24/3/12 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

間の考え方

多くの人々が互いの間を世は言語を使って文章化していく。それは一つ一つの単語を組み合わせて一つの形を示していく。それが文明という見える世界の営みであり、私たちの昼の世界の生活圏(見える肉)を他者(社会的な制度)によって管理され、世は人々に形(パラダイム)を示し、それを貨幣に変換していくデジタル環境(ネットワーク)に組み込まれ体系化(世界は一つのコンピュータの神)されていく。それは線(ネットワーク)であり、集団化であり、組織化を意味する。それに対して私たちは線(互いの間)を消した点(個性)を通して、世と対峙(文化という考え方)している。互いの間は文明(文章)に対する文化(透明)であり、私たちの意識は昼()に置かれた夜(星々たちの輝く)という言葉によって語っていく。それは昼に死んでいる人々の生きている言葉ということになる。

 

イエスが話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った「お嬢さんは亡くなりました、もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」イエスはその話を聞いて「恐れることはない。ただ、信じなさい」と会堂長に言われた…マルコ5:35~36

 

個性の死という現実に置かれているのが、世に点在している人々のホンネてはないだろうか。ネットでは世に甘えた有識者たちが不平不満の嵐のような罵詈雑言によって世を批判(そして劣等感にさいなまれた連中がイイネの喝采を受け)しているが、それは文化(作品化)ではない。文化とは世に属していない点在している人々の言葉を代弁する表現(聖俗の分離の間)ということになる。

 

一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声て泣き喚いて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない、眠っているのだ」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの両親と三人の弟子を連れて、子どものいる所へ入って行かれた。そして、子どもの手を取って「タリタ、クム」と言われた。これは少女よ、私はあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるように言われた…マルコ5:38~43

 

(既成事実という文章)は個(内なる人)に対する心象の世界を感じることができない。感じるのは同じ個(内なる人)を持っている人ということになる。それは対話(ディアロゴス)を通して知り合う新しい関係を意味する。それゆえ、私たちの対話の前提は、イエス(十字架によって召される)は死んでいるのではなく、自らの内に眠っているいるのだという表現によって、内なる人(自らの可能性)の覚醒を促すことになる。

 

  • 社会の大衆化とは、中間的で自律的な共同体が弱体化し、解体して、裸で放り出された個人と、国家という茫漠として抽象的な社会との間に、ほとんどなくの遮蔽物もなくなった状態にほかならない。このような状態の原因はテクノロジーの空前の発展、高度の工業化であり、人類の歴史に前例のない空前の人類の大移動、大都市への急激な集中をらたらした茫漠(精神の砂漠)の地に、たった一人、根無し草のようなも裸の個人として放り出される。それに追い打ちをかけるようにマスコミュニケーションがブルドーザーのような平均値(画一的常識)を推し進め、均一化(メディアメッセージ)から漏れてしまう人々を変人あつかいにして排除(私のブログ)していく…安西徹雄
  • 現代人が形(shape)を与えようと努力している世界は、もはや彼ら自身の世界ではない。少なくともこれが、多くの芸術家や社会学者が我々の世界からの疎外を、あるいは私なりの言い方をすれば否定的擬人化の過程を話題にする際に語る不平である。我々の仕事、我々の制度、我々の環境はもはや、我々自身を反映していない。現代人の経験がこのような抽象化されたのは、測定可能なものへの偏愛(コンピュータによって実現可能な世界)の世界であり、人間的な形態(システム)を追放してしまったからである…ジョン・オニール

24/3/6ブログ参照