404年騎馬軍を主とする好太王(広開土王)と帯方地方に対峙した倭軍はどのような兵
士だったのだろうか
 日本の任那府が無くなったのは554年 百済が新羅に敗れて聖明王が殺された時とされる
660年 山東半島から海を渡った唐の蘇定方軍の軍によって百済は滅亡したが
鬼室福信(きしつふくしん)の要請により義慈王の子豊璋を擁して
白村江(663年)に新羅・唐の連合軍尾と戦ったが大敗し 
北九州 対馬 壱岐に保塁を築き防人が徴集され 百済からは千人余の亡命を受けいれた 
「日本」の国号が誕生したのは689年の飛鳥浄御原令から701年の大宝律令へと至る間と考えられている
敵対した唐と新羅の律令を学び 律令国家の成立を目指した

668年高句麗が滅び 676年新羅は朝鮮半島を統一したが
 それは強大な唐軍の力を借りてのことである
 841年張保皋の反乱があり  900年 完山で、甄萱が後百済を再建する 
 唐は755年安史の大乱があり 875年黄巣の乱が始まり 907年に滅亡する

百済からも唐と新羅からもその文化と政治制度を取り入れながら
万葉集は その大らかな情感を立体画のように歌い上げる
万葉集には防人の歌もあった
筑波嶺の早百合の花の夜床にも愛しけ妹そ昼も愛しけ(4369)
霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我は来にしを(4370)
―右の二首 那賀郡の上丁 大舎人部千文―
足柄の御坂に立(た)して袖振らば家(いは)なる妹はさやに見もかも(4423)
―右の一首 玉郡の上丁 藤原部等母麿―
色深く夫(せ)なが衣は染めましを御坂廻(たば)らばまさやかに見む(4424)
―右の一首 妻物部刀自賣―
古代東人(あずまびと)の姿である

         ◇         ◇

604年十七条の憲法が発布された
 「一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。」
 そして終りの条は
 「十七曰。夫事不可独断。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故與衆相辨。辞則得理。」

 607年遣隋使が派遣される
隋帝は「曰日出處天子致書日没處天子無恙」に激怒する
 「使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰日出處天子
致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞」
―隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 倭國―
しかし隋帝は明年文林郎裴清を倭国に遣わしている
「倭王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎 後十日又遣大禮哥多 従二百余騎郊勞 既至彼都」
「其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國 故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮「倭
是以稽留境内不即相見 今故清道飾館以待大使 冀聞大國惟新之化 清答曰皇帝德並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭」
               ―隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 倭國―

『以和為貴』が
 『論語』第一卷 学而第一「有子曰 禮之用和爲貴」に依拠するかどうかは私は知らない
 「日出處」「日沒處」が
 「摩訶般若波羅蜜多経」の注釈書「大智度論」「日出処是東方 日没処是西方」に依拠する
かどうかは私は知らない
 
 八百萬の神等の神集へ集へたまひ 神議りに議りたまうた太古の天(あま)の言依さしは『必與衆宜論』である
 「豊葦原の水穂の國を、安國と平らけく知ろしめせ」
「掩八紘而爲宇」は建国の精神である
それを世界制覇と見るものは愚か 宇とは家 家に住むもの家族である
江上波夫の「騎馬民族国家」は大和王朝を征服国家とみなすが 
放牧民族の部族間闘争は勝った側の部族は負けた側の部族の男のすべてを殺し 女と家畜を奪った
 『以和為貴』は日本の基本的な国是である
 「曰日出處天子致書日没處天子無恙」
『以和為貴』は事なかれの平和主義ではない
国々はそれぞれの主権を持つ 力によってそれを損うものは排除されなければならな


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私は江上波夫の『騎馬民族征服王朝説』が嫌いである
  
だいたい私は中学二年のころ 歴史の時間 日本語はアルタイ系言語と教わった
 そもそも私たちには蒙古斑があった
 戦前から 中央ユーラシアからの人類移動の流れの中に我々がいるという認識があった
 
 『征服王朝』の概念を提示したのはドイツ系アメリカ人ウィットフォーゲルである
 馮家昇との共著である『中国社会史・遼』「序論」で 遼・金・元・清を征服王朝と呼んだ
 江上波夫はこの名辞を使った 名辞だけでなくその概念をも日本の天皇系に当てはめた
 確かにわれわれの習った歴史には神武天皇の東征という言葉があった 
勿論江上波夫には神武天皇は存在しないがー

仮令神話であっても 天皇系の日本平治は出雲の国譲りに始まる
しかも出雲の大国主命は須佐之男命の子として位置づけられる
そして神武天皇の東征は
那賀須泥毘古(長髄彦)は天の磐船に乗って降ってきた邇藝速日命に仕えていた
「吾以饒速日命為君而奉焉夫天神之子豈有両種乎奈何更穏天神子以奪人地乎吾心推之未必為信天皇曰天神子亦多耳汝所為君是実天神之子者必有表物可相示之長髄彦即取饒速日命之天羽羽矢一隻及歩靭以奉示天皇天皇覧之曰事不虚也還以所御天羽羽矢一隻及歩靭賜示於長髄彦長髄彦見其天表益懐踧踖然而凶器已構其勢不得中休而猶守迷図無復改意饒速日命本知天神慇懃唯天孫是与且見夫長髄彦禀性愎佷不可教以天人之際乃殺之帥其衆而帰順焉天皇素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠効則褒而寵之此物部氏之遠祖也」                            
                            ─『日本書紀』巻第三─

私の古語辞典には『征討』『征伐』という言葉はあっても『征服』という言葉はない

         ◇         ◇

私は天皇家の統治の正当性とその系譜を明らかにするために『古事記』『日本書紀』が
編纂されたと 殊更に言う戦後学者が嫌いだ

天武天皇が舎人稗田阿礼に誦み習わせたもの
「是天皇詔之。朕聞諸家之所〓。帝紀及本辭。既違正實。多加虚僞。當今之時。不改其失。未經幾年。其旨欲滅。斯乃邦家經緯。王化之鴻基焉。故惟撰録帝紀。討覈舊辭。削僞定實。欲流後葉。」
─『古事記』序第二段─
元明天皇が太安万侶に引き継がせて和銅五年(712年)献上されたのが『古事記』である
確かに序文第一段は『史記』を意識した天皇制を神化する高揚があるが
しかし本文は素朴であり 汚らしさもあり 欺きもあり そのままに書かれる

『日本書紀』は正史である
天皇の系譜を中心に書かれているのは当然である
異伝・異説を併記する公正なる歴史書である 
史料とされたもの
• 帝紀
• 旧辞
• 古事記
• 諸氏に伝えられた先祖の記録(墓記)
• 地方に伝えられた物語(風土記)
• 寺院の縁起
• 百済の記録(『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』))
 修辞の典拠となった漢籍類は『三国志』『漢書』『後漢書』『淮南子』』などとされる
 
『古事記』の初まりは
 「天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神」
 わたしはそこに舎人稗田阿礼の古代人の霊性を感じる
『日本書紀』の初まりは
「古天地未剖。陰陽不分。渾沌如鶏子。溟?而含牙。」
まさに中国風の修辞である 私にはそこに奈良朝の秀才たちの真面目な執務姿が見える
それは国の権威をあらわすことだから


           ◇         ◇

北方回廊から南に下る道
かってモングル種はアラスカに渉り アメリカ大陸ノ南の端にまで到った
大陸から朝鮮半島を渡ってきた道 騎馬民族説がここにあるが
船で南から上がってきた道
彭頭山文化は裴李崗文化より古い 彭頭山遺跡からは稲のもみ殻が発見され 粟と家畜としての豚の飼育がみられる


時々我々は先祖返りする
 梅原猛は縄文人の怨念に取りつかれる
 大野晋は日本語と南方系の言語との結びつきを考える
 
 鑑真は長江河口の揚州の出身 日本人に仏教の厳しさを教えてくれた最も尊敬さるべき

 最澄は秀才である 先祖は後漢の孝献帝に連なる登萬貴王(とまきおう)といわれるが
 学ぶことに謙虚であり 空海にも教えを乞うたが 空海は行を説いたという

坂上田村麻呂は『坂上田村麻呂伝記』によれば
「大納言坂上大宿禰田邑麻呂者。出自前漢高祖皇帝。廿八代至後漢光武皇帝。十九代孫
考霊皇帝。十三代阿智王。率一縣同姓百人。」

 敗戦直後の日本に 力道山と金田正一は夢と光りを与えた  
 双葉山を心の師と仰ぐ白鳳は 日本人以上に日本人らしい横綱である
 
 そこには日本の風土があった