日々の生活
与えられた命はまったく平凡な生活を通して、神の眼差しと対話できる心の世界ということになる。それは他者(自分を含む鏡の世界)に見せるためでなく、自分が感じた外(言語の海)との関りであり、あくまでも命(生きている意味)を前提に、自らの言葉(方舟)を通して、その内なる生きた水(わき上がる情感)を大切にすることになる。
神はその中にいまし、都(内なる神殿)は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神の御声を出されると、地は溶け去る…詩編46:6|7
外は自らが映っている見える鏡のよって、他者が提供る既成事実が自分であると勘違いさせられてしまう。それは一方的な時(客観)の意味(幼子から老人まで)であり、物(一方的に流れる時間)の形に過ぎない。聖書の詩編作家は、その様子を地は溶け去ると、その虚しい肉体の意味(化粧すればするほど化物に変身)を語っていく。
すると、サマリアの女は「ユダヤ人のあなたが、私にどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人とサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた「もしあなたが、神の賜物を知っており、また「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたであろう」…ヨハネ4:9~10
日々の生活には神が見えない。日常は物流システムによって与えれる世にシステムに依存している。それは先祖(継承されていく受難)からの生活の営みであり、聖書ではヤコブの井戸(聖書の専門知識)として表現される。
あなたヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」イエスは答えて言われた「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」…ヨハネ4:12~14
私にとって信仰とは、自らの言葉(日々に綴られていくブログの表現)で生活することであり、自らの外の顔(鏡の世界)は他者の判断(SNS的な詈雑言の嵐)に任せて、どうぞ勝手に言いたい放題の嵐(情報過多)を私の前に通過させていいですよ。私は自分のゲットフリーな世界(方舟、内なるイエローサブマリン)に今から先へと心を躍らせていきますから。
- 今では恩寵(聖霊)の状態から遠ざかって久しいとはいえ、人間はまだ完全にだめになってしまっても、変わっておりません。品位は落としたかも知れませんが、たからといって王座から追われてしまったわけてはないのです。そしてたとえボロボロになったとしてもいまだかってまとっていた王者の衣をまとっております。人間は準創造者であり、屈折した光線でありまして、ただの白色も、その人を通せば、多くの色となって分かれ出るかと思えは、それらはさまざまな生きたものの形のなかで、たえることなく混ぜ合わされ、心から心へと移っていくのです。私たちは、世界のあらゆる裂け目(イエローサブマリンの旅路)を、妖精やゴブリン(小鬼)でむこうみずにも、闇と光のなかから、神々や、その家々をつくり出しました…JRRトールキン
24/4/6ブログ参照