地震、津波、その他
未だに癒えない震災の傷跡、そして復興(東日本大震災)という深い心の傷からの旅立ちは、彼らにとってイエスのキリストの深い傷口として心に残されている感覚であり、私たちは外(世の情報)によって神の怒りを心に知らされたことになる。だが、文明の力を過信している現代人(デジタル族)は、世に自らを建てる自らの才能に酔いしれ、イエスの傷口に対して無関心に通過していく。それは、震災の傷口に無関心なことが時代に運ばれていく日々(空前の株価高騰に酔うメディアメッセージ)ということになる。それに対して、私は神の御心を通して、二つの世界(聖俗)の間を生きている。それは私にとってアート感覚という世界であり、音楽と絵と文章のコラージュを通して具現を試みている。それは世に建てる物語(現象)てはなく、心に我が身を建てる物語(心象)ということになる。
イエスは言われた。聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える」…マタイ21:42
私たちはイエスの十字架(文章解体)という心の震災を知らされている。それは震災の被害者たちの心情と同じであり、多くのデジタル族が通過していく日々の日常の無関心の空気を実感している。だが、私たちはそれに挫けずに日々を生き続けている。
そごで、私のこれらの言葉を聞いて行なう者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている…マタイ7:24
イエスの言葉は、更地(白紙)によって建てられたいる心象の世界(文章)であり、彼らのように時代のコピーの切り取りによって、自分の社会的な地位を築くという生き方とは異なるというこになる。彼らの表現は現象(外の出来事と物事の所有権)であり、私たちは彼らの所有を消した心象(外との対立構造)を通して、相手の心(忖度)を映す鏡として表現している。それゆえ、コピーは解体され、私は更地としてのオリジナルだけが残される。
イエスこれらのことの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らは律法学者(理論武装)のようにではなく、権威ある者として教えられたからである…マタイ7:28
イエスは権威によって人々の心を抑圧するように語るのではなく、抑圧(受難物語)を通して、一人一人の抑圧された心を一人一人救われる。それが十字架に召された意味であり、それは一人一人(震災にあった一人一人の深い傷)であり、キリスト教会の説教のように一律ではないということになる。一人一人が闇(老子の玄)によって、世に光(命の言葉)を見い出すのが信仰の意味と思っている。時代は気づく人と気づかない人々が混然一体となって津波のように流れていく。
- 抑圧された欲望が「無意識」とされ、抑圧された欲望を離さず抵抗する者が出てくる。そこで後期のフロイトは、患者の抵抗自体が無意識的なものであることに気づき、無意識のなかに欲望を抑圧するはたらきもあると考えた。そこで提出されたのが、「自我」「エス」「超自我」というモデルである。エスは抑圧された無意識の欲望、超自我は親の命じたルールが身につき無意識化されたもの、自我はエスと超自我の葛藤の調停をはかる。こうして、患者の抵抗は、超自我の命令によるエスの抑圧、自我による調停の失敗として説明された…コトバンク
- 老子の第一章に「玄のまた玄,衆妙の門」とあるように,存在の根源にある幽遠にして神秘的なものをあらわす。色としては黒。それは「天地玄黄」といわれるように本来天の色である。哲学として「玄」をとくに強調したのは前漢末の揚雄が易経になぞらえてつくった太玄経であり,また老子の「無」に基礎をおく魏・晋の哲学は「玄学」とよばれた…吉川 忠夫
24/3/8ブログ参照