【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年1月30日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回(その3)の続きです。

 

前回までの三回にわたって、現在の東京都渋谷区における旧渋谷町の領域について戦前まで確認してきたわけだが、大きな変更は1928年(昭和3年)に施行された大字名及び境界変更であることに疑いはない。一方、戦後においては何といっても住居表示制度に伴う改変が最大級のものだが、渋谷区全体で見れば必ずしもそうとはならない。旧渋谷町が東京市に合併される前に、事実上の大字・小字廃止(位置づけとしては大字新設だが実態は市における町丁と同じ扱い)に踏み切ったように、住居表示制度開始前に地番変更にかかわる町域変更が成されているためである。

 

渋谷区において顕著なのは、旧代々幡町のうち幡ヶ谷地域で、1960年代はじめ(昭和30年代中盤)頃に大きな地番変更が実施された。これは市街化が遅れていた(人口稠密云々でなく区画整理的な意味合い)ことから、渋谷区成立(東京市合併)時においても明治初期の地番を事実上そのまま継承していたため、戦時中の米軍機空襲による市街地破壊を経て旧来の地番では対応が困難となったことによる(国税・地方税徴収権の問題に関わる)。

 

旧渋谷町では、既に昭和初期に地番整理は行われていたが、決定的に幡ヶ谷地域と異なるのは、きっかけは戦時中の米軍機による空襲であることに変わりはないが、その後に区画整理事業を行ったためである。旧渋谷町の区域において、最も早くそれが完了したのは恵比寿駅周辺地区であり、これにより地番整理を行う必要性が整ったからにほかならない。

 

では、ここで恵比寿駅周辺地区のみに特化した変遷を跡づけてみよう。

 

 

市街地化の進展に伴い、街区制と街路制を併用した1928年(昭和3年)の改正により、次々と新しい名称が登場するが、恵比寿駅に因む名称はまだ恵比寿通一丁目及び二丁目のみに過ぎない。そして、1932年(昭和7年)に東京市に合併し、東京市渋谷区となった際、原則大字名に「町」が尾記され、○○通とあるものはそのまま大字から町になった。

 

 

これが先にふれたような空襲による市街地壊滅とその後の区画整理事業によって、大きく道路パターンなども改められたことなどにより、恵比寿駅周辺の町名及び地番変更が施行される。この時は旧渋谷町大字由来の町名の一部のみが実施されたことで、消滅あるいは一部分・大部分の町域が残る不格好な形となった。

 

桃色が新設町、濃い緑色が新設町域に一部あるいは大部分が奪われた町、薄い緑色が変更なしと色分けした。注目は、やはり新設された町名にすべて「恵比寿」が冠せられたことになる。そして消滅したのは、向山町、公会堂通、丹後町、下通四丁目(これにより下通は1,2,3,5と変則的な丁目となる)の4町を数えた。

 

1960年(昭和35年)、このように新たに恵比寿を冠した町が誕生したが、そのわずか2年後に住居表示に関する法律が施行されたことで、この区域はもう一度町名変更の洗礼を受けることになる。

 

 

これは現在まで継承されている住居表示実施後のものであるが、恵比寿西と恵比寿南は概ね残区域を併呑する形になっているが、恵比寿東は消滅してしまっていることである。その間、わずか6年ほど。恵比寿東一丁目は、JR山手線以東の区域を併せ単に恵比寿一~四丁目を構成する一部となったが、恵比寿東二丁目は何と新たに誕生した「東」という面白くも何ともない無味乾燥な町の一部となってしまった。恵比寿東二丁目に属した地域の方は、わずか6年程の間に、丹後町→恵比寿東二丁目→東三丁目と変わった上、住所を表す番号も、丹後町の地番→恵比寿東二丁目の新地番→東三丁目の住居表示番号と異動したわけで、いやはや難儀だっただろう事をお察しする。

 

さて、渋谷区恵比寿駅周辺地域の町名・町界変更について見てきたが、この地域を特徴付けるのはやはり「恵比寿」地名の拡大だろう。1927年(昭和2年)まで「恵比寿」と付く公式地名はまったくなかったにもかかわらず、今では恵比寿駅を中心として、恵比寿一~四丁目、恵比寿南一~三丁目、恵比寿西一~二丁目と大きな広がりを見せている。一方、一時的に恵比寿(恵比寿東二丁目)と名乗ったものの、今では恵比寿を名乗らなくなった一部地域もあり、必ずしも拡大一辺倒ではなかったことも特徴と言えば特徴だろうか。

 

現代と1927年(昭和2年)とを比べると、恵比寿駅周辺の地名は壊滅状態に近いと認識しつつ、次回に続きます。

 

【再掲時追記:ここでは次回に続きますとしていますが、次回がなさそうだと判明しています(苦笑)。このあたりはいずれ、地図含めて改訂版を出したいと考えています。】

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年1月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回(その2)の続きです。

 

 

まずは旧渋谷町(現在の東京都渋谷区の南半分ほど)の大字単位での図から、もう一度確認しよう。

これを小字単位まで示したものが、以下の図である。なお、小字が存在しない渋谷宮益町、麻布広尾町、渋谷下広尾町、渋谷上広尾町、渋谷広尾町、渋谷神原町についてはグレー表示とし、小字と混同しないようにしている。

 

 

先の大字単位での図と同じ色にする手もあったが、あえて変更した。上(北側)から大字上渋谷、大字中渋谷、大字下渋谷の字(小字)を示してある。ご覧のように、大字単位では重複した字名はないが、渋谷町という単位にすると、

  • 豊沢 → 上渋谷、中渋谷、下渋谷
  • 宇田川 → 上渋谷、中渋谷
  • 長谷戸 → 中渋谷、下渋谷

とまったく同名のものがあるほか、似たものとして大和田と大和田下、並木と並木前、伊達跡と伊達前、豊沢と豊分、一連の大字を含む広尾系など混乱を助長するような名称も多い。また、これら字(小字)は原則、明治初期の地租改正時に確定された境界をそのまま継承するものが多く、都市化の進展に伴い、道路整備等が進む中で犬牙錯綜状態となっていた。このような中、字名・境界変更が行われたのである。

 

 

もう一度、第一回目に示した昭和3年(1928年)1月1日改正時の図を先ほどの図と比べると、旧大字あるいは小字をそのまま継承したもの、あるいは関連づけ(意味を継承)したもの、まったく新規に命名されたものとに分けることができるが、命名に時代的なものの他に普遍的なものがあることがわかる。そして、消えた(継承されなかった)ものについて見ても、なるほどと思わせるものも少なくない。

 

概ね、大字上渋谷の区域においては、

 

消えたもの

  • 大原
  • 渋谷
  • 前耕地
  • 豊沢
  • 町裏

残ったもの

  • 竹下
  • 宇田川

新たに命名したもの

  • 神園
  • 神南
  • 北谷
  • 神宮通一丁目・二丁目
  • 宮下

となっている。新たに命名されたものでは、大正期に営まれた明治神宮の存在が大きい。これに由来する神園や神南、神宮通、宮下は、従前の小字名を消し去ったというわけだ。続いて、大字中渋谷の区域においては、

 

消えたもの

  • 深町
  • 堀ノ内
  • 長谷戸
  • 豊沢
  • 道玄坂

残ったもの

  • 神山
  • 大山
  • 大向(ただし大向通として)
  • 宇田川
  • 神泉谷(ただし神泉として)
  • 大和田(大和田下を含む)
  • 南平台(正確にいうと小字は南平臺で大字から南平台となる)
  • 鉢山
  • 並木(並木前を含む)

新たに命名したもの

  • 松濤
  • 栄通一丁目・二丁目
  • 上通一丁目~四丁目
  • 円山
  • 金王
  • 桜ヶ丘
  • 鶯谷

こちらは他大字との重複名が解消されたことに加え、意外なことに道玄坂が消滅していることに注目である。道玄坂は現在、道玄坂一丁目・二丁目として復活を果たしているが、この時には路線(街路)式の命名ルールにつぶされた形となった。また、新たに命名されたものとして松濤、円山、桜ヶ丘、鶯谷があるが、これらは分譲地(住宅地)として冠せられた名前であり、これを渋谷町は採用したことになる。金王については金王八幡からだが、昭和初期という時代背景を考えれば堀ノ内から変更されても不思議はない。

 

続いて、大字下渋谷の区域においては、

 

消えたもの

  • 伊勢山
  • 伊藤前
  • 四反町(ただし丹後と発音は似ている)
  • 田子免(ただし田毎として似た発音で残る)
  • 槍ヶ崎
  • 広尾向
  • 居村(ただし永住として意味は残る)
  • 新地
  • 笄開谷
  • 広尾耕地
  • 町田
  • 欠塚(ただし景丘として意味というか発音として似たものが採用)

残ったもの

  • 猿楽
  • 代官山
  • 長谷戸
  • 向山
  • 常盤松(ただし常磐松として)
  • 氷川裏(ただし氷川として)
  • 羽根沢(ただし羽沢として)
  • 伊達跡及び伊達前(ただし伊達としてひとまとめ)

新たに命名したもの

  • 中通一丁目~三丁目
  • 八幡通一丁目~三丁目
  • 下通一丁目~五丁目
  • 恵比寿通一丁目・二丁目
  • 公会堂通
  • 若木
  • 上智
  • 永住(居村に因む)
  • 宮代
  • 田毎(田子免に因む)
  • 丹後(四反町に因む)
  • 衆楽
  • 景丘(欠塚に因む)
  • 山下
  • 新橋

ということで、こちらは継承されたものもあるが、かなり消されたものも多いとなる。全般に田舎くさい(田畑臭がする)字名が消されているが、この傾向は今に通ずるものであり、渋谷町の町民が元から渋谷町(村)に居住していない外来の人たち(いわゆる新興住民)が大勢を占めていたことによるものだろう。

 

では、上・中・下渋谷に属さない他大字について見ていこう。

 

消えた大字名

  • 青山北町七丁目(ただし青に由来した青葉となる。ほか梨本宮邸に因み美竹となる)
  • 青山南町七丁目(ただし青に由来した緑岡となる)
  • 渋谷宮益町
  • 麻布広尾町(ただし元広尾として広尾は残る)
  • 渋谷神原町
  • 渋谷下広尾町
  • 渋谷上広尾町
  • 渋谷広尾町

青山系を除くと、ほとんどが細かい(小さい)大字であるので、上・中・下渋谷につくられた大字に吸収される格好となっている。また、青山系についても隣接する東京市赤坂区に青山北町及び南町があるため、紛らわしいと言うことで新たな大字名を付けられた。

 

以上、昭和2年(1927年)から昭和3年(1928年)にかけての概要を述べた。次回は、これに続く大きな変化となる住居表示前に行われた戦後の地番・町名変更についてふれていく予定としつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年1月16日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「東京都渋谷区、町名変遷の歴史──昭和時代編」の続きです。

さて、前回は昭和初期に行われた旧渋谷町の大字・小字整理後の図と現在の住居表示制度実施後の図とで比較を試みたが、実際にはこの間にもう一つ(細かいことをいえば二つ)町名異動がある。それは戦後、地番整理という形で恵比寿駅周辺地域が町名及び地番変更が成されたものである(そしてもう一つは東京市合併時)。これについてはいずれふれる予定とし、今回は昭和2年(1927年)までの大字・小字整理前の状況から見ていこう。

 

 

まずは大字単位のみで示した。こうしたのは、小字を混在させてしまうと大字単位で見にくくなるという理由に尽きる。ご覧いただけば自明のように、大字といっても上・中・下渋谷、青山系、そして残る細かいものとではその領域の大小の差が著しい。これは大字成立時の歴史(経緯)によるものだが、ここから明らかにしていこう。

 

最初に渋谷と付く、上渋谷、中渋谷、下渋谷はいずれも明治22年(1889年)に渋谷村(渋谷町の前身)が成立した際、旧制度の村がそのまま継承されたものである(一部合併を含む)。そして、青山北町七丁目と青山南町七丁目は、唐突に七丁目から始まっている(というか七丁目しかない)ことから推察されるように、これらは渋谷町とは別に一丁目から六丁目まである。それは隣接する東京市赤坂区(現在の東京都港区の一部)に属しており、東京市成立前(明治初期)に誕生したものが東京市15区が成立した際、一丁目から六丁目までが東京市赤坂区、七丁目のみ東京市から外れてしまったためである。

 

このほかの細かい大字、渋谷宮益町、麻布広尾町、渋谷下広尾町、渋谷上広尾町、渋谷広尾町、渋谷神原町も上・中・下渋谷村とは歴史を異にしているが、それは次回の「東京都渋谷区、町名変遷の歴史──昭和時代編」シリーズでふれることとし、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年1月3日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

新年最初の記事(感想のような物を除く)は、東京都渋谷区を構成する旧渋谷町(1932年=昭和7年に東京市に合併)における町名(地名)変遷の大きな「軛」の一つとなる1928年(昭和3年)に成立した大字名(町名、地名)が戦後の住居表示によってどう変化したかを見ていきたい。旧渋谷町については、当blogでも「東京都渋谷区に「町」(ちょう)と読む町名が多い理由」とか「渋谷区神南は、いつから「じんなん」と呼ぶようになった?」で採り上げてきているが、以上の記事を踏まえてのものである。

 

まずは、旧渋谷町について簡単に概要をふれておく。旧渋谷町は町制施行前は渋谷村であり、その誕生は我が国のほとんどの町村と同じく1889年(明治22年)に成立(当時の人口は約6千人)。人口増により1909年(明治42年)に町制施行(当時の人口は約3万5千人)。明治末期から大正期にかけて人口増は続き、大正末期には人口15万人を超え、町村のうち第一位であったのはもちろん全国の市を含めての順位も30位あたりに位置するほどであった。しかも、町域は現在の渋谷区の約半分(イメージとして現在の渋谷区から原宿駅以南が旧渋谷町)であり、人口密度という点でも全国屈指のものがあったのである。

 

こういった情勢の中、旧渋谷町は自ら水道事業を興すなど、積極的に町民のための事業を推進し、その中の一つが「大字整理事業」だったのである。村時代の複雑犬牙錯綜する大字・小字境界や飛び地番を整理し、近代的なものとして効率的な行政や町民活動の便を資すことが目指された。事業は大正後期に検討が始まり、大正末期には事業が進められ、年号が変わる頃には東京府や国に対して「案」が提出され、1927年(昭和2年)に双方から許認可がおり、晴れて年明けの1928年(昭和3年)1月1日に施行された。

 

では、その時の街区を示した旧渋谷町の図を以下に示そう。

 

 

旧渋谷町の大字・小字整理事業に特徴的なのは、いわゆる街路割(路線式)と街区割(街廓式)の二つが混合していることに尽きる。街路割を採用しているのは、

  • 上通一~四丁目(かみどおり)
  • 中通一~三丁目(なかどおり)
  • 下通一~五丁目(しもどおり)
  • 神宮通一、二丁目(じんぐうどおり)
  • 大向通(おおむかいどおり)
  • 栄通一、二丁目(さかえどおり)
  • 八幡通一~三丁目(はちまんどおり)
  • 公会堂通(こうかいどうどおり)
  • 恵比寿通一、二丁目(えびすどおり)
  • の23大字(丁目一つで一つの大字を構成)。残る以下の43大字、
  • 竹下(たけした)
  • 神園(かみぞの)
  • 神南(かんなみ)
  • 北谷(きたや)
  • 宇田川(うだがわ)
  • 神山(かみやま)
  • 松濤(しょうとう)
  • 大山(おおやま)
  • 円山(まるやま)
  • 神泉(しんせん)
  • 青葉(あおば)
  • 美竹(みたけ)
  • 宮下(みやした)
  • 金王(こんのう)
  • 並木(なみき)
  • 大和田(おおわだ)
  • 桜丘(さくらがおか)
  • 南平台(なんぺいだい)
  • 鶯谷(うぐいすだに)
  • 鉢山(はちやま)
  • 猿楽(さるがく)
  • 田毎(たごと)
  • 丹後(たんご)
  • 代官山(だいかんやま)
  • 衆楽(しゅうらく)
  • 長谷戸(ながやと)
  • 緑岡(みどりがおか)
  • 常磐松(ときわまつ)
  • 氷川(ひかわ)
  • 若木(わかき)
  • 羽沢(はねざわ)
  • 宮代(みやしろ)
  • 上智(あげち)
  • 永住(ながすみ)
  • 豊分(とよわけ)
  • 元広尾(もとひろお)
  • 原(はら)
  • 向山(むこうやま)
  • 山下(やました)
  • 新橋(しんばし)
  • 豊沢(とよさわ)
  • 景丘(かげおか)
  • 伊達(だて)

が街区割となる(なお、図中では緑ヶ岡と桜ヶ丘に「ヶ」を入れてあるのは誤植ではなく、意図的に入れている。理由は…(以下略))。街路割と街区割を混在させた弊害としては、街路割同士または街区割同士の境界は妥当性がある(当時、大字整理を行った最大の理由=建前として複雑怪奇な境界線をあげていた)が、街路割と街区割との境界は道路など明確なもので区切られず、家屋と商店といったようにかなり曖昧な線引きが成されたために、複雑怪奇な境界線を新たに生んでしまったからに他ならない(作図に時間がかかったのもこれに尽きる)。

 

本来なら、旧渋谷町の大字・小字整理前の図を載せて比較するのが適当だが、時間がないので割愛(後日作成予定)。旧字名を新大字名として継承(部分的なものを含む)したのは、

  • 大向通(おおむかいどおり)
  • 竹下(たけした)
  • 宇田川(うだがわ)
  • 神山(かみやま)
  • 大山(おおやま)
  • 神泉(しんせん)
  • 並木(なみき)
  • 大和田(おおわだ)
  • 南平台(なんぺいだい)
  • 鉢山(はちやま)
  • 猿楽(さるがく)
  • 代官山(だいかんやま)
  • 長谷戸(ながやと)
  • 常磐松(ときわまつ)
  • 氷川(ひかわ)
  • 羽沢(はねざわ)
  • 豊分(とよわけ)
  • 元広尾(もとひろお)
  • 向山(むこうやま)
  • 豊沢(とよさわ)
  • 伊達(だて)

の21大字と全66大字の三分の一(丁目の重複を除けば52大字中21大字と約四割)が旧字名を残したことになる。途中、1932年(昭和7年)に念願の東京市となった際、大字名すべてに「町」字(読み方はすべて「ちょう」)を付し、これが戦後の住居表示制度によってこのように変わった。

 

 

旧渋谷町の外形のまま、渋谷区の町域を当てはめているので、図上側(北側の旧代々幡町や旧千駄ヶ谷町との境界)がうまくフィットしない点はご容赦願いたい。図を比較すると、すべてが街区割を採用したこともあるが、新設された名称が消滅してしまったものも少なくない。途中から住居表示のルール変更が変わり、この結果として代官山町、南平台町など丁目が付かない単独町が起立し得たが、そうでなければ渋谷駅東側や恵比寿駅周辺のような面白くも何ともない町名に塗り替えられた可能性も否定できない。(2024年3月23日追加注:上図にある道玄坂一丁目と同二丁目の位置が逆になっています。コメントでご指摘いただきありがとうございます。いつかはお約束できませんが、クリーンナップした上で修正地図を作成しますので、今暫くお待ちください。)

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年11月1日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

その当時は当たり前だと思っていることが、時代を経ることで当たり前でなくなり、いつしかその由来すら失われていく。若い頃は、いちいちそんなことを言ったって変わるものは変わるのだし、忘れ去られるものはそういう流れの中にあるのだから気に留めることもない。そんなことを思っていたのは、所詮、その時代に愛着がないからである。自分の体験(体感)したものが風化していくのは、やはりどこか寂しいものだ。で、今回はタイトルどおりで東京都渋谷区神南といえば、NHK(日本放送協会)があるところであり、インターネットが普及していない頃は、NHKがご意見募集として当たり前のように連絡先を「とうきょうとしぶやくじんなん~」とアナウンサーが喋っていた(今はあまり聞かない)。神南は「じんなん」と発音し、これは渋谷区が昭和45年(1970年)に住居表示を実施した際にも「じんなん」と読むとしているので、これはこれでまったく正当である。だが、しかし──。

 

 

今より遡ること、83年前。昭和2年(1927年)11月12日、東京府は豊多摩郡渋谷町に対し、「町大字名改称及区域変更並小字名廃止ノ件」を許可した。これをもって渋谷町は、従来の大字である上渋谷、中渋谷、下渋谷等を廃して、新たに66大字を起立したのである(施行は昭和3年1月1日)。形の上では大字だが、事実上は市と同等の町丁名の起立であった。この66大字の一つに「神南」があり、命名理由は「明治神宮ノ南方ニ当ルヲ以テ、神南ト為ス」として、読み方は「カンナミ」とした。なお、東京都渋谷区が発行する渋谷区史やこれを参照したと思われる渋谷区ホームページの地名の由来コーナーには、

  • 昭和3年に、前耕地、豊沢、宇田川、深町の一部などが合併して「神南町」となりました。

と神南の説明が付されているがこれは誤りで、「神南町」となったのは昭和7年(1932年)10月1日、渋谷町が東京市に合併して東京市渋谷区となってからである。昭和3年(1928年)1月から昭和7年(1932年)9月末日と、わずか4年9か月ではあったが、この間は「神南町」でなく「神南」が正しい。

 

そして、このページには「神南」を説明する最後に興味深いことが記されている。

  • 戦後からは、「じんなん」と発音されています。

そうなのだ。私が不思議に思ったのは、渋谷町の字名地番改正に関する資料には、しっかりと「カンナミ」と読み仮名が振られているにもかかわらず、なぜこれが継承されずに「ジンナン」となったのだろうかということだったが、むしろ一般的には「ジンナン」でなく「カンナミ」であったことが不思議に写るようである。さらに、神南町が住居表示制度によって神南一~二丁目になってから「ジンナン」と読まれた(変わった)のではなく、それ以前から「ジンナン」と呼ばれていたのは、神南一~二丁目が成立した昭和45年(1970年)よりも前にNHKが昭和40年(1965年)に神南町に移転した際、既に「ジンナン」と呼称していたからである。

 

そして、さらに以前。太平洋戦争敗戦後、進駐してきた米軍が代々木練兵場跡に建設したワシントンハイツは、その一部が渋谷区神南町の地にかかっており、この時にアドレス(住所)として「JINNAN」と表記するものがあったことから、確かに渋谷区のホームページにあるように「戦後から」、それも早い時期に「ジンナン」と変更されていたのである。

 

さてさて、そこまで確認できると続いては、それが戦前にまで遡るものかそうでないのかという点であるが、残念ながらそこまでは確認できていない。渋谷区ホームページを信用してもいいのかもしれないが、「神南町」を昭和3年からとしている時点で鵜呑みはできない。戦後からだとする理由は、最もらしいものとして「明治神宮」に由来する「カンナミ」読みは新時代に相応しくないとして忌み嫌われ「ジンナン」をあてたとする説や、ワシントンハイツのアドレス(住所)として相応しくないので「JINNAN」と表記(呼称)した説。どちらも戦前・戦後の激変からしてあり得る話だと思うが、明治政府が江戸を東京とした際、「トウケイ」がいつしか「トウキョウ」となったように、戦前のある時期から「カンナミ」でなく「ジンナン」と読むようになったと私は考えている(証拠はないが)。なぜなら、明治神宮は「メイジジングウ」であるし、表参道に面するあたりを神宮前、「ジングウマエ」と読むのだから、渋谷町で決めた神南、渋谷区になってからの神南町を「カンナミ」でなく「ジンナン」と読んでしまっても不思議はない。俗称として「ジンナン」と戦前からあったのではないかな、と思うのである。

 

とはいえ、こんなことを立証するのはほとんど不可能だ。その当時、その時代に生きていた人たちにとっては当たり前だったものだろう。読み方というものは。だが、それがどう読まれていたかは、後の時代の人にはわからない。そんなことを11月の最初の日に考えてみたのだった。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年11月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、日本経済新聞Webに掲載されている「大手町は「まち」か「ちょう」か 読みで分かる出身地 東京ふしぎ探検隊(13)」の最後の方にふれられている、この件について。

「『角川日本地名大辞典』によると、近くにあった鶯橋にちなんだ名前で、1932(昭和7)年に町名となったらしい。渋谷駅から徒歩圏にありながら、落ち着いた雰囲気の住宅街となっている。渋谷区に聞いたところ、渋谷区内の町名はほとんど「ちょう」だとか。比較的新しい地名が多いようだ。」

ここだけ取り上げてしまうと文脈から「?」となるところもあるので、できれば引用先をすべてご覧戴いた方がいいかと思うが、端的にいえば渋谷区の町名の成立した歴史を踏まえれば、こんな今ひとつな結論(誤りだとは言わない)にならないことは断言できよう。

 

まず、ダメなのが「角川日本地名大辞典」(明記されていないがおそらく東京都 編を指す)を引用元としていること。大変残念なことだが、昭和40~50年代に編纂された(この時期に多いのは住居表示制度によって次々と旧町名が葬り去られたことが大きい)この手の地域歴史書籍は今ひとつなものが多く、誤りが大変に多い(解釈云々ではなく事実誤認が多い)。シリーズ(都道府県毎に刊行)によってばらつきがあり、すべてを見ていないので何とも言えないが、間違いなく東京都編は誤りが目につく。では、早速この項を確認してみよう。

「角川日本地名大辞典 東京都」113ページ

うぐいすだにまち 鶯谷町 <渋谷区>

〔近代〕昭和3年~現在の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字猿楽、大字中渋谷字並木前・長谷戸の各一部で渋谷町の大字として成立。地名は区域内の細流に架かっていた鶯橋にちなむ。昭和7年渋谷区の町名となる。同45年猿楽町・八幡通2丁目の各一部を編入、またごく一部を南平台町・鉢山町・桜丘町に分離編入し、現行の鶯谷町となる。

いきなり読みが間違っている、というのはあるがそれ以外はほとんど誤っていないぞ(笑)。ほとんど、としたのは昭和3年に鶯谷町となったのではなく、当初は鶯谷であり、東京市編入の際に鶯谷町となったからである。で、まず気に入らないのは「1932(昭和7)年に町名となったらしい」というところ。をいをい、「らしい」とはどういうことよ…ってところだが、要するに『角川日本地名大辞典』からは読み取ることができなかったということだろう。記者が今ひとつ理解できなかったと予想する箇所は、おそらく昭和3年(1928年)に大字名・町名として成立したとしながら、昭和7年に渋谷区の町名となったという点かと思うが、これは次のように理解すればよい。

  • 昭和3年(1928年)1月1日…東京府豊多摩郡渋谷町(とうきょうふとよたまぐんしぶやまち)、大字名改称及び区域変更施行。鶯谷(うぐいすだに)起立。当区域は、東京府豊多摩郡渋谷町大字鶯谷(とうきょうふとよたまぐんしぶやまちおおあざうぐいすだに)と呼称。ただし、通称上は大字を省略(渋谷町鶯谷○○番地と表記)。
  • 昭和7年(1932年)10月1日…東京府豊多摩郡渋谷町は東京市に編入され、隣接する同郡代々幡町、同郡千駄ヶ谷町と合併。東京府東京市渋谷区(とうきょうふとうきょうししぶやく)の一部となる。これにより、当区域は東京府東京市渋谷区鶯谷町となる(公式に大字は外れ、町が付記)。

要するに鶯谷成立時は、市制町村制での郡部の町村における大字という位置づけであった。それが東京市編入にあたり、区域はそのまま継承されたが、町村における大字から市(区)における町(町村制における町ではない)に移行したのである。ただ、公式には町村制における大字ではあったものの、当時の渋谷町は日本最大の人口を抱える町、それどころか全国都市101市中19位の八幡市と20位の新潟市との間(大正末期)であり、郡部の町村というレベルではなかった。つまり、昭和3年の大字名改称及び区域変更は、旧態依然とした農村時代の大字・小字領域では不便きわまりないものに対して行われたのであり、大字という形をとっただけの事実上の市における町の起立にほかならなかったのである。

 

1928(昭和3)年の東京府豊多摩郡渋谷町の町名図

 

こういう経緯から、もう一度「角川日本地名大辞典」の鶯谷町の項目を読み直してみれば、あのように記された意味が理解できるだろう。わかっていれば「らしい」とはならないはずだが、まぁ一見さんの記者にはそこまで理解して記事を書けとは言えない(笑)。

 

さて、ここまで書いてくれば渋谷区内に「町」(ちょう)と読むものが多い理由も見えてくる。そう、旧渋谷町の区域は昭和3年時点で新たに起立した大字(事実上の市の町)に由来するものがいくつか残っており(残念ながらすべてではない。恵比寿地域などは全滅)、これらはすべて渋谷区成立時に大字名に「町」が付記され、これを「ちょう」と読むのである(例外は○○通となっていた大字はそのまま継承)。理由は自明で、町(まち)とは渋谷町(しぶやまち)のような町村制の町を言うことから(地元は馴染んでいたから)、旧大字に付記した町を「まち」と読まず「ちょう」とした。つまり、町村制における「町」(まち)と市における「町」(ちょう)と呼称を呼び分けたというわけである。

 

このように地域の歴史というのは、なかなか一般化(普遍化)などできはしない。何かと共通項を見つけて大括りしたい気持ちはわからないではないが、それではその地域の歴史を理解できない、誤った解釈となってしまうだろう。そんなことをこの記事に対して思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年2月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回のタイトルに「続・」と付けてみたが、素材が同じだけで「町」の読み方云々ではなく、それ以外に気づいた点を徒然と記していこうという試み。

 

まず、昭和40年(1965年)という時代は住居表示制度が始まって2年程度が経過したほどで、多くの地域ではその途についたばかりのところがほとんどだった(東京都荒川区のようにモデル地区となったところは別)。東京都渋谷区も同様で、住居表示制度を実施していたのはわずかに松濤一丁目、松濤二丁目、神山町、大山町、上原一丁目、上原二丁目、上原三丁目、富ヶ谷一丁目、富ヶ谷二丁目だけであり(ただし、いずれも昭和38年(1963年)7月1日と早い時期に実施されている。なお、住居表示制度において単独町(=丁目が存在しない)や町と付く名は政省令で認めていなかったが、渋谷区は早くも神山町と大山町でこれをやぶっている。誰が言い出したか知らないが板橋区相生町が丁目なし、町付きの元祖という説が吹聴されているが、相生町の成立及び住居表示は昭和38年11月1日であるので、神山町や大山町よりも4か月遅れなのである)、他は昭和7年(1932年)渋谷区成立時の町名、地番を引き継いだものか、昭和30年代に地番変更等で町名や地番が変更したものであった。

 

昭和30年代に町名・地番変更が成されたのは、

  • 恵比寿東(えびすひがし)
  • 恵比寿西(えびすにし)
  • 恵比寿南(えびすみなみ)
  • 本町(ほんちょう)
  • 幡ヶ谷(はたがや)
  • 笹塚(ささずか)
  • 代々木(よよぎ)
  • 初台(はつだい)
  • 元代々木町(もとよよぎちょう)
  • 西原(にしはら)
  • 千駄ヶ谷(せんだがや)

で、恵比寿地域については「東京都渋谷区、町名変遷の歴史──昭和時代編その4」でふれたので、残る地域を確認すると、いずれも旧代々幡町に属し、本町、幡ヶ谷、笹塚は大半が旧代々幡町大字幡ヶ谷に属した。言い換えれば、幡ヶ谷地域は渋谷区成立時、旧渋谷町エリアと異なり旧大字・小字のまま町名変更だけ行った地域であるとなる。旧代々幡町大字幡ヶ谷は、渋谷区成立時に幡ヶ谷本町(はたがやほんちょう)一丁目・二丁目・三丁目、幡ヶ谷原町(はたがやはらちょう)、幡ヶ谷中町(はたがやなかちょう)、幡ヶ谷笹塚町(はたがやささづかちょう)となったが、これが町名・地番整理で、

  • 幡ヶ谷本町(はたがやほんちょう)→ 本町(ほんちょう)
  • 幡ヶ谷笹塚町(はたがやささづかちょう)→ 笹塚(ささづか)※ささずかでないと考えるのでこう表記した。
  • 幡ヶ谷原町(はたがやはらちょう)+幡ヶ谷中町(はたがやなかちょう)→ 幡ヶ谷(はたがや)

だいたいこのようになった。このうち、本町(ほんちょう)は幡ヶ谷本町(はたがやほんちょう)に由来するので、本町(ほんちょう)と読ませたのだが、隣接する中野区に本町(ほんちょう)を先取りされ(渋谷区本町は昭和35年成立、幡ヶ谷本町から通算すれば昭和7年成立だが、住居表示は昭和43年1月1日。中野区本町は複数の町の合併で本町通という昭和初期の名から採用したが、本町としては昭和42年6月1日住居表示により成立)、隣接区かつ隣接地に同じ町名は許されないとなったので住居表示の際、やむなく本町(ほんちょう)から本町(ほんまち)へと読み方を変えたのである。

 

そして、やはり気になるのは「神南町(かんなみちょう)」とあるところで、これについては以前「渋谷区神南は、いつから「じんなん」と呼ぶようになった?」という記事で採り上げたように、戦後からは「神南」を「かんなみ」でなく「じんなん」と読むようになったはず。だが、昭和40年という時点で渋谷区政概要に「かんなみちょう」とふりがながあるということは、やはり「かんなみ」とこの時点でも読まれていたのだろうか?という疑問が出てくる。公式には「かんなみ」で俗称として「じんなん」。それが住居表示で神南が誕生したときに「じんなん」と公式に読むようにしたのか…。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年2月22日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

公式資料であったとしても、それだけを鵜呑みしてはならない。古くはIntel社の8080マニュアルであったり、最近では東京急行50年史であったり…と。とどのつまり、公式とはいってもいわゆる中の人や執筆委託を受けた人が詳しい人でなかったなら、その内容は推して知るべし。で、今回採り上げるのは、昭和時代の渋谷区の町名について調べる中、参考にしようとした昭和40年版の渋谷区政概要である。と、前振りはこのくらいにして、現物を確認しよう。

 

 

町名一覧と称する表で、全部で2ページにわたり、町名、読み方などが記載されている。上に示したのは1ページ目で書き写すと、

  • 恵比寿通(えびすどおり)
  • 恵比寿東(えびすひがし)
  • 恵比寿西(えびすにし)
  • 恵比寿南(えびすみなみ)
  • 下通(しもどおり)
  • 中通(なかどおり)
  • 八幡通(はちまんどおり)
  • 上通(かみどおり)
  • 栄通(さかえどおり)
  • 大向通(おおむかいどおり)
  • 神宮通(じんぐうどおり)
  • 伊達町(だてまち)
  • 景丘町(かげおかちょう)
  • 原町(はらまち)
  • 長谷戸町(ながやとちょう)
  • 山下町(やましたちょう)
  • 新橋町(しんばしまち)
  • 豊沢町(とよざわちょう)
  • 元広尾町(もとひろおちょう)
  • 宮代町(みやしろちょう)
  • 豊分町(とよわけちょう)
  • 永住町(ながずみちょう)
  • 上智町(あげちまち)
  • 衆楽町(しゅうらくちょう)
  • 代官山町(だいかんやまちょう)
  • 田毎町(たごとちょう)
  • 氷川町(ひかわちょう)
  • 若木町(わかぎちょう)
  • 羽沢町(はねざわちょう)
  • 常磐松町(ときわまつちょう)
  • 緑岡町(みどりがおかちょう)
  • 金王町(こんのうちょう)
  • 並木町(なみきちょう)
  • 猿楽町(さるがくちょう)
  • 鉢山町(はちやまちょう)
  • 鶯谷町(うぐいすだにまち)

さてさて、ここで当blogをそれなりにご覧いただいている方は「あれ?」と思われることだろう。約三か月前に「東京都渋谷区に「町」(ちょう)と読む町名が多い理由」という記事で示したように、歴史的経緯で渋谷区には「町」を「ちょう」と読む町名が多いのだ(旧渋谷町のエリアはすべて「ちょう」と読む)。だが、上に示したうち「町」を「まち」と読ませるものは、

  • 伊達町(だてまち)
  • 原町(はらまち)
  • 新橋町(しんばしまち)
  • 上智町(あげちまち)
  • 鶯谷町(うぐいすだにまち)

と5つもある。これらはいずれも旧渋谷町に属するので、昭和40年版渋谷区政概要に掲載の内容がすべて正しければ私も再考しなくてはならなくなる。と、議論を進める前に残りのもう1ページを示しておこう。

 

 

若干下が欠けてしまったが、欠けた部分も含め以下に補完すると──、

  • 桜丘町(さくらがおかちょう)
  • 南平台町(なんぺいだいまち)
  • 大和田町(おおわだちょう)
  • 美竹町(みたけちょう)
  • 青葉町(あおばちょう)
  • 宮下町(みやしたちょう)
  • 北谷町(きたやちょう)
  • 宇田川町(うだがわちょう)
  • 円山町(まるやまちょう)
  • 神泉町(しんせんちょう)
  • 松濤(しょうとう)
  • 神山町(かみやまちょう)
  • 神南町(かんなみちょう)
  • 神園町(かみぞのちょう)
  • 竹下町(たけしたちょう)
  • 本町(ほんちょう)
  • 幡ヶ谷(はたがや)
  • 笹塚(ささずか)
  • 代々木山谷町(よよぎさんやちょう)
  • 代々木(よよぎ)
  • 初台(はつだい)
  • 元代々木町(もとよよぎちょう)
  • 西原(にしはら)
  • 大山町(おおやまちょう)
  • 上原(うえはら)
  • 富ヶ谷(とみがや)
  • 代々木深町(よよぎふかまち)
  • 代々木外輪町(よよぎそとわまち)
  • 隠田(おんでん)
  • 原宿(はらじゅく)
  • 千駄ヶ谷(せんだがや)
  • 千駄ヶ谷大谷戸町(せんだがやおおやとちょう)

とあり、こちらも「町」を「まち」と読ませるものを列挙すると、

  • 南平台町(なんぺいだいまち)
  • 代々木深町(よよぎふかまち)
  • 代々木外輪町(よよぎそとわまち)

と3つあるが、こちらは先ほどと異なり、旧渋谷町のエリアに属するものは南平台町のみである。よって、旧渋谷町のエリアで「町」を「まち」と読ませるものは合わせて、

  • 伊達町(だてまち)
  • 原町(はらまち)
  • 新橋町(しんばしまち)
  • 上智町(あげちまち)
  • 鶯谷町(うぐいすだにまち)
  • 南平台町(なんぺいだいまち)

の6つとなる。では、この6町が昭和40年渋谷区政概要が示すように「まち」と読むのが正しいのか。少なくとも、現在の住居表示でも同じ町名が踏襲された鶯谷町と南平台町は、どちらも「ちょう」と読むようになっている。その他の4町についても、昭和7年(1932年)渋谷区が成立した際に、旧渋谷町エリアの大字は「~通」となっているもの以外はすべて大字名の後に「町」を付し、すべて「ちょう」と読ませたことから、正しくはすべて「ちょう」と読むはずである。

 

しかし、東京の読みが江戸から改名された直後はトウケイと読ませるとしたものが、いつしかトウキョウ(トウキャウ)となったように、読みとはうつろいやすいものである。したがって「まち」と読ませることが完全に誤りであるとは言いがたい面もある。なので、すべて誤りだと断言しないでおくが、これを鵜呑みするわけにもいかないとしつつ、今回はここまで。

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 

さて、このBlogに移行して初めての新年を迎えました。2025年9月25日に開設してから、練習というかリハビリを兼ねて毎日更新を心懸けていますが、何とか続いているようです。何やかんやで前のBlogは、終わる数年前から年一更新(くらい)という体たらくだったので、過去記事再掲が多いにしても順調に進んでいると思っています。

 

 

2025年(旧年)は、夏に大きな転機があり、その後に前Blogシステムの廃止というのが重なって、まさに心機一転という年頭となりました。改めて、人生は有限であり、また健康を維持して愉しく生活できるのは、さらに短いということも実感しました。とはいいつつも、深刻に考え込んでも、それこそ時間の浪費でしかありませんので、今まで通り、いやそれ以上に愉しんでいくとしつつ、年頭の話はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年3月16日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

東京横浜電鉄(武蔵電気鉄道)が田園都市株式会社及び目黒蒲田電鉄の統制下に入って、田園都市事業を開始することになるが、その中でも大きな分譲地開発が菊名分譲地である。

 

 

この菊名分譲地は、もちろん菊名駅あってこそ。菊名駅は、1926年(大正15年)2月14日に東京横浜電鉄神奈川線の開業と同日に誕生した。現在のJR横浜線の菊名駅は、これに遅れること約半年後の1926年(大正15年)9月1日に開業。翌年には、地図上に見える両社線をわたる菊名連絡線もつくられた。

 

この地図は昭和初期のものだが、現在も街区は基本的に変わっていないので、中心部に移転に応じなかった家屋があったことで分譲地の道路パターンが不揃いであることが確認できよう。

 

と、今回も簡単だがここまで。