幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

↑幕末期の拳銃

 

 今日は、東中野にある酒場「14」で、火縄銃に関するイベントが開催されたので参加して参りました。

 

お店の公式サイトはこちら

 

 

 

 イベントの企画運営は私の友人でもあるS氏。S氏は森重流砲術と天眞正伝香取神道流剣術をそれぞれ免許皆伝で、かつ日本における銃砲研究の最高峰”銃砲史学会”にも所属されている方です。

 さらに銃砲史学会で理事を務める日本銃砲のプロ中のプロ、峯田元治先生が講師として火縄銃および幕末期の洋銃に関し、解説して頂けるという話。S氏よりお話を聞いた時、即参加決定というイベントでした。

↑イベント内容

 

 やはり銃砲に関する専門知識は、実際に銃砲研究に携わっている方に聞くのが一番ですし、射撃免許を持たない私のような人間は、実際に射撃や古流砲術の型を体術として身に付けている人に聞く以外にないです。なにしろ”自分で試せない”以上、実際に”試せる技術”を持つ人からお話を聞くしかないですからなぁ。

 専門家や技術・銃砲に関する資格を持たない人から話を聞いてしまうと、”また聞き”になってしまい、史学の手法で言われる”また聞きは勘違いや誇張が入り、真実性・信憑性がなくなる”という現象にハマってしまう可能性があります。これだと歴史を知ろうとする上では悪手となりますので。

 

↑イベントで紹介された古銃(実銃)

 

 イベントでは国友筒(火縄銃)、薩摩筒(火縄銃)、幕末期の拳銃やゲベール銃、ミニェー銃に関し、実銃を用いながらそれぞれの特徴や注目すべきポイントなどを解説。六匁玉や雷管などは実際に参加者に廻されて見聞。先込め銃以後の薬莢を用いる後込め銃に関しても触れられました。

 お話のなかで、薬莢(カートリッジ)を用いたものが現代銃、それ以外は古銃というのが私の認識でしたが、この区分けについて「ハンマーで打撃する部分が中央にある(センターファイアー)ものが現代銃で、縁を叩く(リムファイアー)ものは現代銃扱いにはならない(古銃は美術品扱いとなるため、触っても銃刀法違反にならない)」という話も出てきておもしろかったです。

 思えば、故あさくら先生が「手に入れたスペンサー銃はセンターファイアーで現代銃扱いだから、触っちゃダメだよ」と注意を受けたことが思い出されます。スペンサー銃は本来はリムファイアーの薬莢を用います。が、あさくら先生は現代で復刻したスペンサー銃を購入しているため、現代の薬莢を使用できるようにセンターファイアー仕様になっていたなぁと。

↑スペンサー騎兵銃を撃つ故あさくらゆう先生

↑スペンサー騎兵銃(復刻版現代銃)

 

↑雷管(管打ち銃に用いるもの)

 

↑幕末ごろの拳銃

↑雷管をセットする部分を拡大

 

 拳銃に関してはリボルバー形式だけど中折れするタイプのもので、雷管を差し込んで撃つタイプみたいでした。ちょこっと触らせて頂いたりして楽しかったですわ~。

 

↑薩摩筒

 

 イベントで重点を置かれたのは、やはり火縄銃で国友筒と薩摩筒に関して解説。薩摩でも砂鉄が取れ、それが良質だったことから薩摩筒は筒の厚みが薄くても強度があるという話でした。薄く作れるということは、その分だけ重さも軽くなるわけで銃としては有利だったろうなぁと思います。ホント、銃は重いですから(汗)。

 戦国時代はもちろん、江戸時代を通じて薩摩藩島津家は鉄炮重視の合伝流兵法でしたから、性能の良い鉄炮と薩摩藩は相性が良かったはずですしねぇ。

 

↑上側がミニェー銃、下側がゲベール銃

 

 ゲベール銃でおもしろかったのは、ストック部分を削って和銃方式に改造されているところでしょうか。ゲベール銃も洋銃ですから、本来は肩当てストックがある。しかし、日本人は頬に当てて構える和銃形式の取り回しに慣れているため、ストックを取っ払って頬当て形式に変えているみたいです。

 また、ライフル銃は銃口内で弾丸を回転させてるわけですが、よく説明で”ぐるぐる回転”という説明がされる。しかし、実際には銃口内での回転はだいたい一回転前後程度で銃口から弾丸が出ていくという話もありました。つまり、その程度のライフリング(溝)が銃口内に掘られているということです。

 

 最新研究の成果を聞きながら、火縄銃や幕末期の洋銃への発展など聞き、とても勉強になりましたわ~。イベント終了後は、銃砲史学会の会報販売や火縄の販売がありましたので、資料用に購入します。

 

↑薩摩筒の解説レジュメと購入した通常の火縄「切り火縄(森重流砲術)」と村上水軍が用いた耐水性のある火縄「露の火縄(合武三島流)」

 

↑銃砲史学会の会報各種

 

 銃砲史学会の会報は、本来は会員のみに配布されているもので、一般たる私が読もうとすると図書館に所蔵されているものを読むしかないのです。今回は、特別販売されていたので幕末に関係する論文があるものを購入いたしました♪。

 

 以上、大変有意義に過ごせたイベントで楽しかったです。あさくら先生が世を去ってからは、本物の古銃を見る機会が激減し、それこそ間近で撮影させてもらえる機会もないという状況。古銃は博物館でガラスケース越しに眺めるだけかなぁと思っていたところ、このような機会に恵まれたことは幸せですのう。

 また、こうしたイベントがあれば参加していこうと思っております。

 

 

【業務連絡】

 今年の夏コミ新刊『歴史企画研究叢書11輯 幕末期の学問』の通販開始を8月10日ごろより開始する予定です。ネット上の通販案内に詳細をアップします。購入希望の方は、しばしお待ち下さい。

 また、8月12日のコミケ104(二日目)にサークル参加しますので、実際に中味を見て買いたい方はコミケに来て頂ければと思います。コミケの入場券は前売りで当日券はないみたいですので、コミケット準備会のサイト等で参加方法を確認して頂ければと思います。

 

 

今日は雑司ヶ谷霊園と青山霊園の方へ歴史上の人物のお墓参りに行ってきました。

↑雑司ヶ谷霊園内にある「御鷹部屋と松」の史跡

↑案内版

 

 普段は史跡を中心に巡っているわけですが、同人誌掲載用の資料写真の史跡・旧跡に関しては充実してきたものの、お墓に関してはあまりないという状態でして、近場で撮影できるものに関しては撮っておかねばと思い続けて今に至りました。でも、今日は新刊の入稿も終わったこともあって時間が取れたので行ってきた次第です。

 ただ、同人誌と違ってネット上では資料として必要があればお見せいたしますが、必要がなければ基本的にお墓の写真はお見せしないポリシーなので、今回は非常にお見せするものが少ないです。お墓は史跡ではなく慰霊の場ですし、多くの場合御子孫の方々が私有する私的財産ですので。

 

 ということで、まずは雑司ヶ谷霊園の方へ行って参りました。

↑幕臣・若菜三男三郎のお墓の背面

 

 若菜家累代のお墓となります。お墓の正面はあえてお見せしません。資料としては背面の方が重要だったので、背面だけお見せします。いくつか並んでいる人名の内、一番右側に「若菜三男三郎」とあり、幕末期の幕臣若菜三男三郎の墓所だと確認できます。この人物は戊辰戦争時に近藤勇が率いた甲陽鎮撫隊と関わりがあるのです。

 元々は幕府の外交官として下田奉行支配組頭としてタウンゼント・ハリスやヒュースケンを応接・交渉をしており、在任中にヒュースケンが尊攘派の異人斬りにあったりと、大変な事件に巻き込まれてた人物です。後に神奈川奉行支配組頭として神奈川に派遣されると、今度は「生麦事件」が起こって再び巻き込まれるという目に会う苦労人。

 そして戊辰戦争当時は甲府町奉行として甲府に派遣されていました。が、やはり甲府城で明治新政府軍を迎え撃とうとする主戦派(一部の甲府勤番士)と恭順論派(徳川家は恭順方針)で揉めていました。結局のところ、甲府に乗り込んできた明治新政府軍板垣退助支隊に対して恭順姿勢をとりました。甲府城代代行の佐藤駿河守、甲府町奉行若菜三男三郎、甲府代官中山誠一郎の三人を代表して中山誠一郎が新政府軍に赴き、勤王誓書を差し出して甲府城は恭順ということになります。

 これで収まらないのが主戦派の甲府勤番士。彼らは甲陽鎮撫隊を率いて来る予定の近藤勇に期待を寄せました。

 史料『復古記・第十一冊 東山道戦記(東京大学史料編纂所編・マツノ書店)』によると、甲州勝沼の戦い後に新政府軍は主戦派の幕臣たちを捕らえ詰問しています。それによると

 

「甲城守衛ノ我兵ハ、府士ノ賊徒ニ串謀ノ柴田監物、保々忠太郎、疋田喜一郎以下六十七名ヲ捕縛シ、賊ノ謀略ヲ詰問ス、然レトモ剛愎ニシテ実ヲ不吐、獨リ疋田喜一郎、盡謀略ヲ吐ク、其ノ略ニ曰、初メ伏水ノ變ヲ聞クヤ、在府ノ武士共、当所教武場ニ會シ、徳川氏ノ為メニ死守スルヲ議ス、會首則監物以下忠太郎等ナリ、此度大久保剛等参着ノ上ハ、我等初メ当城ニ楯テ籠リ、町ノ西端笛吹川ヲ前ニ当テ、官軍ヲ防拒ノ心得ノ處、豈料ン、官軍早着、策卒ニ空ク成リタレハ、寧本陣ニ切入死セント思ヘ共、事亦終ニ不果ト」

 

 とあり、甲府在勤の幕臣の間で甲府城籠城策があったことが判明。その際の主戦力が、江戸から来る甲陽鎮撫隊の大久保剛(近藤勇)だったという話。

 よく近藤勇は甲府城に籠城して官軍を迎え撃つつもりだったという話が通説でも言われますが、近藤勇の言動を見るかぎり和戦両用の策を取っていました。これは、近藤を甲州ヘ派遣した大久保一翁や勝海舟が近藤勇に「官軍とは戦うな」と厳命しており、徳川宗家も恭順の道を探していたことを近藤勇も知っていたからです。薩長と戦いたいのはやまやまだが、感情に任せて戦えば徳川宗家に対して不忠になるのですね。近藤勇自身、大久保一翁や勝海舟には新政府軍との恭順交渉も行いたいとの希望を出しており、これを大久保や勝が受け入れての甲州派遣でした。なので、場合によっては山岡鉄舟の徳川恭順交渉を近藤勇が先んじて行っていたかもしれない。が、相手は血の気の多い東山道軍であり、坂本龍馬は新選組に殺されたと思っている板垣退助はじめ土佐藩が中核戦力となっていた板垣支隊でしたので上手くいきませんでしたけども。そんなわけで、主戦派の甲府勤番士の期待をよそに、近藤勇の方は必ずしも籠城するとは限らない。相手の出方次第という和戦両用策だったと私は考えています。

 近藤勇が徳川恭順交渉をしようとした形跡は、史料『勝沼・柏尾坂戦争記』(『新選組史料集コンパクト版』新人物往来社編)にあります。

 

「近藤ハ勝沼ノ坂上ニモ関門ヲ作ル。官軍ハ既ニ甲府城ヘ乗リ込ンダ後ニテ幕軍ハ万事手遅レトナリシ故、不得止甲府町奉行若菜三男三郎ヘ書面ヲ差出シ、官軍ヲ瞞着シテ油断サセ、其間ニ準備ヲ整ヘ様トシタ。此ノ書面ハ後ニ官軍ニ若菜ガ取リ上ゲラレシガ文面ハ概畧左ノ通リデアツタ。
 我等、此度甲府城取締ヲ命ゼラレ鎮
 撫隊トシテ罷リ越シタル処、官軍已
 ニ入城ノ趣キ、去レバ我々突然乗リ
 込ミテハ却ツテ官軍ニ不敬ニ当ルベ
 ク且ツ我々ヨリ官軍ニ抗スル所存ハ
 毛頭無之ニ付貴殿ノ計ヲ以テ暫シ進
 軍ヲ差止ル様官軍ノ大将ヘ申出ラレ
 度、我等近郷ヲ鎮撫シ追テ甲府ヘ参
 ルベク云々」

 

 さらにこれとまったく同じ記述が、史料『復古記・東山道戦記』にあります。『東山道戦記』には「山内豊範家記略ニ云」として、

 

「谷守部、我三番隊ヲ率ヒ、直ニ田安ノ陣屋ニ趣キ、賊ノ在否ヲ糺ス、吏、喋々賊ノ潜伏セサルヲ辨ス、其疑ヒナキヲ以テ直ニ栗原驛ニ赴ク、驛吏来リ云、只今近田勇平ト云人、馬上ニテ従者四五人ヲ召連レ、当驛ニ来リ云、甲府ヨリ追々官軍可来ニ付、我等ノ名ヲ申入レ、御目ニ掛リ度事有之ニ付、隊長方ノ内、兵隊ヲ退ケ、三四名ニテ御面話度シ、我等、轟驛ニ相扣御待チ申スト申出テ呉レヨトノ頼ミナリ、其賊ノ斥候疑ヒナキヲ以テ則相議シ、兵ヲ整頓シ、兵粮ヲ遣ヒ、斥兵ヲ前行セ令メ、総勢、列ヲ正シ次テ進ム、已ニ轟驛ニ至ル、賊ヲ不見、進テ勝沼驛ニ至レハ、驛端處々土豚ヲ築キ胸壁ヲ作レリ」とあり、近田勇平なる人物が新政府軍に交渉したいと申し出ていること。さらに「全軍ノ甲府ニ入ルヤ、賊長大久保剛、町奉行若菜三男三郎ニ送ル書簡ヲ得タリ、其文ニ云、此度我等、甲府取締ヲ命セラレ来レリ、然ルニ官軍已ニ御入城ニ相成ル由、突然ト参候テハ、官軍ニ対シ不敬ニ相当リ可申、固ヨリ毛頭官軍ニ抗敵スルノ意ナシ、依テ暫ク御進軍御止メニ相成ル様申出賜ハルヘシ、我等先ツ近在ヲ鎮撫シ、追々其ノ表ヘ参ルヘシ云々、紙末ニ鎮撫隊大久保剛、若菜三男三郎様ト記セリ、是レ全ク彼レ急撃ヲ恐レ、我軍ヲ緩クシ、江戸ヨリ援軍ヲ待チ、然ル後チ戦ハントスルノ謀計ニテ、炬火ヲ焼キ気勢ヲ張ルモ亦、寡兵ヲ以衆ト見セ、遅疑セ令ント欲ノ策タル顯然タリ、近田勇平ハ恐クハ勇ノ変名ナラン歟、後勇吟味口ニモ亦、近田勇平云々ノ事ヲ述ヘタリ(『復古記 第十一冊』東京大学史料編纂所編・マツノ書店)」

 

 とありますので、新政府軍にも近藤勇の書面が届いていたことがわかります。つまり、本心がどうであれ近藤勇は新政府軍に敵意はないと知らせており、互いに兵隊を下がらせて少人数で交渉したいと新政府軍に願い出ていますから徹底抗戦の態度ではないんですよね。この時の仲介役が甲府町奉行若菜三男三郎でした。

 上記史料で注意しなければならないのは、『東山道戦記』も『勝沼・柏尾坂戦争記』も明治期に書かれた二次史料であり、事件が起こっていた時に書かれた一次史料ではない点です。このため、両史料ともすべての結末を知った上で書いている。その上、内容的にもまったく同じであるため、どちらかが先に書かれた方を参考に記したものと思われること。なので、両史料ともに近藤勇の交渉は”援軍を呼ぶための時間稼ぎに過ぎない”という新政府軍の見解のまま、近藤勇は主戦派で抗戦のために来たと決めつけて書かれています。新政府軍の見解が正しかったかどうかは、近藤勇の死によって「死人に国なし」で解りません。ただ、少なくとも近藤勇が行動を起こす前に新政府軍の方が攻めかかって行ってますから、近藤としては自衛のための防戦はせざるを得なかったでしょう。

 通説では、この時に土方歳三が援軍を呼びに隊を離れたとされていますが、この通説も新政府軍の「援軍を呼ぶための時間稼ぎ」という見解をそのまま受け入れた解釈ではなかろうかと思います。私の思うところでは、援軍を呼ぶこともありましょうが、それ以上に徳川宗家(大久保一翁や勝海舟に)に現状を報告し、指示を仰ごうとして江戸に戻ったのではなかろうかと考えています。その理由は、甲府城に入って治安維持に当たるのが甲陽鎮撫隊の任務で、官軍との戦闘は禁止されているから。先に新政府軍が甲府城に入られてしまい、甲陽鎮撫隊は本来の任務である甲府の警備ができない状況ですから、筋から考えれば上官である大久保一翁や勝海舟の指示を仰ごうとするのが自然かと思いますので。まぁ、これは私見ですけども。

 

 ということで新政府軍側は最初から疑って信用せず、結局は甲陽鎮撫隊を攻撃して甲州・勝沼戦争に発展。近藤勇もやむなく抵抗するも甲陽鎮撫隊の敗北となって江戸に逃げ帰ることになります。このとき、甲陽鎮撫隊と明治新政府の間で意思疎通を図ろうとして仲介していたのが、先に紹介した若菜三男三郎なのですね。なんでこうも重大トラブルの現場にばかりいるのか不思議な若菜三男三郎なのですが、それだけに気になる人物でもあります。

 

↑ジョン万次郎の記念碑

 

 上記はジョン万次郎こと中濱万次郎の記念碑です。横にお墓があります。この他、雑司ヶ谷霊園には千葉定吉&重太郎父子のお墓などがあり、お参りと写真撮影をして参りました。

 続いて青山墓地の方に行きます。こちらに相楽総三の墓地がありますので、一度行かねばと思っていたのです。

 

↑秋月悌次郎の顕彰碑

 

 青山墓地は広いなぁ~と迷っていると会津藩秋月悌次郎の墓所に来ちゃいましたのでお参りします。写真は顕彰碑で横にお墓がありました。他にも青山墓地には西周の墓所や大久保利通の墓所があります。が、今回は天候が悪くなってきそうなので早めに切り上げて目的のお墓を探します。

 目的の相楽総三の墓地はどこか~と探していると青山霊園立山地区の方にありました。

↑相楽総三墓所にある標柱

↑標柱裏側

 

 しまったなぁ。虫よけ持ってきてないわ~と群がる蚊と戦いながらお墓参りと写真撮影をしました。

 

↑墓石側面に「小嶋将満(相楽総三の本名)墓」とあります。

 

 お墓は相楽総三縁者の木村家墓域内にありました。相楽総三は赤報隊の他に、よく江戸薩邸浪士のリーダーとして大政奉還の後に薩摩藩西郷隆盛の指示を受けて江戸の町で強盗掠奪を繰り返したと言われます。が、実際には大政奉還とは関係なく、討幕の密勅の方に絡んで関東三ヶ所での挙兵計画が主です。大政奉還によって倒幕の密勅が無効になると、薩摩藩西郷隆盛からは挙兵計画の停止を指示されたものの止まらず、挙兵を推し進めました。その軍資金は幕府御用達の豪商や異国との貿易商人から押し借りしたりしていますが強盗掠奪はしておらず、江戸の強盗団が薩摩の名をかたって横行したというのが実情かと思われます。なので、逆に相楽らは強盗掠奪集団と思われては恥だという思いからこうした江戸の強盗団を取り締まろうとする動きさえ見せています。

 

浪士凡ソ内規アリ一ニ幕府ヲ佐クル者二ニ浪士を妨害スル者三ニ唐物商法スル者ハ勤王攘夷ノ讐敵ト認メ誅戮ヲ加フベキ者トス、播磨屋ノ件ノ如キハ其一ナリ、唯私欲ヲ以テ人民ノ財貨ヲ強奪スルヲ許サズ。
市中浪士横行及強盗多キヲ以テ幕府酒井左衞門尉ニ命シテ市中警衞セシム之ヲ町廻ト云フ、途中浪士ニ出會争鬪頻リナリ。
此頃市中強盗多ク名ヲ薩ノ浪士ニ借ル浪士モ亦烏合ノ輩ニシテ無頼ノ徒モ鮮シトセス其中ニ内藤縫之助ナル者内規ヲ破リ強盗ノ擧動アリ之レヲ邸中ニ斬テ其懲誡トス。
(史料『薩邸事件略記』より抜粋)

 

 上記史料にもある通り、薩邸浪士には一定のルールが定められて無秩序な乱暴狼藉掠奪は禁止事項になっています。したがって相楽総三を含む江戸薩邸浪士や赤報隊の偽官軍事件に関する通説には多く間違いがあると言えます。しかし、旧幕府・佐幕派には薩邸浪士の仕業か江戸の強盗団・無頼の徒の犯行か見分けが付かない上、相楽ら薩邸浪士側も気性が荒く江戸を警備する庄内藩や新徴組などと衝突が頻発しているため、すべて薩邸浪士の仕業と見られてしまいました。

 現在もなお、ユーチューブなどでぎゃんぎゃん流されてる話のほとんどが史実とは言えないものばかりなんですね。今後、「年貢半減令(この命令も正確には「幕府領の分、年貢半減」ですので、効果範囲は旗本幕臣の領地と幕府領に限定されます。諸藩にはまったく影響力がないものです)」も含め、正確な情報が広まっていくことを願うばかりです。

 

 以上、普段はあまりいかないお墓ばかりとなりましたが、資料用にお墓の碑文も重要な史料となりますのでお参りも兼ねて行ってきました。

↑静岡おでん

 

 とても熱かったので、今日の晩ご飯は「静岡おでん」を作って食します。うむ!故郷の味ですな!。静岡県人として暑かろうがなんだろうが「静岡おでん」は年中食べるのです(苦笑)。

 

 今年の夏のコミケットにサークル当選。ということで無事にサークル参加で出店します。

ということで、今日はその告知です。

 

サークル「幕末ヤ撃団」

イベント:コミックマーケット104

場所:東京ビックサイト

日時:2024年8月12日(コミケ二日目)

ブース:月曜日 東地区 “ヌ” ブロック 08a

新刊『歴史企画研究叢書第11輯 幕末期の学問(研究家・あさくらゆう先生追悼号)』を頒布予定

 

 とりあえず、新刊の頒布場所が確保できたということで。新刊の原稿も仕上がっており、あとは印刷所への入稿を待つばかり。印刷所が混み合うであろう7月を待たずに6月中に入稿。7月には製本量産を完了させて8月のイベントまで寝かせておこうと思っております。

 今回の新刊は、以前よりお知らせしていた通り、研究家故あさくらゆう先生追悼号も兼ねた『歴史企画研究叢書第11輯 幕末期の学問』となります。本書は、もともとはあさくら先生が主催されていたサークル「歴史企画研究」で企画されていた「叢書シリーズ」でした。しかし、各執筆者の原稿が揃い始めた頃にあさくら先生が急性骨髄性白血病を発病され入院。長期の治療生活となりましたが、ついに退院されることなく去年9月15日に他界されてしまいました。

 

↑幕末期のゲベール銃と故あさくらゆう先生

 

 残された『歴史企画研究叢書第11輯』の原稿が一通り出そろっていたこともあり、これを私が引き受けてあさくら先生が手掛けた最後の本として編集製本したものが今回の新刊となります。

 

 

↑新刊の原稿

 

本書の内容は下記の通り

 

オフセット製本・76頁本

●「はじめに」あさくらゆう(幕末史研究家・入院直前に一般に向けて書かれたあさくら先生自身の文)

●「幕末国学を語る上での注意点と展望」宮地正人(東京大学名誉教授・元東京大学史料編纂所長・元国立歴史民俗博物館長)

●「錦旗の効果と儒学・朱子学」梅原義明(サークル「幕末ヤ撃団」代表)

●「岡山の国学」高橋美智子(作家星亮一主宰「戊辰戦争研究会」事務局担当)

●付録「千葉の名灸 73~最終回」(千葉さな関係の資料となります)

●追悼文「あさくら先生を偲んで」(宮地正人・高橋美智子・梅原義明)

 

 内容的には幕末期の思想学問が、幕末史においてどのような影響を及ぼしたのか?。江戸時代の二大学問である「国学」と「儒学」の両側面から読み取っていくという感じかなと。残念ながら、あさくら先生自身が書かれた記事がありませんが、辛うじて入院療養生活に入る直前に書かれたであろう「はじめに」の文章を、誤字脱字以外は修正なしのまま掲載しています。

 同時に、本書があさくら先生が企画された本の最後ということもあるので、執筆者の皆様に改めて追悼文を追加で書いて頂いております。また、同時に幕末人物史において「思想学問の軽視」を問題にされていたあさくら先生の遺志を本書に込め、「未定」であった本書タイトルを私の方で「幕末期の学問」とさせて頂いた次第です。

 また、付録史料「千葉の名灸」は10輯に掲載された”72”の後から最終回までを掲載し、『歴史企画研究叢書』シリーズ全巻で千葉さなの史料たる「千葉の名灸」全文が読める形としました。この史料「千葉の名灸」と千葉さなの人物史もあさくら先生の重要な功績ですから、死去によって史料が途中で途絶えてしまうのはあさくら先生も望んではいまいと思うので。出し惜しみなしで参ります。

 

↑千葉さなが開いた治灸院跡

 

 最後に私が書いた編集後記と追悼文が少々長いです(苦笑)。短い文章にしようと最初は思っていたのですが、製本でページ数が決まっているため、ページ調整の都合で長くなりました。あと、あさくら先生独特の歴史調査の手法など、私もよくわからない部分があるものの、見ていて”こんな感じだった”ということも追加で記しています。ここであさくら先生の歴史探究手法を書いておかないと後世に残らないと思ったので。後世の研究者の皆さんが参考にするためにも、ここで書かずしてどこで書くのだということで~。

 あと、今回の新刊はキチンとしたオフセット製本で全76頁となります。文章量的には多いと思いますので読み応えはあるかなと思いします。しかも東京大学名誉教授であり平田国学研究の第一人者たる宮地正人先生書き下ろしの記事があるのも注目点です。本来ならば、専門学術誌に掲載すべきレベルの記事だったりします。このような権威ある先生の文章を、サブカルの聖地コミケット歴史系で出しちゃいますので、こうご期待ください。

 

以上、今年の夏コミケサークル出店告知でした。

今日は、前々から行きたかった松陰神社と世田谷城跡を巡ってきました。

↑松下村塾(複製)

 

 ここに来たかった理由は、松下村塾が丸ごと複製されていることと、吉田松陰の銅像の写真を資料用で欲しかったことです。資料用というよりは同人誌掲載用写真なんですが、本来ならば「絵・肖像画」を使いたいところ。しかし、絵や肖像画には著作権があるため、所蔵する施設への撮影許可や掲載許可申請の書類を書かないといけないんですね。で、写真の場合は撮影者が著作権者になるので、この点の手間が省けます。まー、それでも銅像類には肖像権があるので、利益を目的とする商業利用は難しい場合がありますけども、同人誌の場合はほとんど利益が出ない上、即売会や調査費用など揃えれば確実に赤字になって利益が出るどころかマイナスです。そんなどう考えても営利目的じゃなく学術研究的な本の場合、わりと大目に見て貰える場合が多いので~(苦笑)。

 しかし、本物の松下村塾は東京から遠く離れた長州は萩にあり、さすがに遠い……けども、世田谷区の松陰神社には、この萩にある松下村塾を模して建てられた松下村塾(複製)があるのですよ。ということで、松陰神社に行って参りました。

↑松陰神社鳥居

↑松陰神社由緒

 

 松陰神社は幕末長州藩の吉田松陰を祭神として祭る神社です。説明するまでもなく、吉田松陰は安政の大獄によって死罪とされてしまいました。当初は江戸小塚原に罪人として埋葬されます。が、これを良しとしない松下村塾で学んだ弟子達、高杉晋作らによって、この神社のある地に改葬されました。この松陰の眠る地が松陰神社に発展したという感じかなと。

 あと、「吉田松陰は、幕末の思想家、教育者で……」とありますが、それは結果論でしかないのです。本来の吉田松陰は、山鹿流兵法の兵学者です。兵学者です。兵学者です。大切なことなので三回言いました。

 

↑松陰神社拝殿

 

 神社に来たのでお参りします。松陰先生に願うことは「研究学問の発展と進展」でございます。松陰先生だけに。お参りの後は、目的の松下村塾へ。

 

↑松下村塾(複製)

↑説明版

 

 まー、素晴らしいものでした。古くささも良い味が出ています。わりと小さな家屋で、近藤勇の生家や土方歳三生家の方が遙かにデカイんよ(苦笑)。まぁ、塾ですから……といっても、10人入ったらパンパンな広さかと。藩校じゃない私塾だからなんでしょうけども。

 

↑松下村塾・講義室

↑松下村塾・塾生控室

 

松下村塾の横には吉田松陰像や複製の際に参考にした松下村塾の瓦などがあります。

 

↑吉田松陰像

↑松下村塾の古瓦(模造)

↑説明

 

 という感じで、松下村塾を見てまわったあと、吉田松陰のお墓にお参りします。

 

↑吉田松陰先生他烈士墓所

↑案内版

 

 上記写真が吉田松陰と江戸で犠牲になった長州系藩士&志士たちの墓所となります。今回はお墓そのものの写真は掲載しませんが、写真に写っている鳥居は木戸孝允(桂小五郎)が寄贈したものです。

↑鳥居に掘られた文言「大政一新之歳」

↑鳥居に掘られた文言「木戸大江孝允」

 

 この文言にもある通り、明治維新という変革(革命)は、当初「明治維新」ではなく、「大政一新(ご一新)」と言われていました。読んで字の如く、その意味するところは「政治が一新された」というものです。これが明治十年前後あたりから一般に広まったのが「明治維新」という言葉です。「維新」という言葉自体は儒学の経書『詩経』などから出てきた言葉で、幕末期から使われていたらしいのですけども当初は一般的ではなく、明治十年前後から一般化していったみたいです。

 

↑徳川家寄贈の灯籠

 

 墓所には徳川家から寄贈された灯籠などもありました。こうしたものがあることから、徳川家と長州派との和解が進んだようすが見て取れます。もう当事者達は争ってないのだろうなと。それを煽り立てて争わせるように仕向ける本で金儲けしている歴史系雑誌や歴史ライターのみっともなさが良くわかりますなー。敗者の歴史だの勝者の歴史だとの煽ってる薄っぺらい歴史論ほどくだらなく、つまらない歴史の見方だと思いますよ私は。だって結局、二極論だからね。極論が正道なわけないだろうと(苦笑)。

 

 あと、ネット上でしか見たことがなく、紙媒体では書かせて貰えないレベルの歴史ライターが、しきりに「吉田松陰は陽明学だ」と主張していますが、以前にもプログで書いた通り、吉田松陰は陽明学派ではありません。

 

 

 吉田松陰も主とする学問は「朱子学」です。『松下村塾零話』という史料にも「先生の学、もとより朱子学を主とすと雖も、敢えて一に偏せず(中略)或は古注、或は仁斎、又は徂徠、王陽明の説を交え、之に己れの発明説を加へ、取捨折衷せられ、その余考証を主とせり」とあるから、典型的な折衷学派。また、「吾れ専ら陽明学を修めるには非ず。ただその学の真、往々にしてわが真と会ふのみ」と吉田松陰自身が言ってます。つまり、松陰はもう学を究めて志を立てた後で、陽明学の書を読み、実学を重んじる陽明学が松陰の行動原理に即していると松陰自身が思ったという話で、松陰の陽明学は後付けなんですね。なので、松陰が陽明学の影響を受けて行動的になったのではなく、すでに行動的だった吉田松陰が後で陽明学を知り、自分と同じではないかと思ったという展開だと私は考えています。

 これは水戸学も同じですが、陽明学の書は読んでいるものの、その学派になってはいないことに注意すべきだと思います。だからこそ、朱子学を正学と定めて陽明学を徹底的に嫌い、排撃までした学者佐久間象山と仲がいいんですよ吉田松陰は(苦笑)。

 

 

↑吉田松陰像(参道にある新しい方)

↑説明

 

 ということで、松陰神社へのお参りが終わりましたので、ついでに近場にある世田谷城と豪徳寺の井伊直弼墓所にお参りしに行きます。

 

↑世田谷城址公園(背面の土手は土塁跡)

↑説明隊

 

 世田谷城は吉良氏の城とのこと。吉良氏は足利氏と並ぶ格式の高い家柄です。足利一門に連なる名家ということもあり、徳川幕府からも尊重されたお家柄であり、かの忠臣蔵で悪役にされてしまっている高家吉良上野介もこの一門に連なっている人物です。

 

↑堀跡

 

 城の広さは豪徳寺まで含むと思われていて、かなり広大です。しかし、すでに開発が進んでおりほとんどが住宅地化しています。しかし、城址公園部分はそっくり城跡の遺構が残されており、東京都心部でこれだけ遺構が残っていれば素晴らしいと言えるんじゃないだろうかと。他の都心部の城跡なんかビルの脇に城跡を示す標柱が立ってるぐらいですからなぁ。

 あと、城址公園の奥の方の森が本丸に近く、ここが立ち入り禁止ののまま開発もされずに保存されています。立ち入り禁止なので遺構を見ることができないのですが、逆に言うと遺構がそっくり残っている状況っぽい。史跡保存のためなのでしょう。

 

↑土塁頂上部

↑堀沿いに土塁が高く延びています

 

 城址公園自体は大きなものではないので、城跡の一部を切り取ったというイメージで遺構を見る感じかなと。かなり大きな堀跡と土塁を見ることができますが、すぐに見終わってしまう広さなのがちょっと悲しいかな。

 このあと、豪徳寺入り口のほうに道路を歩いて行きます。

 

↑豪徳寺前の空き地(立ち入り禁止)

 

 豪徳寺の前まで来ると、鎖で閉鎖された空き地があります。この空き地から先ほどの城址公園まで森に囲まれた高台が延びております。立ち入り禁止なので近寄ることができませんが、遠目からも土塁跡っぽいものが……まぁ、遺構はどうかはわかりませんけども(汗)。

 なお戦国時代の吉良氏は、最終的に小田原北条家に迎えられて重臣となっています。が、豊臣秀吉の小田原城攻めで北条家ごと衰退させられ、世田谷城も廃城に。が、その血脈は徳川幕府のなかで生き続けていくという感じでしょうか。何気に徳川家康は小田原北条家も駿河今川家もその血脈は幕臣として取り立てて生き残らせてますので。んで、その北条家は幕末には河内狭山藩になっており、大和天誅組から協力交渉をされたりしています(苦笑)。

 

↑豪徳寺

↑豪徳寺由緒

 

↑井伊直弼墓を示す史跡標柱

 

 そして豪徳寺です。彦根藩井伊家の江戸菩提寺となっていたため、歴代彦根藩主の墓地になっています。ここに幕府大老井伊直弼のお墓もあるわけです。さっそく、彦根藩歴代藩主の墓地にて井伊直弼のお墓参りをしました。

 また、この地は世田谷城主吉良氏の館跡だった場所と伝わっています。つまり、ここ豪徳寺が吉良氏の武家館跡で、世田谷城はいざというときに籠城する詰め城という形かと思われます。

 

↑井伊直弼墓横に説明版があります。

 

 また井伊直弼墓の背面には、「桜田受難八士之碑」もあります。桜田門外の変で井伊直弼を守って戦い、戦死した人々を慰霊するものですが、逆に生き残った者たちには、主君を守れず多大は被害を藩に負わせた卑怯者として、切腹など厳しく処断されていくという悲劇が起こっていくことになります。

 

↑桜田受難八士之碑

 

↑豪徳寺赤門(旧彦根藩井伊家上屋敷新中雀門)

 

 江戸の井伊家屋敷の門が移築されているのだそうで、この赤門がそうらしいです。ただし、どうも「伝」とのことで、本当なのかどうか私にはわからずです。なので、説明看板とか何もないです。

 

 この赤門をくぐった先にあるのが、招き猫で有名な豪徳寺の招福殿です。

 

↑豪徳寺・招福殿

↑招福殿横には大量の招き猫が!

 

 このなかから”ハローキティ”を見つけると、さらなる幸福が……という四つ葉のクローバーのような話はないです(苦笑)。

 

↑豪徳寺庫裡(旧佐倉藩堀田家江戸屋敷書院)

 

 この豪徳寺庫裡は、関東大震災の後で譲り受けて移築したものらしく、元は佐倉藩堀田家の江戸屋敷書院なのだそうです。

↑門上にある佐倉藩堀田家の家紋「堀田木瓜」。確かにありますな。

 

 門の部分に堀田家家紋が確認できますので、これは信じられる感じでしょうか。以上、豪徳寺の史跡を見終わりましたので、今度は世田谷八幡宮へ向かいます。

 

↑世田谷八幡宮

↑世田谷八幡宮由緒

 

 この世田谷八幡宮は、世田谷城主吉良氏が勧請した神社だそうで、かついざという時には世田谷城の出城としての機能が持たされていました。上記写真も、社殿が独立した高台にあり、小さな出城の風格を感じさせます。が、城の遺構のようなものは見当たらず、その地形に面影を感じるぐらいでしょうか。

 

↑世田谷八幡宮拝殿

 

 以上、時間としてはだいたい半日ぐらいのプチ史跡巡りですんでしまいましたな。丸一日ぐらい歩き回るのかなとも思いましたが、そんなには時間掛からなかったということで。

 

 

↑松陰神社の「志守り」

 

 松陰神社では、松陰ゆかりのお守り「志守り」を頂いて参りました。やはり吉田松陰といえば「志」ですからのう。「決して折れない心の守り」ということで~。まー、まかり間違って「無理無茶無謀なことを二十一回やる心」だと困るのですがぁ~(苦笑)。

 ということで、世田谷はなかなか貴重な史跡が残されているので、ちょっと行ってみるには良いかもなところでした。

 

↑上総国分尼寺

 

 恒例というわけでもないですが、せっかくの連休なので史跡巡りしてきました。

今回行ったところは、以前から行きたかった上総国分寺とその周辺です。

何気に、下野国分寺だけ行ってませんが、下野国府・上野国府&国分寺・常陸国府&国分寺・武蔵国府&国分寺・相模国府(推定)&国分寺・下総国府&国分寺と関八州の内6ヶ所は行ってるわけで、これに上総が加われば7ヶ所目となります。関八州制覇までもう少し……まー、安房国府&国分寺は非常に行きにくいので、めっちゃ後回しになってますが(涙目)。

 ということで、今回も写真枚数が多いので、説明分はそこそこに写真中心でサクサク行きます。

 

まずは早朝から電車に揺られ、上総村上駅に降り立ちました。

↑上総村上駅

 めっちゃ昭和チックな駅舎だったので、鉄道マニアではないですが思わず写真撮っちゃいました。

↑上総村上駅(無人駅)

↑案内版

 

 駅の外に出たら、駅そのものが文化財指定受けててビックリしました。駅もさることながら、この上総村上駅周辺も有力な上総国府推定地だったりします(汗)。まー、国府の位置はいまだに不明で、有力な推定地が数カ所もあります。いずれからも古代の遺跡として発掘調査され、何らかの遺構が出ている状況。ただし、国府と断定できるものがないため、現在もなお国府の位置は不明です。結果的に厄介なことに国府有力場所が何カ所もいっぱいあるという状況でして、今日は行けそうな場所のみに行きました。

↑戸隠神社

↑神社由緒書(柱に括り付けられてて読みにくい……)

 

 まずは「戸隠神社」です。この地区の地名が「総社」であるため、この神社の場所に古代総社あったのではないかという説があります。総社というのは、国府に勤めている官人が、神社に参拝しやすくするために神社を集めた場所のことで、「総社」とか「六所神社」とか言われます。つまり、総社の近くに国府がある可能性が高いわけですね。このため、総社周辺の地域が国府有力推定地になってくるのです。が、上総国分尼寺の方の資料館で話を伺ってみると、この戸隠神社周辺に国府があった可能性は低いのだそうです。

↑祀っている神様の説明版にあった萌えキャライラスト

 

 神社で祀っている神様の説明書きがあるのですが、末社にいたるまでそれぞれの萌えキャラが付されていました。何だコレ?。と、思っていたら同敷地内にある稲荷神社を詣でた時にわかりました。

↑戸隠神社にある稲荷社

 

 稲荷社の中になにやらぺたぺたを貼られている……覗いてみると……

↑稲荷神社に貼られているアニメのポスター

↑お稲荷さんの説明書き

 

 う、うーむ……これは神田の将門さんがお稲荷さんに変なことを吹き込んだとしか思えんなー。きっと将門さんが「わし、秋葉原でブレイクしていたラブライブとコラボしたら、メッチャ受けたわ-!。お前も人気取りしたいなら、おたくを取り込んで二次創作してもらうといいぞ!」とお稲荷さんに自慢して吹き込んだんじゃなかろうか(爆)。だからお稲荷さんが「わ、わしもわしも……」と真似を始めたと……そうとしか思えんなー。

↑上総国分寺跡

 

 気をとりなおして上総国分寺に向かいます。

↑上総国分寺西門跡

↑上総国分寺碑

↑上総国分寺碑

 

 上総国分寺跡は、国分寺というお寺として機能しています。

↑国分寺山門

 

この山門の近くに将門塔があります。

↑将門塔

↑案内版

 

 元々は別の場所にあった将門塔をこちらに移したということです。上総はもともと千葉氏と同族の上総氏の支配領域です。千葉一族は、妙見信仰の絡みもあって平将門を崇敬する一族なのです。そんなこところで、上総にも将門を祀るものがあるのでしょう。

↑国分寺薬師堂

↑国分寺本堂

 上記の本堂がほぼ平安時代の国分寺講堂跡かと思われます。

 

↑金堂跡

↑七重塔跡

↑手前の七重跡から金堂を望む

↑七重塔のところにある案内版

 

 現在も寺として機能しているため、平安期の国分寺跡遺跡としてイメージするのが難しいかもですね。発掘調査はされているので、ところどころに遺跡があるといった感じです。

↑僧坊跡

 現在のお寺の敷地の外背面側に僧坊跡と思われる土盛りがありました。

↑上総国分寺全景

 という感じで、サクと現在の上総国分寺を見終わったので、今度は上総国分尼寺の方に行ってみます。

 

↑上総国分尼寺全景

↑説明版

 

 国分寺は男性のお坊さん専用なので、女性用の国分寺尼寺も併設されて作られています。実は上総国分寺は国分尼寺の方がすごくて、大規模な復元がなされているのですよ。ここに来たかった理由でもあります。

↑上総国分尼寺金堂を背面から望む

↑基壇復元

 まずは外観の細部から見学です。基壇部分は表面を平瓦を積み重ねて化粧し、内部は粘土質の土で充填しているみたいでした。

↑柱と壁の接地部

↑礎石の上に乗る柱

 上記写真の見所は礎石と柱の接地部で、礎石を平にするのではなく、礎石のでこぼこの形に合うように柱の断面を削っている点です。写真を見て貰うと、石ではなく柱側を加工していることが良くわかると思います。

↑屋根瓦の模様

 上記の屋根瓦の文様は、国分寺の総本山足る奈良東大寺と同一の文様みたいでした。

 

↑復元された

中門

↑説明版

↑中門と回廊

 復元されているのですが、何が凄いかというと外観だけでなく内部まで完全復元していること。さらに工法や材料まで奈良時代当時のものを参考に復元している点です。

↑内部側

 内部に入ってみましょう。

 

↑中門(裏側)

 中門を内側が見ています。閂が中央にあります。復元を見て気が付いたのですが、扉の立て付けが蝶番みたいな一般的なヤツではないのですね。

↑扉回転部・上

↑扉回転部・下

 扉が回転軸のパイプで回ってるのですよ。稼動するプラモみたいな作りになっています。

 

↑回廊

 回廊の雰囲気が抜群に良いですなぁ。床面は平瓦を敷き詰めていてピカピカです。ローマ遺跡じゃないのでタイルではないのです(苦笑)。

 

↑中門から金堂を望む

↑中央部は平瓦を割ったものが敷き詰められています。石畳ではないのです。

↑金堂跡

↑金堂壁跡

 上記写真は金堂の壁の礎石です。

↑礎石と壁接地部

 礎石と壁の関係も上記復元部分を見れば一目瞭然ですね。

 

↑上総国分尼寺内部より中門を望む

 めちゃめちゃ雰囲気良いんだわ~。イメージもわき想像しやすいです。他の国分寺遺跡は、基壇の土盛りの上に礎石が配置してあるぐらいですからなー。建物のイメージがわきにくい。上総国分尼寺最大の売りは、この完全復元で国分寺を再現しているところでしょう。

 

↑上総国分尼寺のミニチュア

 併設されている資料館内には、発掘品や上記のミニチュアと共にパネル説明で国分寺の歴史がわかるようになっています。

 

 ということで上総国分寺を十分に楽しんだところで、再び国府捜しの旅に出ることに……。

↑国府推定地の一つとされる「郡本遺跡群」

 発掘調査を行われた場所ですが、畑があるばかりでここが遺跡であることを示すものが何もないのですねぇ(汗)。発掘調査はされており、古代の遺跡であることは証明されているのですけども。

↑仮面ライダーがおった!

 

 ということで新たな上総国府推定地「阿須波神社」です。

↑万葉遺跡・阿須波神社

↑万葉の歌が記された碑

(現代語訳「庭の中にまつられている阿須波の神様に小枝をさして、わたしは祈ります。どうかあなたが無事に帰って来られますように」)

 防人でこの地から遠方へ旅立つ人へ向けた歌だそうです。まー、返ってくるのは無理じゃね?(汗)。なにせ「行きはよいよい(行かせるまでは国司・郡司の仕事)、帰りはしらん(他国から来た人間の面倒は、派遣先の国司や官人は見ません。任地から旅費なしで放り出します)」。野垂れ死が出まくったので、天皇が「ちゃんと帰国の面倒を見るように」と勅命を発したけど、結局、言っただけで制度を作ってないので、国司は担当国の人間の面倒は見るけど、他国の人間のために費用出さなかったでしょうからなぁ。国司が損するだけだし(汗)。なので、防人で国を出たら最後、野垂れ死ぬか奴婢という奴隷になるか、一番マシなのが夜盗山賊になるってところだろうなぁ(汗)。だって、旅費がないから故郷に帰れないモン。

 なので奈良時代後期から平安時代は、夜盗とか山賊・群盗が跳梁跋扈するわけですハイ。

↑碑裏側の説明分

 

 この阿須波神社が国府推定地としてあがってくるのは、この神社の台地を下ったところに古道遺跡が発見されたからです。

↑神社裏手を下った道にある史跡を示す標柱

 ややこしいのは、写真に写る標柱横の道はただの道で、標柱手前側にある道が古道らしいです。

↑古代の古道跡

 この一直線に伸びる道が古道のようです。正確には、すこしズレた畑のなからしい。発掘調査もされて確認されています。

阿須波神社の祭事に使われる道でもあり、この祭事が古代奈良時代から続く祭事であることが確認できるとのこと。

 というわけで、古道がこの神社に一直線にぶつかっているため、神社周辺が上総国府有力推定地になったようです。

 

 ということで、ここから一路八幡駅に向かいます。八幡駅周辺に総社「飯香岡八幡宮」に向かいます。その途中にいくつか見逃せない史跡があるので寄り道しますけども。

 

↑小弓公方足利義明夫妻の墓

↑説明板

 

 小弓公方足利義明のお墓がありますので立ち寄ってお参りします。古河公方と並び、関東戦国史にか欠かせない台風の目でした。古河公方・小弓公方・小田原北条氏と三つ巴で複雑怪奇化したからなぁ関東戦国史は……。

 

↑馬加康胤 胤持 墓

 馬加康胤は室町時代の武将で千葉氏の一族ですが、享徳の乱に乗じて千葉家嫡流宗家の居城千葉城(猪ノ鼻城)を攻め落とし、事実上千葉家宗家を滅ぼしてしまった武将です。後に自身の重臣であった原一族とも対立。結果的に鎌倉時代から房総一帯に覇を唱えた名族千葉氏は、四分五裂して弱体化していくことになります。

 

↑飯香岡八幡宮鳥居

 ということで、上総総社・飯香岡八幡宮に到着しました。

↑飯香岡八幡宮拝殿

↑神社由緒

 

 この飯香岡八幡宮も元は六所神社か出発している神社で、後に総社と呼ばれるようになりました。

先にも記した通り、総社や六所神社のある地域が国府の有力推定地となりますので、この神社もまた上総国府推定地ということになるわけです。ただ、奈良時代の総社が別の場所にあり、後の時代にこの地に移ったという説もあるため、なかなか議論の余地があるのが上総総社です。一番最初に紹介した「戸隠神社」も上総総社とされているので、果たして奈良・平安時代の上総総社はどっちでしょうかねぇ。という話でござんして(苦笑)。

 

↑源頼朝が植林したというイチョウ

↑源頼朝「逆さに植えてみていい?」→上総広常「え??」→千葉常胤「何で??」→源頼朝「植えちゃった!」

 

 っていう言い伝えがあるのでしょうなぁ。でないと源氏の棟梁は遠征で行った先々で植林しまくる一族になってまうので(苦笑)。そうでなくても、戦国武将もあちこちに植林しまくってるっぽいから、このままだと植林は武士の嗜みとかになってまうので(苦笑)。

 

以上、一日上総国市原市周辺の史跡を巡ってまいりました。非常に有意義な一日でしたが、これで明日は間違いなく足が筋肉痛ですなと(苦笑)。