世田谷史跡巡り(松陰神社と世田谷城跡) | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

今日は、前々から行きたかった松陰神社と世田谷城跡を巡ってきました。

↑松下村塾(複製)

 

 ここに来たかった理由は、松下村塾が丸ごと複製されていることと、吉田松陰の銅像の写真を資料用で欲しかったことです。資料用というよりは同人誌掲載用写真なんですが、本来ならば「絵・肖像画」を使いたいところ。しかし、絵や肖像画には著作権があるため、所蔵する施設への撮影許可や掲載許可申請の書類を書かないといけないんですね。で、写真の場合は撮影者が著作権者になるので、この点の手間が省けます。まー、それでも銅像類には肖像権があるので、利益を目的とする商業利用は難しい場合がありますけども、同人誌の場合はほとんど利益が出ない上、即売会や調査費用など揃えれば確実に赤字になって利益が出るどころかマイナスです。そんなどう考えても営利目的じゃなく学術研究的な本の場合、わりと大目に見て貰える場合が多いので~(苦笑)。

 しかし、本物の松下村塾は東京から遠く離れた長州は萩にあり、さすがに遠い……けども、世田谷区の松陰神社には、この萩にある松下村塾を模して建てられた松下村塾(複製)があるのですよ。ということで、松陰神社に行って参りました。

↑松陰神社鳥居

↑松陰神社由緒

 

 松陰神社は幕末長州藩の吉田松陰を祭神として祭る神社です。説明するまでもなく、吉田松陰は安政の大獄によって死罪とされてしまいました。当初は江戸小塚原に罪人として埋葬されます。が、これを良しとしない松下村塾で学んだ弟子達、高杉晋作らによって、この神社のある地に改葬されました。この松陰の眠る地が松陰神社に発展したという感じかなと。

 あと、「吉田松陰は、幕末の思想家、教育者で……」とありますが、それは結果論でしかないのです。本来の吉田松陰は、山鹿流兵法の兵学者です。兵学者です。兵学者です。大切なことなので三回言いました。

 

↑松陰神社拝殿

 

 神社に来たのでお参りします。松陰先生に願うことは「研究学問の発展と進展」でございます。松陰先生だけに。お参りの後は、目的の松下村塾へ。

 

↑松下村塾(複製)

↑説明版

 

 まー、素晴らしいものでした。古くささも良い味が出ています。わりと小さな家屋で、近藤勇の生家や土方歳三生家の方が遙かにデカイんよ(苦笑)。まぁ、塾ですから……といっても、10人入ったらパンパンな広さかと。藩校じゃない私塾だからなんでしょうけども。

 

↑松下村塾・講義室

↑松下村塾・塾生控室

 

松下村塾の横には吉田松陰像や複製の際に参考にした松下村塾の瓦などがあります。

 

↑吉田松陰像

↑松下村塾の古瓦(模造)

↑説明

 

 という感じで、松下村塾を見てまわったあと、吉田松陰のお墓にお参りします。

 

↑吉田松陰先生他烈士墓所

↑案内版

 

 上記写真が吉田松陰と江戸で犠牲になった長州系藩士&志士たちの墓所となります。今回はお墓そのものの写真は掲載しませんが、写真に写っている鳥居は木戸孝允(桂小五郎)が寄贈したものです。

↑鳥居に掘られた文言「大政一新之歳」

↑鳥居に掘られた文言「木戸大江孝允」

 

 この文言にもある通り、明治維新という変革(革命)は、当初「明治維新」ではなく、「大政一新(ご一新)」と言われていました。読んで字の如く、その意味するところは「政治が一新された」というものです。これが明治十年前後あたりから一般に広まったのが「明治維新」という言葉です。「維新」という言葉自体は儒学の経書『詩経』などから出てきた言葉で、幕末期から使われていたらしいのですけども当初は一般的ではなく、明治十年前後から一般化していったみたいです。

 

↑徳川家寄贈の灯籠

 

 墓所には徳川家から寄贈された灯籠などもありました。こうしたものがあることから、徳川家と長州派との和解が進んだようすが見て取れます。もう当事者達は争ってないのだろうなと。それを煽り立てて争わせるように仕向ける本で金儲けしている歴史系雑誌や歴史ライターのみっともなさが良くわかりますなー。敗者の歴史だの勝者の歴史だとの煽ってる薄っぺらい歴史論ほどくだらなく、つまらない歴史の見方だと思いますよ私は。だって結局、二極論だからね。極論が正道なわけないだろうと(苦笑)。

 

 あと、ネット上でしか見たことがなく、紙媒体では書かせて貰えないレベルの歴史ライターが、しきりに「吉田松陰は陽明学だ」と主張していますが、以前にもプログで書いた通り、吉田松陰は陽明学派ではありません。

 

 

 吉田松陰も主とする学問は「朱子学」です。『松下村塾零話』という史料にも「先生の学、もとより朱子学を主とすと雖も、敢えて一に偏せず(中略)或は古注、或は仁斎、又は徂徠、王陽明の説を交え、之に己れの発明説を加へ、取捨折衷せられ、その余考証を主とせり」とあるから、典型的な折衷学派。また、「吾れ専ら陽明学を修めるには非ず。ただその学の真、往々にしてわが真と会ふのみ」と吉田松陰自身が言ってます。つまり、松陰はもう学を究めて志を立てた後で、陽明学の書を読み、実学を重んじる陽明学が松陰の行動原理に即していると松陰自身が思ったという話で、松陰の陽明学は後付けなんですね。なので、松陰が陽明学の影響を受けて行動的になったのではなく、すでに行動的だった吉田松陰が後で陽明学を知り、自分と同じではないかと思ったという展開だと私は考えています。

 これは水戸学も同じですが、陽明学の書は読んでいるものの、その学派になってはいないことに注意すべきだと思います。だからこそ、朱子学を正学と定めて陽明学を徹底的に嫌い、排撃までした学者佐久間象山と仲がいいんですよ吉田松陰は(苦笑)。

 

 

↑吉田松陰像(参道にある新しい方)

↑説明

 

 ということで、松陰神社へのお参りが終わりましたので、ついでに近場にある世田谷城と豪徳寺の井伊直弼墓所にお参りしに行きます。

 

↑世田谷城址公園(背面の土手は土塁跡)

↑説明隊

 

 世田谷城は吉良氏の城とのこと。吉良氏は足利氏と並ぶ格式の高い家柄です。足利一門に連なる名家ということもあり、徳川幕府からも尊重されたお家柄であり、かの忠臣蔵で悪役にされてしまっている高家吉良上野介もこの一門に連なっている人物です。

 

↑堀跡

 

 城の広さは豪徳寺まで含むと思われていて、かなり広大です。しかし、すでに開発が進んでおりほとんどが住宅地化しています。しかし、城址公園部分はそっくり城跡の遺構が残されており、東京都心部でこれだけ遺構が残っていれば素晴らしいと言えるんじゃないだろうかと。他の都心部の城跡なんかビルの脇に城跡を示す標柱が立ってるぐらいですからなぁ。

 あと、城址公園の奥の方の森が本丸に近く、ここが立ち入り禁止ののまま開発もされずに保存されています。立ち入り禁止なので遺構を見ることができないのですが、逆に言うと遺構がそっくり残っている状況っぽい。史跡保存のためなのでしょう。

 

↑土塁頂上部

↑堀沿いに土塁が高く延びています

 

 城址公園自体は大きなものではないので、城跡の一部を切り取ったというイメージで遺構を見る感じかなと。かなり大きな堀跡と土塁を見ることができますが、すぐに見終わってしまう広さなのがちょっと悲しいかな。

 このあと、豪徳寺入り口のほうに道路を歩いて行きます。

 

↑豪徳寺前の空き地(立ち入り禁止)

 

 豪徳寺の前まで来ると、鎖で閉鎖された空き地があります。この空き地から先ほどの城址公園まで森に囲まれた高台が延びております。立ち入り禁止なので近寄ることができませんが、遠目からも土塁跡っぽいものが……まぁ、遺構はどうかはわかりませんけども(汗)。

 なお戦国時代の吉良氏は、最終的に小田原北条家に迎えられて重臣となっています。が、豊臣秀吉の小田原城攻めで北条家ごと衰退させられ、世田谷城も廃城に。が、その血脈は徳川幕府のなかで生き続けていくという感じでしょうか。何気に徳川家康は小田原北条家も駿河今川家もその血脈は幕臣として取り立てて生き残らせてますので。んで、その北条家は幕末には河内狭山藩になっており、大和天誅組から協力交渉をされたりしています(苦笑)。

 

↑豪徳寺

↑豪徳寺由緒

 

↑井伊直弼墓を示す史跡標柱

 

 そして豪徳寺です。彦根藩井伊家の江戸菩提寺となっていたため、歴代彦根藩主の墓地になっています。ここに幕府大老井伊直弼のお墓もあるわけです。さっそく、彦根藩歴代藩主の墓地にて井伊直弼のお墓参りをしました。

 また、この地は世田谷城主吉良氏の館跡だった場所と伝わっています。つまり、ここ豪徳寺が吉良氏の武家館跡で、世田谷城はいざというときに籠城する詰め城という形かと思われます。

 

↑井伊直弼墓横に説明版があります。

 

 また井伊直弼墓の背面には、「桜田受難八士之碑」もあります。桜田門外の変で井伊直弼を守って戦い、戦死した人々を慰霊するものですが、逆に生き残った者たちには、主君を守れず多大は被害を藩に負わせた卑怯者として、切腹など厳しく処断されていくという悲劇が起こっていくことになります。

 

↑桜田受難八士之碑

 

↑豪徳寺赤門(旧彦根藩井伊家上屋敷新中雀門)

 

 江戸の井伊家屋敷の門が移築されているのだそうで、この赤門がそうらしいです。ただし、どうも「伝」とのことで、本当なのかどうか私にはわからずです。なので、説明看板とか何もないです。

 

 この赤門をくぐった先にあるのが、招き猫で有名な豪徳寺の招福殿です。

 

↑豪徳寺・招福殿

↑招福殿横には大量の招き猫が!

 

 このなかから”ハローキティ”を見つけると、さらなる幸福が……という四つ葉のクローバーのような話はないです(苦笑)。

 

↑豪徳寺庫裡(旧佐倉藩堀田家江戸屋敷書院)

 

 この豪徳寺庫裡は、関東大震災の後で譲り受けて移築したものらしく、元は佐倉藩堀田家の江戸屋敷書院なのだそうです。

↑門上にある佐倉藩堀田家の家紋「堀田木瓜」。確かにありますな。

 

 門の部分に堀田家家紋が確認できますので、これは信じられる感じでしょうか。以上、豪徳寺の史跡を見終わりましたので、今度は世田谷八幡宮へ向かいます。

 

↑世田谷八幡宮

↑世田谷八幡宮由緒

 

 この世田谷八幡宮は、世田谷城主吉良氏が勧請した神社だそうで、かついざという時には世田谷城の出城としての機能が持たされていました。上記写真も、社殿が独立した高台にあり、小さな出城の風格を感じさせます。が、城の遺構のようなものは見当たらず、その地形に面影を感じるぐらいでしょうか。

 

↑世田谷八幡宮拝殿

 

 以上、時間としてはだいたい半日ぐらいのプチ史跡巡りですんでしまいましたな。丸一日ぐらい歩き回るのかなとも思いましたが、そんなには時間掛からなかったということで。

 

 

↑松陰神社の「志守り」

 

 松陰神社では、松陰ゆかりのお守り「志守り」を頂いて参りました。やはり吉田松陰といえば「志」ですからのう。「決して折れない心の守り」ということで~。まー、まかり間違って「無理無茶無謀なことを二十一回やる心」だと困るのですがぁ~(苦笑)。

 ということで、世田谷はなかなか貴重な史跡が残されているので、ちょっと行ってみるには良いかもなところでした。