「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」、鳩摩羅什訳(旧訳)では十二因縁、玄奘訳(新訳)では十二縁起と訳される。ひとつの人生の循環、苦集の循環である。十二因縁の順観によって苦蘊集起し、逆観によってその滅尽を知る。四諦である。
無明avidya。
無明は迷い、無知の意味とされる。無無明、悟りを得れば一切の有も老死も無い。お釈迦様は自らを正等覚者として位置づける。「すでに不死を証得せり。」そして説く。「これ即ち、八聖道なり、、、、、、、、、如来の現等覚せる所の、眼を生じ、智を生じ、寂静・証智・等覚・涅槃に資する中道と為す。」お釈迦様の最後の言葉は「放恣ならずして、決定して正覚に到達する目的を完遂せよ」である。
 「中道(ちゅうどう、梵: Madhyamā-mārga, マディヤマー・マールガ、梵: Madhyamā-pratipad, マディヤマー・プラティパッド、巴: Majjhimā-paṭipadā, マッジマー・パティパダー)とは、仏教用語で、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念・姿勢に偏らない実践(仏道修行)や認識のあり方をいう。」                                                ―Wikipedia―
十二因縁論は仏教の基底にある。ただ煩悩の果にこの世と生命があり、この世と生命は苦である、煩悩がなければこの世と生命も無く、したがって苦も無い、と言われると抵抗を感じる。この世と生命が無くして何の悟りか。私はこの世を罪の世界とは認めない。罪があるとすれば徳がある。苦があれば楽がある。邪しい心があればこれを正し、悩む心があればこれを癒し、それを学ぶことが人生である。そしてそれが中道である。
 
  龍樹の十二因縁論の解釈はどのようにあったのか。

不生亦不滅  不常亦不斷
不一亦不異  不來亦不出
  能説是因緣  善滅諸戲論
  我稽首禮佛  諸説中第一 
                            ― 中論 帰敬序―

否定の論理は不あって無はない。龍樹にあってそれは中論である。生は滅の相対としてあり、常は斷の相対としてあり、一は異の相対としてある。中論は相対的個別の非自立性の帰謬論証としてある。
 
世俗諦 一切法性空 世間顛倒故生虛妄法 於世間是實 諸賢聖真知顛倒性 故知一切法皆
 空無生 於聖人是第一義諦名為實 諸佛依是二諦 而為眾生説法 若人 能如實分別二諦。則
 於甚深佛法。不知實義。若謂一切法不生是第一義諦。不須第二俗諦者 是亦不然 何以故
 若不依俗諦  不得第一義
 不得第一義  則不得涅槃

 ― 中略―

 以有空義故 一切法得成
― 中論 觀四諦品第二十四(四十偈) ―

空は自性の空であり、義は相依の義であり、相依の有によって一切法が成ずるのである。古代インドにあって空の意味は欠けたるもの、虚ろ、無常であった。絶対有無の観念論は戯論である。空は自性の空であり、義は相依の義であって縁起の法であった。

一切法空故  世間常等見
 何處於何時  誰起是諸見

そして

 瞿曇大聖主  憐愍説是法
 悉斷一切見  我今稽首禮  
        ― 中論觀邪見品第二十七(三十一偈) ―

 空の義有るを以っての故に、一切法は成ずるを得。
正直、空の義、私にはわからない。お釈迦様は四苦から始まった。そして四諦である。お釈迦様は無無明の逆観を始められたとき、すでに正等覚者であり、自らを応供者とする。仏の応身としてあった。八聖道はサンガの掟である。そこに仏の座があり仏の国があり、不死であり、涅槃である。思弁的なことは無記である。
 私の頭では龍樹の字句を追って理解することは困難である。そもそも、鳩摩羅什の漢訳は解釈である。そして多くの仏教学者の解釈の上に私の理解がある。パーリー語を読めずして仏典を語るな、とインド哲学専攻の先達に言われた。私には仏典を解釈する頭も知識もない。簡約の仏典すらまともに読めないし、読んでもいない。何故に十二因縁論であり、龍樹であるのか。無自性なるが故に縁起の法であるとの解説にただ納得するだけなのか。
「中論」は上座部仏教の阿毘達磨倶舎論を戯論とする般若経の立場であるが、ただ空の義によって因縁の法であり、無無明によって否定された因縁が、空の義として肯定れたことになる。何か西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一という言葉が思い出された。しかし龍樹には絶対という言葉はない。空の義は相依の義であって因縁の法である。因縁を玄奘訳の縁起とすると意味が明快になる。そして無著・世親によって依他起性の唯識となり、お釈迦様が憐愍においてこの法を説くと龍樹が書くとき、親鸞によって龍樹は浄土真宗の七高弟の祖とされる。
お釈迦様は高い高い聖堂であるが、龍樹は偉大なる導師である。中観は般若の空に依るが、龍樹は因緣を説くお釈迦様を礼拝する。人生の苦に法蔵菩薩は四十八願を建てた。それもまたお釈迦様が説くところである。

これは余記。無明は揺らぎ、無無明はホーキングのゼロ。