【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年2月25日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】
これは、1936年(昭和11年)当時の航空写真に洗足田園都市エリア(ただし、一期及び二期のエリアに限定)を色づけしたもので、これに赤い点線として区境界線を加えている。現行では、目黒区、品川区、大田区の区界であるが、1936年当時でいえば目黒区、荏原区、大森区の区界となる。洗足田園都市が分譲開始されたのは、いわゆる図面販売として1922年(大正11年)6月スタートし、鉄道及び宅地の土木工事は概ねその翌年(1923年)までに終えていること。関東大震災当時(1923年9月)には40戸程度あったことを踏まえると、約14年程度でここまで宅地化が進んだことに驚かされる。
無論、関東大震災は東京の郊外化に拍車をかけたのは間違いないが、それを踏まえても──だ。一部に空地はあるが、この建物の建て込み具合は市街地化したといって過言ではない。こうしてみるとわかるが、当初は洗足田園都市第一期エリアのみに住宅が点在する程度だった景観が、関東大震災を経て周辺も一気に宅地化が進んだわけで、第一期エリアの宅地の広さ・家屋の大きさが周辺と比べて格が違うことからもそれがうかがえる。端的に言えば、洗足田園都市が分譲された頃はここまで市街地かが進むと想定されておらず、宅地面積も広めに確保されており、その周辺は市街地化の進展に合わせて貸家などが多く建てられたエリアなどは今と変わらないほどに建て込んでいることも確認できる。
では、エリア以外の部分を確認してみよう。写真右端には耕地整理事業によって流路変更された立会川沿いに、第二延山小学校や昭和大学(医専)が立ち並んでいるが、この様子は現在も変わらない(建物は異なる)。第二延山小学校の左側(西)に見える広大な屋敷森と家屋は、このあたりの大地主である鏑木氏のもの(現在は昭和大学)。右下に中原街道が見えるが、まだ拡幅前(とはいえ大正期に一度拡幅工事が成されていて、江戸期と比べれば広がってはいる)なので、他の道と比べても狭く感ずる(この写真に収まる範囲で最も広い道路は洗足駅前の通り)。昭和医専の特徴的な形(Jの字)をしたビルは、まだ写真には見えないが拡幅後の中原街道に合わせて曲げられたもので、現在は高層ビルとなっていて面影はまったく残っていない。現在の清水台小学校のあるあたりは、その左(西)側にあるのが四皕荘(旧伊藤幸次郎 邸)で現在の香蘭女学校。鏑木邸からこのあたり一帯は大規模な土地利用が目立つ。
そして写真左側に目を転ずると、左斜め下に走る大井町線が見える。北千束駅(当初、池月駅。続いて洗足公園駅となるが、この写真撮影時には北千束駅となっている)の南西には今も変わらぬ場所に赤松小学校がある。この北側(大井町線のガード下あたり)に空地が目立つのは、この周囲と比べて低地にあたるからか、あるいは別の理由かはわからない。
といったところで、今回はここまで。









