【禅】應無所住而生其心(5) | 対人恐怖で悩む内向型治療師のブログ

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私は対人恐怖で、緊張すると手が震える小心者の治療師ですが、
それでも30年余、延べ10万人も施術してくることが出来ました。

その経験から、対人恐怖でお悩みの治療師のみなさんに、
メンタルや施術方法についてお話したいと思います。


わたくしたちは、いつでも、どこでも、どのようなことでも、決して心をとどめてはなりません。


目に見ゆるもの(色)、耳に聞こゆるもの(声)、鼻にかぐもの(香)、舌に味わうもの(味)、身に感ずるもの(触)、意(こころ)に思うもの(法)、そういうものに惑わされ、とらわれてはなりません。


常に清浄にして自由な心を保つことが肝要であります。


沢庵禅師が柳生但馬守宗矩(1571~1646)に与えられたといわれる『不動智神妙録』の中にも、


この止まる心から執着の心起こり、輪廻もこれより起こり、この止まる心、生死のきづなとなり申し候。

花紅葉を見て、花紅葉を見る心は生じながら、そこに止まらぬを詮と致し候。

慈円の歌に、「柴の戸に匂はん花もさもあらばあれ、ながめにけりな恨めしの世や」とあり。

花は無心に匂ひぬるを、我は心を花に止めて眺めけるよと、身のこれに染みたる心が恨めしとなり。

見るとも、聞くとも、一所に心を止めぬを至極とする事にて候。


とあり、いずれの所にも心を置かないこと、無住ということが最も大切であることを示しておられます。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 


















対人恐怖の我が身をふりかえると、心を置かないことの大切さがよく分かります。

誰かの言動や目つきが気になると「あの人は私を嫌っているのだろうか」「私を嫌っているに違いない」と思ってしまい、そのことが頭から離れなくなります。

一時的に気になることは仕方ありませんが、そのことにとらわれなくなりたいですね。