今回は、
『出雲國風土記』から感じる久米の存在 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) の続きです。
島根県と鳥取県だけで「小竹」「久米」地名にポインターを付けて見ても、
地図だけでは繋がりを見出すことは出来なかったのですが、
久米の足跡が多く見られる岡山県にも範囲を広げ、
「古屋敷」から繋がる神社や遺跡など。 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) と同じく
「古屋敷」も加えてみたら、
想像以上の繋がり方になってしまいました。
1,鳥取県日野郡江府町俣野古屋敷
2,鳥取県米子市夜見町字古屋敷
3,鳥取県米子市久米町
4,鳥取県西伯郡大山町小竹
5,島根県安来市伯太町横屋844-1 比婆山久米神社
6,島根県松江市法吉町久米
7,岡山県久米郡久米南町里方808 久米押領使・漆間時国の旧宅
8,岡山県真庭市横部字古屋敷
9,岡山県美作市滝宮89 天石門別神社(美作市滝宮)
10、岡山県和気郡和気町岩戸655番 天石門別神社
11、岡山県岡山市北区久米90 蟹八幡宮
12、岡山県津山市宮尾
13、兵庫県淡路市久留麻2033 伊勢久留麻(いせくるま)神社
14、兵庫県南あわじ市榎列上幡多857 大和大国魂神社
15、鳥取県西伯郡大山町妻木1115-4 妻木晩田遺跡
16、兵庫県淡路市多賀字古屋敷571−4 伊弉諾神宮第2駐車場
[図1]
今回のラインを探す作業で一番嬉しかったことは、
「古屋敷」と「久米」を繋ぐラインが見付かったことです。
鳥取県の二箇所の「古屋敷」と、久米押領使の旧宅とに、
ポインターの2、1、7を付けて黒い線でを繋ぎましたが、
ラインの先は、淡路島の旧三原郡へと向かっています。
色々気になることがありますが、次回以降、改めて見ることにします。
ポインター12は、宮尾遺跡が久米郡衙跡と考えられていることから付けました。
中林保氏著『古代美作国の郡家と交通路』_pdf (jst.go.jp) によると、
「(前略)また 『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告4』 は,次のような7点を主たる根拠 と して 「宮尾遺跡」を久米郡衙跡に断定している。
(中略)その四 は,宮尾遺跡が交通路吉井川と出雲街道をおさえる要衝に位置すること。その五は,久米郡で最も広い耕地とともに鉄や銅の製生産として久米郡に君臨 していた豪族がやが て郡司に任用されたと考えられること。その六は,久米郷が郡名を負う郷であること。その七は,常陸国新治郡衙跡な どの遺跡と類似の点が多いこと。(後略)」ということです。
宮尾が交通路の要衝に位置するということから、
上の地図で赤と青と紫の線の交点であることは、偶然ではないように思われます。
ポインター12は、「久米」の名を宮廷文化の中に残してくれた
「久米の佐良山」とも近い位置です。
付近を拡大して見てみます。
[図2]
「久米の佐良山」の所在については、
嵯峨山、笹山、神南備山の三説が対立しているそうです。
平安貴族にも知られた「久米の佐良山」 | 津山市公式サイト (tsuyama.lg.jp)
から転載させて頂きます。
「 美作や久米の佐良山 さらさらにわが名は立てじ よろづ世までに 」
これは『古今和歌集』にある歌で、平安時代の貞観元年(859)、清和天皇の大嘗祭が宮中で挙行された際、美作国英多郡(あいだぐん)から奏上されたものである。英多郡からの歌が、久米郡の「久米の佐良山」を内容としているのは、それが大嘗祭にふさわしい歌だからであろう。この歌は通常男女の忍ぶ恋の歌とされているが、それでは大嘗祭の歌に適さないので、「わが名は絶えじ」の誤りとみて天皇に対する永遠の奉仕を誓ったものとする説もある。
「久米の佐良山」の所在については、 江戸時代以来、嵯峨山(津山市中島、標高289m)、笹山(津山市皿、標高301m)、神南備山(津山市一方上、標高356m)の三説が対立していて、未だ決着していない。
なお、嵯峨山山頂付近に、文化13年(1816)建立の「佐良山碑」(市指定重要文化財)がある。
転載終わり。
この歌は、私には、
「朝廷に疑われるようなことはしません」との誓いに聞こえるのです。
その根拠は、
舟木氏と大伴(久米)との関係 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) にも書いた
大田神社(滋賀県高島市新旭町太田1468) の由緒です。
大田神社 (高島市) (genbu.net) から由緒を再び転載させて頂きますが、
「当社の創立は明らかではないが、社伝によると延歴の頃、豪族大伴氏の子孫大田宿弥の末孫が、この土地に移住し土地を拓き、大伴氏の祖神『天押日命』をまつったのが始めであるという。
すなわち嵯峨天皇の弘仁元年四月十一日、大伴福美磨と河行紀との建立である。
後に美作国(岡山県)佐良山から久米氏の一族が来住すると、その祖神『天津久米命』を摂社として来目社(後の若宮神社)と称へ蒲生に奉祀した。(後略)」
とのことです。
嵯峨天皇は第52代、清和天皇は第56代です。
なので、清和天皇の御代あたりに、
佐良山から久米氏の一族が移住した可能性もありそうです。
では、「朝廷に疑われるようなこと」があったかどうかですが、
もしかしたら、「小竹」は「ササ」とも読めることと関係があるかもしれません。
笹離宮の見どころ|笹離宮|一般財団法人 蓼科笹類植物園 (tateshina-sasa.com) によると、
「『笹』という字は中国にはない日本で生まれた『国字』であり、この『笹』が使われる前は日本では『小竹』と書いて『ささ』と読ませました。 」とのことです。
私が「小竹」に注目している理由は、
久米宿祢の系図に記された伊牟多乃造と小竹子乃造 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) に書いていますが、簡単に言いますと、
「久米宿祢一族の小竹子乃造は、治水に関わっていたのではないか? 」
という自分が立てた仮説が正しいかどうかを知りたいからです。
インターネット情報によると、
『ささ』は砂鉄を意味することもあるそうで、
高度な製鉄技術を持つ集団は、昔の治世者を上まわる力を持ち得ます。
確かな文献を探したところ、
堂野前彰子氏著『鉄をめぐる古代交易の様相-楽々福神社鬼伝承を中心に 』bunkakeishogaku_8_13.pdf (meiji.ac.jp) を見付けることが出来ました。
鳥取県日野郡溝口町宮原にある楽々福神社神主の蘆立家には、「上古ハ砂鉄ノ事ヲ須佐トモ佐々トモ言テ楽楽福神は鉄穴多々良場ノ守神ナリ。此ノ神ノ縁起次ノ如シ。」とはじまる縁起があるとのこと。
樂樂福神社(ささふくじんじゃ)は何社か在るようで、
鳥取県日野郡日南町宮内にご鎮座の樂樂福神社についての記事を、
ひろっぷ様が書かれています。
樂樂福神社について、私は、
ひろっぷ様の記事を拝読するだけで充分と思っていたのですが、
なんだか気になってしまい、[図1]の住所に、
樂樂福神社三社のご鎮座地を加えて見てみました。
厳しめに見たせいもありますが、
17、鳥取県日野郡日南町印賀1494番
18、鳥取県日野郡日南町宮内1101
には、繋がる先がありませんでした。
一方、ポインター19の鳥取県西伯郡伯耆町宮原225には、
細いラインでも綺麗に繋がる「古屋敷」と、神社二社が見つかりましたので、
そこだけを拡大し、目立つように赤い線で繋げました。
1、鳥取県日野郡江府町俣野古屋敷
9、岡山県美作市滝宮89 天石門別神社(美作市滝宮)
13、兵庫県淡路市久留麻2033 伊勢久留麻(いせくるま)神社 です。
[図3]
ラインの右端に当たっているポインター13の伊勢久留麻神社は、
久米と名前が似ていることから以前から気になっていたのですが、
他にも繋がりを見付けていますので、次回以降にお知らせ致します。
ポインター9の天石門別神社(美作市滝宮)について、 美作三宮 天石門別(あめのいわとわけ)神社 - 津山瓦版 (e-tsuyama.com) から一部転載させて頂きますが、
「祭神は天手力男神、社伝によると御鎮座は約2,000年余りまえといわれている。その年月日は不詳だが、財田氏家系図の端文によると第10代崇神天皇の御代に四道将軍大吉備津彦命が中国地方鎮撫の為西下された際、当神社の祭神、天手力男神の神教と神助により、いち早く其の目的を達せられたので、御礼の為当神社の神地を選び、御自ら祭主となられ鎮斎さられた古社と伝えられている。」とのこと。
「各地で祀られている天手力男神は、本来水神であったのかも知れない。
岩を割き、流れ落ちる瀑布を神格化したものか」と考察されていることなどから、
天手力男神を祖神とする大伴氏や久米を、
治水と深く関わってきたのでは? と感じています。
けれど、それだけでなく、
製鉄技術を持つ集団と融和したような気がするのです。
ひろっぷ様の記事で紹介されている
日野川紀行 河童九千坊と砂鉄(タタラ)文化 | 河童共和国 (tycoonart.jp) には、
私の想像が確信に変わるようなことが書かれていますので、
一部を転載させて頂きます。
「3 楽々福神社ー日南町と溝口町」
(前略)
日南町宮内の楽々福さんの神社縁起は長いので意訳すると、ここに祀られているのは記紀神話の「孝霊天皇」とそのファミリーで、開運招福・願望成就の福の神になっている。
孝霊は幼名を楽楽清有彦命、号を笹福(ささふく)という。このササフクが隠岐や日野川の鬼や大蛇を退治して山陰全域を平定、この地の祖になった。その子が「桃太郎」になって吉備の国の赤鬼青鬼を征伐した。以後この地を聖地として楽々福神社が創建され日野川流域の総氏神になった、と。
(後略)
5 「安来の泥鰌(どじょう)すくい」
蘆立さんの論考は長文なので整理すると、楽々福さんの祭神は鉄の神であり河の神である。鉄の神が河の神に推移していく必然が鉄の神の推移過程で、当然たどる道である。
鉄産業は、(1)浜砂鉄(2)川砂鉄(3)山砂鉄と鉄原料を求める立場から(1)~(3)の時代区分ができる。(3)は山の砂を掘り出し水流(比重差利用)による選別時である。その施設を鉄穴(カンナ)といい、カンナ流しという。
カンナ流しで河川は濁流となる。「ヤマタの大蛇(オロチ)」はそれを形容しており後世は明らかに公害の対象になる。そのため楽々福神社では春祭と秋祭を境にして農業期と鉄穴期に大別、神の名でその季節間産業主体の役割を演じることになった。つまり「河止め」と「河明け」である。
(後略 転載終わり。)
「楽々福(ささふく)さんの祭神は鉄の神であり河の神である」ということは、
鳥取県日野郡日南町に座す二社を地図で見ると、
鷹入山と直線で繋がることからも強く感じています。
鷹入山中腹には、
出雲における「小竹」と「久米」 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) でもご紹介しましたが、「平成の名水100選」にも選定された「鷹入の滝」が在ります。
[図4]
5、島根県安来市伯太町横屋844-1 比婆山久米神社
17、鳥取県日野郡日南町印賀1494番1 楽々福神社
18、鳥取県日野郡日南町宮内1101 楽々福神社
20、島根県安来市伯太町上小竹
21、島根県安来市伯太町下小竹242 玉神社
でポインターを付けています。
赤いラインの到着点が三角の頂上ではなく、少しポインター20寄り、
つまり、上小竹寄りになっていますが、
「鷹入の滝」の住所が上小竹ですので、
二社の楽々福神社を結ぶラインが向かうのは、
鷹入山の頂上ではなく、滝なのかもしれません。
島根県:鷹入の滝自然観察路(トップ / 環境・県土づくり / 自然・景観・動物 / 自然環境 / 島根の自然公園・保護・観察 / みんなでつくる身近な自然観察路) (shimane.lg.jp) の「鷹入の滝伝説」の項から転載させて頂きます。
今から約400年前、この地に坂根彌藤次という鉄山師が住んでいました。ある日鷹入山で狩りを行い、この滝で昼寝をしていると、夢に女神が現れて「吾は日野の郡の黒坂の滝の女神であるが、近頃、水源に田をこしらえたため不浄で居心地が悪くなった。しかし、住み馴れた処で逃げるのもいやだから、朝の間は黒坂で、陽が昇ってからはこの滝に移り住みたい。」と告げました。そこで彌藤次は村人と話し合い、総出で黒坂の滝神社から女神をお迎えし、この滝にお宮を造り祭った、と伝えられています。
転載終わり。
「黒坂の滝」とは、
八雲怪談の「幽霊滝の伝説」の舞台となっているの黒坂の滝のことでしょうか?
幽霊滝 滝山神社 | 日本伝承大鑑 (japanmystery.com)
「幽霊滝の伝説」の悲劇の原因となった賽銭箱を盗む行為と、
神として祀られている滝を稲作のためとはいえ汚してしまうことは、
似ているように思います。
「黒坂の滝」が、瀧山神社祀る竜王滝(黒滝とも呼ばれる )だとすれば、
上小竹の「鷹入の滝」とは、直線距離で10km以上離れていますが、
滝を祀る人たちの間柄は近い、ということなのでしょう。
1、鳥取県日野郡江府町俣野古屋敷
5、島根県安来市伯太町横屋844-1 比婆山久米神社
17、鳥取県日野郡日南町印賀1494番1 楽々福神社
18、鳥取県日野郡日南町宮内1101 楽々福神社
19、鳥取県西伯郡伯耆町宮原225 楽々福神社
20、島根県安来市伯太町上小竹
21、島根県安来市伯太町下小竹242 玉神社
22、鳥取県日野郡日野町中菅574 瀧山神社
23、鳥取県西伯郡南部町上中谷笹畑
[図4]
青いラインでは、二社の楽々福(ささふく)神社と「小竹」が繋がることが分かり、
ポインター17、23、19の朱色のラインでは、
楽々福(ささふく)神社二社を「笹」が繋いでいることが分かります。
「小竹」「砂鉄を意味するササ」「笹」は、繋がりを持つことがあるのですね。
このことは、[図1]でポインター11を付けた岡山県岡山市北区久米90に座す
蟹八幡宮にも関わってきそうですが、次回に致します。