前回のハニヤスについて記された論文の紹介 | で、国の史跡となっている土生(はぶ)遺跡が、佐賀県小城市三日月町久米字土生にあることに触れました。

 

昨年4月には、桓武天皇の諱と山部について |で、岸俊男氏による山部についての考察を引用し、そのことについて、「山部が諸国に広範な連絡網をもっていたことは、歴史学者の久米邦武氏の戦国時代の先祖が、周防国の久米郷から現在の佐賀県小城市の久米に移り住んだ理由に繋がるのでは? と想像しています」と書きました。

 

久米邦武氏の先祖が周防国の久米郷にいたという話を私が知ることができたのは、八つの史眼を持った男――「米欧回覧実記」の久米邦武の生涯 - 吉村書院 (fc2.com) のおかげです。

ページの中ほどより少し先の「久米家の由来」の項に、次のように書かれています。

(前略)

久米家の先祖は今は山口県に入っている周防国の久米郷に住んでいました。

(中略)

久米家は大内氏に従って九州入りをして一時は、佐賀県小城市の久米という里に住みました。古い部族ですから、全国各地に地縁があったのでしょう。

(後略 引用終わり)

 

見付けたとき驚嘆し、同時に、引用元を知りたいと強く思いました。

この願いは、昨年の9月に国立国会図書館デジタルコレクションの検索機能のおかげで叶いました。

 

大喜びしながら目を通し、天文22年まで生きていたと記される久米邦武氏の先祖の名が「義廣」であることを知り、呆然としました。

 

何故ならば、肥後―阿波―尾張を繋ぐ久米のレイライン | などで見てきた阿波(徳島県)の久米安芸守義廣と同時期に、久米邦武の先祖氏である義廣が存在していたというのです。

拙ブログでは、いつもは「義広」表記を用いています。

 

そこで、ここから、久米邦武の先祖は「久米義廣」、天文22年頃にあったとされる阿波の「鑓場の戦い」に名を遺すほうを「久米義広」と記すことにします。

 

「よしひろ」という名前は、大内義弘、島津義弘、仁木義広、蘆名義広など珍しくないようですので別人と考えるのが普通でしょう。

 

けれど、久米義廣が従った大内義興は、久米義広の主君である細川持隆の正室の父であることから、同一人物であった可能性もあるのではないか?と想像しました。

 

前置きはここまでにして、久米邦武 著 ほか早稲田大学出版部,昭和9 ,久米博士九十年回顧録 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)  の8コマから引用します。

(前略)

 先生姓は久米、名は邦武、幼名は泰次郎後丈一郎、易堂と號す、肥前佐嘉藩士 久米邦郷の三男、天保十年己亥七月十一日佐嘉城下八幡小路に生る。其の先 義廣は周防國都濃郡久米村に住し、大永五年大内義興に從ひて筑前に下り、偶、同地に在營せし龍造寺康家公の家人となりて肥前に移り、小城郡久米ヶ里に居る。享祿二年大内氏の將杉興運襲来して、國主龍造寺氏危急に迫るや、龍造寺氏の將鍋島清久公の次男清房公、義廣の一族十八人と村内の士農を催し、赤熊を冠りて村田樂浮立に擬し、大手口に奇襲して大に之を破る。國主龍造寺家兼公御感あり、乃ち槍十八本義廣一族に賜ふ。天文十四年家兼公筑後に浪々するや、義廣竊に志を通じ、歸國を勧めて公を佐嘉水ヶ江城に迎へ、同二十一年城主龍造寺隆信公浪々するや、亦同志と共に公に勤めて歸城せしむ。翌年公の小田政光を討つや、亦其の馬前に於て敵将の首級三個を獲、軍を班すに臨み多数の伏兵と戈を交へ遂に斃る。其の子良家清久公の次女を娶りしが、公の孫直茂公領知安堵に當り、所領地百二十九町を獻ずるや、公嘉納ありて士に扶持せんとせしも、固辞して百姓頭となり、鍋島領興賀郷を兩分し、上郷の大莊屋となり、帶刀持槍を許可せらる。

(後略 引用終わり)

この書籍は、

「文学博士 久米邦武 述

中野禮四郎 石井八萬次郎 河副博 編」

と記されていますので、書かれていることは信用して良いのだろうと思いたかったのですが、36コマ目の「1 我が家の系統」の項には、周防にいた久米義廣の話は出てきません。

1 我が家の系統

元来、余が家は鍋島家の起った地、佐嘉城西南の本莊村の郷士であつた。鍋島家の始祖清久公は享祿年間に、大内家の大軍が寄せ来り、守護代龍造寺氏危急に迫った時、清久公は次男の清房公と農兵を募り、赤熊を冠って浮立(村田楽、佐嘉の民踊)と見せかけ大内の大軍を奇襲し、散々に打破った其の戦功に依って龍造寺氏より本莊村地頭職を興へられた。是が鍋島家の起である。我が祖先の主税良家は清久公の婿となり、此の時亦其の赤熊兵の一人であったが、爾後村の莊屋となつて之を差配し、依然農兵であつたに直茂公が士分に取立てようとの命があったが、辞退し、興賀上郷の大莊屋全領地の百姓頭として帯刀持槍を許され、今に鍋島家の所有地を差配して居る。

(後略 引用終わり)

 

(これは一体どういうことか? 他に久米義廣について書かれているものは無いのだろうか?)と思い調べてみると、日本歴史地理学会、1931年出版日本交通史の研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 138コマに、「周防久米村の住人にして大永の末竜造寺康家に随身した久米義廣の裔である。」と書かれているのを見付けました。

これは橋村博氏記「久米邦武博士の訃」の一部で、139コマには、久米邦武博士が昨今「回顧録」の補正に従われて居たことや、橋村博氏が前年に博士を伊豆に訪ねたことなどが書かれています。

 

ということは、橋村博氏は、久米邦武氏から直接、「周防久米村の住人にして大永の末竜造寺康家に随身した久米義廣の裔である。」と聞いたのかもしれません。

 

もしかしたら、史料による裏付けの無い伝承についての責任を久米邦武としては持てないため、他人に書いてもらうことによって後世に伝えた、ということなのでしょうか。

 

『久米博士九十年回顧録』上巻のみならず下巻にも見付からないので困っているのが、久米長門守という人物です。

 

東与賀町史 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 123コマに、天文22年に龍造寺隆信が久米長門守らを指揮官にしたことが書かれているのですが、この人物が久米義廣または、良家に当たるのか分からないのです。

 

この謎を解く方法を見出せないので、阿波の久米義広の方から繋がりを探ることにします。

 

久米義広に関することを手当たり次第に検索していたとき、大内氏の歴代当主の名乗った幼名は「亀童丸」だということが分かりました。

 

久米義広の嫡男の名が「亀寿丸」と伝わり、大内義隆の娘が細川持隆正室であることから、(主君である細川持隆夫妻から頂戴した幼名なのだろうか?)と想像していました。

 

久米義広の正室は細川持隆の妹とされていますので、あり得そうな気がするのですが、細川持隆の家臣・久米安芸守義広の妻について。【A】『日本城郭大系 第15巻』p240に、「その夫人は... | レファレンス協同データベース (ndl.go.jp) によると、『名東郡史』以外には書いてあるものを見つけられなかったとのことです。

 

送信サービスを使えば、名東郡史 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 162コマで、「妻は細川讃岐守持隆の妹なり」と書かれているのを読むことが出来ます。

 

さて、ここまで文字ばかりでしたが、今回見付けたラインを二つ出しておきます。

周防の久米の南西の櫛ヶ浜―肱川河口に架かる長浜大橋―神南山

 

佐賀県の黒髪山―愛媛県大洲市立久米小学校―神南山

 

※ご自分で定規などでご確認ください。

 

何故、阿波ではなく伊豫(愛媛)を通るラインなのかといいますと、桜間の花姫と久米義広についての伝説 | でご紹介したことですが、久米義広は天文18年伊予の久米から来て加茂郷を領したと伝わっているようなのです。

 

ここら辺の詳しいことは、インターネットの『三菱財閥の岩崎家の祖先』と題するページに、「三好長輝の六男と称する久米義広が天文十... | レファレンス協同データベース (ndl.go.jp) に書かれているのですが、『芝原久米系図』には、三好長輝の子の6人目に義広の名前があり、「領豫州喜多郡久米庄依之以久米為名字、・・・」と記されています。

 

『芝原久米系図』は諸系譜 第19- 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 69コマ~77コマにも載っているのですが、私には読めない字が多く、レファレンスのおかげで知った真貝宣光氏著「芝原城主 久米安芸守義廣(上)」に大変感謝しています。

 

現在の久米義広 - Wikipedia の「出典1」にも、「真貝宣光著『芝原城主 久米安芸守義廣(上)』p12-17が引用する『犬伏久米系図』『芝原久米系図』より。」とありますが、もしかしたら、レファレンスのページからの引用なのかも・・・?

 

それはともかく、久米義広は伊予の喜多郡久米庄を領したと読めるのですが、今のところ、そのような形跡を見付けられずにいます。

 

大洲市立久米小学校のあたりに久米義広は居たのだろうか? と想像しながら地図を見ていて、久米川が大洲城の近くで肱川に合流していることに気付きました。

地図を貼ったついでに話を大幅に逸らしてしまいますが、アニメ映画「すずめの戸締り」で大洲城や肱川橋梁が描かれていたことをつればし 『すずめの戸締まり』 舞台探訪(聖地巡礼) ~愛媛県エリア~ (fc2.com) で確認しました。

ついでのついでですが、すずめの母親が椿芽(つばめ)であることにドキドキしたことも告白しておきます。私のハンドルネーム椿女は(つばきめ)ではありますが。
 

話を久米川が合流する肱川に戻しますが、もし、久米義広が大洲市立久米小学校のあたりに居たとしたら、肱川を使った流通に関わっていたのでは? と想像しました。

 

そして、肱川の河口から山口県の久米の方を見ると、間に平郡島があることに気付きましたので、大洲から平群島の方を肉眼で見ることが出来る場所を探したところ、神南山 2021.11.28 (suetake1189.sakura.ne.jp) のおかげで、神南山から平郡島が見えることが分かった次第です。

 

神南山が、この地域にとって神聖な地であることは名称からも分かりますが、神南山へ行こう! (fc2.com) などで、神南山を神奈備と定めて祭祀を行った神様は、少彦名命と云われていることを知りました。

 

このことについて詳しく知りたくなり国立国会図書館デジタルコレクションで検索し、見付かったのが、足助威男氏著狗奴国は伊予にあった : 一遍聖の旅から河野氏と日本の古代を探る (一遍会双書 ; 4) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) でした。

33コマから引用します。

(前略)

 さらに、スクナ神は大洲付近に古代の温泉を開き、湯本・湯尻などの地名を残し、神南山に神奈備を定めて祭祀を行っている。そして、そこに巨石文化の跡を残すことになる。

 

伊予少彦の話

 次に愛媛県神社誌から少彦の口碑を拾ってみることにする。

 ① 往古、大己貴命、少名比古命が宇智(越智) 濃満(野間)を経て当地に来り民業を奨む。(松山市馬木町 佐古岡神社)

 ②大国主命と少彦名命が駐蹕の跡に大久米命が二神を祀り仁明天皇の御宇に大久米命の子孫・浮穴千継が社殿を造営して浮穴の宮と称した。 (松山市南高井 正友神社)

(中略)

 ②の社伝にははっきり少彦―大久米命―浮穴千継の系譜を示している。

(後略 引用終わり)

 

スクナヒコナと久米には、カミムスビまたはタカミムスビの子孫と伝わるという共通点があることから、漠然と、少名比古命の開拓地を継承したということなのだろうか・・・と以前から考えていました。

 

けれど、「はっきり少彦―大久米命―浮穴千継の系譜を示している」までは言えないのでは・・・と思いながら適当にページを繰っていたら、31コマに次のように書かれているのを見付けました。

 この神南山の頂上は肱川河口から上流真正面に遠望されるので、瀬戸内海を航海する舟や漁労する人の目標ともなっていて、古代の人々が神の霊域として敬ったことであろう。

(引用終わり)

 

周防(周南市)の久米の南西に位置する櫛ヶ浜―肱川河口に架かる長浜大橋―神南山にラインを見出したことは、的外れではなかったのかもしれないと安堵しました。

それから周南市にスクナヒコナを祀る神社を探したところ、検索で最初に出てきたのが久米神社(山口県周南市大字久米774番地)でした。

 

主祭神は天満宮天神で、配神が高皇産霊神と少彦名神ということですが、神社検索(山口) (jinja-net.jp) の久米神社のページの「由緒」には、次のように書かれています。

 

社伝によれば往古より久米郷(和名抄記載)の殿山には天神二柱を齋き祭られてありし由にて、神功の三韓征伐の途に祈念ありしと伝え、その後、延喜元年菅公太宰府にご左遷のみぎり、風波のためか当所の海辺にみ船かかり、中州より上らせ給い、その地景いと稀なるを賞して靈(くし)ノ浜と名付け給い、それより殿山に御登臨あそばされたと伝え同3年2月菅公筑紫に薨去あそばされるや殿山に奇異の光の現れたるによって程なく里人たち追慕のあまり相議り祠殿を設け祭り始めたとあります。「参考」久米郷は和名類聚抄に記載されたる地域にして、久米村はその本地にて、わが國上代の武門を掌りし久米部の住居地なれば殿山近辺の丘陵地には古代遺物の数々発見されており、以て早く人文の開けたところである。

(引用終わり)

 

久米神社は、元々は、久米部が高皇産霊神と少彦名神とを祀っていたということなのでしょうか・・・?

 

「靈(くし)ノ浜」は櫛ヶ浜のことのようですが、地名由来は、神功皇后ではなく市杵嶋姫命だという説があります。

 

防長風土注進案 第8(都濃宰判) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 184コマから引用します。

都濃郡

櫛ケ濱浦

當浦を櫛ケ濱と申ことは、上古市杵嶋明神七里巡りにあまる嶋に住んことをこのミ、數の嶋山に經廻し玉ふとき、黒かミ山より此浦に移り玉の櫛を落し玉ひしより櫛ケ濱と號候由申傳候

(後略 引用終わり)

 

この引用文に興味を持たれた方には、防長風土注進案 (kushigahamakyodo.sakura.ne.jp) をお勧めします。

同じサイトの櫛ケ浜の日 (kushigahamakyodo.sakura.ne.jp) には久米(天)神社など異なる説も紹介されていて、合わせて学ばせて頂きました。

 

黒髪山がどこであるかについては明記されていませんが、黒髪島は櫛ヶ浜の西側にあります。

黒髪島の位置を地図で見てから拙稿を続けたかったのですが、文字数制限を超えてしまいましたので、次回に致します。