24/4/9 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

外の建設と内の造形

宗教とは外への建設を通して、世に記載された地図上にその存在を示していく。それは専門知識によって集まっている集団を意味する。外は専門外、内は専門を究めるための日々の学びということになる。私はある日を境に、学びということに疑問を持つようになり、教会という集団から離れることになる。学ばない生き方(内と外の葛藤)ということに目覚めることになる。それは、知識(専門と専門外)という壁に何の意味があるだろというまったく単純な疑問であり、そして、改めて自分の感性によって聖書を再読していくことになる。聖書を自らの感性による自分の気分、自分のイメージで食べ物のように飲み食いしていくことになる。

 

体は一つでも、多くの部分から成り、体はすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合の同様である。つまり、一つの霊によって、私たちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろと、奴隷の身分であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体になるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです…第一コリント12:12~13

 

知識とは外の記号群(差別化)であり、外の記号によって人を見分けるための物流のシステムと似ている。有識者とは配送の監視員(集団を仕切る専門家)であり、人を物(操作対象)のように選別していく知識(派遣業務)を持っている人の意味となる。私にはそのような知識はいらないと思っている。私はいらないということは教会に意味はないということになる。だが、聖書では知識ではなく〝霊〟というものを通して、水が透明なように、出来事と物事という世界各国の人々(出来事と物事が混沌としている状態)が水のなかで一つ一つ自立しているのであると語っているようにイメージできる。

 

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が「私は手でないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部ではなくなるでしょうか。耳が「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部ではなくなるでしょうか…第一コリント12:15~16

 

私たちはデジタル知識(バラバラな人体に細分化)によって分断(体系化)され単なる操作対象(外に建設)とされているなら、自らの知識をすべて神に委ねてしまえば、自分(ゼロ)は世から消されて、物自体(私自身)という機能を内に宿した生き方(倫理観による造形)ができるようになる。ロダンの考える人が見ているのは、人間たちの建設(貨幣を間にした操作言語の主従関係)による地獄門ということになる

 

24/4/7ブログ参照