【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年4月16日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

blog記事が増えてきたので、それを整理する意味もこめ、シリーズ名を一部記事に付加しようと試みている(先のIA-64の歴史、みたいな感じ)が、今回もその一環としてシリーズ名を「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」と付けてみた。しかし、思いつきなので、今後は変わるかもしれない。という前振りをしつつ、今回は久々の地域歴史研究ネタで進めていこう。

 

以前、目黒蒲田電鉄(現 東京急行電鉄)が蒲田駅~矢口駅(現 矢口渡駅)間に、本門寺道駅を臨時駅として開設後、既得権よろしく駅を恒久化し、池上電気鉄道初期の交通需要で最大となる池上本門寺への旅客輸送を「妨害」しようとしたことについてふれた(「東急目蒲線(現 東急多摩川線)の本門寺道(道塚)駅の場所はどこなのか!? 前編」以降)。これは池上本門寺の場所を思えば、本門寺道駅に価値などないが(無論、駅付近の人たちにとっては価値はある)、周辺交通事情を知らない人にとっては「ネーミングそのもの」に価値があったと言える。省線や私鉄間で乗り継ぎ切符が売られるようになれば、これはなおのことだろう。

 

こういう「詐欺まがい」的なネーミングについては、この本門寺道駅以外にも洗足池周辺でも見られたが、今回はもう一つ、慶大グラウンド前駅を取り上げる。慶大グラウンド前駅については、当Blogにおいて「慶大グランド前駅」なのか「慶大グラウンド前駅」なのかを議論し、鉄道ファンの間に流布される情報が誤りであることを論じた(「池上電気鉄道慶大グラウンド前駅について(確定編)」ほか)が、この慶大グラウンド前駅こそ、池上電気鉄道における「本門寺道駅」的な駅なのである。

 

まず、名前からしてバス停っぽく、かつ直接的なネーミングだが、実際、慶應義塾大学の運動場や野球場(新田球場)の最寄り駅は、目黒蒲田電鉄の新田駅(現 武蔵新田駅)であり、そもそも慶大グラウンド前駅は存在しなかった。しかし、本門寺道駅が臨時駅として開設後、恒久的な扱いとなったことから、これを受けて池上電気鉄道も新田球場への最寄り駅として臨時駅開設の申請を行い、許可後に恒久的な扱いとしたのである。つまり、出自としては「臨時駅」からスタートし、ライバルの最寄り駅の方が近いにもかかわらず、いかにもネーミングから自らの方が近いと錯覚させるというパターンは「江戸の敵を長崎で」、のように本門寺道駅の敵を慶大グラウンド前駅で返す、というようなものなのである。ただ、慶大グラウンド前駅は、本門寺道駅ほど遠くはなかったところに、わずかばかりの良心を見ることができ…ないか(笑)。

 

さて、このような出自の慶大グラウンド前駅だが、この話に入る前に簡単に慶應義塾大学運動場の中核をなす新田球場についてふれておこう。大正年間、野球(ベースボール)熱は大変大きくなり、全国中等学校野球や東京六大学野球など、学生野球の盛り上がりは高く、中でも早稲田大学と慶應義塾大学の試合はその中の白眉と言えるもので、観客動員数は今とは比べものにならないほどだったという(あえて言えばプロ野球の阪神タイガースと読売ジャイアンツのようなものか)。そういう中にあって、単なる野球場では対応困難となり、新たに多くの観客を収容する野球場を求められた。慶應義塾大学は、当初は東京市芝区三田(現 東京都港区三田)に野球場を持っていたが、ここでは対応困難となって、一時的に田園調布の野球場(のちテニスコート等になり、今はマンション)を間借りした後、東京府荏原郡矢口村と同郡調布村の境界に位置する土地を買収し、ここに野球場をはじめとする運動場を開設した。これがいわゆる慶應グラウンド(グランド)である。最寄り駅は、目黒蒲田電鉄の新田駅(現 武蔵新田駅)で、当時は目黒駅及び蒲田駅からのみのアプローチであったが、郊外の野球場としてはいい立地条件だったといえる。

 

©慶應義塾写真データベースにある新田球場の写真

 

その後、周辺が住宅地化したことや、慶應義塾大学そのものから離れた場所にあった等の理由から、神奈川県横浜市の日吉に移転することになるまでの間、新田球場には野球の試合が開催される時は、ここに多くの観客が詰めかけたのである。これに目を付けたのが、まだ雪ヶ谷駅までしか開通できていなかった池上電気鉄道であった。当時、池上電気鉄道では新田球場付近に駅はなく、池上駅~光明寺駅(現在の千鳥町駅の位置にほぼ相当)間に臨時駅を開設する申請を鉄道省に行ったのである。臨時駅の開業期間は、新田球場で野球の試合が開催される日とされ、まさに性格は臨時駅そのものと言えるだろう。

 

当時のダイヤや一両編成の小型電車で、どれほどの乗客を捌けるのかは定かでないが、少なくとも本門寺道駅の臨時駅開設と比べれば、それなりの正当性を持ちうると思うが、当然のごとくこの申請は許可され、臨時駅慶大グラウンド前駅は開設される。そして、本門寺道駅と同じように周辺の利用客からの要請という理由を盾にとって、通常駅への昇格をはかった。ついに慶應義塾大学の新田球場への旅客輸送を巡って、両社の戦いの火蓋は切って落とされたのである。

 

次回に続く。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年4月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

もともとは、1回の予定で書き始めたものが、前後編の2回になりそうだとなって、ついに前中後編の3回になった。たぶん、3回で終わる予定で書き始めるが、そこはそれ、書く時間が限られているので、3回で終わらなくてもご容赦願いたい。

 

 

前回は、大正15年(1926年)当時の3,000分の1都市計画図に書かれた本門寺道駅の位置を確認したところで終わったが、道路の真ん中に駅を表す四角が書かれている、という意味合いについて考えてみよう。ただ、その前にこの時期における3,000分の1都市計画図に書かれた駅(停車場)について考察する。この時期に発行されているものをつぶさに確認すると、単に四角だけで構成されている駅もあれば、これに加えて駅のホームや駅本屋などが記載されたものもある。3,000分の1という縮尺は、駅の詳細構造まで記すことが可能な大きさなので、通常は記載されるべきものと考えるが、中には四角だけのものがある。初版においてはホーム等まで記載して書かれるが、二版(追加、補正)以降に追記されたものが四角だけしか書かれない、という一般則でもあるかとも思ったが、そういうものでもなく、なかなか一般則は見いだしにくい。残念ながら、これは地図作製者の「都合」で片付けるしかない。

 

では、道のど真ん中に駅を表す四角が書かれている点について、やはり路面電車の駅のように単にホームだけの構造で、道路を挟んで上り下りのホームが分かれた構造だったのだろうか。これについては、残念ながら補強する資料がない。しかし、この3,000分の1都市計画図の略歴を確認すると、

図名「矢口東部」

大正十一年十二月 測図 都市計画東京地方委員会

大正十二年三月 測図

大正十四年十月 測図 内務省復興局

大正十五年六月十一日 印刷

大正十五年六月十四日 発行

とあることから、最初の作図は都市計画東京地方委員会で行われたものを関東大震災を経て、内務省復興局に移管したものであることがわかる。そして、本門寺道駅は「大正十四年十月 測図 内務省復興局」のタイミングで記載されたと思われるので、単なる四角で駅が書かれた事情はこのあたりに理由を求めることが可能かもしれない。

 

とはいえ、たった1枚の地図でここまで論じきってしまうのはどうかと思うので、以上は可能性として指摘するにとどめる。確実に言えることは、本門寺道駅は臨時駅として申請・許可されたものだが、これを許可延長することで恒久化することとなり、駅設備も臨時駅から正式なものを求められ、遅くとも昭和元年(1926年)時点では、道路の西側に駅設備が集約された。それは、たとえ仮駅の時には道路の東側に駅設備の一部があったとしても、仮駅でなくなって以降のある時期からは道路の西側に駅があったことは動かしがたく、発行時点から参謀本部陸地測量部地図は本門寺道駅の場所を誤り続けているとなるのである。

 

そして、昭和11年(1936年)に道塚駅に改称し、廃止に至るまで同駅の場所は変わらなかった。同時代資料である「東京横浜電鉄沿革史」では、道塚駅の場所は「蒲田区小林町三二一」とあり、この場所(321番地)は道路の西側であることが特定できる。以上のことから、仮駅の頃ははっきりとはわからないが、昭和初期から本門寺道駅(道塚駅)の場所は参謀本部陸地測量部地図が誤りであり、正しくは道路の西側であると結論づける。そして、その理由は3,000分の1都市計画図の駅の位置、及び「本門寺道」と駅名記載が道路の東側にあったことから、これを流用したと判断したい。

 

©国土地理院

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年4月4日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

東急目蒲線(現 東急多摩川線)の本門寺道(道塚)駅の場所はどこなのか!? 前編のつづきです。

 

「なぜ道路の東側なのか?」

単純な記載ミス。こうしてしまえばそれで終わりだが、誤りにも理由があるだろうと考える私は、次のような理由があるのではないかと考える。

 

開業当初は道路の東側にあったが、途中で西側に移転した情報を得ることができず、そのまま東側に記載され続けた。

実地確認した者が方位を南と北を勘違いし、西側だったものを東側に誤って記載してしまった。

第二版のため、現地確認をせずに関連資料(公官庁提出資料)から類推して記載してしまった。

他地図(逓信省地図や都市計画地図等)を参照した際、参照元資料が誤っていたため、これを引き継いでしまった。

やっぱり担当者の記載ミス。

 

以上、5つの理由を思いつくまま考えてみたが、私が思うのは「当初は東側だった」説と「他地図・資料引用元誤り」説、そしてその両方が混在する説の3つのうちにあると考える。

 

まず、「当初は東側だった」説について。これについて、私は可能性の高い説の一つと考えている。その理由は、本門寺道駅が誕生した経緯を考えれば、そういう可能性もあると思うからだ。本門寺道駅は、目黒蒲田電鉄が目黒線(目黒駅~丸子駅 [現 沼部駅])に続き、蒲田線(丸子駅~蒲田駅)を開業させ、目黒駅~蒲田駅間の直通運転を開始した当初に存在しなかった。もっとも、蒲田線(丸子駅~蒲田駅間は、耕地整理事業が進行中で、開業当初の途中駅はわずか2駅(新田駅[現 武蔵新田駅]と矢口駅 [現 矢口渡駅])しかなく、耕地整理等の進捗状況を見ながら鵜ノ木駅 [現 鵜の木駅]と下丸子駅が開業している。これら両駅は蒲田線建設中から駅開設が予定されていたが、本門寺道駅は予定すらなかった。これが決定的な違いである。

 

しかし、国立公文書館所蔵の資料を紐解いているとき、次のような文書の存在から、蒲田線開業直前には本門寺道駅の計画はあったことは確かなようである。

 

本門寺道仮停留場新設ノ件

大正十二年十月二十七日附監第三二一九号ヲ以テ御認可相蒙リ候弊社線矢口蒲田間ニ来ル十月十二日ヨリ十三日迄池上本門寺会式ニ弊社線ヲ利用スル旅客ノ便ヲ図リ本門寺道(ほんもんじみちとルビ付)仮停留場ヲ新設致候間別紙図面相添ヘ此段及御届候也

大正十四年十月二日

 

これによれば、大正12年(1923年)10月27日(蒲田線竣功検査3日前)に、池上本門寺お会式に合わせ臨時駅(仮停留場)の新設を2日間に限り認可を受けており、これを2年後の大正14年(1925年)になって実行しようということがわかる。つまり、蒲田線開業前に本門寺道駅の計画が存在したこと。そしてそれはお会式の期間のみに限られていたことがわかる。この理屈からすれば、たったの2日間のみの臨時駅であることから、駅設備は相当簡易なものであったことが予想される。当時の鉄道設備法令等に暗い私であるが、それを恐れずに予想することとして、単に石を積み上げた程度の簡易ホームであったのではないか(駅本屋や改札設備もない)、と。

 

そして、このわずか2日間だけの臨時駅(仮駅)だったはずの本門寺道駅は、お会式の終わった後もそのまま仮営業を続けることになる。既定事実化そのものの行為であるが、その「言い訳」は、鉄道省にあてた「目電第三七一号 大正十四年十月十一日付 矢口蒲田間ニ仮停留場設置ノ件御届」に、概要として以下のような内容が書かれていた。

 

概要:仮停留場を二日間限りで設置依頼したが、沿線住民の増加によりその利便性に満足させるため、永久に設置としたいが、とりあえずは11月30日まで設置延期してほしい。

 

当時の鉄道会社が当局(鉄道院や鉄道省等)宛に出す文書は、多くが法令・命令等に従えなかったことに対する言い訳に終始しているもの(例えば、池上電気鉄道の建設工事遅延に関するもの)が多く、本件もたったの2日間だけの仮営業を認められた駅に対し、そうならなかった的な言い訳である。それを驚くべきことに営業許可前日(10月11日)に「沿線住民の増加によりその利便性に満足させるため、永久に設置」というのである。まだ、開業していないのに臨時駅を永久化する。何ともすごい理屈であるが、実際、沿線住民の増加というのはあって、矢口駅などは池上電気鉄道の駅から離れていることもあり、かなりの乗降客が集中していたのは確かである。

 

とりあえず、11月30日まで設置延期とした後、翌年5月7日になって本門寺道駅は仮駅から正式な駅へと昇格する。資料がないのでこれも予想するほかないが、臨時駅を正式な駅とする以上は、おそらく駅設備も本設備とする必要があるだろう。ただ、これも当時の鉄道会社が当局に出している文書を見れば、意図的に仮設備として営業させてほしい的なものは多数有り、正式な駅に昇格したからといって設備もそうなったという保証はない。ただ、確実なのは、時代が下って昭和7年(1932年)頃に至るまでの間に、駅本屋や改札口ができていたことは当時の写真資料から明らかである。

 

以上を整理すると、

 

大正12年(1923年)10月27日 池上本門寺お会式への旅客輸送を対象とした仮駅設置認可。

大正12年(1923年)11月1日 丸子駅~蒲田駅間、開業。目黒駅~蒲田駅間、全通。

大正14年(1925年)10月2日 本門寺道仮駅、新設申請。

大正14年(1925年)10月11日 本門寺道仮駅、11月30日まで設置延長申請及び永久化伺い。

大正14年(1925年)10月12日 本門寺道駅開業。

大正15年(1926年)5月7日 本門寺道駅、仮駅から正式な駅へ昇格。

 

という流れになる。

 

以上の流れから明らかなように、本門寺道駅は当初、開業期間を区切った臨時駅として当局に申請・認可を受けた駅だった。名は体を表す、のように本門寺道駅は、池上本門寺のお会式にあわせて臨時に開設されたもので、予定ではお会式終了の10月13日でその営業を終わる予定だったが、追加申請によって仮駅の開業期間が延長され、なし崩し的に恒久的な駅となったのである。この駅の設置は、言うまでもなく池上電気鉄道が池上本門寺お会式で潤っていたのを横目に見ながら、当時は「がら空き電車」を運行していた目黒蒲田電鉄にとって、格好の猟場であったに違いない。そこで、池上電気鉄道が蒲田駅~雪ヶ谷駅間で立ち往生している間に、目黒方面からのお会式需要を掠取しようと考えるのは自明だろう(当時は、池上電気鉄道も目黒蒲田電鉄も目黒駅~蒲田駅間だった)。さらに、目黒方面からだけでなく、蒲田方面からも「本門寺道」といういかにもそれっぽい名称(しかも蒲田駅から1駅目)としたら、勘違いして池上駅よりも本門寺道駅の方が近いとする人々もそれなりにあったに違いない。

(今日的にはちょうど花見の季節であるので、洗足池の桜見物に対し、最寄り駅は東急池上線の洗足池駅なのだが、これを東急目黒線の洗足駅と勘違いしたりする人々と同じ理屈と考えればおわかりだろう。実際、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の争いは、洗足池でもあったのだが…。)

 

こんな状況では、当時、目黒駅や五反田駅までの開業どころか、雪ヶ谷駅までの延長しかできていなかった池上電気鉄道は、目黒蒲田電鉄の本門寺道駅の設置までの経緯に対し、憤懣やるかたない怒りを持ったことは十分に予想されるが、今はこの話題ではないのであえてふれない。

 

さて、本門寺道駅が当初は2日間限りの仮駅として用意されたということは、その駅設備はどうだったのだろう。開業当初から複線ではあったが、すべて電車は単車運転だったこともあって、臨時駅という性格から通常の駅設備よりも劣るものだったことは確実である。さらにいえば、臨時駅の頃は蒲田駅発から(下り電車)のみが停車し、上り電車は停車しなかった(=ホーム等の設備不要)かもしれない。様々なことが考えられるが、大正15年(1926年)の3,000分の1都市計画地図を見ると、次のように掲載されている。

 

 

何と、道路の真ん中に駅を表す四角が書かれている。さすがに道のど真ん中に駅があるのは考えにくいので、どのような時にこのような表記となるかを考えれば、それはこの四角の前後に上り専用、下り専用のホームが分離しているときに使用される表記法であることがわかる。即ち、当該道路を挟んでそれぞれに駅ホームが存在した可能性も指摘できるのである。仮駅の構造がどういったものかはこの地図からではもちろん不明だが、仮にホームのみで駅本屋もなく、改札等もなかったとしたら、このような道路を挟んでの配置も十分に考えられるものとなる。そう、路面電車の駅(停留所)のような構造である。

 

──と、ずいぶんと長くなった。本当は後編としてすべてを書ききるつもりであったが、やはりそう単純な話ではなかったので、次回(今度こそ後編)に続くとします。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年4月3日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

現在の東急多摩川線、蒲田駅~矢口渡駅間にかつて道塚駅(廃止時。開設時は本門寺道駅)という駅があったことは、まったく知らない方はともかくとして、ある程度東急電鉄の歴史をご存じであれば、百も承知のことだろう。その場所も、太平洋戦争末期になって線路が変更になった際、事実上、電車の通らなくなった場所ということで廃(旧)線跡扱いもされているため、比較的よく知られているようである。だが、標題に「駅の場所はどこなのか!?」としたように、実は大きく分けて2つの説があるのである。

 

まずは定番と言うべき、戦前の1万分の1地形図を確認しよう。

 

©国土地理院

 

これは、昭和3年(1928年)修正、昭和5年(1930年)発行の「蒲田」の一部分である。図右側に蒲田駅があり、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の両線が左(西)側に走っており、「ちみじんもんほ」とあるのが本門寺道駅である。ご覧のように、現在の東急多摩川線の線形とは異なり、蒲田駅を出てから南側に大きく迂回し、途中から現在の路線に合一することが確認できる。そう、かつて東急多摩川線はこのような線形であり、今はなき線路部分に本門寺道駅があったのだ。これを見ると、南北に走る道路(これこそが本門寺に通ずる道である)の右側、方位でいえば東側に駅の位置が確認できるが、ある程度詳しい方なら「あれ?」と思われることだろう。

 

不思議なことに、多くの文献では本門寺道駅は、南北を走る道路の西側にあると書かれている。同時代資料においてもこの事実を裏付けるものばかりで、道路の東側となっている資料は、同時代資料で私が確認できているだけであるが、参謀本部陸地測量部(のちの国土地理院)地図のみである。かつて、当Blogにおいて昭和7年(1932年)頃の本門寺道駅の写真を掲載したことがあるが、これも道路の西側に見える(上り下りの配線や影の付き方などから推定)し、決定的証拠である昭和8年(1933年)の航空写真においても、道路の西側であるのは確かである。

 

©国土地理院

 

若干、というかかなり見にくいが、もともと縮尺が小さいので拡大せざるを得ず、解像度が高くないのでこの程度でご容赦いただきたい。写真中央を上下(南北)に貫く道路が本門寺道駅の由来と言っていい、池上本門寺に通ずる道路である。そして、右下から左上に斜めに走っているのが、目黒蒲田電鉄線である。この交点の左側に相対式ホームが確認できるだろう(重ねて言うが見にくい)。これが本門寺道駅である。

 

なお、参考までに同時代資料であるものを示そう。

 

 

これは、大日本職業別明細図のうち、東京府荏原郡蒲田町・池上町・馬込村・六郷村・矢口村に関するもので、昭和元年(1926年)12月に発行されたものである。本門寺道駅が開業したのは大正14年(1925年)10月なので、開業2年後の姿である。ご覧のように、道路パターンなどは正確とは言えないが(商店街を示すのがメインなのでやむを得ないが)、道路の西側に駅が位置しているのがわかるだろう。もう一つ、同時代資料を見てみよう。

 

 

こちらはさらに時代が下って、一帯が東京市に合併し、東京市蒲田区になって以降のものだが、やはり道路の西側に駅が書かれている。この他にも、東京地形社などの発行した地図でも同様に駅の場所は道路の西側に表記されているのだ。

 

では、なぜ参謀本部陸地測量部地図だけが駅の東側となっているのだろうか。まずは理由はともかく、この地図を絶対的に信用している文献等の著者は数多く、この駅の場所を道路の東側に位置づけているのは、唯一の例外といえる参謀本部陸地測量部地図の情報を鵜呑みしてしまった結果と見ていいだろう。現在の国土地理院の地形図にも多くの誤りを見ている私なので、それだけを絶対視することは怖くてできないが、多くの人にとってはやはり官製の地図というだけで信用してしまうのだと思われる。では、なぜ参謀本部陸地測量部地図は当駅を道路の東側としたのだろう?

 

最初に考えなければならないのは、この1万分の1地形図がいつ作られたか、である。これは大正11年(1922年)初版のものが最初で、この地図にはまだ東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄は、まだ産声が上がったばかりで、営業路線は一つも開業していなかった。辛うじて、池上電気鉄道の蒲田駅~池上駅間のみ開業していたが、これは地図に記載されている。つまり、1万分の1地形図の初版では、本門寺道駅が属した目黒蒲田電鉄線は存在せず、よって掲載されていないことがわかる。

 

©国土地理院

 

続いて、第二版は昭和3年(1929年)のもので、本稿の最初に一部分を示したとおりだが、この時点では目黒蒲田電鉄は開業しており、本門寺道駅も既に開業して3年近くを経過していた。ここで初めて1万分の1地形図において「ほんもんじみち」駅が記載されることになるが、駅の位置を示す四角は、道路の東側(右側)に書かれている。ここから廃止に至るまでの間、当該1万分の1地形図はもちろん、この情報を集成した2万5千分の1地形図でも同じように道路の東側となっている。つまり、昭和3年(1929年)第二版で登場して以降、修正されることなく道路の東側に存在し続けたわけである。

 

だが、この情報は他の同時代資料で完全に否定されるのは、これも上に示したとおりである。古くは昭和元年(1926年)時点での商店街地図でも、本門寺道駅の位置は道路の西側に書かれており、どう考えてもこの時点までは駅の位置は道路の西側であることは疑いなく、よって参謀本部陸地測量部地図は誤っていることが確認できる。それでは、最初の疑問である「なぜ東側に記載したのか」という点について考察していこう──、というところで長くなったので、今回はここまで。(たぶん)後編へ続く。

前回、「荏原名勝」地図に見る池上電気鉄道とその周辺として、「荏原名勝」(出版:翠紅園。価格:40銭)に掲載されている「荏原郡交通全図」の全体図とその部分図(池上電気鉄道周辺)を紹介したが、ご意見として世田谷区部分も拡大掲載してほしいという要望を頂戴したので、今回はその部分を掲載する。

 

 

世田谷地域は、池上電気鉄道関連の研究ほどできていないので、突っ込んだ解説などができないのはご容赦願いたい。で、確認してみると、図中央部に今日の東急世田谷線の線路と見られる曲線が描かれているが、まだ未開業である(開業はこの本書出版の翌年)。また、開業したばかりの砧線が書かれているなど、本図は進取性にとんでいたことも確認できる。他には、玉川電気鉄道と京王電気軌道の路線が書かれているが、どちらも主要街道に併設された路面電車である。そういう視点で見ると、今日の東急世田谷線はほとんどが専用軌道というのは、当地域においては画期的な路線だったとも思える。

 

と、いったところで今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年4月1日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

1924年(大正13年)5月、東京府荏原郡の名所・旧跡などを紹介する「荏原名勝」(出版:翠紅園。価格:40銭)という書籍、というよりは小冊子(70ページ程度)が出版され、内容は荏原郡(今日の東京都品川区、目黒区、大田区、世田谷区等)の交通案内を含む、いわば観光ガイドのようなものである。この本に手書きの荏原郡交通全図が掲載されているが、これがなかなかに興味深い内容である。

 

 

ご覧のように、北が上ではなく西が上となっているのは記載上の都合なのかもしれないが、なかなか慣れないと見にくいものである。このうち、池上電気鉄道に関係する部分を拡大すると、

 

 

このようになっており、時代的に蒲田駅から雪ヶ谷駅までの部分開業であった。ここに記載されている駅名は、

  • 蒲田
  • 蓮沼
  • 池上
  • 光明寺
  • 末広
  • 御嶽前
  • 雪ヶ谷

とあり、御嶽前が御嶽山前の誤りだったり、手書き地図なのでやむを得ないが、縮尺等もおかしな部分はあるが、同時代資料としての価値はけっして低くはないだろう。ここに「光明寺」と駅名が記載されているが、光明寺駅の存在を否定する見解を覆す資料の一つとしても価値がある。

 

また、記載されている池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の予定線も興味深い。池上電気鉄道は、大森駅までの本線はもちろん、五反田駅までの予定線と目黒駅までの予定線と2線あり、目黒蒲田電鉄は、大井町駅までの予定線は大岡山駅でなく洗足駅となっている。大正13年(1924年)当時、どのような状況だったと巷間理解されていたこともわかるだろう。正誤の有無は常に気にとどめておく必要はあるが、やはり同時代資料は参考になる。

 

といったところで、4月最初の記事はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年2月27日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

地域歴史に興味を持ちながら、街歩きをされている諸姉諸兄には自明のことと思うが、電柱に貼り付けられているNTTや電力会社の電柱の標板には、その地域の歴史を垣間見ることができる。今回、ご紹介するのはこれだ。

 

 

「田園支」とある。「支」は支線を意味し、「田園」がこの電柱に架線されている支線名を表す。ここは、東京都品川区小山七丁目。この「田園支」は、中原街道口から当地域に至るまで続いており、電話線が中原街道から分岐してここにやってきたことを伺わせる。

 

そして、この「田園」だが、もちろん田園都市に由来する。田園都市株式会社が最初に分譲した洗足田園都市は、まだ調布田園都市(多摩川台)が分譲される前は、唯一の田園都市であったので、単に田園都市と呼称されていた。実際、隣接する碑文谷耕地整理組合の施行図面を見ると、当地域は「田園都市」と記載されており、昭和に入ってからの民間地図においても田園都市経営地と記載されているものも多いので、当時は洗足あるいは田園都市で通用したと思われる。

 

このNTTの「田園支」は田園都市に由来するものであるが、それ以外に当地域において田園都市に因む名が残っていないことに気付く。洗足は駅名として、そして町名として健在だが、田園都市はない。かつては、古い家の表札に「田園都市」と住所を記載したものがあったようだが、現在は見つけることができない。いいところ、住居表示前の町名地番が記載されているものを数件見ることができるだけで、戦前からのものはない。そう思うと、たかが電柱に記載されているものではあるが、地域の歴史を唯一残すものとして貴重なものに見えてしまうのである。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年3月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

新VAIO Z関連の話題を多数取り上げていたため、地域歴史研究の話題が希薄になりつつあるが、ここで一本記事を入れてみることにする。話題は、またも東急池上線。当線の駅名の由来を語るのではなく、駅開設時からの行政地名(住所)を歴史順に示すことで、どういうルールに従って駅名が採用されたのかの一助になればと思う。では、五反田駅から順に示していこう。

 

五反田駅(昭和3年(1928年)6月17日)

 東京府荏原郡大崎町大字下大崎字五反田

 東京府東京市品川区五反田一丁目

 東京都品川区五反田一丁目

 東京都品川区東五反田二丁目

 

大崎広小路駅(昭和2年(1927年)10月9日)

 東京府荏原郡大崎町大字谷山字峯下

 東京府東京市品川区東大崎四丁目

 東京都品川区東大崎四丁目

 東京都品川区大崎四丁目

 

桐ヶ谷駅(昭和2年(1927年)8月28日)

 東京府荏原郡大崎町大字桐ヶ谷字向原

 東京府東京市品川区西大崎一丁目

 東京都品川区西大崎一丁目

(昭和28年(1953年)8月11日 廃止)

 

戸越銀座駅(昭和2年(1927年)8月28日)

 東京府荏原郡荏原町大字戸越字一本杉

 東京府東京市荏原区戸越町

 東京府東京市荏原区西戸越一丁目

 東京都荏原区西戸越一丁目

 東京都品川区西戸越一丁目

 東京都品川区平塚二丁目

 

荏原中延駅(昭和2年(1927年)8月28日)

 東京府荏原郡荏原町大字中延字谷向

 東京府東京市荏原区中延町

 東京府東京市荏原区東中延一丁目

 東京都荏原区東中延一丁目

 東京都品川区東中延一丁目

 東京都品川区中延二丁目

 

旗ヶ岡駅(昭和2年(1927年)8月28日)

 東京府荏原郡荏原町大字中延字四段田

 東京府東京市荏原区中延町

 東京府東京市荏原区西中延三丁目

 東京都荏原区西中延三丁目

 東京都品川区西中延三丁目

(昭和26年(1951年)5月1日 旗の台駅に統合)

旗の台駅(昭和26年(1951年)5月1日 池上線の駅として)

 東京都品川区平塚六丁目

 東京都品川区旗の台二丁目

 

長原駅(昭和2年(1927年)8月28日)

 東京府荏原郡馬込村字長原

 東京府荏原郡馬込町字長原

 東京府荏原郡馬込町大字南千束

 東京府東京市大森区南千束町

 東京都大森区南千束町

 東京都大田区南千束町

 東京都大田区上池台一丁目

 

洗足池駅(昭和2年(1927年)8月28日)

 東京府荏原郡池上町大字池上字千束

 東京府東京市大森区上池上町

 東京都大森区上池上町

 東京都大田区上池上町

 東京都大田区東雪谷一丁目

 

石川駅(昭和2年(1927年)8月28日)

 東京府荏原郡池上町大字雪ヶ谷字石川

石川台駅(昭和3年(1928年)4月13日 改称)

 東京府荏原郡池上町大字雪ヶ谷字石川

 東京府東京市大森区雪ヶ谷町

 東京都大森区雪ヶ谷町

 東京都大田区雪ヶ谷町

 東京都大田区東雪谷二丁目

 

[初代]雪ヶ谷駅(大正12年(1923年)5月4日)

 東京府荏原郡池上村大字雪ヶ谷字長谷(長家)

 東京府荏原郡池上町大字雪ヶ谷字長谷(長家)

(昭和2年(1927年)8月28日 奥沢線開業に伴い移設)

[二代]雪ヶ谷駅(昭和2年(1927年)8月28日)

 東京府荏原郡池上町大字雪ヶ谷字長谷(長家)

 東京府東京市大森区雪ヶ谷町

(昭和13年(1938年)頃、曲線変更に伴い移設)

[三代]雪ヶ谷駅(昭和13年(1938年)頃)

 東京府東京市大森区雪ヶ谷町

 東京都大森区雪ヶ谷町

雪ヶ谷大塚駅(昭和18年(1943年) 改称)

 東京都大森区雪ヶ谷町

 東京都大田区雪ヶ谷町

雪が谷大塚駅(昭和41年(1966年)1月20日 改称)

 東京都大田区雪ヶ谷町

 東京都大田区南雪谷二丁目

 

調布大塚駅(昭和2年(1927年)8月19日)

 東京府荏原郡調布村大字鵜ノ木字大塚

 東京府荏原郡東調布町大字鵜ノ木字大塚

 東京府東京市大森区調布大塚町

(昭和8年(1933年)6月1日 雪ヶ谷駅と統合)

 

御嶽山前駅(大正12年(1923年)5月4日)

 東京府荏原郡調布村大字嶺字入船

 東京府荏原郡東調布町大字嶺字入船

 東京府東京市大森区調布嶺町一丁目

御嶽山駅(昭和8年(1933年)6月1日 改称)

 東京府東京市大森区調布嶺町一丁目

 東京都大森区調布嶺町一丁目

 東京都大田区調布嶺町一丁目

 東京都大田区北嶺町

 

末広駅(大正12年(1923年)5月4日)

 東京府荏原郡調布村大字嶺字末広

 東京府荏原郡調布村大字鵜ノ木字上原

 東京府荏原郡東調布町大字鵜ノ木字上原

東調布駅(昭和3年(1928年)4月13日 改称)

 東京府荏原郡東調布町大字鵜ノ木字上原

 東京府東京市大森区調布鵜ノ木町

久ヶ原駅(昭和11年(1936年)1月1日 改称)

 東京府東京市大森区調布鵜ノ木町

 東京都大森区調布鵜ノ木町

 東京都大田区調布鵜ノ木町

久が原駅(昭和41年(1966年)1月20日 改称)

 東京都大田区調布鵜ノ木町

 東京都大田区南久が原二丁目

 

光明寺駅(大正12年(1923年)5月4日)

 東京府荏原郡調布村大字嶺字横須賀

(昭和2年(1927年)6月 廃止)

 

[初代]慶大グラウンド前駅(大正15年(1926年)8月6日)

 東京府荏原郡池上町大字徳持字池田

(昭和2年(1927年)6月 移設)

[二代]慶大グラウンド前駅(昭和2年(1927年)6月 移設)

 東京府荏原郡調布村大字嶺字横須賀

 東京府荏原郡東調布町大字嶺字横須賀

 東京府東京市大森区調布千鳥町

(昭和11年(1936年)1月1日 移設・改称)

千鳥町駅(昭和11年(1936年)1月1日)

 東京府東京市大森区調布千鳥町

 東京都大森区調布千鳥町

 東京都大田区調布千鳥町

 東京都大田区千鳥一丁目

 

池上駅(大正11年(1922年)10月6日)

 東京府荏原郡池上村大字徳持字沼方

 東京府荏原郡池上町大字徳持字沼方

 東京府東京市大森区池上徳持町

 東京都大森区池上徳持町

 東京都大田区池上徳持町

 東京都大田区池上六丁目

 

蓮沼駅(大正11年(1922年)10月6日)

 東京府荏原郡矢口村大字小林字宮田

 東京府荏原郡矢口町大字小林字宮田

 東京府東京市蒲田区小林町

 東京都蒲田区小林町

 東京都大田区小林町

 東京都大田区西蒲田七丁目

 

蒲田駅(大正11年(1922年)10月6日)

 東京府荏原郡蒲田村大字御園字前田

 東京府荏原郡蒲田町大字御園字前田

 東京府東京市蒲田区御園町

 東京府東京市蒲田区御園二丁目

 東京都蒲田区御園二丁目

 東京都大田区御園二丁目

 東京都大田区西蒲田七丁目

 

開業当時の池上電気鉄道蒲田駅

 

以上を確認する前提として、地方自治体の変遷の歴史も合わせておくと以下のとおり。

  • 1932年(昭和7年)10月1日 東京府荏原郡などが東京市に合併。新たに20区が誕生。
  • 1943年(昭和18年)7月1日 東京都制により、東京府と東京市は合併し、東京都となる。
  • 1947年(昭和22年)3月15日 東京都35区から22区に再編成。

また、これら変遷の知見については、私の調査に基づくもので構成されているため、一般に公表されている書籍等との整合性がとられていないものもある(光明寺駅と慶大グラウンド前駅との併存など)。これらについては、おいおい当Blog記事内で明らかにしていくつもりであるが、現時点での見解に基づいてと言うことをお断りしておく。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

大井町線開業時、目黒蒲田電鉄は大岡山駅の次を東洗足駅とし、鉄道用地提供に多大な便宜を図った千束耕地整理組合の事業用地内に駅を用意しなかった。これに反発した地元は、目黒蒲田電鉄との交渉の結果、池月駅の開業を見た。これは、駅の立地条件としてけっして好条件ではなかったが、目黒蒲田電鉄にとっては「洗足池への最寄り駅」という新たな手駒を意味し、「池月」駅という名称が先行他線にあるという理由で改名を迫られた際、これを「洗足公園」駅とした。まだ、都市計画公園的な扱いになっていなかった洗足池だが、風致地区指定などが検討されていた昭和初期において「洗足公園」と改名したことで、真っ向から池上電気鉄道の「洗足池」駅と対立することになったのである。ただ、部外者からすれば、目黒蒲田電鉄本線(目蒲線)の「洗足」駅、目黒蒲田電鉄大井町線の「洗足公園」駅と「東洗足」駅、池上電気鉄道の「洗足池」駅と、駅名に「洗足」を持つ駅が半径1km未満に4駅も集中することとなり、紛らわしいことこの上なかった。

(実際、当時の文献においても「路線錯綜しておりあらかじめどの駅から行くかを確認してから出かけよ」というような表記を見ることが多い。これが、池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に併合されて以降においてもそうなのだから、それ以前は言を待たないだろう。)

 

 

だが、池上電気鉄道は、洗足池においてはさすがに会社設立時よりここを旅客輸送の主力と位置づけていただけあって、目黒蒲田電鉄よりも先行していた。特に洗足池畔と最寄りの小池においては、権利関係をすべて池上電気鉄道が掌握していたのである(他文献には、当初より目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄)が掌握していたとする表記が多数見られるが、池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄の軍門に下って以降の状態を、当初までさかのぼっていたとする誤解に基づくものと予想される)。通常、道路や河川等は国有地となっているものだが、それを利用する「権利」(使用権の類等)はそうでない場合があったり、あるいはそれ自身に地番が付いていたり(地番がある=暗黙の国有地ではない)など、原則と実態は合わないのは世の習いである。洗足池(及び池畔)においても、権利関係はかなり複雑だったようだが、それはともかく池上電気鉄道の勢力圏となっていたのだ。ここに、「洗足公園」と名乗る駅が誕生したことは、池上電気鉄道としては黙ってみているわけにはいかなかっただろう。

 

しかし、実際にこの対決は、池上電気鉄道の洗足池駅が勝者だったようである。まず、蒲田方面からの乗客を考えれば、池上電気鉄道は乗り換え無しで駅前が洗足池だったのに対し、目黒蒲田電鉄は大岡山駅で大井町線に乗り換え洗足公園駅まで行くか、さもなくば大岡山駅から歩いて15分程度ということで、文句なし池上電気鉄道の勝利。山手線方面からも、五反田駅まで直結した池上電気鉄道が有利となる。ただ、目黒蒲田電鉄は大井町線を擁したことで、鉄道ネットワークが充実していたことから、池上電気鉄道と接続させにくい沿線では目黒蒲田電鉄の方が有利だった。とはいえ、これは例外的なものだったと考える。

 

 

こうして洗足池を挟んだ対決によって、洗足池の名は東京近郊の遊覧地の一つとして賑わうようになるが、このタイミングでもう一つ、新たに「洗足」を冠する地名が登場する。それが道々橋千束こと、のちの東京市大森区池上洗足町である。ここは、洗足池南側に位置する旧道々橋村の飛び地で、明治22年(1889年)の町村合併により東京府荏原郡池上村大字道々橋字千束となっていたところで、耕地整理により字界・字名変更によって大字道々橋千束と名乗っていた。それが昭和7年(1932年)の東京市合併に伴い、道々橋千束から池上洗足町としたのである。道々橋という名前は、旧本村だった周辺を道々橋町としたので完全に消滅したわけではなかったが、耕地整理により新興住民が移住し多数となった結果が、道々橋の名を捨て千束を洗足とした理由であった。当時、洗足池駅が開業していたので千束を洗足とすることには、何ら躊躇するものではなかったのだろう。

 

こうして、洗足池周辺には、東京市目黒区洗足、東京市大森区北千束町、東京市大森区南千束町、東京市大森区池上洗足町と類似の町名が4つ並ぶことになるが、いずれも出自を異とする(南・北千束町は同一)ことは、このシリーズにおいて既にふれたとおりである。興味深いのは、最も歴史の浅い池上洗足町は住居表示制度の荒波にもまれ、既に消滅したことである。新興町名が生き残りにくいことは、この場所に近い東京都目黒区において富士見台、宮ヶ丘でも証明されている(現在はどちらも東京都目黒区南。ただどちらもバス停名に残されている[宮ヶ丘→宮が丘])。

 

洗足池を挟んだ目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道の戦いは、洗足公園駅と改称されてからわずか5年後に唐突に終結する。理由は池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に統制・合併されたからであるが、この結果を受け、洗足公園駅は北千束駅と改称されるが、駅名や地名の紛らわしさは今日まで続いているとおりである。ただ、前編の最初にもふれたように、だからといって安易に改称していいものではないだろう。洗足と千束、どちらにも歴史があって、それはもう80年以上に及んでいるのである。

 

というわけで、洗足なのか千束なのかは、この結論をもって今回で終了。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月4日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

田園都市経営協会(田園都市株式会社の前身)が田園都市計画推進のために事業用地買収の話を水面下で進めている最中、起こった予期しないアクシデントとは土地価格の暴騰である。無論、投機目的によってのもので、理由は池上電気鉄道建設計画に伴うものだった。しかし、この地域には明治後期より武蔵電気鉄道の建設計画があり、この進捗状況は図面以上のものから進まずに頓挫しており、これよりもさらに信用力が乏しいとされていた池上電気鉄道は、武蔵電気鉄道以上に進捗状況が危ぶまれていた。にもかかわらず、なぜこの計画によって投機目的として動いたのだろうか。

 

答えは、田園都市経営協会が池上電気鉄道を活用する、という話が伝わったためである。池上電気鉄道単体では、地図に線を引いた以上の価値を見出すことはできないが、これに田園都市経営協会(=渋沢栄一)がバックにつけばどうなるか? 豊富な資金力に信用力、渋沢栄一という金看板はこれに勝るものはなく、一気に池上電気鉄道が現実味を帯びてくるというわけである。これにより、池上電気鉄道の計画地と田園都市の計画地が重なる周辺の土地価格は一気に跳ね上がり、駅ができる・できないに関わりなく土地価格が上昇すると考えるのは自明だろう。これにより、洗足池畔周辺として計画していた用地買収計画は大きく後退してしまう。そのためか、すぐに田園都市経営協会側は池上電気鉄道との関係を解消するアナウンスを行ったり、のちに荏原電気鉄道による鉄道計画を特許申請する際、意図的にのちの洗足地区をはずすような計画とするなど、苦心の跡が伺える方策を打ち出した。だが、坪2円50銭程度で買収することが困難(10円以上に跳ね上がっていた)となって、田園都市株式会社が成立して以降に方針を大転換。洗足池畔での用地買収を諦め、田園都市計画の中心地を今日の田園調布地域に移したのである。これは、土地の価格が安いだけでなく、多摩川を見下ろす景勝地だったという理由が大きい。

 

田園都市側から誘惑してきたのに、いきなりはしごを外される格好になった池上電気鉄道は、建設資金の目処がまったく立たなくなり、武蔵電気鉄道よりも劣る扱い然となって、苦し紛れの遅延・延期申請を繰り返すだけとなった。普通ならこれであっさり特許(免許)取り消しによって消滅する運命となるのだが、救いの手が差し伸べられる。それは、城東電気軌道株で味をしめた貴族院議員 高柳淳之助であった。が、この話は本スジではないので省略し、とにもかくにも池上電気鉄道が消滅の道を歩むのではなく、投資用に集めた豊富な資金力を背景(実際に使ったのは一部かもしれないが)に用地買収と鉄道建設に邁進するのである。

 

だが、洗足池を舞台として対決するのは、もう少し先のこととなった。それは、池上電気鉄道の鉄道敷設がなかなか進まなかったからで、大正11年(1922年)に支線の池上~蒲田間を開業後、翌大正12年(1923年)に池上~雪ヶ谷間の部分開業がなって以降、建設工事は頓挫する。後発だったはずの目黒蒲田電鉄は、目黒~蒲田間を先行開業させることに成功し、池上電気鉄道の免許線と完全に始点と終点が同じになってしまうためである。池上電気鉄道は、建設資金の問題も合わせ、なかなか目黒駅に代わる接続駅を設定できず、正式に五反田駅を接続駅としたのは、雪ヶ谷駅まで開業してから約3年も経過していた。その後、高柳体制から川崎貯蓄銀行系の体制に代わってからは、資金の問題も当面はなくなり、昭和2年(1927年)に複線化工事を完了、雪ヶ谷駅~桐ヶ谷駅、次いで大崎広小路駅まで延伸し、翌昭和3年(1928年)に五反田駅まで接続することとなったのである。この間、洗足池駅は雪ヶ谷~桐ヶ谷間の部分開業時に誕生した。

 

洗足池駅は、池上電気鉄道が大森~目黒間の建設計画を立てて以降、常に洗足池近辺を通過するよう計画され、事業目論見においても洗足池への遊覧は池上本門寺参詣に次ぐ大きなものだったことから、駅の開設は当然だが、駅名については最初からすんなり「洗足池」駅となったわけではなかった。少なくとも建設計画が具体化し、駅(停留所)の図面においては「洗足池前」駅が仮駅名として予定されていた。だが、結果は「洗足池」駅となり、「~前」とはならなかった。理由については、残念ながら定かではない。ただ、当時は既に田園都市株式会社・目黒蒲田電鉄の洗足ブランドは金看板となっていたこと、さらに「~前」という局所的な言い方よりもそのものずばりの名前とした方がいいという判断が働いていたかもしれない。

 

一方、池上電気鉄道の洗足池駅開設とほぼ同時期に、ライバルである目黒蒲田電鉄は支線となる大井町線を開業した。大岡山駅から分岐し、大井町駅に至るこの路線は、出自としては田園都市株式会社の初期計画線に由来する古い計画であったが、目黒~蒲田間を優先させたのは、池上電気鉄道に先んずることが戦略上有効だったからに他ならない。しかし、この結果、洗足駅からほぼ東に直線ルートで結ぶ計画は、住宅が建て込んだことで現実的でなくなり、新たなルートを検討しなければならなくなった。ここで目を付けたのが、荏原郡馬込村の千束地域が設立した千束耕地整理組合が施行する耕地整理事業だった。耕地整理組合を相手にすれば、鉄道用地買収は複雑な権利問題の話をほとんど行わなくて済むだけでなく、施工後(実際には施工中からも)はすぐに鉄道建設工事が行えるということも大きなメリットとなった。同じような話を平塚第二耕地整理組合とも話をつけ、最も困難といわれていた大井町駅の接続についても、鉄道省用地との等価交換という奥の手を使い、大岡山~大井町間の線形は確定した。このとき、千束耕地整理組合は鉄道用地を提供したのだから組合地の中に駅を作るものと思っていたが、結果は大岡山駅の次は東洗足駅となって、組合地には鉄の道だけが作られた。これは駅間が短いことが最大の理由だが、目黒蒲田電鉄も駅を作る以上、自身の分譲地に有利なような駅配置とするのは当然であった。

(下図参照。昭和2年8月、池上電鉄が桐ヶ谷駅まで延長した直後をイメージした路線図。)

 

 

だが、話が違うと地元は反発し、結果は大井町線開業の翌年、大岡山~東洗足のほぼ中間に新駅を設置することが決まり、駅名はこれも地元要望で池月と決まった。地元千束地域としてはせっかくできた駅ということで、ここが将来商店街になるだろう、洗足池への観光拠点となるだろうという期待を込めて、当初は簡単な駅設備しかなかったものに対し、交通の邪魔となる駅前踏切下を掘り下げ、鉄道を高架としてアクセスしやすくするなど、駅前通りを整備した。だが、今日見れば明らかなように商店街と呼ぶべきものができたかは微妙で、間違いなく東急大井町線各駅の中で、もっとも繁栄していない駅前と言える。これは、目黒蒲田電鉄が当初より駅を設けなかったことから「必然」ともいえるものだが、それでも開業当初は目黒蒲田電鉄にとって重要な意味を持っていた。それは、目黒蒲田電鉄にとって洗足池への最寄り駅という位置づけにあった。

 

次回に続く。