復活を望んでいたのかと言えばそうではない。江戸幕府も言論統制を行いまくる政体だったことは、大河ドラマ「べらぼう」で描かれた通りである。だから彼らジャーナリストが贔屓する江戸幕府が復活しても、決してジャーナリスト達が喜ぶ政権とはならないはずである。

 こうしたジャーナリズムの態度から考えられることは一つ。「儲ける」ため、利益を得るために即物的に記事を書く。あるいは目の前の短期的な利益のために右にも左にも動くのがジャーナリズムであり、ジャーナリストだということ。そこに政治思想や目指すべき理想の国家像などはない。あるのは「儲かるか儲からないか」である。

 現在、ユーチューブ動画でオールドメディアを批判する動画が多いが、このとき必ず出てるくるのが「オールドメディアは左派だ」という論調だ。逆に言えば、ユーチューブ動画は右派ということになるのだが、ジャーナリズムを考えるときに右か左かだけで分けるのは間違っていると私は思う。なぜならオールドメディアを左派と決め付けているユーチューブ動画もまた、右派への受けを狙い、視聴回数を増やすことで”収益”つまり儲けようとしているからだ。すべてのジャーナリズムが「儲け」のためであり、右派や左派といった政治の方向性のために活動しているわけではない。儲かるか儲からないかだけであれば、国境も国益も関係ないのである。従って、ジャーナリズムに対して右派か左派かという問い掛けをしたり、どちらの政治思想に偏っているのかという議論には意味が無いのだ。日本だろうが中国だろうが、儲けさせてくれる方の味方となる。それどころか、人として道徳すら「儲かるか儲からないか」で判断しているのだ。それが今の日本ジャーナリズムの姿としか考えられないが、だとするとこれは真実を報道し伝えるという真のジャーナリズムではないから、日本のジャーナリズムは間違っており、どこで間違えたのかと言えば日本にジャーナリズムというものが伝わったその最初から間違っていたと言わざるを得ないのではなかろうか。

 

下記の動画でのフリージャーナリストの言動が良い参考例になるので掲載しておこう。

 この動画のなかで、フリージャーナリストがハッキリと「中国はお客様で儲けさせて貰っている」と答えている。だからこそ、中国政府の言う高市政権批判に同調し、日本政府批判を行うのが日本のジャーナリストの現在の姿であるならば、幕末・明治時代のジャーナリズムからまったく成長していないのが日本のジャーナリズムだと言えよう。

 

 そして忘れてはならないことは、日清日露戦争や太平洋戦争の際、やはり一般民衆受けの良い”開戦論”を叫び、広めたのもまた当時のジャーナリストたちであり、日本が外征を行ったり対米戦に踏み切った要因を作っていたという事実である。ジャーナリズムが開戦論を世論に押し上げていたのだ。そのジャーナリズムが敗戦後は一転して日本政府に対して「戦争責任はどこにあるのか。反省をすべきだ」と叫ぶ姿は滑稽だ。まず戦争責任は日本ジャーナリズムにもあり、反省すべきは日本ジャーナリズムである。ジャーナリスト達は、TVでは「我々ジャーナリズムにも反省すべき点はある」と他人事のように言うものの、その反省を具体的に行動で示したことはない。日本政府は終戦の日や首相談話などでたびたび戦争に関しての反省を述べているが、日本の新聞各社は一度も終戦の日に自社による戦争に対する反省の弁を述べたり、具体的に戦没者の慰霊や世界平和達成のための活動などは、他社がそれを行っていることを報道しても自らは行動していないのだ。

 日中戦争・太平洋戦争開戦当時の新聞各社は右か左かで言えば、あきらかに右派であったろう。そして現在は左派になっているわけだ。つまり、ジャーナリズムは「儲かる」方を選択して右にも左にもなる。彼らは政治思想ではなく、利益で自分の思想心情を切り替えられるのだ。だからこそ「日本の国益」も考えない。故にジャーナリズムは非常に怖い。いざとなれば開戦論を煽って戦争を可とする。東北大地震の際、SOSを求める民衆をヘリから撮影して映像をTVに流すが、決して彼らを助けようとはしない。人々が助けを求める姿を写すことで、視聴率を稼いで利益を出そうとしているからである。助けるのはいつも自衛隊や消防・警察のヘリだ。

 

 このようにジャーナリズムとジャーナリストなる人々は「利益」で動いており、政治思想信条で動いているわけではない。こうした日本ジャーナリズムに基づけば、彼らジャーナリストたちは日本が国益を失ったり、政治が混乱し、結果的に国民が苦しむ状態や日本が戦争に巻き込まれたりしてもかまわない。なぜなら、そのような危機的状態になったとき、我々国民は情報を欲し、新聞などを買うからだ。新聞社やジャーナリストの仕事も増え、彼らは大きな儲けを出せるだろう。

 近年のオールドメディアの情況を見ると、彼らジャーナリストたちの取材態度から、意図的に政局を混乱させることを目的とする質問をしていたり、それこそ戦争を引き起こしてしまいかねないデリケートな質問を日本政府にぶつけ、戦争が起こるように誘導していたりしているとしか思えない。

 故に日本に限ってはジャーナリズムとジャーナリストなる人々は危険と私には思えるし、こうした日本ジャーナリストの思考というものが政治思想や道徳思想とはまったく別のものであり、彼らがそのような得たいの知れない行動原理を持っていることを、我々一般民が肝に銘じておかなければならないことなのだろうと思う。少なくとも日本においては……。

 近年の日本のオールドメディアとネット上のメディアを見ていて、どうにも『もしほ草』の内容が頭に浮かんで仕方が無かったので、今回は簡単ながら書かせて頂いた。

 正直、いつか真に正しいジャーナリズムというものを、日本のジャーナリストに見せて頂きたいと思っている。

 

注).なお『しんぶん赤旗』は、ここでいうジャーナリズムから外れている新聞なのでご注意を。

『赤旗』は正確には新聞ではなく日本共産党の機関誌なので、ジャーナリズムではなく政治運動のための情報誌だ。なので明確に政治運動の一環だったりする。

 

 

 新年明けましておめでとうございます。本年も幕末ヤ撃団をよろしくお願い致します。

 

 ということで、2026年となりました。まぁ~昨年もいろいろなことが起こりましたが、まさか職場の方が2年連続で移動するとは思いませんでしたねぇ……。なお配属部署が移動しただけで転職したわけではありませんので、生活が不安定になったわけではありませんけども。

 

 まぁそんなこんなで秋までは順調だったのに、それ以降からドタバタしてました。しかも冬コミケ落選してしまったので新刊作成も停止し、来年へ持ち越しとなっております。ただ新選組の武士道を考察するシリーズは会津戦争・箱館戦争を書き上げ、夏コミケで発行できたので一区切りついた感じとなっております。

 今年は、この新選組の武士道シリーズの総集編として、全記事の見直しと再編したものをオフセット本として発行したいかなと思っておりますので、乞うご期待ください。

 

 ということでコロナ流行以降体制変更してチケット前売り制となったコミケ。この体制での一般参加ははじめてとなるので良くわかりませんが、とりあえず行ってきました。

↑同人屋の聖地、東京ビックサイト

↑一般入場チケット

 

 午前と午後で値段が違うというチケット制となっておりますが、午前がさらに10時台入場のプレミアムチケットと11時台入場の午前一般チケット。午後一般チケットは12時台以降の入場と区分けしております。午前と午後で1時間しか違わないわけですが、値段が違うわけです。午後入場で予定通りの12時ジャスト入場などは列が長くて不可能に近い。結果午後1時頃の入場になりますが、この時間帯だと大手サークルの新刊は完売確実でしょう。午前チケットでなんとか見込みがあるという形になるので、裁定でも午前チケットが必要と考えました。確実なのは10時台入場のプレミアムチケットですが、これは値段が四千円前後の高値の上に抽選に受かってはじめて手に入れられるというシロモノで敷居が高い。なので午前入場チケットが最も打倒だと思われます。

 実際、私が贔屓しているサークルの新刊は一通り買えました。まぁ、残り数冊という完売ギリギリラインではありましたが……確実に買いたいという人がプレミアムチケットに手を出しているのは当然だわなぁ。

 サークルが落選しているので、今回はお店出してません。買い専門での参加で今年のコミケが終わり、サークルとしては本年に勝負を賭けるといったところでしょうか。ということで……

 

↑港町静岡県は焼津流の雑煮

 

 元旦となって最初にやることは雑煮作ることです。我が家流ですが、カツオ出汁に醤油ぶっこんで大根と里芋と水菜入れて餅入れて完成です。ぱっと見「静岡おでん」と同じw。真っ黒です。関西みないな上品で澄んだ色の雑煮ではないです。どす黒く濁ってますw。さらに食べる直前にはかつお節をこれでもかというほど山盛りでぶっ込みます。これでOK。体に悪そうなほどに味が濃いのは漁師町だからでしょうし、1にカツオ2にカツオは遠洋漁業都市だけに、カツオとマグロは産地直冷でいっぱいあるからですねw。入れるお餅も安い”米粉”を使ったものは使いません。値段が高くても餅米100%の手突きお餅を使います。私は庄内地方で生産されているお餅をデパートの特産コーナーで買っています。値段は高いです。が、それだけの価値がある!。これはマジです。地方の「道の駅」で売られているお餅がお手頃価格でお勧めですが、ともかく米粉不使用のお餅とサト○の切り餅を食べ比べれば、その違いは解って貰えるかと思います。

 

 ということでお雑煮食べたら初詣ということで、これも定番の幕府鉄炮隊の氏神さん皆中稲荷神社へ出向きます。

↑皆中稲荷神社(東京・大久保)

↑絵馬奉納

 

 幕府鉄炮隊の氏神さんだけに”当たる”に御利益があります。ので、今度こそ!の願いを込めて絵馬を奉納。とにかく売り場を確保せねばサークル活動ができませんからねぇ。

 元旦の仕事はこれで終わりまして、続けて初詣二日目となります今日は高田馬場方面へ向かいます。

↑高田馬場説明

 

 高田馬場には水稲荷神社や穴八幡神社がありますが、お目当ては水稲荷神社と穴八幡神社ヨコの放生寺です。

 

↑水稲荷神社

↑水稲荷神社由緒

 

 この水稲荷神社は霊験ある神水が湧き出したところから始まり「火難を避ける」お告げから「火伏せ」にも御利益があるということで、「防火符」と「健康守」を頂きました。とにかく火事だけはやばいんで、神頼みしておきます。

 また、この神社は忠臣蔵で登場する剣豪堀部安兵衛ゆかりの地であり、堀部安兵衛の「高田馬場の決闘」の顕彰碑があります。

↑堀部安兵衛顕彰碑

↑史跡説明

 

 この決闘は、本当は安兵衛が決闘したのではなく、別の人の喧嘩でした。堀部安兵衛は助っ人参加ですね。しかし、ここで強さを証明した安兵衛の武名が轟き、赤穂藩士堀部弥兵衛の目に止まって是非にと乞われて養子として堀部家に入り、堀部安兵衛となります。そして運命の吉良上野介邸討ち入りに参加し、亡君の仇討ちを成功させることになります。

 近年、この赤穂事件も研究が進展していろいろな事が解ってきており、いわゆる忠臣蔵での作り話(すべてではない)も解ってきております。が、その忠臣蔵と違っている部分で研究者の見解のごく一部を切り取り、誇張して(つまり嘘になってしまっている)面白おかしく身勝手な見解にしたものがユーチューブ動画として展開されています。が、これを信じるとバカを見ます。だって、動画が根拠とした赤穂事件研究者の最終的な見解とユーチューブ動画制作者の見解が違ってるからね。信じるべきは研究者の見解であって、面白おかしく誇張したユーチューブ動画制作者の自説ではありません。しかもこれ”収益化”目指してる動画だろ?。嘘ついて金をだまし取るのは詐欺やぞ。「間違ってたらごめんなさいね」なんて言い訳は通用しない。自動車部品開発設計で”間違ってた”まま量産された自動車がどうなったかニュースでやってるでしょ。○○社自主回収リコール○○万台とか……間違った社員はクビにされたうえで損害賠償で数千億円を請求され一生を棒に振るぞ。同じだぞ動画も。

 ちなみに忠臣蔵や赤穂事件は幕末史や新選組の研究と比べれば、非常に調べやすいという面があります。確かに江戸時代に話を盛られた忠臣蔵と史実の赤穂事件の分離はめんどうではありますが、史料という面では幕末史と違って出尽くしているんですね。だいたい下記の書籍を集めれば研究考察はできます。

↑私の忠臣蔵・赤穂事件に関する資料書籍類の一部

 

 これが全部ではなく、他にも研究論文などもありますが、史料というのならば上段の『赤穂義士纂書 赤穂義士資料大成 1~3巻(日本シェル発行)』と下段にある『忠臣蔵 1~7巻(赤穂市教育委員会発行)』があれば、赤穂浪士の手紙文書や日記をはじめ幕府側の記録なども含めて主要な基礎史料はすべて揃います。『赤穂義士纂書 赤穂義士資料大成』は中古ですが発行数が多いようで、ネット上で容易に探すことができる上に相場も3巻揃で七千円。美本でも二万円台で揃えられます。赤穂市発行の『忠臣蔵』は現在でも赤穂市教育委員会が販売中で7冊揃で三万六千円で新ピカ本で買えます。幕末史の史料を集めようと思えば、この程度の価格は”激安”の範疇なので集めやすい。この2種を揃えておけば、ユーチューブ動画解説のどこが間違っているか調べるのは超簡単なんですね。

 幕末期みたいに”日記を書く”のが流行ったため、新選組隊士の史料がときどき新発見されてしまう幕末史と比べれば、赤穂事件に関してはほぼこれで史料が出尽くしている状態なのですよ。数百人隊士がいた新選組に比べ、赤穂浪士は47人に限定されるし事件の年数も2~3年と短い(新選組が活躍した幕末は15年ぐらいの期間になる)。その意味では研究はしやすいんですね。逆に言うと、これらが参考文献で出てこないような赤穂事件の動画やネット記事はぜんぶ信じなくてOKということです。基礎史料すら読んでいない人間の忠臣蔵評価や考察には何の信憑性も歴史学的な価値もありませんから。

 

 話が逸れましたな(苦笑)。ということで水稲荷神社でのお参りを終え、次の放生寺の方へ向かいます。

↑放生寺

↑放生寺由緒

 

 放生寺は穴八幡神社の隣にあるお寺です。江戸時代は穴八幡社を管理しており、神社とお寺が一体でした。が、明治時代の神仏分離令によって別々になり現在に至っております。ここでは足腰のお守り「役小角のお守り」を頂きます。

↑神変大菩薩(役小角)

 

 役小角は山岳信仰修験道の開祖です。これを神格化して神変大菩薩の名で信仰されています。修験道の開祖だけあって、足腰の故障や病に御利益があります。史跡巡りで歩きまくるので足腰は非常に重要で御座いまして、毎年ここで足腰のお守りを頂くようにしています。

 で、ついでにいつもは穴八幡神社に立ち寄って「一陽来復」のお守りの頂いていたのですが、こちらのお寺でも元は一つだったこともあって「一陽来福」のお守りがあるのですね。今年は「回復」よりも「来福」に期待したいところがありますので、穴八幡はスルーして、こちらの「一陽来福(携帯用)」を頂きました。なお、携帯用ではなく本式の「一陽来復」お守りは、お札のように扱う形で、穴八幡の「一陽来復」と放生寺の「一陽来福」を上下に並べて設置するのが本式らしいです。まぁ、そこまで本格的でなくてよいので、私は携帯用のお守りを財布に入れている感じにしています。

 

↑穴八幡大鳥居のところにある流鏑馬像

↑頂いたお守り

 

以上、今年も無事にお守りの更新が終わりました。あとは来福を願いつつ一路夏コミケに向けて走り出すだけです。今年もがんばって歴史探究をしていきたいと思いますので、本年も幕末ヤ撃団をよろしくお願い致します。

先日の古河公方関連史跡巡りに続き、今回は小弓公方関連史跡を巡ってきました。

↑南小弓城址

 

 小弓公方というのは、血筋から見た場合は古河公方から別れた分家的な存在ですが、最初から古河公方と対立した独立勢力でした。

 前回のブログで、五代目鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉氏や京都の室町幕府と対立し、鎌倉を放棄して古河に移って初代古河公方となったことをお話ししました。その後、この成氏の子である古河公方二代目足利政氏とその跡継ぎとなる足利高基が不仲となっていきます。享徳の乱以降、関東が戦国時代に入っていたのですが、こうなると関東各勢力が自己の利害から古河公方や関東管領上杉氏を利用して派閥を作ります。すると必然的に古河公方家や関東管領家の家臣も主戦派や穏健派といった派閥が形成され、結果として内紛が起こってくるんですね。古河公方父子の争いもこうした経緯から起こってきたものと思われます。ちなみに関東管領上杉氏も似たり寄ったりで扇谷上杉氏と山内上杉氏が同族同士で争い始め、三つ巴どころか四つ巴、五つ巴以上へ……もはや収拾が付かない争いになっていきます。これは古河公方や上杉関東管領家だけに留まりません。平安時代から続く名家千葉氏や里見氏も同様に同族で内紛、分裂が起こっています。家を支えるべき家臣達が、鎌倉(古河)公方か室町幕府の支援を受けている関東管領上杉氏のどちらを支援するかで内紛を起こす。あるいは自身の利得を考えてどちらに味方した方が得かで離散集合、内紛の原因になっているのです。

 そして分家が本家を滅ぼすと行ったことも起こってきます。下克上と言えば聞こえは良いですが、こうした内紛で鎌倉時代から続いた武士団が分裂、弱体化してしまい戦国大名へ成長できずに他の戦国大名の家臣として臣従していくという展開になっていく。この間隙を突いたのが小田原北条家です。北条家に内紛はなく、一族が一致団結していたため、古河公方家や関東管領家の分裂内紛を利用し、他の内紛を起こして自ら弱体化する関東諸勢力を飲み込んで自軍に取り込んでいくわけです。

 話を戻しましょう。前述のように古河公方は二代目足利政氏と三代目足利高基が諍いをはじめてしまったのですが、政氏の次男にして高基の弟たる足利義明もまた独立の意志を持ち、父政氏や兄高基を相手に三つ巴の争いになっていきます。当初は、所詮次男であって古河公方の家督は兄が継いでるので力はなかった。しかし、これを利用したのが房総上総に勢力を持つ真里谷武田氏です。真里谷武田氏は元は甲斐源氏武田家の分家として、初代鎌倉公方足利成氏の命令よって房総に移ってきた勢力です。もちろん成氏が房総に自身の勢力を扶植しようとしたからですが、必然的に元々房総半島に勢力を築いていた千葉氏や南総の里見氏と対立、勢力争いが発生していくわけです。この戦いで苦戦した千葉氏は本拠を千葉城から本佐倉城へ移し、下総国と上総国の国境小弓に千葉氏重臣の原氏を配置して真里谷武田氏に対抗しました。原氏は小弓城を築いて拠点とし、さらに小弓城の支城として南小弓を築いて真里谷武田氏に対抗したようです。

 しかし、武運なく原氏は真里谷武田氏に敗れ小弓城を奪われました。武田氏はすかさず居所のなかった足利義明を呼び寄せ、小弓城に入れます。古河公方家血筋を利用し、足利義明を御輿に担ぎ上げて自身に有利な状況を作り出そうとしたわけです。小弓城に入った足利義明は小弓公方を自称し、兄たる三代目古河公方足利高基に対抗するという展開で、関東そして房総地区に新たな混乱の種が撒かれたわけです。

 余談ですが、小弓城を落とされた原氏のうち一部は甲斐に落ち延びて甲斐武田氏の家臣として迎え入れられたと言われ、後に武田二十四将の一人原虎胤がその人物とされています。この説は疑問も提起されて現在も論争しているみたいですが、原氏は元を正せば千葉氏の血族であり、虎胤の名の内「胤」は千葉勝胤の胤から取られ、「虎」は武田信虎(武田信玄の父)の虎からとられたと考えると納得できる説ではあります。ただし、後に真里谷武田氏が衰退した際に千葉氏が小弓城を奪還し、再び原氏が戻っているので原一族全員が甲斐に移住したわけではないと思われます。

 

 ということで、ザックリですが小弓公方と小弓城の説明をさせて頂いた上で、史跡巡りをして参りたいと思います。先に述べた通り、小弓城は二つあります。北側にある本城とも言うべき小弓城(生実城・北小弓城)とその南に位置する支城南小弓城です。まずは南小弓城の方から見ていきました。

 

↑北門の切通

 

 道を歩いていると写真のような道がありましたので、瞬間的に「切通だ」と思い撮影。後で調べてみたら「城の北門」と言われている部分だと解りました。この道をさらに進むと平場に出ます。ここに石碑が建っていました。

↑南小弓城の「妙見宮脇」とある平場

 

↑南小弓城地図

 

 石碑のある場所のすぐ横には、下記写真のような土塁があります。この土塁はちょうど地図上の「妙見宮脇」の”妙”の字のちょい上あたりに位置しており、道がくの字になっている部分となります。なので城の外壁土塁と見て間違いないでしょう。

 なお地図上で「妙見宮脇」という文言が地名を表しているのか、城内に妙見社が祭られていたことから名付けられているのかサッパリわかりません。ただ、源氏が八幡大菩薩を守護神に奉っていたように、千葉氏は妙見菩薩を守護神としています。このため、千葉氏の城の多くに妙見社が建てられていました。原氏も千葉氏の一党なので、南小弓城に妙見社があっても不思議ではなく、その妙見社の脇という意味なのかもしれません。

 

↑土塁跡(土塁手前が堀跡だと思われる)

 

 上記写真は、先ほどの掘を下ったところから見ています。この土塁も妙見宮脇と主郭の古城部分の境にある土塁跡と思われます。というのも主郭の古城部は一段高い場所にあることから、下段側にある妙見宮脇部との境を成す土塁と判断できるからです。

 

 ここから埋蔵文化センター裏手側に向かいました。

 

↑空堀跡

↑掘底道

↑掘跡の脇にある土塁跡

 

 埋蔵センター裏手に大きな空堀跡があります。掘底にそって道があるので進むと先ほどの地図上の「妙見宮脇」に出ます。なので埋蔵センターは地図で言う「中鼻」にあり、「中鼻」と「妙見宮脇」の間にある巨大な掘が、先ほどの空堀跡になります。ここから地図上で「古城」と記された南小弓城主郭部へ向かいます。

 

↑主郭にある案内版の碑

↑説明

↑南小弓城主郭

 

 南小弓城主郭つまり本丸部となりますが、ここに説明版がありました。地図上では「古城」とありますが、これは二つある小弓城の内、こちらの南小弓城が古い城と思われていたことに由来します。北側にある北小弓城(生実城)は足利義明が敗死したあとに作られた新しい城と思われていたので、足利義明が入った城はこの南小弓城だろうと思われていました。が、研究が進むと北小弓城も足利義明存命時代に存在していたことが判明。だとすると本城の北小弓城に足利義明が入るのが筋で、支城の南小弓城は御座所にしてはいないという説が有力視されるようになったわけです。現在の通説は、足利義明の御座所は北小弓城(生実城)に移っています。北小弓城については後述します。

 

↑主郭部に残る土塁跡

 

 地図に土塁跡とされている場所を捜索。とにかく笹が邪魔です(苦笑)。城巡りは草が枯れてる冬場が良く、地形が良くわかるのですが、笹や竹は冬でも枯れませんし背丈をだいたい揃えて成長するので地形も解らなくしてしまうのですね。密集すると岡や土塁跡のように見えるが、近寄って良く見ると単に竹や笹の背が伸びてただけだったということが多々あります。

 

↑八剣神社

 

 主郭部の見学を終えて、他に遺構がないか探索中に立ち寄った八剣神社。もうお正月の装いになっておりました。

 

↑宮掘

 

 この八剣神社の横に「宮掘」と言われる空堀があります。ぱっと見では道を作るための切通に見えますが、正確には逆で空堀跡に道を作ったという感じかと思われます。

 以上、南小弓城の主要な遺構は見終わった感じとなりますが、遺構案内のようなものは先ほど紹介した碑石と墓地にあった説明板しかなく、堀跡や土塁跡の案内や表示はなにもありません。なので、遺構を自分で探索せざるを得ず、なかなか”城巡りの経験と技能”が試される城址です。戦国期の城の風格を残しているものの、開発も進んでいるので城の遺構なのか後世の開発で作られたものか見分けなければならないという点では、お城見学初心者向きではないなぁと感じました(苦笑)。遺構が少ない分、逆にお城マニアには堪らない城かもしれません(苦笑)。

 次に北小弓(生実)城の方へ向かうことにしました。

 

↑北小弓城大手口

 

 上記写真は、北小弓城(生実城)の大手口部分になります。城の名前に関して、生実城とも称しますがここでは北小弓城で通します。江戸時代、ここには幕臣から一万石を越えて大名となった森川氏が生実藩を立て、北小弓城の一角に生実陣屋を建てて藩庁としていました。なので正確には「生実城」とすべきなのかもしれませんが、南小弓城と対比する意味であえて北小弓城とさせていただきます。

 

↑大手口土塁跡

 

 大手門碑の背後に土塁跡が残っています。この北小弓城周辺は開発がかなり激しく、前回の古河城ほどではないにしろ遺構はほとんど消滅してしまっています。

 

↑北小弓城(生実城)地図

 

 上記に北小弓城の図を表示。大手口跡は図の一番下側となります。

 

↑生実神社

↑生実神社由緒

 

 上記生実神社境内に北小弓城の遺構が残っているので見学します。

 

↑土塁跡

↑空堀跡

↑空堀跡を掘底より見る

 

 生実神社脇に残されている空堀跡となります。空堀の社殿の間に土塁跡も残されていました。

 

↑生実城と生実陣屋説明

↑生実陣屋の図

↑堀跡説明

 

 神社境内には上記三枚の説明他、生実陣屋や北小弓城の変転などのパネル展示がありました。堀跡説明にある板碑の発見によって北小弓城の存在年代がある程度特定され、先ほど述べた足利義明存命時代から北小弓城が存在していたことが明らかになったわけです。結果、こちらが小弓公方足利義明の御座所だったという説が有力視されるようになったわけです。

 

↑森川氏城址碑

 

 神社を出て生実陣屋方面へ。森川氏城址との碑がありますが、ここが陣屋跡となります。

 

↑陣屋跡

 

 上記写真の場所が生実陣屋跡となりますが、ごらんの通り完全に開発してしまっており陣屋の面影はみじんも感じられません。なので北小弓城の主郭へ向かいます。

 

↑北小弓城主郭

↑説明板

 

 北小弓城の案内版のある「本城公園」に到着しました。ここは地図を見ると二郭にあたる部分となります。本丸たる一郭部は完全に開発されてしまっており、単なる住宅が建ち並んでいるだけでした。地形も完全に整地されてしまったようです。仕方が無いので、遺構を求めて近隣を探索してみました。

 

↑土塁跡?

↑土塁跡?

 

 上記写真は土塁っぽいものを記録として撮影したものです。遺構であるという根拠はありませんが、民家の敷地内に意味も無く残っている土塁状地形となります。

 

↑小弓公方館跡?

↑小弓公方館跡?

 

 上記写真の場所もよくわかりません。グーグルマップ上に「小弓公方館跡」とされている場所になりますが、なぜココが小弓公方館跡となっているのか根拠不明です。とりあえず写真だけは撮影しております。一応、北小弓城内に位置していますので、小弓公方がここに居を構えた可能性は否定できないものの、根拠不明と言わざるを得ないでのはないかと思っています。

 

 以上、これで小弓公方関連史跡は一通り見終わった感じとなります。せっかくですの森川氏関連の史跡も見ておこうと思い、重俊院へ向かいました。

 

↑重俊院説明

↑重俊院本堂

 

 重俊院は生実藩森川氏の菩提寺となっており、歴代藩主のお墓があります。

 

森川家歴代藩主墓所

 

 以上、小弓公方関連の史跡を一通り巡ってきたわけですが、感想としては南小弓城も北小弓城も巨大な城であることは間違いないです。数千から数万の軍勢で守るような城で、数百という小勢では大きすぎて守れないだろうと。生実藩森川氏が城そのものを藩庁にするのではなく、城の一角に陣屋を作って藩庁にした理由も一万石前後の規模では家臣の人数が数百人レベルとなりますから、城そのものを藩庁にするには手に余るといったところでしょうか。

 ただ、あまりに開発が激しく遺構がほとんど消滅してしまっているのがイタイです。小弓公方は房総戦国史の台風の目であり、その小弓公方御座所たる小弓公方御座所に遺構らしい遺構がないのはなぁと思います。唯一、説明案内版だけは最新学説に作り直しているようで、それだけが救いかなぁ。もう少し小弓公方で観光展開に力を入れてもよさそうですが。まぁ、千葉県は北総は”千葉氏一辺倒”だし、南総は”里見一辺倒”でハッキリ観光テーマが割れてるから、真里谷武田とか小弓公方は両勢力に挟まれてパットしないとは史実と同じかとか思っていたりします。

 さて、残されてるのは北条早雲と戦う宿命の伊豆「堀越公方」か?。伊豆はちょっと遠いなぁと思っていますが、一度は行かないとなぁと思っております。ということで、今年の史跡巡りはこれで巡りじまいかなと。それでは皆様、良いお年を~。

 

 

↑日光街道古河宿

 

 本業の方がガタガタしていて慌ただしかった12月も仕事納めになりまして、正月連休に入りました。本来ならば冬コミケが終わるまでは新刊作成に追われている時期なのですが、今年の冬コミケは久しぶりにサークル落選と相成りまして、新刊の作成もなくなったため、連休恒例の史跡巡りをしようと思い至った次第。でまぁ、本当は武士道論探求のために足利市に行きたかったのです。新田義貞の本拠地の新田庄には何度か行っていたものの、足利尊氏の本拠地足利庄はまだ未見だったので。しかし、年末年始は公共施設の開館は微妙なところで読めない。足利といえば、やはり足利学校など公共施設が開館していないと見る事ができないわけで。ということで今回は足利市はパスして、次に行ってみたかった古河市の方に出向きました。

 なにしろ古河は古河公方の本拠地です。鎌倉公方足利成氏が起こした関東管領上杉憲忠謀殺に端を発する「享徳の乱」勃発により、関東は戦国期に突入していくことになりました。事の発端は、京都の室町幕府に対し、鎌倉公方サイドがライバル意識を高めて反骨精神が旺盛すぎたというところでしょう。室町幕府将軍家の血筋として将軍にもなれるのが鎌倉公方です。しかし、実際には室町将軍に成れなかったかわりに鎌倉公方へというケースとなってしまったため、室町幕府将軍家へのライバル意識が強くなってしまったというわけです。本来であれば室町幕府本体が近畿を中心とする西国を、同族の鎌倉公方が東国を管理支配するということになっていたのですが、この派閥が出来てしまったために室町幕府の全国統治がうまく機能しない。両者の間で調整役を担い、鎌倉公方を補佐すべき関東管領上杉氏の内部にも派閥が出来てしまい、京都と関東の関係がギクシャクしたわけです。鎌倉公方を諫め、なんとか京都の室町将軍家との関係を維持しようとしていた上杉氏でしたが、足利成氏はその疑心から上杉憲忠を殺してしまったわけです。これで鎌倉公方と関東管領は敵対状態が確定し、関東各地に戦乱と混乱が撒かれた。以後、関東は近畿で起きた応仁の大乱を待たず、早くも戦国時代へと突入しました。

 足利成氏は鎌倉に拠点を置いて生活することに危機感を覚え、鎌倉を捨てて古河に移り、以後は古河公方をなのったわけです。関東戦国史と言えば、北条・武田・上杉(謙信の方)の三国志だよねと思ってはいけません。それは戦国時代の末期です。戦国時代初期から中期までは、この古河公方を中心とする関東管領上杉氏との争いに加え、関東管領上杉氏そのものが扇谷と山内に別れての内紛、室町幕府が足利成氏を切り捨て、新たな鎌倉公方を立てようとして失敗し、結果的に小弓公方やら堀越公方など公方様乱立させて収拾の付かない大混乱状態に陥っていくのです。

 この大混乱の震源地がココ、古河になるわけです。

 

↑日光街道古河宿

 

 戦国時代はともかく、現在の古河の町並みは江戸時代に整備されております。古河は日光街道の宿場町として、かつ古河藩の中心地でもありました。上記写真が日光街道になります。江戸時代を通じて譜代藩が入れ替わり立ち替わり入っています。

 

↑古河宿本陣跡

↑古河宿高札場跡

↑説明

 

 江戸時代の古河を所領とした有名どころは、やはり土井利勝でしょう。

 

↑土井利勝像(正定寺)

 

 正定寺は土井利勝が菩提寺として開いたお寺となります。利勝をはじめとする土井家のお墓もここにあります。

 

↑正定寺

↑土井家墓所説明

 

 お墓の方は必要がないのでお見せ致しませんが、土井利勝は二代将軍徳川秀忠の懐刀として徳川幕府初期にその辣腕を振るった大老です。大河ドラマ「葵三代」での活躍が印象に残っている方も多いかと思います。

 

↑水戸藩勤王志士殉難之地碑

 

 古河ある「水戸藩勤王志士殉難之地碑」。幕末に起きた水戸天狗党の乱において、降伏投降した水戸藩尊攘派を古河藩でも預かっていたらしい。結局、29名がこの地で処刑されたとのことです。

 

↑頼政神社

↑頼政神社説明

 

 この古河には、摂津源氏源頼政の墓があったという故事があるのだそうです。神社の由緒などによると、源頼政は以仁王と組み反平家を掲げて最初に挙兵した武士でした。が、早い段階で平清盛の知るところとなり、以仁王共々挙兵に失敗して自刃しました。この時に出された以仁王の令旨が各地の源氏にもたらされ、源頼朝や木曽義仲の挙兵が始まって治承寿永の乱、いわゆる源平合戦が起こっていきます。自刃した頼政の首は家臣だった下河辺行平が持ち去り、自身の本拠地だったこの地に葬ったとのことです。真偽のほどは解りませんが、この頼政神社の他にも北関東には何カ所から頼政神社があるのは確かです。

 

↑頼政神社社殿

 

 この日はお正月に向け、地元の方々が大掃除をしているところにお邪魔する形になってしまいました。ご厚意で写真写りが良いように荷物などを除けて頂いたりして大感謝でございます。

 

↑神馬の木造

 

 頼政神社には神馬の木造が奉納されていたようで、掃除のために扉が開いているところでした。普段であれば格子扉越しに見るしかないっぽいですが、扉なしの状態で神馬の写真を撮らさせて頂きました。来年は「午年」ですしねぇ。

 

↑頼政神社全景

 

 頼政神社は、もともと古河城の南側にあった頼政曲輪にあったのですが、渡良瀬川の河川改修で古河城が跡形もなく解体されることとなり、古河城の北側にある観音寺曲輪、現在の位置に移されています。なので、この場所は古河城観音寺曲輪ですね。神社が建てられている場所も他の場所より高い台地の上にありますから、たぶんコレは観音寺曲輪の土塁跡なんだろうなと思います。

 

↑古河藩作事役所址

 

 頼政神社の横から写真を撮影しておりますが、この場所もまた「古河藩作事役所跡」だったりします。

 

↑古河藩校盈科堂・教武所跡

 

 ここが古河藩藩校跡となります。すぐ近くに水戸藩勤王志士殉難之地碑もあります。

 

↑堀跡

 

 上記は古河城の堀跡とされますが、単なる段差にしか見えないです。うーん……。

 

↑古河城追手門跡

↑説明

 

 追手門とありますが大手門跡ですね。一般の住宅街のなかにあり、遺構というものは見当たりません。完全に開発してしまったのだろうなぁと。それでも歴史博物館に遺構が残されているらしいので、そちらに向かうことにしましょう。

 

↑古河城諏訪曲輪の土塁と掘跡

 

 ようやく城らしい遺構がありました。跡形も無く城の遺構が消え去っている古河城のなかで、辛うじて城らしさを見る事が出来る場所がここになります。

 郷土の歴史博物館の敷地内となりますが、博物館は閉館中です。来年3月までは照明工事のため休館が続く感じらしいです。

 

↑出城諏訪曲輪堀跡

 

 諏訪曲輪は、古河城から東側に出たところにありますので、ちょうど出城的な曲輪になります。渡良瀬川から離れていたことが、結果的に遺構が残ったというところでしょうか。

 

↑諏訪曲輪跡

 

 ちょうど古河歴史博物館が諏訪曲輪に建てられているので、休館でなければ内部を見る事ができたのですが、残念ながら休館している間は見れないです。

 

↑諏訪曲輪の土塁

↑古河城出城諏訪郭石碑

 

 柵があるので立ち入れませんが、隙間から諏訪曲輪内部を覗き見中。やはり土塁の迫力がすごいかなと。これが出城レベルなので、本城の古河城がいかに巨大城郭だったか想像できましょう。

 

↑右側に獅子ケ崎の土塁、左側が堀跡

↑説明

↑獅子ケ崎の土塁説明

 

 上記は保存状態が非常に良い土塁跡となります。堀跡は観音寺曲輪と桜町曲輪を隔てている掘ですね。掘の大きさからも古河城の巨大さがご理解頂けるかと思います。

 

↑桜門跡

 

 観音寺曲輪から桜町曲輪へ向かう際に通る桜門の跡です。まわりは普通に住宅街で、城跡の面影もない感じです。

 

↑古河城本丸跡

 

 渡良瀬川の土手を歩いて本丸跡へ。この場所がまさに本丸跡になります。渡良瀬川の整備工事によって、城の面影は跡形も無く消え去っております。

 

↑本丸跡全景

 

 御覧の通りただの土手ですが、ここが古河城の中心的本郭部です。

 

↑古河城主要本郭部の全景

 

 もはや城跡とは思えないほど完全に地形を変えてしまっている状況です。しかし、こここそ関東戦国史の中心であり、その震源なのです。何も無いけど一度は行かねばと思っていた場所となります。

 さて、古河城に関する主要部分は一通り巡ってきたので、最後に残っていた古河公方館跡に向かいます。

 

↑看板

 

 時刻は丁度お昼になっております。目に入った看板には、まさに坂東武者の精神が形になった看板が……

 

↑味噌煮込みうどん

 

 なので、立ち寄って昼ご飯を食べましたw。ラーメンじゃなくて煮込みうどんです。寒い日はこれに限るねぇ……。

 

↑古河公方館跡

↑説明

 

 ということで昼ご飯を済ませ、古河公方館跡に到着しました。現在は古河総合公園という巨大な公園の内部にあります。

 

 古河公方館の形状は、グーグルマップで見ると非常に解りやすい。御覧の通り、半島状になっており、館を囲っている池が天然の掘を形成しています。屋敷を構えるのにこれほど良い場所はないという場所に館を作っているわけです。なお、これは人為的に掘を掘ったわけではなく、天然の形状です。まぁ多少は整備したかもしれませんが。

 

↑堀切

 

 上記は半島状態の中間地点にある「堀切」と思われるくぼみ形状。くぼみの底が道になっています。右側が館跡。

 

↑堀切と土塁跡

 

堀切跡を見下げてみる。向こう側が館跡で、堀切部の上側が土塁跡になります。

 

↑半島部先端

 

 橋があるので対岸に渡って館跡を対岸がら眺めてみます。見事なまでのコの字形状。天然の掘となっている池も大きい。まぁ、室町期の城郭と比べれば防御力はたかが知れているとはいえ、武家館跡としてはかなり守りが堅いと思われます。戦国時代初期だと普段は館で暮らし、いざ敵が来たとなったら詰の城に逃げ込んで籠城というのがセオリーなので、普段住む場所としては問題なしかな。古河公方足利成氏が鎌倉を捨てて最初に滞在した場所がココになります。そして先に紹介した古河城を整備してからは、古河城の方に移って居城としました。

 もっとも古河城は江戸時代に入ってから土井利勝などが藩庁として修築しており、戦国時代そのままではないですけども。

 

 

↑古河公方館跡

 

 館跡としての遺構はほとんどありません。単なる藪か林になっており、先ほど見た堀切とその両サイドの土塁ぐらいが辛うじて遺構として残っているものとなります。

 以上、古河公方関連で見たい史跡は一通り巡って参りましたが、すぐ横に古民家園もあるので行ってみることに……。

 

↑旧中山家住宅

↑説明

 

 上記は豪農の邸宅といったところでしょうか。なかに入ってみると各種農具が展示されていました。

 

↑藁縄を作るヤツ

 

 コレ、名前しらんですが、私が子供の頃に実家にあったやつです(爆)。先端にある穴に稲わらを突っ込み、ぐるぐる回すと歯車によって上手いことワラが編まれ、荒縄が製造できるという優れものでしたw。いやぁ、なんか久しぶりに見たなぁ。じいさんが死んだあとは実家も立て替えられ、たぶんその時に処分されているはずだから、もう実家にもないものです。

 

↑旧飛田家住宅

↑説明

 

 上記の飛田家住宅には土間部分が飛び出しており、そこが馬屋になっています。農耕機械ができるまでは、馬や牛が農耕機械の動力源ですからということで。

 

↑古河城乾門(現存)

↑説明

 

 上記は帰宅すべく古河駅に向かっている途上で立ち寄りました。明治の廃城令の際、城の門も売却されましたが福法寺の檀家がこれを購入して寺の門にしたようです。その結果、遺構が異常に少ない古河城のなかで奇跡的に現存する城の乾門になります。

 

 以上、関東戦国史の出発点となる古河公方関連史跡を巡ってきました。武士道論の方は、現在鎌倉時代について探求をしているところで室町時代はまだまだ先となる予定ですが、いずれは探求することになるかと。その時の準備のため、見るべきものは見ておかねばならず、今回はじめて古河を巡った次第です。

 さて、古河公方関連を巡ってみると、これに加えて最大のライバルとなる小弓公方関連史跡も巡ってみたいという気持ちが……(苦笑)。小弓公方足利義明のお墓の方は行っているのですが、その館となった小弓城はまだ行った事ないので、近いうちに尋ねたいと思います。

 

↑フナの佃煮&ワカサギの佃煮

 

 古河の名産は「フナの甘露煮」だそうなので、正月に食べようと購入。甘露煮と佃煮は違うモノのような気もしますが、まぁ似たようなもんか。料理法が微妙に違うはずだけども、大きめの魚で作ると甘露煮、小型魚で作ると佃煮という分け方もありますしねぇ。何にせよ、フナの他にワカサギまで買ったのは、行方で買った霞ヶ浦のワカサギ甘露煮を忘れられないからです(苦笑)。

 ということで、連休恒例のちょっと遠出の史跡巡りは古河でした。次……というかたぶん明日、小弓城の方を巡ってこようと思います。