24/4/8 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

因果関係

因果関係(人間関係)というものは形(地域の結束言語の繋がり)ではなく、情感(一人一人の個性)を通した形への依存(地域)として考えると、私の心が主(神の御心)のものであり、互いの心の依存のための言語の海ではなく、一人一人がその状況を乗り切るための信仰(世に流されないための自己確認)というものが必要ということになる。今日の聖書のエピソードは、因果とは何かを示唆しているメッセージとして読むことができる。

 

イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波に飲み込まれそうになった。イエスは眠っておられた…マタイ8:23~24

 

このイメージは世(群衆)と離れた方舟という信仰の集団(弟子とイエス)であり、弟子たちは世と神との間に揺れ動いている心がイメージできる。世の騒音語という言語の海に浮かべられた方舟は、生死の間を揺れ動くように、弟子たちに襲い掛かる。

 

弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」そして起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて「いったいみの方はどうゆう方なのたろう。風や湖さえも従うではないか」と言った…マタイ8:25~27

 

私にとって信仰とは情感であり、喜怒哀楽という感情の海をコントロールするためのロゴス(理性)というものを神から与えられている。それは因果という形(言語の海)を無効にする通路(イエスキリスト)であり、聖俗の分離ではなく、互いの間に通路としての生き方ということになる。ロゴスを無視した感情論とか、ロゴスと対立する既成事実の知識の羅列(言語の海)に対して、冷静に対処できる生き方を意味する。私は私であり、その哲学(生き方)によって、世の人々との関係(科学的な思考)を築こうとしている。イエスは眠っておられたという状況(ディスタンスという互いの間)は、言語の海(対立する双方の心の壁)に対して眠っているという、世(因果関係)から隠された個性(中庸の精神)というものを通して、その状況を解決していく

 

  • 芸術(アート感覚)の基礎は情動的な把握、目に見える現象の背後に潜む「未知」への感覚、光の洞察と宇宙的気分を、目に見えるか聴くことのできる形式に再構成することである。事物と現象が魂となって顕現する感覚(自分と相手の共通感覚)である。完全な宗教はその構造に、宗教、芸術、哲学、科学を統合する。これは完全な芸術にもあたはまる。それに対し完全な科学(出来事と物事の整合性)あるいは完全な哲学(生き方)は、宗教と芸術を内包(心象)する。科学と対立する宗教、宗教と対立する科学、これはひとしく虚偽である…ウスペンスキー
  • 『庸』については、現在、多くの学者たちは、『庸』が「優れた点や変わった点を持たない」(用例:庸才)と「平常」(用例:庸民)との両方の意味を含んでいると見ているほか、『庸』は「用」であるという説もある。つまり、中の道を「用いる」という意味だというのである。中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもある。恒常的にいつも発揮することが、難しいことから、中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる…ウィキペディア

24/4/1ブログ参照