【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月3日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

これまでの「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」とは趣向を変えて、両社の直接対決というよりも両社の対決の余波を受け、「千束」と「洗足」のいずれが正当なのか(結論は両方共に正当である、のだが)に関して、もともとは「千束」であったものが江戸後期の日蓮上人袈裟掛け松伝説や、池で足を洗った伝説が流布されるうちに「千束」の大池は、日蓮上人が池畔の松に袈裟を掛け「足」を「洗」った「池」という戯れ言が転じて、「洗足池」と称されるようになった。地元(農民)は江戸市中で「洗足池」などと書かれていることなどほとんど知ることなく、江戸後期の文化人が記した「洗足池」という文献等により、この表記が普及し、明治初期には少なくとも東京市中においては「洗足池」という表記が一般化していたと考えられる。その根拠は、明治10年代に作成された2万分の1迅速図に、「洗足池」と書かれていることから確かであろう。(なお、池の右側に「柳松庵」とあるのは「御松庵」の記載誤り。)

 

 

また、江戸後期に出版された江戸近郊の遊覧案内や、明治以降に刊行された東京郊外案内(旅行記)のようなものには、ほとんど例外なく「洗足池」と紹介され、一部には「千束池」とも書くとしたものもあるが、あくまで別表記(並記)扱いであり、「洗足池」という表記が一般的だとされていたのである。これは、この地に別荘を営んだ勝海舟が「洗足軒」と名付けたことからも明らかである。

 

一方、「千束」池はというと、もちろん地元の表記としては「千束」以外にないわけで、馬込村の飛び地として「千束」は健在だったが、明治22年に大規模な町村統合が行われてからは、若干意味合いが異なってきた。それは、馬込村は大村だったので単独で一村を形成したまではよかったが、原則飛び地を認めないという方針から、「千束」を馬込村にとどめておくにはこれをどうにかしなければならなかった。その解決策が、「千束」を馬込村の飛び地とならないような工夫、つまり地続きにするという方策だったのである。これは、馬込村本村と飛び地「千束」の間にあった池上村の一部を馬込村に編入するという形(下図参照。場所のヒントとしては、字平塚の一部と記した左上十字路が今日の「長原駅入口」交差点。あと、中延村との境界線が今日の品川区と大田区の区界)で地続きとさせたが、この編入された地区は東京府荏原郡池上村字平塚(現在の東京都大田区上池台一丁目の一部)の1~7、13~25、30番地にあたり、これ以降、馬込村内には1番地が二つ存在することになった(荏原郡下の合併村は、複数の村を統合したので大字単位で1番地は複数ある)。

 

 

一方、一部と割譲したような形となった池上村は、合併によって新たな池上村(池上村、雪ヶ谷村、下池上村、堤方村、桐ヶ谷村、道々橋村で構成)となり、馬込村からは洗足(千束)池の池面すべての権利を得るとした(これが今日まで引き継がれる、東京都大田区における千束特別出張所と雪谷特別出張所の管轄の境界線に生き残っている)。江戸期まで続いていた「入会地」の概念は、明治初期の地租改正によって否定され、この町村合併によって名実共に失われたといっていいだろう。それはともかく、この(新)馬込村誕生によって「千束」は飛び地でなくなり、あえて「千束」という単位で扱う必要がなくなったためか、次第に公式(行政)名として「千束」という名前は見えなくなっていくのである(地元ではそんなことはなかっただろうが…)。馬込村飛び地としての「千束」が見えなくなる一方で、「洗足池」という池名は勝海舟の別荘地、東京近郊の景勝(観光)地としての名声は高まり、ここに「千束」から「洗足」への移行が確認できるのである。

 

明治から大正に時代は移り、この地に一大転機が訪れる。それが明治経済の重鎮、渋沢栄一の発起による田園都市計画である。きっかけは畑弥右衛門が渋沢栄一に働きかけを行い、それが東京府荏原郡の碑衾村、平塚村、馬込村、玉川村、調布村付近だった。大正3年(1914年)には、地元の村長ら名士を飛鳥山の渋沢邸に招待し、田園都市計画についての協力を求めるなど、明治期に事業を推進し続けた渋沢栄一の動きは速かった。しかし、田園都市計画は営利事業でなく社会事業であるとしたことや、引退した自身が直接かかわることを否定したことなどから、そこから先は多少の時間を要し、田園都市株式会社の設立は大正7年(1917年)までかかった。この間、まったく何もしていなかったわけではなく、地元の地主たちとの交渉を進め、事業用地買収の下話は進められていた。ここで、田園都市側に予期しないアクシデントが発生する。これこそが池上電気鉄道との最初の対立であったのだった。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年4月25日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

これまで当blogにおいて、東急電鉄の前身の一つと言える池上電気鉄道関連を記事で多く取り上げているが、その歴史において目黒蒲田電鉄(東急電鉄の直系先祖)との対決は重きをなしているものである。最終的に目黒蒲田電鉄に合併されることになる池上電気鉄道だが、当然、勝者の側から書かれた歴史しか残されていないので、これをベースに様々な文献等でも語られることが多いのは周知の事実である。そしてこれを鵜呑みすることの危険性は、これまでも当blogで指摘してきたように一部に見られる「誤り」の連鎖が発生すると、それが増幅される傾向が高いことから、十分に注意しなければならないことを指摘できよう。しかし、私は池上電気鉄道が存在していた同時代人ではないので、「実際のところどうなのか?」というのは、やはり同時代体験者にかなうはずがない。なので一歩引いて、なるべく同時代各種資料を積み上げ、それらを通して私なりの考えを構築・展開し、それを既存の歴史記述とぶつけてみた結果について語っていくことを基本スタンスとする。と、まぁ堅苦しいことを書いてはみたが、あくまで基本スタンスは基本スタンスであり、実際にこのとおりに記述するわけでないことをお断りする(学術論文の類ではないから)。

 

大正前期の洗足池畔。今は池を埋め立てた洗足池図書館があるので往時の面影は消滅している。

 

さて、能書きはともかく、今回の話題は「池上 VS 本門寺道」「武蔵新田 VS 慶大グラウンド前」を次ぐ第三弾、「洗足・洗足公園 VS 洗足池」である。先の二つは、先行する最寄り駅に対し、近接した臨時駅を設置して少しでも旅客需要を奪い取ろうというものだったが、今回の洗足池にまつわる対決はこれらとは状況が異なっている。以下に、大雑把な流れを示してみよう。

  • 江戸期以前より千束の大池として、地元の貴重な水源(溜池)であった。馬込村の飛び地として千束(馬込村千束)があった。
  • 江戸後期より、景勝地として知られるようになる(浮世絵などに描かれる)と同時に、日蓮上人の袈裟掛け松伝説が流布され、日蓮が足を洗った池として「洗足池」と当て字され始める。
  • 明治中期、町村合併により、飛び地だった千束が馬込村(本村)と地続きになる。
  • 明治期に勝海舟の別荘が営まれる(生前より墓碑が作られ、没後はそこに眠る)。
  • 大正初期、池上電気鉄道が路線計画で洗足池(千束池)付近を経由地として示す(のちに特許取得)。
  • 田園都市株式会社の事実上の子会社である荏原電気鉄道が洗足(千束)池付近を経由する鉄道特許を取得。
  • 田園都市株式会社、荏原郡の土地買収時に洗足池畔を含めようとするが、地元大地主に断られる。
  • 田園都市株式会社、第二期線(大岡山~目黒)の途中駅として碑文谷駅(のちの洗足駅)を計画。
  • 田園都市株式会社、洗足駅周辺を最初の分譲地とする(のちに調布田園都市と区別するため、洗足田園都市と呼称)。
  • 目黒蒲田電鉄、目黒~丸子間開業。途中駅に洗足駅を開業。
  • 田園都市株式会社、本社を洗足駅前に移転し、同年、自称として分譲地を洗足町と呼称。
  • 池上電気鉄道、雪ヶ谷~桐ヶ谷間開業。途中駅に洗足池駅を開業。
  • 目黒蒲田電鉄、大井町線の途中駅として池月駅(大岡山~東洗足間)を開業。翌年、洗足公園駅と改称。
  • 東京府荏原郡馬込町、新たに大字として北千束と南千束を起立。
  • 東京府荏原郡下の町村が東京市に合併。東京市大森区北千束町、同市同区南千束町、同市同区池上洗足町、同市目黒区洗足が行政町名として誕生。
  • 目黒蒲田電鉄、池上電気鉄道を合併。
  • 大井町線洗足公園駅を北千束駅に改称。

要するに当初は「千束」であり、「洗足」は江戸後期より流布された伝承が、各種文献で取り上げられているうちにこの「当て字」が正字になったようなものであることがわかる。しかし、地元はあくまで千束は「洗足」でなく「千束」であるとして、今日でも東京都大田区北千束及び南千束となっているが、肝心の池の方は「洗足池」が正当扱いとなっている。あえていうなら、都立公園時代は「洗足公園」だったものを区立公園時代になってからは「洗足池公園」と改称させたところに、千束は「千束」であるという主張が読み取れる。

 

一方、田園都市株式会社の第一号分譲地である田園都市洗足を基盤とする東京都目黒区洗足は、「洗足」であって「千束」ではない。目黒区と大田区と隣接する地域に「洗足」と「(南・北)千束」が存在するのは、意図的に紛らわしくしようというのが狙いなどではなく、歴史からしてそうなっているというわけである。これを無視して、紛らわしいからというだけで改称しようという議論の方が乱暴だとわかるだろう。ただ、部外者からすれば混乱しない方が無理というもので、例えば、先にも大雑把な流れで示した勝海舟の別荘の名である「せんぞくけん」が、「洗足軒」なのか「千束軒」なのか等々、どちらが正しいと言うよりもどちらか一方にしてくれと思う気持ちはわからないではない(正しくは「洗足軒」)。

 

また、もう一例として桜の花見の季節になると、東急目黒線洗足駅には恒例の注意書きが表れるようになるという。それは「当駅は洗足池駅ではありません」(笑)という、わかったようなわからないような説明板で、要は桜の名所でもある洗足池畔(洗足池公園ほか)は洗足駅からはやや離れた場所にあり、東急池上線の洗足池駅が実際の最寄り駅なのだが、よくご存じでない方(そして早とちりな方など)は洗足駅で降りてしまうのだというのだ。地元の方には唖然とするような話らしいが、毎年出ていると言うことなのでそういうものなのだろう。私も実際、今春に洗足田園都市調査のため、洗足駅近辺を散策していたら、乗用車の運転席から「洗足池にはどちらの道を行ったらいいですか?」と声をかけられたが、この方はカーナビを頼りに「洗足」をキィワードとして目黒区洗足に来てしまったらしい。私が運転手に対して、洗足池は目黒区洗足ではなく大田区南千束にあり、そこの環七通りまで出たら中原街道との交差点を丸子橋方面に方面に進みながら坂を下りきった辺りで右手に見えてくると伝えたものの、「千葉」ナンバーの方には難しかったようでしばらく悩んでいた。きっと、何で似たような「せんぞく」があるんだ?と八つ当たりしたかったのかもしれない。

 

そんな「洗足」と「千束」について、次回は田園都市株式会社が「洗足」を駅名や分譲地名とした理由を考えてみていくことにしよう。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月20日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

これまで当blogにおいて各種文献やWikipedia等の誤りを指摘してきたが、今回はそうではなく、的確なことが書かれている文献を紹介する。それが「郷土目黒」という目黒区郷土研究会が発行しているもので、すべての記事が素晴らしいとは言えないが、さすがに地元のことを書いているだけあって興味深いものも多い。その中で今回ご紹介するのが「郷土目黒」第四十八集(平成十六年)の12~22ページに掲載されている「自由が丘・緑が丘物語」である。著者の阿部信彦氏は、父の代(昭和4年=1929年)から緑が丘地区に住み、まさに地域と共にあられる方と思われる。

 

大井町線建設時の大岡山〜中丸山(現 緑が丘)間にある高架橋。この先に中丸山駅がある。

 

とはいえ、記事の内容は私にとって既知のことがほとんどで特筆すべきものはないのだが、本稿の終了近い22ページに次のような記載がある。

「大岡山と自由ヶ丘の中間にできた駅は当初「中丸山」といった。先に触れた長屋門のあった旧名主栗山家の分家の栗山清氏にお聞きしたところ、地元の要望で新駅の傍の、今東京工大の施設の建つ小高い丘陵を中丸山と称していたので、それにあやかってつけたとのことであった。」

この話の信憑性の高いところは、この小高い丘陵を所有していたのが旧名主栗山家の分家の栗山氏だったこと(東工大敷地の南側=緑が丘駅北側の土地は今でも栗山氏所有)。さらに、当地区の耕地整理組合(衾東耕地整理組合)の組合長だった岡田衛氏もこの話をされていることから、「地元の声」として無視するどころか、東急50年史に書かれたいい加減なものよりも正当性は高いだろう。

(本件については「Wikipedia日本語版での間違い 東急大井町線(駅名の由来)編」に「東急50年史を引用していると思われるが、これが誤りで、中丸山とは駅北側にある今日東京工業大学が位置する高台のことを言う。駅・線路用地等を提供(等価交換含む)した大地主による希望命名である。また、玉川村大字奥沢に中丸という字名はなく、正しくは丸山(場所は奥沢駅南側辺り)である。ちなみに中丸は、玉川村大字等々力の字で現在の尾山台駅北側辺りをいうが、さすがにここから駅名を採用したとはならないだろう。」と既に当blogでもふれたとおり。)

 

とはいいつつも、このような郷土史を紹介する書籍に書かれているものがすべて参考になるかと言えば、残念ながら玉石混淆であるのもまた事実である。ただ、仮に間違っていたとしても「思い出話」的なものは、そのように記憶しているということだけでも有意なことであるので、一概にだめだとはならない。例えば、戦時中の情報統制で巷間に流布されていたことと、戦後になって情報公開されたものをわかった上での話を双方比較し、戦時中の話を「誤り」と決めつけることに難があることを挙げておこう。

 

というわけで、東急大井町線緑が丘(緑ヶ丘)駅のかつての駅名「中丸山」駅由来の話はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年6月21日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今では自由が丘(東京都目黒区)といえば、若者や女性等に人気のある街として名高いが、今から半世紀以上前はそうではなかったようである。今でも美観商店街などに呑み屋さんは残っているが、どちらかといえば脇役と言った感が強いが、さすがに半世紀前は主役級だった。昭和31年(1956年)6月15日発行の「自由ヶ丘」(発行:自由ヶ丘商店街連合会)という商店街案内には、このような飲食店の広告が展開されている。

 

 

電話番号は東京03を除いてある。局番は二桁で今の四桁になる前の三桁時代よりも前となるが、それ以上に注目は(呼)マークである。店に電話がなく、呼び出してもらわなければならないという意味だが、携帯電話が普及し、一人一台時代の今からでは考えられないが、昭和30年代はどこもこんなものだろう。かつては電話債券なるものまで買わねばならず、固定電話を入れるのにはカネがかかるのは当たり前。電話があるということは信用もあるという裏付けだったのだ。

 

さて左から見ていくと、「金田なら 家の中だと 女房云い」というフレーズが可笑しい。呑みに行っても家と同じなのだからOKと、外で呑むのにカウントされないということを言いたいのだろうか。意味合いとしては「安さ」をウリにしているのか、それとも「安全」をウリとしているのかはわからないが、当世ではこのようなフレーズはないだろう。

 

そして「とんかつバー あをば」。「あおば」でなく「あをば」というのも何だが、それよりも「とんかつバー」とは何だろうか? それとも「とんかつ | バー あをば」ととんかつとバーの間で区切るのか。どちらにしても「とんかつ」をウリにするバーというのが戦後の印象を強く受ける。

 

 

先ほどの「あをば」さんに続いてこの3件も「広小路一番街」にあるように書かれているが、これは今で言うとどのあたりになるのだろう。小洒落たカタカナ名があふれる自由が丘商店街において、広小路を名乗るのは聞いたことがないので、かつての名前であるだろう。意味合いとしては広小路とは広い通りを意味するので、自由が丘の中でも広い通りを指すと思うのだが…。

 

 

こうしてみると、ずいぶんと和風の店名が多い。小料理屋、スナック、バーとはいえ、サラリーマンおじさんたちに馴染みのあるような名前が求められたのだろうか。

 

 

と思ったら、カタカナ名や中華風の店名も。もっともレストランや北京料理の店なので、名は体を表すのように相応のネーミングと言えるだろう。トリスバーとか、先にあったサントリーバーというのも、当時のおじさんたちの憧れの洋酒である。安くて気軽に楽しめる。でなければ、サラリーマンの安月給で通えるわけがないのだから。

 

以上、50年以上前の飲食店(呑み屋系)の広告を見てきた。広告は時代を映すとはよく言ったもので、昭和31年(1956年)頃がどんなものか、何となくかもしれないが感じ取ることができるだろう。そんなことを確認しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年7月6日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、一枚の写真ならぬ一枚のパンフレット(ちらし)。

 

 

10月12日、といえば池上本門寺お会式で、江戸期より多くの信徒達を集めてきたが、それは明治~昭和(平成)においても同様で、いかに参詣客を確保するのかが近隣交通機関の課題でもあった。実際、池上電気鉄道は、この参詣客をあてにしてスタートしたようなものだし、目黒蒲田電鉄も本門寺道駅という名前だけ拝借したような駅をつくった(参考「東急目蒲線(現 東急多摩川線)の本門寺道(道塚)駅の場所はどこなのか!? 前編」ほか)。

 

で、このパンフレット。発行元は、目蒲・東横電車とあるように、目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄で両社は形態は別会社だったが、経営陣はまったく同じで事実上同じ会社といえる。描かれる路線図も別会社とは見えない。発行時期は、池上電気鉄道合併前で「府立高等」と見えることから、昭和8年(1933年)10月前後に出されたものと思われる。

 

さてさて、面白いのは池上本門寺の最寄り駅が、このパンフレットによれば「下丸子」駅だということである。せっかくそのためにつくった本門寺道駅ではないというのも何だが、わざわざ下丸子駅から乗合自動車(バス)に乗り換えてくれと言うのである。「池上本門寺お会式に楽に安く行くには」と言いながら、これはないだろうさすがにと思うのだ。とはいえ、これだけ見れば運賃大割引だとあるし、ここに書かれた運賃を見れば楽かどうかはわからないが、安いと言うことではあるのだろう。

 

このようなパンフレットも池上電気鉄道を合併して以降は、最寄り駅は池上駅としているあたり、やはり目黒蒲田電鉄にとって池上電気鉄道は胃の中にいる悪虫的な存在だったのだな、と思わずにはいられない。このパンフレット一つ見てもそう感ずるのであった。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年7月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

なかなか時間がとれないため、コメントを頂戴しておきながら放置状態で恐縮です。と、お詫びしつつ、今回は一枚の(古)写真。「東京横浜電鉄沿革史」から転載したコレである。

 

 

撮影地点は、住所でいえば東京都目黒区洗足二丁目25番。現在の東急目黒線洗足駅前に昭和初期まで存在した、田園都市株式会社本社の建物である。田園都市株式会社は、当Blogをご覧いただいている方には言わずもがなかもしれないが、簡単に言えば現在の東急電鉄の前身、というよりは母胎的な存在で、すべてはここから始まったと言うべき会社である。

 

洗足田園都市区域に存在した田園都市株式会社本社は、言うまでもなく分譲地の中に本社を用意することで、分譲地の信用を高めるほか、販売そのものにも大きく貢献したのはもちろんである。いわば、本社機能以上に分譲地販売の最前線という位置づけと言っていいものだろう。

 

写真を見れば、右寄りに正門があり、さらに右端には大きな分譲地地図が見える。中央には「洗足池」と書かれた看板があり、ここが洗足池への最寄りであるとの主張と共に、洗足田園都市の由来が洗足池に近いからという主張にも読める(実際には池上電気鉄道が洗足池駅を開業した時点でそうではなくなるが、その前までは確かに最寄り駅だった)。

 

この本社屋は、大正12年(1923年)に完成し、目黒蒲田電鉄開業直後であったが、洗足田園都市の分譲が終盤を迎えた頃に取り壊され(移築されたという話があるが未確認)、商店街区画として分譲されてしまい、現在もその細区画がほぼそのまま残るが、この間わずかに10年足らず。この建物が取り壊される以前、田園都市株式会社は子会社であったはずの目黒蒲田電鉄に吸収合併(形の上では対等)されて既になし。役目を果たした、とされた本社屋の運命はこの時点で定まっていたとなるだろうか。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年8月7日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

作尻架道橋とは、JR東海道本線(京浜東北線)の大森駅~蒲田駅間にある架道橋である。場所は、東京都大田区大森西一丁目12番と同19番の境に位置する。この区間は、我が国最初の鉄道として明治初期に建設されたもので、この作尻架道橋のある付近もそれに含まれる由緒ある路線であるが、ここは水路(小河川)が流れており、鉄道建設当初から橋が架けられていた。しかし、架道橋ではなく河川を跨ぐ橋、跨線橋だったのである。

 

 

その後、大正時代に入って耕地整理組合による耕地整理(区画整理)が進み、この付近も道路が縦横に作られることとなり、水路に平行する線路をくぐる歩道が用意された。これが架道橋の始まりとなるが、戦後になってこの水路を暗渠化した際、自動車も通行可能な道路となり、名実共に架道橋となった。これが作尻架道橋というわけである。

 

ご存じの方はご存じのように、鉄道が市街化よりも先行して敷設されている場合、鉄道を挟んだ両地域は近くて遠い存在となる。ここ大森駅~蒲田駅間もご多分に漏れず、鉄道によって東西交通は分断され、現在でも踏切無しで東西交通が確保されている自動車も通行可能な場所は、わずかに5か所しかない。その重要な要衝の一つが、ここ作尻架道橋なのだ。

 

 

しかも、ここはわずかに1.7メートル制限。つまり、普通乗用車でもぎりぎりでトラックはおろか、若干高い自動車でもアウトである。そう、ここは抜け道としても有用な場所なのである(かつては一方通行でなかったが、歩道を拡幅したことで一方通行となった)。

 

それにしても作尻という名前。何に由来しているのだろう。調べてみればわかるが、「作尻」という地名は江戸期以降で見ても見当たらない。似たものとしては、荏原郡新井宿村の小名として「沢尻」というものがあり、これに関連することは容易に気付く。そして明治初期の地租改正によって、現在の東京都大田区中央三丁目あたりは「河原作」という小字名を与えられている。「沢尻」は、公式の地名としては地租改正時に小字名として継承されなかったが、昭和初期までその名は地域の間では残っていた。もうおわかりだろう。「作尻」とは「河原作」の「作」と「沢尻」の「尻」を合わせた、新旧の合成名なのである。ちなみに「沢尻」とは、この地域は「沢田」という名称(公式地名として明治以降採用されていないが、地域では今も根付いている)で、その南西境にあたる場所、つまり「尻」に比喩される場所を指したことによる。

 

とはいえ「作尻」というのは、尻を作るみたいな印象を字面で与えてしまうためか、どうしても揶揄されやすいようでそれがいたずら書きにも表れている。不憫なものだと感じつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年8月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

従来の定説が覆されて、今ではそれが邪説の一つになる。こういう事例は枚挙に暇がないが、私が若き日に学習した物理学の世界と、現在興味を持っている地域歴史研究のような世界とでは意味合いが大きく異なる。

 

物理学の世界では、19世紀までは自明とされていた「エーテル」の存在が否定されたことが、20世紀双璧といわれる「相対性理論」と「量子力学」につながったが、これは「理論」だけでなく「実験」及び「検証」によって明らかにされている。だが、歴史というものは、同じように見える事象であっても背景が異なるなどまったく二度と同じ事象は再現されず、しかも見方、立場によってまったく異なるものとなる。いわゆる「認識」の差が大きな違いのように見えてしまうのである。

 

なので、過去の歴史を語ると言うことは、どういう問題意識を持ち、どのような視点に立ってそれが論ぜられるかを明らかにしておかなければ、なかなか理解を得にくい。また、それを受け取る側も狭視点だったりすると、そもそも受け入られることもない。しかし、それを客観的事象にまで引き上げることができるもの。それこそが「歴史資料」の存在である(無論、「解釈」という新たな差異を生むことも多いが)。

 

と、前振りが長くなったが、今回示す「歴史資料」はよく知られた国の重要文化財にも指定されている「東京高崎間鉄道線路図」である。

 

 

本図は横長(370 mm x 1,240 mm)なので、全体を載せると肝心なところが見えにくくなってしまうことから、左側から4分の1ほどにとどめた。実際は、サイズを示したように思いっきり横長である。

 

 

拡大してみると、図左側に見える「品川ステーション」から右側に伸びる計画線が、現在のJR山手線にあたり、線の途中にある区切り線は1マイル毎に入れられているもので、目黒不動あたりが品川ステーションから3マイル、単に「ステーション」と記されている渋谷ステーション予定地付近が同5マイルとなる。そして、この計画線に途中まで平行する青い線が目黒川である。

 

さぁ、もうお気付きの方はおわかりだろう。渋谷ステーション予定地から下渋谷村方向の台地部を通り、火薬庫(現在は防衛省関連施設が集積)付近で目黒川を越え、目黒不動近くを通り、しばらく目黒川沿いの低地を抜け、官線付近で大きく曲線を描き、品川ステーションに入る、という経路は「目黒駅追い上げ」説を裏付けるものと言えるのだ。

 

 

では、比較しやすいように北を上として本図を回転させてみよう。同じく比較しやすいように新宿駅付近から掲載したので、計画線と現在のJR山手線とを見比べれば、その差がよくわかるだろう。ただ、本図が提出された明治14年(1881年)年12月23日から、明治18年(1885年)3月1日に品川ステーション~赤羽ステーション間が開業するまでの3年半弱の間に、全体計画に影響を及ぼす変更がなされた。それが、本図には記載されていない上野までの延長線である。

 

明治15年(1882年)7月18日、日本鉄道会社は株主総会で上野~川口間の鉄道敷設を決議し、同年8月3日に当時の監督官庁である工部省に申請した。官線に接続することを目指したが、地形が複雑であることや沿線予定地からの様々な意見等から、建設区間が短く地形も複雑でない(あくまで相対的に)上野を起点と変更したのである。無論、官線接続を諦めたわけではなく、あくまで本線を上野方面とし、品川ステーションへの接続は支線という扱いとした。この結果、本線としての上野~熊谷間を先行建設し、明治16年(1883年)7月28日に開業式を挙行、仮営業を開始したのだった。

 

そして、仮開業から約5か月を経た明治17年(1884年)1月、ようやく支線と位置づけられた品川~新宿間及び新宿~川口(岩淵)間の鉄道建設工事に着手。先にふれたように、明治18年(1885年)3月1日に開業。品川~赤羽間に、駅は本計画図のとおり渋谷、新宿、板橋に加え、本線との分岐駅として赤羽ステーションが設置された。さらに、同年3月16日とそれほど期間を置かずに目黒ステーションと目白ステーションが開業する。この遅れは、単に開業日に工事が間に合わなかったからとされる。

 

というわけで、簡単に流れを振り返ってみたが、ポイントは当初計画から本線を品川から上野までのルートに変更し、その後、明治17年(1884年)1月の工事開始まで1年半近くの間、品川までの計画がほとんど進捗しないことにある。そして着工時には、ルートは本図に示されたものからほぼ現在のルートに変わっている。つまり、渋谷からすぐに台地部を南に突っ切るのではなく、そのまま直線に南東方向に台地部を進み、火薬庫の東側(図では左側)を通過、永峰町の永と峯の字の間あたりを貫き、大崎村と書かれている辺りで目黒川平坦部に抜け、そのまま計画線につながる形となったのだ。

 

この計画変更が、目黒駅追い上げ説の誕生につながっている。そして、明治末期~大正・昭和初期に編まれた地域の歴史書的なものに登場する座談会などでは、目黒村を通過するはずだった計画が目黒村の地主らの反対で、現在の路線になったという鉄道忌避伝説の一つとして語られ、今ではそれは伝説であって根拠がないと否定されている。地形的に現在線は妥当であって、工事技術等からもそれ以外の選択肢がないように書かれているものもある。また、反対の陳情なども見つかっていないということも否定の要件として加えられてもいる。

 

だが、果たしてそうなのだろうか。反対が東京府や工部省、日本鉄道会社などに公式になかった(後世の人が見つけられなかった)からといって、それで反対がないと言えるのだろうか。学問的立場では、証拠のないものは存在しないということはわかる。しかし、わざわざ自社の都合の悪いことを残したりするものなのだろうか。また、公式見解と事実というものが同じだとは限らないことは、私自身、企業人として常に体験していることでもある(例えば、株主総会等で説明する内容「建前」と、真の意図「企業秘密」は同じですか?)。さらに重要人物同士の会談で、鉄板と思われていた計画がひっくり返ることも体験している。真相は闇でも、噂だけは広がり、それが真実を伝えていることも珍しくない。

 

現在の事象でさえ、適切に伝わっているかどうか何とも言えないようなものが、100年以上も前のことを「残された資料」だけで判断するのはいかがなものだろうか、と感ずる。後世の学者風情が、自らの拙い知見と思い込みだけで、当時の人たちの噂話的なものを「伝説」と断ずることに違和感を覚える。最近、地域歴史研究を進めていると、むしろこういった学者風情の説がインチキであることも多いと感ずる。もちろん、昔話がインチキであるものも多いだろうが、当時、その人達がどう感じていたかを聞く(見る)ことの方がよほど価値があると思う。

 

そんなことを思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年8月31日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「「郡分合ニ関スル府県地図」(東京府)に見る東京の繁華地」に示した東京府の範囲は、郡部も含めて今日のいわゆる東京23区の範囲よりも狭い。明治初期の混乱期を過ぎて、明治11年(1878年)7月22日制定の郡区町村編制法によって、巨大な多摩郡は4つ(東西南北)に分割され、東京府には東多摩郡(明治29年(1896年)4月1日に南豊島郡と合併し豊多摩郡となる)が所属、残る南多摩郡、西多摩郡、北多摩郡は神奈川県に属した。

 

 

というわけで、「郡分合ニ関スル府県地図」の神奈川県版である。この頃の神奈川県は、おおよそ北半分が武蔵国の一部、南半分が相模国で構成されており、南・西・北の3つの多摩郡(いわゆる三多摩という呼称はここに由来)は神奈川県に属していることが確認できよう。ちなみにまだ市はなく、すべてが郡に属している。

 

 

現在の横浜市、川崎市あたりを中心に拡大すると、武蔵・相模の国境が現在の東京都と神奈川県との境に位置し、現 町田市の南端からの国境は横浜市の中に埋没してしまっていることが確認できる。興味深いのは、最近(でもないか)誕生した横浜市都筑区の区役所の場所と、本図に示される郡役所の場所(都田)があまり変わらない位置にあるということ。時代は変われど、そうそう行政中心地は変わりにくいということか…。

 

まだまだ気になることは多いが、今回はここまで。8月中には新奥沢線関連ネタを終わらせるつもりが終わらず、もう少し続きそうなため、お茶を濁してみた。あ、そうそう。神奈川県に属していたいわゆる三多摩が、東京府に管轄替えとなったのは明治26年(1893年)4月1日であった。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年8月29日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

本図(部分)はその名も「郡分合ニ関スル府県地図」という厳めしい名の地図群を構成する一つ、東京府を表わしたものである。作図年は、1891年(明治24年)の第2回帝国議会に提出された図ということなので、約120年ほど前のものとなる。

 

 

図名からわかるように、本図は府県に所属する郡を分合する案を示したもので、東京府においては確認できるように南豊島郡と東多摩郡を統合して新たな南豊島郡(赤文字)を作る案となっている。

 

本図では、東京府下にある5郡の郡役所所在地と郡内の有力地域も記載されている。

  • 荏原郡………郡役所(品川)・有力地域(大森)
  • 南豊島郡……郡役所(淀橋)・有力地域(新宿、中野)
  • 北豊島郡……郡役所(板橋)・有力地域(王子)
  • 南足立郡……郡役所(千住)
  • 南葛飾郡……郡役所(小松川)・有力地域(新宿)

なお、郡役所設置地域はもちろん有力地域でもあるので、本図に名が記載された地域はいずれも繁華な地域(相対的に)であったとなるだろう。

 

で、いわゆる副都心とされる新宿、池袋、渋谷のうち、約120年前にそれなりの繁華な所は新宿だけということがわかる。本図には五街道も示されているが、一部の例外を除けば、すべてこれら街道沿いにあり、都市構造が江戸期以来あまり変わっていないことも伺える。これが変わっていくのは、五街道に代わる新たな交通手段の出現によって、ということだろう。

 

そんなことを思いつつ、今回はここまで。