雑司ヶ谷霊園と青山霊園 | 幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

今日は雑司ヶ谷霊園と青山霊園の方へ歴史上の人物のお墓参りに行ってきました。

↑雑司ヶ谷霊園内にある「御鷹部屋と松」の史跡

↑案内版

 

 普段は史跡を中心に巡っているわけですが、同人誌掲載用の資料写真の史跡・旧跡に関しては充実してきたものの、お墓に関してはあまりないという状態でして、近場で撮影できるものに関しては撮っておかねばと思い続けて今に至りました。でも、今日は新刊の入稿も終わったこともあって時間が取れたので行ってきた次第です。

 ただ、同人誌と違ってネット上では資料として必要があればお見せいたしますが、必要がなければ基本的にお墓の写真はお見せしないポリシーなので、今回は非常にお見せするものが少ないです。お墓は史跡ではなく慰霊の場ですし、多くの場合御子孫の方々が私有する私的財産ですので。

 

 ということで、まずは雑司ヶ谷霊園の方へ行って参りました。

↑幕臣・若菜三男三郎のお墓の背面

 

 若菜家累代のお墓となります。お墓の正面はあえてお見せしません。資料としては背面の方が重要だったので、背面だけお見せします。いくつか並んでいる人名の内、一番右側に「若菜三男三郎」とあり、幕末期の幕臣若菜三男三郎の墓所だと確認できます。この人物は戊辰戦争時に近藤勇が率いた甲陽鎮撫隊と関わりがあるのです。

 元々は幕府の外交官として下田奉行支配組頭としてタウンゼント・ハリスやヒュースケンを応接・交渉をしており、在任中にヒュースケンが尊攘派の異人斬りにあったりと、大変な事件に巻き込まれてた人物です。後に神奈川奉行支配組頭として神奈川に派遣されると、今度は「生麦事件」が起こって再び巻き込まれるという目に会う苦労人。

 そして戊辰戦争当時は甲府町奉行として甲府に派遣されていました。が、やはり甲府城で明治新政府軍を迎え撃とうとする主戦派(一部の甲府勤番士)と恭順論派(徳川家は恭順方針)で揉めていました。結局のところ、甲府に乗り込んできた明治新政府軍板垣退助支隊に対して恭順姿勢をとりました。甲府城代代行の佐藤駿河守、甲府町奉行若菜三男三郎、甲府代官中山誠一郎の三人を代表して中山誠一郎が新政府軍に赴き、勤王誓書を差し出して甲府城は恭順ということになります。

 これで収まらないのが主戦派の甲府勤番士。彼らは甲陽鎮撫隊を率いて来る予定の近藤勇に期待を寄せました。

 史料『復古記・第十一冊 東山道戦記(東京大学史料編纂所編・マツノ書店)』によると、甲州勝沼の戦い後に新政府軍は主戦派の幕臣たちを捕らえ詰問しています。それによると

 

「甲城守衛ノ我兵ハ、府士ノ賊徒ニ串謀ノ柴田監物、保々忠太郎、疋田喜一郎以下六十七名ヲ捕縛シ、賊ノ謀略ヲ詰問ス、然レトモ剛愎ニシテ実ヲ不吐、獨リ疋田喜一郎、盡謀略ヲ吐ク、其ノ略ニ曰、初メ伏水ノ變ヲ聞クヤ、在府ノ武士共、当所教武場ニ會シ、徳川氏ノ為メニ死守スルヲ議ス、會首則監物以下忠太郎等ナリ、此度大久保剛等参着ノ上ハ、我等初メ当城ニ楯テ籠リ、町ノ西端笛吹川ヲ前ニ当テ、官軍ヲ防拒ノ心得ノ處、豈料ン、官軍早着、策卒ニ空ク成リタレハ、寧本陣ニ切入死セント思ヘ共、事亦終ニ不果ト」

 

 とあり、甲府在勤の幕臣の間で甲府城籠城策があったことが判明。その際の主戦力が、江戸から来る甲陽鎮撫隊の大久保剛(近藤勇)だったという話。

 よく近藤勇は甲府城に籠城して官軍を迎え撃つつもりだったという話が通説でも言われますが、近藤勇の言動を見るかぎり和戦両用の策を取っていました。これは、近藤を甲州ヘ派遣した大久保一翁や勝海舟が近藤勇に「官軍とは戦うな」と厳命しており、徳川宗家も恭順の道を探していたことを近藤勇も知っていたからです。薩長と戦いたいのはやまやまだが、感情に任せて戦えば徳川宗家に対して不忠になるのですね。近藤勇自身、大久保一翁や勝海舟には新政府軍との恭順交渉も行いたいとの希望を出しており、これを大久保や勝が受け入れての甲州派遣でした。なので、場合によっては山岡鉄舟の徳川恭順交渉を近藤勇が先んじて行っていたかもしれない。が、相手は血の気の多い東山道軍であり、坂本龍馬は新選組に殺されたと思っている板垣退助はじめ土佐藩が中核戦力となっていた板垣支隊でしたので上手くいきませんでしたけども。そんなわけで、主戦派の甲府勤番士の期待をよそに、近藤勇の方は必ずしも籠城するとは限らない。相手の出方次第という和戦両用策だったと私は考えています。

 近藤勇が徳川恭順交渉をしようとした形跡は、史料『勝沼・柏尾坂戦争記』(『新選組史料集コンパクト版』新人物往来社編)にあります。

 

「近藤ハ勝沼ノ坂上ニモ関門ヲ作ル。官軍ハ既ニ甲府城ヘ乗リ込ンダ後ニテ幕軍ハ万事手遅レトナリシ故、不得止甲府町奉行若菜三男三郎ヘ書面ヲ差出シ、官軍ヲ瞞着シテ油断サセ、其間ニ準備ヲ整ヘ様トシタ。此ノ書面ハ後ニ官軍ニ若菜ガ取リ上ゲラレシガ文面ハ概畧左ノ通リデアツタ。
 我等、此度甲府城取締ヲ命ゼラレ鎮
 撫隊トシテ罷リ越シタル処、官軍已
 ニ入城ノ趣キ、去レバ我々突然乗リ
 込ミテハ却ツテ官軍ニ不敬ニ当ルベ
 ク且ツ我々ヨリ官軍ニ抗スル所存ハ
 毛頭無之ニ付貴殿ノ計ヲ以テ暫シ進
 軍ヲ差止ル様官軍ノ大将ヘ申出ラレ
 度、我等近郷ヲ鎮撫シ追テ甲府ヘ参
 ルベク云々」

 

 さらにこれとまったく同じ記述が、史料『復古記・東山道戦記』にあります。『東山道戦記』には「山内豊範家記略ニ云」として、

 

「谷守部、我三番隊ヲ率ヒ、直ニ田安ノ陣屋ニ趣キ、賊ノ在否ヲ糺ス、吏、喋々賊ノ潜伏セサルヲ辨ス、其疑ヒナキヲ以テ直ニ栗原驛ニ赴ク、驛吏来リ云、只今近田勇平ト云人、馬上ニテ従者四五人ヲ召連レ、当驛ニ来リ云、甲府ヨリ追々官軍可来ニ付、我等ノ名ヲ申入レ、御目ニ掛リ度事有之ニ付、隊長方ノ内、兵隊ヲ退ケ、三四名ニテ御面話度シ、我等、轟驛ニ相扣御待チ申スト申出テ呉レヨトノ頼ミナリ、其賊ノ斥候疑ヒナキヲ以テ則相議シ、兵ヲ整頓シ、兵粮ヲ遣ヒ、斥兵ヲ前行セ令メ、総勢、列ヲ正シ次テ進ム、已ニ轟驛ニ至ル、賊ヲ不見、進テ勝沼驛ニ至レハ、驛端處々土豚ヲ築キ胸壁ヲ作レリ」とあり、近田勇平なる人物が新政府軍に交渉したいと申し出ていること。さらに「全軍ノ甲府ニ入ルヤ、賊長大久保剛、町奉行若菜三男三郎ニ送ル書簡ヲ得タリ、其文ニ云、此度我等、甲府取締ヲ命セラレ来レリ、然ルニ官軍已ニ御入城ニ相成ル由、突然ト参候テハ、官軍ニ対シ不敬ニ相当リ可申、固ヨリ毛頭官軍ニ抗敵スルノ意ナシ、依テ暫ク御進軍御止メニ相成ル様申出賜ハルヘシ、我等先ツ近在ヲ鎮撫シ、追々其ノ表ヘ参ルヘシ云々、紙末ニ鎮撫隊大久保剛、若菜三男三郎様ト記セリ、是レ全ク彼レ急撃ヲ恐レ、我軍ヲ緩クシ、江戸ヨリ援軍ヲ待チ、然ル後チ戦ハントスルノ謀計ニテ、炬火ヲ焼キ気勢ヲ張ルモ亦、寡兵ヲ以衆ト見セ、遅疑セ令ント欲ノ策タル顯然タリ、近田勇平ハ恐クハ勇ノ変名ナラン歟、後勇吟味口ニモ亦、近田勇平云々ノ事ヲ述ヘタリ(『復古記 第十一冊』東京大学史料編纂所編・マツノ書店)」

 

 とありますので、新政府軍にも近藤勇の書面が届いていたことがわかります。つまり、本心がどうであれ近藤勇は新政府軍に敵意はないと知らせており、互いに兵隊を下がらせて少人数で交渉したいと新政府軍に願い出ていますから徹底抗戦の態度ではないんですよね。この時の仲介役が甲府町奉行若菜三男三郎でした。

 上記史料で注意しなければならないのは、『東山道戦記』も『勝沼・柏尾坂戦争記』も明治期に書かれた二次史料であり、事件が起こっていた時に書かれた一次史料ではない点です。このため、両史料ともすべての結末を知った上で書いている。その上、内容的にもまったく同じであるため、どちらかが先に書かれた方を参考に記したものと思われること。なので、両史料ともに近藤勇の交渉は”援軍を呼ぶための時間稼ぎに過ぎない”という新政府軍の見解のまま、近藤勇は主戦派で抗戦のために来たと決めつけて書かれています。新政府軍の見解が正しかったかどうかは、近藤勇の死によって「死人に国なし」で解りません。ただ、少なくとも近藤勇が行動を起こす前に新政府軍の方が攻めかかって行ってますから、近藤としては自衛のための防戦はせざるを得なかったでしょう。

 通説では、この時に土方歳三が援軍を呼びに隊を離れたとされていますが、この通説も新政府軍の「援軍を呼ぶための時間稼ぎ」という見解をそのまま受け入れた解釈ではなかろうかと思います。私の思うところでは、援軍を呼ぶこともありましょうが、それ以上に徳川宗家(大久保一翁や勝海舟に)に現状を報告し、指示を仰ごうとして江戸に戻ったのではなかろうかと考えています。その理由は、甲府城に入って治安維持に当たるのが甲陽鎮撫隊の任務で、官軍との戦闘は禁止されているから。先に新政府軍が甲府城に入られてしまい、甲陽鎮撫隊は本来の任務である甲府の警備ができない状況ですから、筋から考えれば上官である大久保一翁や勝海舟の指示を仰ごうとするのが自然かと思いますので。まぁ、これは私見ですけども。

 

 ということで新政府軍側は最初から疑って信用せず、結局は甲陽鎮撫隊を攻撃して甲州・勝沼戦争に発展。近藤勇もやむなく抵抗するも甲陽鎮撫隊の敗北となって江戸に逃げ帰ることになります。このとき、甲陽鎮撫隊と明治新政府の間で意思疎通を図ろうとして仲介していたのが、先に紹介した若菜三男三郎なのですね。なんでこうも重大トラブルの現場にばかりいるのか不思議な若菜三男三郎なのですが、それだけに気になる人物でもあります。

 

↑ジョン万次郎の記念碑

 

 上記はジョン万次郎こと中濱万次郎の記念碑です。横にお墓があります。この他、雑司ヶ谷霊園には千葉定吉&重太郎父子のお墓などがあり、お参りと写真撮影をして参りました。

 続いて青山墓地の方に行きます。こちらに相楽総三の墓地がありますので、一度行かねばと思っていたのです。

 

↑秋月悌次郎の顕彰碑

 

 青山墓地は広いなぁ~と迷っていると会津藩秋月悌次郎の墓所に来ちゃいましたのでお参りします。写真は顕彰碑で横にお墓がありました。他にも青山墓地には西周の墓所や大久保利通の墓所があります。が、今回は天候が悪くなってきそうなので早めに切り上げて目的のお墓を探します。

 目的の相楽総三の墓地はどこか~と探していると青山霊園立山地区の方にありました。

↑相楽総三墓所にある標柱

↑標柱裏側

 

 しまったなぁ。虫よけ持ってきてないわ~と群がる蚊と戦いながらお墓参りと写真撮影をしました。

 

↑墓石側面に「小嶋将満(相楽総三の本名)墓」とあります。

 

 お墓は相楽総三縁者の木村家墓域内にありました。相楽総三は赤報隊の他に、よく江戸薩邸浪士のリーダーとして大政奉還の後に薩摩藩西郷隆盛の指示を受けて江戸の町で強盗掠奪を繰り返したと言われます。が、実際には大政奉還とは関係なく、討幕の密勅の方に絡んで関東三ヶ所での挙兵計画が主です。大政奉還によって倒幕の密勅が無効になると、薩摩藩西郷隆盛からは挙兵計画の停止を指示されたものの止まらず、挙兵を推し進めました。その軍資金は幕府御用達の豪商や異国との貿易商人から押し借りしたりしていますが強盗掠奪はしておらず、江戸の強盗団が薩摩の名をかたって横行したというのが実情かと思われます。なので、逆に相楽らは強盗掠奪集団と思われては恥だという思いからこうした江戸の強盗団を取り締まろうとする動きさえ見せています。

 

浪士凡ソ内規アリ一ニ幕府ヲ佐クル者二ニ浪士を妨害スル者三ニ唐物商法スル者ハ勤王攘夷ノ讐敵ト認メ誅戮ヲ加フベキ者トス、播磨屋ノ件ノ如キハ其一ナリ、唯私欲ヲ以テ人民ノ財貨ヲ強奪スルヲ許サズ。
市中浪士横行及強盗多キヲ以テ幕府酒井左衞門尉ニ命シテ市中警衞セシム之ヲ町廻ト云フ、途中浪士ニ出會争鬪頻リナリ。
此頃市中強盗多ク名ヲ薩ノ浪士ニ借ル浪士モ亦烏合ノ輩ニシテ無頼ノ徒モ鮮シトセス其中ニ内藤縫之助ナル者内規ヲ破リ強盗ノ擧動アリ之レヲ邸中ニ斬テ其懲誡トス。
(史料『薩邸事件略記』より抜粋)

 

 上記史料にもある通り、薩邸浪士には一定のルールが定められて無秩序な乱暴狼藉掠奪は禁止事項になっています。したがって相楽総三を含む江戸薩邸浪士や赤報隊の偽官軍事件に関する通説には多く間違いがあると言えます。しかし、旧幕府・佐幕派には薩邸浪士の仕業か江戸の強盗団・無頼の徒の犯行か見分けが付かない上、相楽ら薩邸浪士側も気性が荒く江戸を警備する庄内藩や新徴組などと衝突が頻発しているため、すべて薩邸浪士の仕業と見られてしまいました。

 現在もなお、ユーチューブなどでぎゃんぎゃん流されてる話のほとんどが史実とは言えないものばかりなんですね。今後、「年貢半減令(この命令も正確には「幕府領の分、年貢半減」ですので、効果範囲は旗本幕臣の領地と幕府領に限定されます。諸藩にはまったく影響力がないものです)」も含め、正確な情報が広まっていくことを願うばかりです。

 

 以上、普段はあまりいかないお墓ばかりとなりましたが、資料用にお墓の碑文も重要な史料となりますのでお参りも兼ねて行ってきました。

↑静岡おでん

 

 とても熱かったので、今日の晩ご飯は「静岡おでん」を作って食します。うむ!故郷の味ですな!。静岡県人として暑かろうがなんだろうが「静岡おでん」は年中食べるのです(苦笑)。