前回の蟹八幡宮と桃太郎伝説、そして鬼ノ城との関係について | 久米の子の部屋 (ameblo.jp)

アップしたときには知らなかったのですが、

岡山県総社市久米1213には、

吉備武彦命を御祭神とする御崎神社(オンザキジンジャ)が座しています。

 

 [図1]

ポインター①が御崎神社で、

御崎神社 岡山県総社市久米 神社と古事記 (buccyake-kojiki.com) によると、ご由緒に「上足守深茂の大神谷は御祭の神吉備武彦命、御友別命2代の御住居跡と伝えられている。」と記されているということです。

 

ほぼ真北に鬼ノ城がありますが、

地図の文字が小さくて見にくいので、②を付けています。

 

そして、鬼ノ城の東側の③ 深茂が、神吉備武彦命、御友別命2代の御住居跡と伝えられている地なのでしょうか。

 

 

宝賀寿男氏著『吉備氏族概観』wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/kibi1g.htm では、

吉備領域の境界にいくつかの竜王山があることが指摘されていますが、

深茂(③)の東側にも竜王山が見えています。

 

神龍八大龍王神社と久米との関係についての推考 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp)

などを書きながら、

竜王山と久米との間には浅からぬ縁があると私は感じてはいますが、

御崎神社が、「久米」の名前を残す地に座す理由は伝わっていないようです。

 

 

『日本書紀』に記される吉備武彦命と“久米”との接点は、

ヤマトタケルの東征です。

 

お伴に吉備武彦と大伴武日連を、料理係に七掬脛を選ばれていますが、

下の系図で示されるように、七掬脛は久米直一族であり、

大伴武日連も同族と考えられます。

 

[図2]

 ※赤い枠で囲んだのは私です。

 

七掬脛の父の兄弟が吉備中県国造に定められていることから、

吉備氏と久米とは近い関係にあったことが想像されます。

 

吉備中県国造については、大伯国造は吉備海部直か佐紀足尼か? | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) にも書きましたが、追記で紹介した

宝賀寿男氏の『備中と信濃の小見山氏の系譜 4 吉備地方の久米氏族』http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/komiyama1.htm から引用させて頂きます。

 

(前略) 中県国造の一族として三使部直氏も見え、これが安芸国にあった。太田亮博士は、「吉備中県国の所在は不詳も、その名称より備中国内と思はる。されど、その後裔が安芸国高宮郡領たるより見れば、安芸国内にその所在を求むべきか。」とする。中県国造の後裔が安芸国高宮郡(広島市域)の郡領であったことは、『三代実録』貞観四年七月条に見え、「安芸国高宮郡大領外正八位下三使部直弟継、少領外正八位上三使部直勝雄等十八人、本姓仲県国造に復す」と記載がある。しかし、吉備ないし安芸の三使部直も仲県国造も、その後は史料に現れず、この限りでは不明と言うほかない。

 

(後略 引用終わり)

 

 

色々気になることがあるのですが、

まず、「大領外正八位下」という立場から調べてみました。

 

『都濃郡家と都濃郡司』ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム (trc.co.jp) から

引用させて頂きます。

 

(前略)

 中央政府が派遣する周防国司の統轄下で、郡司は在地社会に直接かかわる行政実務を担当した。地域の有力首長を任用し、その多くは旧国造級の首長の子孫で、伝統的な名望と権威ある諸氏のなかから選ばれた。周防国司のうち守の官位は、上述のとおり従五位下(令に規定する担当位階は、中国の守が正六位下、上国の守で従五位下)であったのに対し、郡司の長官の大領が外従八位上、次官の少領は外従八位下を授けられ、国司と郡司の官人身分の懸隔は歴然としている。しかも郡司の位階は外位といって卑姓出身の官人に特有の身分的標識を付けられた。郡司が国司に出会うと、たとえ位階は上位でも、下馬の礼を尽くさなくてはならなかった。
 しかし郡司は在地出身の官人であり、国司の任期が六年ないし四年の規定で、じっさいはさらに短期間の在任であったのに反し、終身で多く世襲の官であった。地方行政上における郡司の実質的な権勢は、きわめて強大で、律令国家は在地の有力首長を郡司に選任し、国家機構の末端部に編入することによって、はじめて地方統治の実をあげ、民政を円滑に運用しえたといってよいのである。

 

(後略 引用終わり)

 

 

七掬脛の子孫である淡道国造の系図にも官位が記されていますので、

安芸国高宮郡大領外正八位下三使部直弟継らが、

本姓仲県国造に復した貞観四年(862年)に近いものの画像を下に貼ります。

 

 

[図3]

 ※元の画像は、こちら↓にあります。

 

三原郡大領を18務めた国守という人物が、

貞観十年六月に外従五位下を授けられ

元慶五年に85才で亡くなったことが書かれているように思います。

 

2021/09/11 追記]

「国史大系. 第4巻 日本三代実録 – 国立国会図書館デジタルコレクション」の142コマ目の最後の行に、貞観十年六月についての記事の始まりがあるのですが、

143コマ目に国守の名前を見付けることが出来ません。

 

 

 

 

日本三代実録 - Wikipedia によると、

「巻15と、巻19から巻48、すなわち貞観10年(868年)と貞観13年(871年)1月から仁和元年(885年)12月には、ところどころ写本の省略箇所があり、全文が伝わらない。」ということで、

『日本三代実録』に載っていなくても、

系図に偽りが記されている、ということではないようです。


 

下の画像にあるように、貞観十年六月に、

「淡路国飢。借貸正税稲一萬束」と記されていますので、

このことが国守の叙位と関係しているのかもしれません。

 

 

[追記終わり]


 

 

「外従五位下」という位についての説明が、

仕丁 (biglobe.ne.jp) の中の「内位と外位」の項にあります。

(前略)

五位以上は貴族と呼ばれ、六位とはあらゆる面で大きな待遇差がありました。例えば五位と六位では収入面では倍の差があったのです(貴族の収入参照)。従って、六位から五位に昇格することは大出世とも言えるのです。しかし、神亀五年の規定により、正六位上(しょう ろくいの じょう)から従五位下(じゅ ごいの げ)に昇格する際に、その者の家柄などによってその後の出世コースが分けられたのです。家柄が良い者は正六位上から内位の従五位下へ昇格し、いわゆる中央の貴族となりましたが、そうでない大半の者は外従五位下に叙せられ、同じ従五位でも内位のそれとは給料は半分、しかも内位とは異なりそれ以上昇進することはなく、一生下級貴族として生きる事が決定づけられたのです。

(後略)

 

波多門部造の系図において、叙位の年月日までが分かるのは国守だけです。

 

貞観 (日本) - Wikipedia に、

「貞観十年(868年)78日:播磨国地震が発生。日本三代実録によれば官舎、諸寺堂塔ことごとく「頽倒」したという。前年から引き続き、毎月のように地震があったと見受けられる。)」と記されていることから、

叙位と、 

播磨国地震の発生日が関連付けられて記録された可能性を感じています。

 

 

話が少し逸れてしまいましたが、

中県国造の後裔が郡領であった安芸国高宮郡に注目してみます。

 

宝賀氏は前出の『備中と信濃の小見山氏の系譜 4 吉備地方の久米氏族』で、

「安芸国高宮郡(広島市域)」と記されていますが、

高宮郡 - Wikipedia に、

「古代

現在の安芸高田市のうち、八千代町、吉田町、美土里町、および高宮町来女木にかけての領域。中世までに高田郡に吸収されて消滅した。」と書かれています。

 

「来女木」は「くるめぎ 」と読みますし、

「久米直一族である中県国造の後裔が郡領であった安芸国高宮郡」とは、

現在の安芸高田市にあったような気がします。

 

 

安芸高田市は毛利元就の本拠地として知られ、

毛利元就は、「毛利元就三子教訓状」において“御久米 ”を有難がっています。

その部分を、錦帯橋-上巻-毛利元就三子教訓状 二 | 株式会社中野グラニット (nakanog.co.jp) に掲載されている口語訳より引用させて頂きます。

 

一、元就は不思議に思うほど、厳島神社を大切に思う心があって、長年月の問信仰してきている。それで最初に折敷畑合戦の時も、既に合戦が始まった時、厳島から使者石田六郎左衛門尉が御久米と巻数とを奉持してきたから、さては神意のあることと思い、いよいよ合戦を進めて勝利を得た。その後、厳島要害を修築するために、元就が厳島に渡航中、意外にも敵の舟三隻が突然来襲してきたので、交戦の結果多数の者を討ち取って、その首を要害の麓に並べて置いた。その時元就が思い当たったのは、さては厳島において大勝利を得ることができる奇瑞であるか、そのために元就が渡海の際にこのような仕合いのことがあったのだと信じ、厳島大明神の御加護も必ずあると心中大いに安堵することができた。それ故皆々も厳島神社を信仰せられることが肝要であって、これはまた元就の本望とする所である。

(引用終わり)

 

御久米」は、

写真|山口県文書館 (yamaguchi.lg.jp)

厳島大元御久米(米) 」との標題が付き、「護符」と分類されています。

 

さて、厳島神社と久米との関係ですが、

三翁神社 - Wikipedia には、

「嚴島神社の摂社である三翁神社(さんのうじんじゃ)には、

神武天皇の東征において、佐伯氏は隼人の久米部の兵と共に抜群の功をたてたと伝わっている」とあり、

厳島神社 - Wikipedia には、

「社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命を祀る社殿を創建したことに始まるとされる。」と書かれています。

 

 

毛利氏は厳島神社を崇敬するだけでなく、

広島県安芸高田市八千代町佐々井に座す佐々井厳島神社を、

天正2(1574)、毛利輝元(元就の孫)の名で社殿の新築を行なっています。

 

佐々井厳島神社の燈篭 - 環藝録 (hatenablog.jp) によると、

『廣島縣神社誌』に、

「佐々井の地は正治元年(一一九九)の『伊都岐島社政所解』に朔幣田として佐々井村七反と記されており、古くから宮島の厳島神社と関係があったことが伺われる。また旧神主の系図に『初代河野治郎大夫道頼正治年中ヨリ奉仕ス』とあり、これらの記録から正治元年を以て厳島神勧請の年と考えるのが妥当と思われる。」

と記されているとのこと。

 

久米との繋がりを暈しながらも伝える厳島神社ですから、

佐々井(ささい)村に朔幣田を持つことは、

久米宿祢一族に小竹子乃造 がいることと関係があるのかもしれません。

 

 

 

 

 

そして、久米宿祢一族には、

山部氏と連の姓を与えられた伊予来目部小楯がいますが、

広島県安芸高田市吉田町には山部という地名があり、

山部大塚古墳(吉田町) | 安芸高田市 (akitakata.jp) によると、

「広島県内では最も重要な古墳のひとつ」が在るとのこと。

 

広島県安芸高田市八千代町佐々井にポインター1を、

広島県安芸高田市吉田町山部にポインター2を付けた地図を見てみます。

 

[図4]

 

佐々井と山部は直線距離で10km以上離れていますが、川で繋がっています。

 

驚いたのは、山部と吉田郡山城との近さです。

 

[図5] ※ポインター2の位置は[図4]と同じで、山部に付いています。

 

けれど、これだけでは、毛利氏が“久米”を特別意識しているとまでは言えません。

 

 

ところが、別名で「久米城」とも呼ばれる米子城を建てたのは、

毛利家の家臣である吉川広家だったのです。

 

米子城跡の住所は鳥取県米子市久米町ですが、

「久米城」由来の地名だそうです。

 

何故、「久米城」と呼ばれるようになったのか。

 

米子歴史浪漫プロジェクト (ydpro.net) に書かれていることの中に

真実が在るのかもしれませんが、

毛利家が250年以上にわたって藩庁・萩城を置いた長門国阿武郡は、

久米氏族の味波波命が国造に任じられていた地ですので、

毛利家と久米との間には何かの縁があった、と言えそうです。

 

 

2021/06/28 追記】

久米氏の系譜に連なる吉備中県国造と諏訪神: 神々の黄昏 (seesaa.net)

という記事を見付けました。

 

「中県国造が祖先を祀ったと見られる仲県神社が、和名抄の安芸国高田郡麻原郷

の地域であった現在広島県安芸高田市甲田町上小原の中山神社の摂社として

祀られています。」と書かれていたり、私にとっては参考になることが多い内容です。