【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年7月21日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

東京都世田谷区成城といえば、世田谷区というだけでなく東京都内においても屈指の住宅街であるが、昭和4年(1929年)4月の成城学園(成城第二中学校)移転によって、というよりは成城学園校長 小原國芳氏によって開発された「町」である(実際に成城学園が分譲したのは駅の北側部分のみで、南側は多摩の大地主 鈴木久弥氏の土地分譲)。昭和7年(1932年)10月に、東京市は周辺5郡82町村を合併し、35区からなるいわゆる大東京の誕生となるが、この時、成城はまだ東京市(世田谷区)には入っていなかった。昭和11年(1936年)10月になってようやく東京市世田谷区に編入され、晴れて東京市世田谷区成城町となった(この地域が編入する・しないでもめもめにもめたのも今は昔)。

 

それから8年3か月後の昭和20年(1945年)1月に撮影されたのが、この写真である。

 

 

成城学園前駅を中心とする住宅街と隣駅祖師ヶ谷大蔵駅付近に住宅が見られるが、それ以外はまだ一面の畑や雑木林が目立っている。ちなみにゼンリンの電子地図で、ほぼ同じ場所を示せば以下のとおり。

 

 

このあたりは幸いにして、米軍による空襲は受けなかったようで、この写真撮影後に大きな変化は見られない。もちろん、戦後は住宅が次々と増えていったり、高度経済成長やバブル経済を経て、町は大きく様変わりしているが、都市基盤は開発時から大きく変わっていないことが確認できる。やはり、最初にどう開発していくかという青写真によって、その町の運命は定まるということを隣駅との比較も含めて感じつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年7月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

ちょっとタイトル端折りすぎたか。東京府豊多摩郡渋谷町を通った武蔵電気鉄道と京浜電気鉄道の計画線、あるいは関東大震災前の地図に見る武蔵電気鉄道と京浜電気鉄道の計画線、いや、渋谷駅を避けていた武蔵電気鉄道と京浜電気鉄道の計画線、などなど。色々考えてはみたが、結構いい加減にタイトルを決めてしまった。タイトル(標題)と言えば、書き終えてから決める、書く前に決める、書いている途中で決める、と様々だが、私はこのBlogに関していえば、タイトルを決めてから内容を書くというパターンを踏襲している。かつて運営していたXWIN II Web Pageでは、開設当初はこのBlogのような感じでだらだらだったが、途中から「巻頭言」方式を採用することで、意図してタイトルにも凝るようになり、本文を構成してからそれに合った(または意表を突いた)タイトルを考えるようになった。思い起こしてみれば、当時はスクラッチでHTMLを書きまくっていたのだから、本文はもちろん体裁も考えながら構成していたので自明なのかもしれないが。

 

とまぁ、それはともかく今回のネタはこちら。以前でも採り上げた大正11年(1922年)の東京市及び周辺地図の一部分をピックアップしながら、あれこれ見ていこうという話。

 

 

場所は、現在でいえば東京都渋谷区(地図中では渋谷町)、東京都港区(地図右側)、東京都目黒区(地図中では目黒村)、東京都品川区(地図中では大崎町)にあたるが、大部分は東京府豊多摩郡渋谷町だ。左上からやや右斜め下に走る鉄道表記は現在のJR山手線、当時で言えば省線の山手線で、地図上から渋谷駅、恵比寿駅が描かれている(目黒駅はもうちょっと下で地図中には見えない)。で、注目はと言うと、赤い点線で描かれている鉄道計画線であり、まずは左下から渋谷町と目黒村の境界付近で二つに分かれている計画線。これは「武蔵」とあるように、武蔵電気鉄道の計画線である。

 

武蔵電気鉄道と言えば、地図発売(発表)時の大正11年(1922年)時点において、ちょうど五島慶太氏が田園都市株式会社(目黒蒲田電鉄)に引き抜かれる時期であるが、この将来有望な計画線はまさに画餅でまったく建設どころではなかった。興味深いのは、二つに分岐した先で一方は麻布二ノ橋まで(当時、東京市内に乗り入れる鉄道計画は珍しい)、もう一方は新宿駅(西口側)なのだが、面白いことにこの地図を見ると渋谷駅には乗り入れずに、せっかく山手線と平行していながら途中から渋谷駅を離れてしまうのだ。

 

麻布二ノ橋方面は東京市内乗り入れなので、大正時代には東京市の反対によって建設不可であろうが、新宿駅方面はなぜ渋谷駅を避けたのだろうか。山手線との平行を避けたのか、あるいは渋谷駅への接続をよしとしなかったのか…。武蔵電気鉄道が田園都市株式会社(目黒蒲田電鉄)によって統制(株式買収)下に入り、社名を東京横浜電鉄として姉妹会社となってからは渋谷駅に乗り入れ駅を変更(新宿駅乗り入れはそのまま存置、のちに失効)したのだが、武蔵電気鉄道の時にはなぜそうだったのかという点が興味深いというわけだ。

 

そしてもう一つの注目は、右下から上方向に伸びていく赤い点線。「京浜」とあるように、何と京浜電気鉄道の計画線(青山線)である。地図には出てこないが、池上電気鉄道が五反田駅から目指す先がこの青山線への接続だった。青山線は、東京市と郡部との境を縫うように走っており、東京市内乗り入れではないので反対を受けにくかったが、品川(八ツ山)から先への乗り入れを東京地下鉄道とタッグを組むことで東京市内乗り入れを推進することとなり、その過程で意義を失った。

 

もし、京急線が品川から都心方向を目指さず、山手線の内側を平行するように走り、千駄ヶ谷駅あたりまで乗り入れていたとしたら…。

──と、そんな計画線を眺めながら、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年7月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

以前、目黒競馬場跡地について「目黒競馬場跡はどんなふうに分譲されたのか空から確認する」という話題をとり上げたことがあるが、今回は池上競馬場跡をとり上げてみる。目黒競馬場は、今でも「目黒記念」という中央競馬GIIレースの名前で残っているので、廃止後80年近く経った今日でも生き続けている(名前のみだが)と言えるが、こちら池上競馬場はそういった類のものはなく、ほとんど知られていないようである。

 

それもそのはず、池上競馬場は明治39年(1906年)から明治43年(1910年)の間のみ運営されたに過ぎないからだ(競馬そのものは明治41年、政府によって馬券発売禁止となり終了)。

 

池上競馬場のモニュメントは、巷間に拠れば東京都大田区池上六丁目30番にある「徳持ポニー公園」にあるようだが、もちろんこの場所に何かが残っているわけではない(調べてみないとはっきりしないが、この公園の名前は改称されて今の名前となった気がする)。では、昭和10年(1935年)頃の航空写真で確認してみよう。

 

 

真ん中あたりにうっすらと横長の楕円が見えるが、これこそがかつての池上競馬場のコース(トラック)だった跡である。肝心の「徳持ポニー公園」の場所はこの競馬場跡にはひっかかっておらず、モニュメントの説明がどうなっているかは知らないが、ポニー公園を名乗らせるのならもうちょっと場所を気にしてもよかったのではないかと思う。興味深いのは、池上競馬場が明治末期に廃止され、その後大正時代を経て昭和も10年近く経過したこの時期、つまり30年近く経った時点においてもなお跡地としてはっきりと確認できることにある。要は、耕地整理(区画整理)はされたものの、その間ずっと放置されてきた土地だということである。

 

 

それでは、ゼンリンの電子地図で現在と比較しながら、先ほどの写真に簡単な説明を付したものと比べながら注目点を確認しよう。

 

 

まず、当blogにおいては池上線から確認したくなる特性(苦笑)があるので、そこからいこう。昭和10年(1935年)当時には池上電気鉄道は既になく、目黒蒲田電鉄に合併されてしまった後なので、池上線と表記した。右上には池上駅があるが、池上駅の右側(東側)を見ると、池上線のカーブが急である(半径が小さい)ことがわかる。この当時は、まだ池上線が開業当時のまま(正確に言えば複線工事完了後)の曲線が残されており、現在の線路は航空写真では既に家が建っている(上写真でいうと池上駅と書いた駅の字の右下あたり)ことから、曲線改良工事に伴い家屋移転が行われたことが確認できる。また、この当時駅だった場所は、今の池上駅前のバスターミナルであることもわかる。この当時から、池上本門寺のお会式を考慮に入れて、池上電気鉄道他駅とは比べものにならないほどの駅前広場を確保していた池上駅だが、曲線改良工事によってさらに広い空間を確保できたこともわかるだろう。

 

次に注目は、池上線の左側(西側)の池上線と書いた線の字の下あたりから慶大運動場(慶大グラウンド)方向に斜めの道が見えるが、この道はこの一帯がまだ耕地整理(区画整理)が成されていなかった頃に池上電気鉄道が慶大運動場(野球場)までの通り道として用意したもので、このあたりに初代慶大グラウンド前駅があった。

 

まだ、第二京浜国道(当時の言い方では新京浜国道)が建設されていないので、池上線も目蒲線も高架橋などはなく地上と平面交叉となっていることも注目となるだろうか。

 

 

30年近く跡が残っていた池上競馬場も、徳持耕地整理組合による耕地整理(区画整理)と昭和10年前後からの戦争景気によって昭和19年(1944年)時点では、ご覧のようにまだ空き地は目立つものの、家屋や工場などが目立つようになり、上空からは跡地をたどることが困難となったことがわかる。わずか10年足らずの間に、新京浜国道の完成(当該区間)と両鉄道の立体交叉化、池上線の曲線改良が行われたことも確認できよう。また、目立った変化としては慶大運動場のあったところに整然と細かい建物群が見えるが、これは日中戦争中(昭和14~15年)に職工向け住宅として同潤会が分譲した調布千鳥町住宅で、工業地帯に進みつつあった当該地域に相応しい(工場勤め人向け)住宅といえるものである。

 

以上、見てきたように池上競馬場は明治末期にわずかの期間存在しただけであったが、その跡地は約30年にわたってそのまま(放置状態)であったことに驚かされる。しかも池上電気鉄道が大正11年(1922年)に開業したにもかかわらず、それから10年以上経てもこのような状況だったのだ。そこには、徳持耕地整理組合による耕地整理事業も影響したことは確かだろう(事業中は勝手に土地の売買や建物建設などができない)が、池上駅南側が比較的早い時期に住宅が建ち並ぶ様子を見るにおいては、首を傾げたくなるのもまた事実。まぁそのあたりには深入りしないでおいて、池上競馬場跡地は結構長い間残っていたのだと確認しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年6月29日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は予定を変更して(予定なんかあるの?と思われた方、正解です(苦笑))、「誤り目立つ「目で見る品川区の100年」と「目で見る大田区の100年」」のコメント欄にお寄せいただいた以下のコメント

記事ばかりでなく写真の誤りが発見されました。このページの上から二枚目の白黒写真です。「人口急増と交通網の発達」と題したページの橋梁の写真が池上線目黒川の橋の写真とされていますが、これは目蒲線の目黒川に架かる橋梁の写真です。池上線の目黒川に架かる橋梁は川の中に橋脚はありません。ご確認下さい。

を受けての検証記事をおおくりする。まずは、「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真をもう一度確認してみると、

 

 

かなり歪んで見にくいが、橋脚が手前側と奥に二つ見えるほか、確かに川の中(上)にも鉄骨が組まれていることが確認できる(三人並ぶ写真最も左側の人の後ろあたり)。では、川の上に橋脚はあったのかなかったのか。以前の当blog記事「池上電鉄時代の五反田駅近望」でもご紹介した昭和7年(1932年)撮影のこの写真から見てみよう。

 

 

目黒川改修工事後ではあるが、現在見ることができる目黒川よりも川深は浅い。左に見えるのは五反田駅で目黒川を渡る橋は大崎橋。もうちょっと右側が見えるとよかったが、注目は写真中央に見える鉄骨の橋脚の右側にある鉄筋コンクリート(RC)造に見える橋脚である。この写真では白っぽく見えるRC造の橋脚は、位置から見て五反田寄りの目黒川端にあり、これが「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真に写っているかが重要なポイントになるが、さてどう見えるだろうか。そう、まったくRC造の橋梁は見えないのだ。

 

 

続いての写真は、戦後間もない時期に撮影された五反田駅上空のもので、池上線の高架等の構造物が長い影を落としていることが確認できる。この影を見ると目黒川の上に橋脚はなく、また橋脚も二本足で鉄骨組上げでないことがわかる。さらに注目は、橋梁上(目黒川上)の線路は二股に分かれつつ、右に曲がっていく様子もわかる。さらにさらに、昭和7年(1932年)の写真でも、戦後まもなくの航空写真でも、橋梁の東側(右側)にあたる目黒川岸は船が接岸できるように低くされている。これらを「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真と比べれば、いずれもそうはなっておらず、明らかに違う場所だと思われる。

 

さらに直感で、あれが池上線の橋梁にはとても見えないと感じたのは、線路のある位置が低すぎるからである。五反田駅は、当時東洋一の地上からの高さを誇り、地面からは15メートルほどの差があり、目黒川を渡るあたりはここまで高くないにしても、それでも軽く地上から10メートルはあるはずだ。さすがに現地に行っている時間はないので、手抜きで恐縮だがGoogleストリートで確認してみた。

 

 

川の柵はおそらく160cm程度の高さなので、池上線の高さが結構高いところを走っているのがわかるが、これと「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真を比べてしまうと、

 

 

う~~~ん…。低いよなぁ、これ。では、目黒線の目黒川を渡る橋を同じくGoogleストリートで確認すると、

 

 

目黒線(元 目蒲線)の橋梁は改良工事でだいぶ変わってしまったけれど、橋梁の高さはあまり変わっていないような…。どちらが近いと問われれば、池上線の方でないことは確かだろう。若干、心残りは古い時代の目蒲線が目黒川を渡る写真を探しきれなかった(時間があれば探す)ところだが、池上線でないという傍証が得られたから、それで十分かと考える。よって、疑いは晴れることなく、誤りであると結論づけるには十分な理由があり、いかに本書の70ページがとんでもない間違いだらけであることを確認しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年7月10日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

かれこれ20日ほど前に「誤り目立つ「目で見る品川区の100年」と「目で見る大田区の100年」」という記事を書いたのはいいが、よくよく読んでみると「目で見る大田区の100年」についてはほとんど、いや全くふれていないことに気づいた。正確に言えば、コメント欄にご意見を頂戴したことで気づいたのだが(苦笑。コメントは非公開希望ということなので見えません)、あれを書き始めた当初はよもや「目で見る品川区の100年」にあれほど多くの間違い・勘違いがあるとは思ってもいなかったからで、実際その後も池上電気鉄道線開通式の写真関係だけで7回も費やしてしまったことから、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 

 

てなわけで、「目で見る大田区の100年」についても語っていこう。なお、「目で見る品川区の100年」と「目で見る大田区の100年」には決定的な差があることを最初に示しておく。それは監修者の有無で、「目で見る品川区の100年」はないが、「目で見る大田区の100年」には本表紙からもわかるように「監修=江波戸昭」とある。ご存じの方はご存じのように、江波戸昭氏(以下、江波戸先生と呼称させていただく)は、大田区田園調布に古くからお住まいになっており、地元の歴史に詳しいというよりは実体験としてお持ちであるだけでなく、数々の著書からもわかるように地理や民俗関連等に明るい。つまり、単なる自称郷土史家とか、大学を出て学術論文さえ書いていれば学者だと思い込んでいるだけの輩とはまったくレベル(次元)の異なる江波戸先生が監修されているのである(ただし名義貸しを除く)。

 

それが影響を及ぼしているからか、「目で見る大田区の100年」には致命傷レベルの誤りはないに等しい(無論、私のレベルから見てであって、もっとお詳しい方がご覧になればそうでない可能性もある)。とはいえ、まったくないわけではなく、「目で見る品川区の100年」と比べればはるかに重箱の隅レベルの指摘となるが、以下に示していこう。

 

 

まずは、「目で見る大田区の100年」23ページより。3枚の写真は洗足池関連のもので、このうち1枚目と2枚目の絵解き(写真説明)についてである。

洗足池の風景(大正初期)

洗足のもともとの地名は「千束」であり、貞観2年(860)、洗足池の西に鎮座する千束八幡神社が、千束郷の総鎮守として宇佐八幡宮から勧請された。治承4年(1180)には、源頼朝がこの地に宿営し、名馬「池月」を得たという逸話もある。日蓮聖人が池で足を洗ったという伝承をもとに、大正時代から「洗足池」と表記するようになった。

ずばり指摘するところは「大正時代から「洗足池」と表記するようになった」とあるところで、表記自体は江戸後期から紀行文や近郊案内的な書物に「洗足池」という表記が見られ始める(千束と併記)。また、明治初期の2万分1地形図(フランス式)などにも「洗足池」との表記があり、官製地図に書かれるようになったのは明治初期となることから大正時代ではない、となる。

勝海舟の寓居(大正初期)

江戸幕府で軍艦奉行などを歴任した勝海舟は、洗足池の風景を好み、明治維新後は池の東側に「千束軒」という別邸を建て、旧薩摩藩の西郷隆盛と、ここで交友したという。写真に写る勝海舟の住まいは、戦災によって消失し、現在は跡地に大森第六中学校が建っている。勝海舟夫妻の墓は、現在の池の東側にある。

3枚目の絵解きは「明治維新後は池の東側に「千束軒」という別邸を建て」とあるところで、正しくは「洗足軒」となる。地元の人たちにとっては「洗足」でなく「千束」なのだが、どうも勝海舟にとっては「洗足池」という理解だったようで(江戸市中では近郊遊覧・紀行文等で「洗足池」とされていたので、いくら地元の民が「千束池」だと言っても厳しいだろう)、明治初期の官製地図でも「洗足池」とあることから、明治維新前後の関係者(官係者)にとっては「洗足池」畔の「洗足軒」という流れと解する(参考記事:「洗足か千束なのか 前編」)。

 

 

続いて、「目で見る大田区の100年」51ページより。3枚ある写真のうち、真ん中(2枚目)の絵解きについて。

駅前の風景(大正12年)

目黒蒲田電鉄調布駅(昭和2年に田園調布駅に改称)前の風景。田園調布の分譲は大正12年11月に始まる。図らずも、同年9月に関東大震災が発生したため、都心の人々が郊外に土地を求める動機を与えた。鉄道交通の発達など、近代化の促進と相まって田園調布の分譲は好調だった。

江波戸先生、どうしたんですか? と心配してしまうようなミス。「目黒蒲田電鉄調布駅(昭和2年に田園調布駅に改称)前の風景」とあるが、調布駅から田園調布駅への改称は「定説では」大正15年(1926年)であったはずだが、なぜか翌年(昭和2年=1927年)になっている。単なるミスなのか、あるいは新資料発見に基づく「定説覆し」によるものかは現時点では決めつけられないが、一応、ミスではないかとしておく。また、「田園調布の分譲は大正12年11月に始まる」とあるが、これも一説に拠れば「大正12年8月」というものもあることを指摘しておく。

 

 

続いて、「目で見る大田区の100年」84ページより。3枚ある写真のうち、最も右上にある写真の絵解きについて。

鵜ノ木駅(昭和9年)

目黒蒲田電鉄の目黒─蒲田間は、大正12年11月に全線開通し、目蒲線とよばれた。鵜ノ木駅は、翌13年2月に開業。翌14年、目黒蒲田電鉄は東京横浜電鉄と合併し、会社名を「東京横浜電鉄株式会社(現在の東京急行電鉄)」とした。

指摘する点は、大正と昭和を混同してしまっている点。

  • 1923年(大正12年)11月1日、目黒─蒲田間全線開通。
  • 1924年(大正13年)2月29日、鵜ノ木駅開業。
  • 1939年(昭和14年)10月1日、目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併。
  • 1939年(昭和14年)10月16日、目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄と名称変更。

という流れであり、和暦上は12→13→14と続くが、13から14は大正から昭和であるので、翌14年という表記はおかしい(誤り)。

 

 

続いて、「目で見る大田区の100年」180ページより。2枚ある写真のうち、上にある写真の絵解きについて。

矢口渡駅(昭和30年頃)

東京急行電鉄目蒲線の矢口渡駅。現在は多摩川線。駅名の由来となった矢口の渡しは、中原街道が多摩川を渡る際の渡し場だった。矢口の渡しは、丸子橋ができたことにより、昭和10年に廃止された。

何となく…ではあるが、これは江波戸先生の監修の目を逃れた(あるいは担当外)としか思えないほどの凡ミス。「中原街道が多摩川を渡る際の渡し場だった」及び「丸子橋ができたことにより、昭和10年に廃止された」とある一連の説明は矢口の渡しの説明ではなく、丸子の渡しの説明である。矢口の渡しは別名、古市場の渡しと呼ばれ、東京府荏原郡矢口村大字古市場(明治22年より以前は古市場村)内に属し、現在は一部が川崎市側となっているが、明治45年(1912年)の多摩川における府県境界変更前までは東京府荏原郡に属していた。これに代わる橋は第二京浜国道に架かる多摩川大橋であり、しかも多摩川大橋の完成は戦後になってからである(昭和24年=1949年。正確に言えば、橋そのものは暫定的な木製の橋が昭和20年3月に完成したが、翌月の米軍機による空襲で焼け落ちている)。昭和22年(1947年)時点の航空写真を

見れば、

 

 

ご覧のとおり橋脚くらいしかできていないことが確認できよう。また、矢口の渡し自体も昭和10年(1935年)で終わる理由などなく、多摩川大橋の完成した昭和24年(1949年)まで存続した。つまり、この絵解きは丸子の渡しの説明であり、矢口の渡しの説明ではない。そして、関連する駅の説明とも乖離してしまったとなるのである。それから細かいが「現在は多摩川線」ではなく、現在は東急多摩川線が正しい(多摩川線は西武鉄道にもあり、表記をわけるため線名として「東急多摩川線」としている)。

 

 

続いて、「目で見る大田区の100年」192ページより。上の写真の絵解きについて。

大田区産業会館での工業展(昭和38年)

大田区産業会館は昭和35年に落成し、同年に第1回大田区工業製品展が開催された。現在、建物は改装され、大田区大田南地域行政センターとして使用されている。

細かいが「現在、建物は改装され」とあるが、正しくは改装(改築)などではなくまったく新たに建設(新築)されたのであり、改装(や改築)ではない。大田区産業会館は私にとって思い出の地で、若気の至りの頃、ここでコミケ(コミックマーケット)が開催されており、毎回参加していたのだ(大雑把にいうと大田区産業会館→晴海→幕張→有明 という流れ)。なので、ここが取り壊されると聞いたときは想い出に枕を濡らし(苦笑)、取り壊される現場まで見に行ったほどである。なので、改装や改築ではないことを知っているわけだ。また、これも細かいが「大田区大田南地域行政センターとして使用」ではなく、もう名前は変わっており「蒲田地域庁舎」と呼称するようである。コロコロ名前を変えるのは勘弁してほしいが、きっと利便性などよりも名前を変えることで「俺様色に染まった」というトップの思い込みだと考える。

 

さて、こんなところがざっと見て気づいた点である。色々指摘したが、最初にもふれたように「目で見る品川区の100年」と比べればはるかに誤りは少ない。あちらの方はもう絵解きを見る気はしない、という気分にさせるが、こちらはそれほどではない。では、本書に掲載されている写真の中で、私が注目した写真をご紹介しながら、あれこれ語っていきたいと思う。まずはこちらの写真から。

 

 

「目で見る大田区の100年」81ページに掲載されている写真。絵解きでは昭和16年(1941年)とあり、注目は電車(池上線)の行き先表示板である。右側が五反田方面、左側が蒲田方面の電車だが、左側の行き先表示板には「五反田 雪ヶ谷」とある。もし、これが昭和16年(1941年)のものだとすれば、当blogで雪ヶ谷駅改称時期問題として昭和8年(1933年)改名説(雪ヶ谷→雪ヶ谷大塚)を否定しているように、この写真でも裏付けることができるとなる。単に、書く欄が狭いから省略表記だとする説もあろうが、

 

 

この写真を見ても、省略表記はないのではないかな…と見る。この写真は、様々な媒体に掲載されており、「目で見る大田区の100年」123ページにも載っている。これは戦後(昭和20年代)のもので、ここには雪ヶ谷ではなく雪ヶ谷大塚となっていることが確認できる。

 

 

ほかに興味深い写真としては、「目で見る大田区の100年」79ページのこの写真。昭和3年の大岡山駅と絵解きにあるが、だとすれば、大井線と二子玉川線がつながる前(大井町~大岡山のみ)となる。おそらく、駅西側(踏切)から東側(洗足駅方向)を写したと見るが、興味深いのは今まさに電車が載っている線路が行き止まりとなっていることである。方位が正しければ、これは大井町線ではなく目蒲線と見るが、この行き止まりとなっている理由はいかなるものなのか。単純に考えれば、大岡山駅始発の目蒲線があったということ?とは思うが、実際はどうだったのだろう。

 

ということで長々と書いてきたが、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年6月22日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

地域歴史研究資料として「目で見る品川区の100年」と「目で見る大田区の100年」を購入した(いずれも郷土出版社)。なかなかに興味深い写真が多いが、一冊1万円近い価格はやはり高い。こういうものは、地方自治体の文化事業として刊行すべきものと思うが、多くの地方自治体は企画力がないので仕方がないか。まぁ、それはともかくこの2冊とも、興味深い写真が大きく載っているのはうれしいものである。

 

 

だが、しかし。執筆者のレベルが低すぎる。みんながみんなそうではないと思いたいが、せっかくの写真解説に悪意はないのだろうが、結果的にウソが多いのは残念。わかる人が見れば、私などよりもはるかに多くの誤りに気づくだろう。ここで、一例として「目で見る品川区の100年」70ページの筒井康郎氏が書いたとされる文を引用しよう。

 

 

実業家として有名な渋沢栄一は、仕事場と住まいを分離する「田園都市構想」を抱いていた。その前提となる鉄道の施設で最初に手がけたのが、大正十二年(一九二三)山手線目黒駅から蒲田駅までの目蒲線建設であった。住宅造成地として西小山から洗足(千束)にかけての台地に着目したが、地価がしだいに高くなったため、急きょ、現在の「田園調布」に変更した。三月には目黒─丸子駅(現・沼部駅)間が開通し、関東大震災が起こったが十一月には蒲田まで全線開通となった。

東急大井町線は昭和二年(一九二七)、大井町─大岡山間が通ったのち、同四年に自由が丘まで開通した。東急池上線は池上本門寺参詣のため、大正十一年、蒲田─池上間が開通。翌十二年五月、雪谷大塚まで延び、さらに昭和二年十月に大崎広小路まで達した。しかし、ここから目黒川を渡る高架の工事が当時は難工事で、白木屋デパート五反田支店三階の五反田駅と結ばれたのは、同三年六月のことであった。

鉄道院、鉄道省当時の駅は、大井町駅(大正三年)・大崎駅(明治三十四年)・五反田駅(同四十四年)・目黒駅(同十八年)があった。これに加え、大正末期から昭和初期にかけて目蒲線・大井町線・池上線が開通して多くの駅が誕生した。京浜急行は明治二十四年に川崎から南馬場、大正十四年に品川駅と結び、便宜のよい交通機関となった。

(以下略)

 

目を覆いたくなる誤りの多さ。以下に列挙していこう。

 

「最初に手がけたのが、大正十二年(一九二三)山手線目黒駅から蒲田駅までの目蒲線建設」事実錯誤

田園都市株式会社の地方鉄道免許が「大井町~旭野(田園調布付近)」だったというのはさておいて、文脈から目蒲線建設のことを言うなら大正十二年ではなく大正十一年とするのが適切。開通は大正12年3月だが、工事着工並びに主要工事は大正11年中に施工されている。

 

「住宅造成地として西小山から洗足(千束)」表現不適当

洗足田園都市は、西小山からというのはあたらない。最寄り駅からとったつもりだろうが、洗足田園都市のエリアを考慮に入れれば西小山というよりは旗の台から洗足といった方が適切だ。おそらく著者は、洗足田園都市エリアを理解していないものと推察される。(とある文献の丸写し説を私は採るが。)

 

「東急大井町線は昭和二年(一九二七)、大井町─大岡山間が通ったのち、同四年に自由が丘まで開通した。」事実誤認

現在の東急大井町線は、大井線と二子玉川線がそれぞれ一体的な運用をする想定で計画変更していく過程で誕生した。このため、開業順序として最初に大井町~大岡山、二番目に自由ヶ丘~二子玉川、三番目に大岡山~自由ヶ丘となっている。つまり、大井町から始まる(繋がる)という品川区視点で見ても、同四年に自由が丘(当時の名は自由ヶ丘)まで開通したとはならず、二子玉川まで開通したと書くのが正しい。

 

「翌十二年五月、雪谷大塚まで延び、さらに昭和二年十月に大崎広小路まで達した。」誤り

現行駅名で表記するにしても雪谷大塚ではなく雪が谷大塚が正しいが、ここでは雪ヶ谷が適切。理由は雪が谷大塚駅は、雪ヶ谷駅と調布大塚駅が合併した十数年後に雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚に改名した経緯があり、当時の路線延伸を指すのであれば雪谷大塚(雪が谷大塚)とするのは不適当。また、途中を端折っただけとは思うが、昭和二年八月に桐ヶ谷まで達し、同年十月に大崎広小路までさらに延伸された事実を記してほしかった。

 

「ここから目黒川を渡る高架の工事が当時は難工事」誤り

確かに大崎広小路~五反田間は難工事であったが、それは目黒川を渡る橋梁ではなく、それよりも手前の住宅密集地を縫うように施工した箇所(橋梁)である。高架部分を電車が走る騒音軽減のため、様々な手を駆使する様子が鉄道省に提出された文書からもそのことを読み取ることができる。

 

「白木屋デパート五反田支店三階の五反田駅と結ばれたのは、同三年六月のことであった。」表現不適当

白木屋五反田店(細かいが「支店」ではない)は、昭和3年12月に開業。よって不適当。また、当ビルは当初は2階建てであり、池上電気鉄道が五反田から先(白金方面)への延伸を諦めたことによって2階より上が増築された(線路を行き止まりとした)。つまり、年代順などをまったく無視した記述だと指摘できる。

 

「京浜急行は明治二十四年に川崎から南馬場、大正十四年に品川駅と結び」救われないほど致命的誤り

何を参考にしたのか(あるいは錯誤?)わからないが、南馬場とはまた中途半端な…(呆)。京浜電気鉄道は、川崎方面から品川方向に路線を延伸開業するが、南馬場駅まで中途開業した事実はない。大森停車場前(途中の八幡との間から分岐して)から八ッ山(品川、現 北品川駅)までは一気に開業しており、南馬場は途中駅でしかないはずだが…。また、明治二十四年は誤植かなとも考えたが、明治三十四年とか明治四十二年とかに目立ったものはなく、どこから明治二十四年が出てきたのか不明。なお、京浜電気鉄道の先祖となる大師電気鉄道は明治31年に設立されているので、明治24年では影も形も存在しない。

 

以上、細かすぎると思われるかもしれないが、郷土の歴史というものは一人一人が体験として記憶しているものであり、こういった低レベルの誤りは致命傷だと考える。加えて、数が多すぎる。私が気づいたのは、ここ2~3年で知識を蓄積している池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄がらみのものが中心だが、その視点だけでこの状態。お詳しい方がご覧になったのなら…。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年6月28日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

タイトル、まんまそのとおりぢゃん。と言われそうだが、時間がないのでご容赦(大したタイトルじゃないが、それでも考えてるのも厳しいので)。

 

 

ちょいと方位と縮尺が合わないのはまたまたご容赦だが、ご覧のように、昭和11年(1936年)の航空(空中)写真では、目黒競馬場の跡が今以上によくわかる。

 

 

そんな感じで、今回はここまで。

現在の京浜急行電鉄、かつての京浜電気鉄道(その前は大師電気鉄道)は関東地方最古の電気鉄道として知られるが、その歴史の古さ故、自社においても明治期の歴史については不明なことが多いようである(社史等を眺めたに過ぎないレベルで言い切れないのでこのように表記)。このためか、鉄道ファン向けの書籍などでも、特に品川~川崎間の駅(停留所)名には不明としているものが多いが、今回は参考資料として「携帯 番地入東京区分地図」(明治43年(1910年)刊行)という小冊子の「東京及郡部之図」とあるページの一部を抜粋し、これを補強・補完しようと試みる。

 

 

この地図には、開業10年足らずの京浜電気鉄道の路線が描かれており、ここには次のように駅(停留所、停車場)名が列挙されている。

  • 八ッ山
  • 大横町
  • 北番場
  • 南番場
  • 青物横町
  • 鮫洲
  • 浜川
  • 学校前
  • 立会川
  • 海岸
  • 学校裏
  • 沢田
  • 山谷
  • 立石
  • 蒲田梅園
  • 蒲田
  • 下町
  • 出村
  • 雑色
  • 八幡塚
  • 中町
  • 六郷(以下略)

以上のうち、馬場が番場であるとか字の違い(あるいは当時はこれが正しい?)や、院線(現JR)大森駅との接続線がなかったり、大師線に引いてある赤い線が途中から道路上に変わってしまい、羽田(猟師町)までつながってしまったりはあれど、他の同時代地図資料と比べて停留所の数も一致するため、信憑性は高いと見る。

 

さて、お気づきの方は自明のとおり、ここには定説とされているものとは異なった情報が記載されていることがわかるだろう。例えば、沢田停留所と学校裏停留所が併存していること(定説では沢田駅が改称によって学校裏駅となる、とされる)など、いくつも興味深いものが確認できる。無論、この手の資料に誤りはつきものなので、まったく鵜呑みはできない。中には本当に大丈夫か?と心配してしまうものもあるが、この資料は他を見ても誤りは少ない部類であり、この5年後(大正4年(1915年))に刊行された著者等がまったく異なる「改正調査番地入東京市全圖電車線路明細入」という1枚ものの地図裏面に記載されている京浜電車案内図でも、

 

 

ご覧のとおり、ほとんど異動がない(学校前が体育会前に、海岸が大森海岸に、蒲田梅園がなくなる)ことから、この地図の信憑性は高いと判断するのである。で、興味深いのは「学校前」と「学校裏」という駅(停留所)名があったことで、これらは互いに違う学校を指していたと思われるものの(駅間距離がかなり離れているので)、まったく関連性がないとも言い切れなさそうで、なぜこういうネーミングとしたのか興味は尽きない。

 

というわけで、京浜急行電鉄の明治期の駅(停留所)が掲載されている資料を紹介しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年6月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「荒川放水路で大きく曲げられた(直された)東武伊勢崎線」という過去記事で取り上げた大正11年(1922年)発行された地図を今回は目黒駅付近をターゲットとした一部分として以下に示す。

 

 

この頃には東京市電が目黒駅前まで進出しているが、明治末期からの計画線である恵比寿(恵比寿長者丸)から先(大森駅付近)の路線が、赤い2本の平行線として示されているのに注目。目黒不動を目的地として通るように計画されたとされるが、実はそれほど近くまで通っていないことがわかる。そして、池上電気鉄道に注目している私としては、それ以上に赤い2本の平行した点線、「池上」と書かれているまさにこれこそ、池上電気鉄道計画線である。

 

結果として目黒駅乗り入れは後発の目黒蒲田電鉄に許してしまい、接続駅を目黒から五反田に変更するようになるが、仮にこの計画線通りに実現されたとしたら…。目黒不動までは近くなったろうが、急曲線によってスピードは出そうにない…。

 

と、そんなこんなで出勤時間となったので、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年6月20日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

そもそも別の目的で調査しているものから、思いがけず別のものを見つけることはよくあることである。今回もとあるものを調べて関東大震災前年の東京の地図を眺めていると、こんなものを見つけることができた。

 

 

場所は、現在でいうと東京都荒川区と東京都葛飾区、東京都足立区の境あたり。大正時代の地図なので、地名などは右から左へと読む。地図(部分)左側から大きく曲がっているのが、荒川であり隅田川。当時はちょうどこのあたりで、川の名前が変わる境目でもあった(ちょうど汐入渡とあるあたり)。注目は地図上から右下方向に走る2本の点線で、これこそが荒川放水路建設地。現在の荒川である。ゼンリンの電子地図で確認すると、

 

 

こんな感じ。ご覧のとおり、今では当たり前に見える河川も江戸期はもちろん、明治時代においても影も形もなかった。とてつもない大工事が行われたことがわかるが、この影響を受けた一つが東武伊勢崎線。大正期の地図で確認できるように、荒川放水路計画地に見事にひっかかり、結果としてだが曲線が解消されたこととなった(却って急曲線は増えたが)。

 

この荒川放水路計画によって、村落の中心部が完全に失われることになったいくつかの村は近隣村と合併するなど、大きな大きな影響を受けたのはそこに住む人たちだけでなく、東武伊勢崎線のように影響を受けたものも多かった。言うまでもないが、荒川放水路(現 荒川)を渡る鉄道は皆少なからず影響を受け、多額の補償金(移設・工事費等)を得た。この一つに城東電気軌道という会社があり、この補償金で「濡れ手に粟」状態でうまい味を占めたのが池上電気鉄道で「活躍」した、あの高柳氏その人だが、その話はまたいずれ。