『維摩経』にも、
「無住を以て本となす」
と説かれています。
古歌に、
白露の己が姿をそのままに
紅葉におけばくれないの玉
というのがあります。
白露は、紅に置けば紅を映じ、緑に置けば緑を映じ、浄穢美醜いずれをも嫌わず映じますが、しかも少しもその跟跡をとどめません。
純粋にして透明な本来の姿を失いません。
もしその跟跡をとどめ、それらに染まってしまい、純粋さ透明さを失ってしまうならば、もはや何ものをも自由に映ずることはできなくなるでしょう。
(つづく)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて
いただきました。
「浄穢美醜いずれをも嫌わず映じます」
それに対して、私たち対人恐怖の人は浄穢美醜を選びすぎるきらいがあるような気がします。
少しでも目つきがキツかったり、言葉づかいがひどかったりすると、自分は嫌われていると思いこんで、その人をさけるようになります。
多少のことは流せるようになりたいですね。