経験値と今から先
経験値(記憶)と今から先という未知の領域への移動、私は病気となり病院へと入院することになる。私(肉体)は、自らの経験値(健康体)を無効にさせられる。医者と私の間、それは医療科学(実証)と無知(検体)の間であり、、一方的な治療を通して、私の内なる病気(心理的な痛手)は今から先への未知の領域を歩いていかなければならない。
私の皮膚を打ち、肉を打ち、骨をことごとく砕く。陣を敷き、包囲して、私の疲労と欠乏に陥れ、大昔の死者らと共に、私を闇の奥に住まわせる…哀歌3:4~6
私の信仰を試されるという意味として、この絶望の経験(他者の世界)は、世の既成事実である知識(学んだこと)を宙吊りにしていく。それは我が身の病気を通して学ぶことができるのであり、未知(白紙)を通して、事実関係というものを再検討するという発想が与えられる。私にとって主とは闇を照らす光であり、闇(検体である我が身)という身動きができない日々を通して、心に描くイメージという光を通した闇(我が身の現実)に対して希望を持つことができる。私は私の内なる世界観によって、現実の絶望を克服することができる。私には歌があり、愛があり、明日を描く能力(アート感覚)がある。
苦汁と欠乏の中で、貧しくさすらったときのことを決して忘れず、覚えているからこそ、私の魂は沈み込んでも、再び心を励まし、なお待ち望む、主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。主こそ私の受ける分」と私の魂は言い、私は主を待ち望む…哀歌3:10~24
私たちにとって神の領域とは白紙であり、世の言語の海という他者の心の世界ではない。病気を通して我が身(固定観念)という身動きができない世界に置かれたが、生きているとは固定ではなく時間という流れであり、流れの中の思考(精神作用)ということになる。それは個人が描く生き方(哲学)であり、神の真実への追求ということになる。医者と私という患者の間に両者の哲学が触れたとき、そこに生まれるイメージが真実(肉体の生死を超えた何か)ということになる。
- 我々を傷つけ、せき立てる、敵意に満ちた、得体のしれぬ日常生活から、読書のおかげてしばしば逃避することができるのだから、読書は一種の浄めの儀式、多くの場合、一連のささやかな慣習的な手続きによって補強される浄めの儀式だということになります。このことから「白紙で覆ってしまう衣」とでも呼びうるものが、我々の社会における読書という名の儀式のなかで果たす役割も明らかになります。我々の書物が紙(空間)が白いのは、書物(今から先)が我々に与えてくれる、此処とは違う他処が、読書のページをよぎっていく動きによって、いわば白さの滲み込んだもの、洗礼を施されたもののようにして、我々の前に現れてくる。ときには、いまのあるがままの世界を厭う気持、世界の変革することの困難を前にしたときの失望落胆があまりにも大きくなってしまうため、読書は、むしろ好んでこの白さの宙吊りにうちとどまって、そこでようやく安らぎを見出すこともある。そうなると、書物のなかのこれらの記号のおかげて姿を現すものは、もはや、白い光を氾濫させるためのきっかけと見なされるでしょう…Mビュートル