【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年2月25日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

 

これは、1936年(昭和11年)当時の航空写真に洗足田園都市エリア(ただし、一期及び二期のエリアに限定)を色づけしたもので、これに赤い点線として区境界線を加えている。現行では、目黒区、品川区、大田区の区界であるが、1936年当時でいえば目黒区、荏原区、大森区の区界となる。洗足田園都市が分譲開始されたのは、いわゆる図面販売として1922年(大正11年)6月スタートし、鉄道及び宅地の土木工事は概ねその翌年(1923年)までに終えていること。関東大震災当時(1923年9月)には40戸程度あったことを踏まえると、約14年程度でここまで宅地化が進んだことに驚かされる。

 

無論、関東大震災は東京の郊外化に拍車をかけたのは間違いないが、それを踏まえても──だ。一部に空地はあるが、この建物の建て込み具合は市街地化したといって過言ではない。こうしてみるとわかるが、当初は洗足田園都市第一期エリアのみに住宅が点在する程度だった景観が、関東大震災を経て周辺も一気に宅地化が進んだわけで、第一期エリアの宅地の広さ・家屋の大きさが周辺と比べて格が違うことからもそれがうかがえる。端的に言えば、洗足田園都市が分譲された頃はここまで市街地かが進むと想定されておらず、宅地面積も広めに確保されており、その周辺は市街地化の進展に合わせて貸家などが多く建てられたエリアなどは今と変わらないほどに建て込んでいることも確認できる。

 

では、エリア以外の部分を確認してみよう。写真右端には耕地整理事業によって流路変更された立会川沿いに、第二延山小学校や昭和大学(医専)が立ち並んでいるが、この様子は現在も変わらない(建物は異なる)。第二延山小学校の左側(西)に見える広大な屋敷森と家屋は、このあたりの大地主である鏑木氏のもの(現在は昭和大学)。右下に中原街道が見えるが、まだ拡幅前(とはいえ大正期に一度拡幅工事が成されていて、江戸期と比べれば広がってはいる)なので、他の道と比べても狭く感ずる(この写真に収まる範囲で最も広い道路は洗足駅前の通り)。昭和医専の特徴的な形(Jの字)をしたビルは、まだ写真には見えないが拡幅後の中原街道に合わせて曲げられたもので、現在は高層ビルとなっていて面影はまったく残っていない。現在の清水台小学校のあるあたりは、その左(西)側にあるのが四皕荘(旧伊藤幸次郎 邸)で現在の香蘭女学校。鏑木邸からこのあたり一帯は大規模な土地利用が目立つ。

 

そして写真左側に目を転ずると、左斜め下に走る大井町線が見える。北千束駅(当初、池月駅。続いて洗足公園駅となるが、この写真撮影時には北千束駅となっている)の南西には今も変わらぬ場所に赤松小学校がある。この北側(大井町線のガード下あたり)に空地が目立つのは、この周囲と比べて低地にあたるからか、あるいは別の理由かはわからない。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年2月26日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

写真が発明されたのは19世紀に入ってからで、飛行機の発明は20世紀に入ってから。つまり、はるか上空からの写真は20世紀に入ってからのものと思いがちだが、それ以前に気球というものがあり、19世紀中にはいわゆる航空写真のようなものは撮影されていた。とはいえ、カメラもフィルムも、ましてや飛行するものすべてを整えるというのはなかなか困難であり、資金豊富な組織でないとなかなか実現できるものではなかった。

 

我が国においても、航空写真(空中撮影)が航空機(飛行機)によって本格的に撮影されるようになるのは、大正年間に入ってもまだまだ(そもそも我が国での動力飛行機による初飛行は1910年(明治43年))で、第一次世界大戦中に飛躍的に飛行機が発展して以降のこと。ようやく昭和初期に参謀本部陸地測量部による地図作成に空中写真併用手法が採用される。

 

そして、昭和7年(1932年)に東京市が周辺町村を合併することが決まった前後、長年続いた町村の歴史を想い、町村史の類が多数出版されるようになるが、これらのうちに当時としては高額だったと思われる航空写真(空中撮影)が載っているものがいくつかある。その一つが現在の東京都目黒区の前身の一つである荏原郡碑衾町が発行した「碑衾町誌」である。そのうちの一枚を洗足田園都市がらみで一部ご紹介しよう。

 

 

碑衾町史に掲載されている複葉機からの撮影。予算的に地図的な撮影は無理だったようで、鳥瞰的な撮影方法によっているが、貴重なものであることに違いはない。もともと白い文字で絵解きはあるが、碑衾町史なので他地域の絵解きはないため、黄色い文字で補完した。黄色い線は、大岡山駅付近までしか記していないが、目黒蒲田電鉄線(目蒲線。現在の東急目黒線)を表している。都市化が進む目蒲線沿線と「碑校」「大岡山校」「八雲校」とある尋常小学校あたりがまったく開発が進んでいない部分とのコントラストが目立つ。いわゆる碑文谷地域は、大正中期に結成され後期までに工事完了した「碑文谷耕地整理組合」が施工した地域と、碑文谷本村というべき地域の中心部の耕地整理未実施地域とが、関東大震災という天災後の発展を大きく左右したのである。

 

ただ残念なことに、肝心の洗足田園都市は複葉機の羽に隠されてしまっているため、駅西北部あたりの様子しかうかがうことができない。しかし、武蔵小山~西小山あたりの住宅密集度と洗足駅周辺のそれと比べれば明らかに異なることは確認できる。

 

ほかに注目ポイントとしては、大岡山駅周辺に見える東京工業大学の建物群。「大岡山駅」と黄色い文字で書いた下に見えるのは、今は住宅地となった大学の建物群である。東工大は、田園都市株式会社(目黒蒲田電鉄)と等価交換を含め、様々な土地売買を行っており、特に昭和初期の異動は激しいものがある。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年2月27日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

航空機による航空写真(空中撮影)がなかった頃の地図作成は、専ら地上での測量がすべてだった。我が国においては、伊能忠敬の精緻な測量による地図が知られるところだが、明治以降もフランス式、そしてドイツ(プロイセン)式の地図作成法が導入され、明治後半からは1万分の1クラスの都市図が作成されるようになる。東京圏においては市内中心部はもちろん、地図の作成範囲にかかる範囲で郊外部分も作図されるようになってきた。洗足田園都市のエリアは、図名「碑文谷」として明治後期から早くも1万分の1地図の作成範囲に入ったため、市街地化される前の農村時代の様子を細かい地図から知ることができる。

 

©国土地理院

 

これは1915年(大正4年)時の洗足田園都市エリアが含まれる1万分の1「碑文谷」地図の右下一部を抜粋したもので、緑色に囲んだ部分が田園都市株式会社によって土地買収され、一人施工の耕地整理組合を立ち上げ、のちに洗足田園都市第一期分譲されるエリアとなる(無論、鉄道用地や発電所用地等も含む)。ご覧のように、まったく家屋のないところを買収したことが地図からわかるが、このエリアの半分以上は雑種地あるいは林地であって、田畑として利用される部分は少なかった。要は、土地買収をし易かったエリアといえるだろう。

 

とはいえ、大正初期はまだまだ先祖伝来の土地をなかなか手放すことは珍しく、都市化の進んでいない地域ではなおさらだった。よって、本来買収する方向として、第一期南側の高台(地図上、中延と書いてある一帯)や37.9という数字が見える三角点から南側(長原、石原と地図に表記されるあたりまで)まで買収予定だったが、ここは買収できなかった。荏原郡平塚村大字中延のエリアは鏑木氏、荏原郡馬込村(千束)のエリアは岸田氏が買収に応じなかったため、部分的な買収のみが進められた(鉄道用地ほか)。

 

歴史にもし(IF)は厳禁だが、あえて洗足田園都市のエリアが実際の2倍以上だったなら、田園調布の存在はなかっただろう。田園調布(多摩川台)は洗足エリアの買収が進まず、その他事業用地を確保するため、荏原郡調布村や荏原郡玉川村から買い増していったからである。また、調布村や玉川村と密接な関係を持つに至ることで、のちの大井町線(計画当初は玉川線、のちに二子玉川線となり、大岡山駅~自由ヶ丘駅間の接続で大井町線に統合)計画への布石となっていったことを慮れば、結果的に洗足エリアの買収計画が頓挫したことが吉と出たとなるわけで、これがどう推移していくことになるかも興味深い。とはいえ、IFをこれ以上考えても仕方のない話ではあるが…。

 

また、買収用地の等高線を見ると、現在も目黒区と品川区の境界である荏原郡碑衾村と荏原郡平塚村の境界が谷になっていることがわかるが(実際は同一境界線ではなく耕地整理によってずらされている)、ここは池ノ谷といって、このエリア唯一の急斜面を持つ場所である。だが、湧水の出る尾根に近いことからわかるように、地盤そのものはそれほど軟弱でなく、宅地造成に苦難を伴う場所がほとんどない。つまり、田園調布エリアと異なり土木工事はそれほど難がないわけで、積極的に図面販売に打って出た理由もこのことから明らかとなる。つまり、宅地造成工事がしやすいことが洗足田園都市の最大の特徴といっていいと考える。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年3月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

東京都目黒区自由が丘。女性を中心に人気の高いエリアである。東急沿線の中でも人気の高いところであるが、この自由が丘もすべては東京横浜電鉄がこの地に鉄道を敷設し、駅(停車場)を開設したことに始まる。今日の東横線が現在のルートとなるまでもドラマがあるのだが、今回はそれにはふれず、開業当初はどうだったのかについて示していきたい。

 

現在の自由が丘駅は、昭和2年(1927年)8月28日の丸子多摩川(現在の多摩川)駅~渋谷駅間開通当時に「九品仏」駅として開業した。場所は、東京府荏原郡碑衾町大字衾字谷権現前2867番地。現在の東京都目黒区自由が丘一丁目11番と同二丁目28番の間に位置し、今の東横線のホームよりも北寄りにあった。無論、当初は高架ではなく地上駅であった。

 

 

これは町制施行した翌年にあたる昭和3年(1928年)に碑衾町が発行した地図の一部、現在の自由が丘付近を抜き出したものだが、図右側を走るのが東京横浜電鉄線(現在の東急東横線)で、黒塗りされている箇所が図にも記されているように「九品仏」駅の位置となっている。街路パターンは現在とほとんど変わらないように見えるが、これは衾西部耕地整理組合による耕地整理事業によって区画整理がされたばかり。現在と違うのは、図中下方に点線とピンクの斜線で塗られた目黒蒲田電鉄二子玉川線・大井線(現在の東急大井町線)が敷設されることにより、現在の自由が丘駅東側が変更になったところである。

 

そして二子玉川線と交叉するところに白抜きの長方形が見えるが、これが両線の乗換駅として「九品仏」駅が移転予定する場所。もちろん、両線を平面交叉とするわけにはいかないので、二子玉川線建設工事と平行して東京横浜電鉄線の高架工事が施工された。そして、二子玉川線に新駅「九品仏」駅ができる(計画時はより九品仏に近い駅であるため「九品仏前」だった)ことから、乗換駅となる移設後の駅名は大字名を採って「衾」駅とする予定だったものを「自由ヶ丘」駅とし、昭和4年(1929年)10月22日、移設・駅名変更したのである。(なお、地名としての「自由ヶ丘」は昭和7年(1932年)になって碑衾町の大字として成立した。)

 

「九品仏」駅は、わずか2年程の駅名であり、かつ現在の場所になかったわけだが、昭和3年(1928年)というタイミングで地元碑衾町が地図を作成してくれたおかげ(タイミング的に町制施行記念だったのかも)で、貴重な資料として残ったといえる。そんなことを思いながら、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年3月26日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

約二年ほど前、東急池上線の千鳥町駅の前身と位置づけられる慶大グラウンド前駅と、同じく千鳥町駅の場所にあった光明寺駅について、「定説」では光明寺駅が伝説扱いで、光明寺駅の後継として慶大グラウンド前駅、そして千鳥町駅に改名して現在に至るとされている。だが、実際は池上電気鉄道が大正12年(1923年)5月4日に池上~雪ヶ谷間を単線開業させた際、光明寺駅が中間駅の一つとして開業し、その後、荏原郡池上町と同郡調布村の境界付近に慶大グラウンド前駅が開業。光明寺駅と共に併存し、慶大グラウンド前駅が光明寺駅寄りに移設したことを契機として、昭和4年(1929年)までに光明寺駅が廃止される流れとなることを関係資料等から解明した。しかし、肝心の地図資料でこれを示すものがなく(併存期間が約3年あまりと短く、かつ陸地測量部の地図発行時の隙間であったため)、果たして本当にそうだったのかという懸念が拭いきれないでいた。

 

探せば何とかなるものである。というよりは、別資料を漁っている際に偶然見つけたといった方が適切か。何にしてもついに慶大グラウンド前駅と光明寺駅の両方が掲載されている地図資料を見つけたのである。それは、「復興局編纂 東京都市計画道路網図(昭和三年三月十六日印刷、昭和三年三月二十日)」。かなり大きい地図なので、その一部のみを以下に示そう。

 

 

ベース地図は大正後期のものと思われるが、都市計画図の一環ということもあって、計画道路はもちろんだが、既存の道路や鉄道網も2万分の1以上のものにしては正確性が高い。そして、今回の話題である慶大グラウンド前駅は地図上「グランド前」とあり、その左上には「光明寺」とある。単に「光明寺」を消し忘れただけだという見方もできなくはないが、発行時期が昭和3年(1928年)3月とあることから、おそらくどんなに早くても昭和2年(1927年)までの情報は網羅されていることを慮れば、この地図資料が両駅併存の裏付けの一つと数えて良さそうだと考える。ちなみに、慶大グラウンド前駅が当初設置された場所は南北に貫く計画道路上に位置していたため(地図上、千本松とある「松」の字の下あたり)、この計画道路を避けるよう、地図上に書かれた位置に昭和2年(1927年)異動した。よって、この位置での両駅併存はわずか1~2年の間で、それがこの地図作成時期と重なるわけである。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年3月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

年度末らしく忙しくなってまいりました。と同時に、新入社員を迎える準備や退職される大先輩らを贈るなど、仕事以外でも…と。そんなわけで今回は、タイトルに示したように武蔵電気鉄道(田園都市株式会社及び目黒蒲田電鉄の統制下に入った後、東京横浜電鉄と改名。その後、田園都市株式会社を合併した目黒蒲田電鉄に合併され、目黒蒲田電鉄が新たに改名して東京横浜電鉄となり、さらに紆余曲折あって現在の東京急行電鉄となる)が計画した蒲田支線の計画図(部分)を示す。

 

 

元の図面が大きいので、図に書かれている字を読める程度の大きさにするにはどうしても部分図となってしまうが、これで何とか読めるだろうか。右に見えるのが現在のJR東海道本線(及び京浜東北線)で、そこから武蔵電気鉄道本線につながる支線が蒲田支線となる。この図に記載されている駅を確認すれば、

  • 蒲田線起点(調布停車場)
  • 下沼部停車場
  • 嶺停車場
  • 池上停車場
  • 蒲田停車場

と途中駅は3駅。似たようなルートを通る、今の東急多摩川線や東急池上線よりも駅間は長い。この蒲田支線が、現在の東急多摩川線の前身である東急目蒲線、目黒蒲田電鉄線の一部分を成すことになり、五島慶太が武蔵電気鉄道から目黒蒲田電鉄に引き抜かれる(引き抜いてもらえる)際、手土産として目黒蒲田電鉄が得たわけである。

 

といったところで、簡単にここまで。

さて、ついに2025年もあと一週間となりました。

そしてクリスマスイブです。そして寒い雨です。そして朝も昼も夜も仕事ですが(苦笑)。

この時期、子どもが幼ければ、それなりにやることは多いのですが、成人となればほぼ関係がなくなります。家人と慎ましく過ごすのがここ数年の流れですが、美味しいものを食べるということだけは欠かさず行ってはいます。(雨ですが)

 

 

とはいえ、寒い雨なので、若い頃はともかく積極的に外に出ようとも思わず、わざわざ混んでいるレストランとか、受難な鳥たちの肉を食すのも何なので、クリスマスイブとは言いながら、お祭り気分にはならない一日となりそうです。そんなボヤキで嘆きつつ、現実を直視しつつ、そして仕事をこなしながら、今回はここまで。メリークリスマス。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年5月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

さて、今回の池上電気鉄道の興亡は、会社組織として成立し目黒蒲田電鉄に吸収合併されるまでのおよそ17年間の取締役及び監査役を、等幅時系列として眺めていこうという内容である。

 

 

赤い帯が取締役社長、紫色の帯が専務取締役、黄緑の帯が常務取締役、橙色の帯が取締役、青い帯が監査役を表している。そして、概ね2年以上その役職にあった者は氏名を記し、例外として目黒蒲田電鉄の統制下にあった期間の役職者は名字のみを記した。それ以外は氏名を記していないが、わずか1か月程度の在職期間であっても帯を示すことで、その時期にどれだけの取締役及び監査役がいたかを確認できるようにした。

 

さて、一目でわかると思うが、池上電気鉄道は大きく分けて4つの時代に区分することができる。最初は専務取締役八木恒蔵の時代、続いて取締役社長高柳淳之助の時代、続いて専務取締役後藤国彦(後藤國彦)の時代、最後が専務取締役五島慶太、即ち目黒蒲田電鉄統制時代となる。この4つの時代は、経営者の特徴がそのままその政策に結びついており、会社の方針は自明ではあるが経営者が決めるものだと納得できる。大雑把に言えば、

  • 八木時代 = 金策に汲々とし、事業は遅々として進まず時間を浪費していた時代。
  • 高柳時代 = 金策はできたが、真っ当な鉄道経営ではなく怪しい利殖に利用された不遇の時代。
  • 後藤時代 = 川崎財閥をバックに積極策を行うも、ことごとく目黒蒲田電鉄と衝突した時代。
  • 五島時代 = 目黒蒲田電鉄の一員となるべく、目蒲から見て不要不急とされた事業を整理された時代。

となるだろう。

 

では、一覧表に氏名を記した面々のうち、主な人物の簡単なプロフィールを語っておこう。まず、武永常太郎は池上電気鉄道の開業前の図面をご覧になった方なら見覚えのある名前であるはずだ。なぜなら、彼は主任技術者であり、各種計画図などの図面に署名してあるからである。

 

続いて、石黒景文、藤倉桂助は荏原土地株式会社関係者であり、池上電気鉄道沿線の土地をおさえていた。よって、池上電気鉄道の成否は荏原土地にとって死活問題であったのである。

 

続いて高柳時代に登場する、小林兵庫、河野仙吉、武井勝利、大越信雄は通称高柳四天王と呼ばれ、高柳の主催する金融会社の関係者でもあった。事実上どころか、経営陣まで高柳一派に池上電気鉄道は牛耳られていたことが確認できる。

 

続く後藤時代においては、高橋熊三、上原鹿造、高梨博司は川崎財閥関係者。野村孝は高柳社長の後を受けた越山体制(事実上、東京電灯の支配)からの生き残りで、目黒蒲田電鉄の統制を受ける直前まで在任した。益田元亮は主任技術者(東京電灯出身。越山体制では専務取締役)。おそろしいことに高柳体制下では、図面をまともに見たり書くことができる取締役がいなかったのだ。益田は、目黒蒲田電鉄統制後も取締役として残留を認められていたが、その翌月に自ら辞任した。立石知満は、荏原郡大崎町下大崎を地盤とする府会議員である。

 

以上、池上電気鉄道の経営者たちを時系列で眺めてみた。会社は経営者によって決する。当たり前のことではあるが、池上電気鉄道株式会社においてもそうだったのだ。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年5月16日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、歴史全体を俯瞰するのではなく、ある一点(一時期)のみに着目した。それはタイトルにも記したように、池上電気鉄道が最も輝いていた時期──いや最も将来性のある時期に、経済専門紙である「中外商業新報(現 日本経済新聞)」(大正15年3月13日付)でとり上げられた記事をご紹介しよう。

 

 

読みにくいので、現代仮名遣いと漢字を現在のものに置き換え、かつ適当なところで読点等追加し、改行したものを以下に引用して示す。

高柳金融会社の直属下に経営され、而して旧臈高柳社長の失脚と共に、株価も亦低落。一時、遂に十円台に陥落するに至った池上電鉄株が、最近頓に買気を強め、その浮動株の稀薄なると相俟って、俄に台頭し諸株低迷裡にあって、連騰連騰四十円搦みの高値に飛躍するに至った事は、特に市場一般の視聴を集めた事言う迄もない。

 

元来当社は馬車鉄道営業の目的を以って、大正六年資本金四十万円で創立されたのであるが、大正十二年高柳社長就任と共に電化計画の樹立となり、その間、数次の増資によって、現在の百八十五万円(金額払込済)とせられたもので、その営業区間は大森池上間を本線とし、一方、蒲田池上雪ヶ谷大崎五反田を経て目黒に至るを支線として、目下、蒲田池上雪ヶ谷大森間の乗客運輸をなし、その乗客は逐期三五割の増加を見て居るのであるが、如何せん高柳社長失脚と共に、第三期計画に属する雪ヶ谷五反田間の延長工事頓挫により、市郡連絡の便なく、為めに意の如き収益を挙げ得なかったのである。

 

而も越山社長の就任を見るに至っても、資金関係の不円滑依然たるものがあって、何等、積極方針の行われる事がなかった事は、当社株をして益々低迷裡に置かせて居たのであるが、最近に至り株価の急騰となったのは、越山氏に代って川崎系を背景に五島邦彦(著者注:正しくは後藤国彦)氏その他同系の重役が就任、その衝に当る事に決定したからに他ならない。

 

蓋し川崎系が東京近郊が大都市計画着手と共に益々発展し、郊外電車事業の極めて有望なる処に着目するに至ったからで、高柳時代の第三期計画は、単線々路用地三万二千坪、買収費約百万円、電気予算四十万円、土木予算三十一万円、合計百七十一万円の予算が立てられて居たのであるが、川崎系の手に移ると共に復線計画を立て、尚お将来中野方面に延長の意あり、近く四倍増資を決行せんとする模様ありと伝えられ、既に川崎系より、一部資金の融通されて居る事実もある。

 

而も雪ヶ谷五反田間の開通を見んか、大崎五反田等市との接続に依って、その乗客は優に現在の十倍に増加を予想されて居るから、可なりの収益を挙げ得る訳で、それでなくとも近来郊外電車株の将来有望視されて居る折柄、川崎系就任により金融の道を得、積極拡張計画の樹立を見て、一般の買気付いて来た事は寧ろ当然というべく、而も市場に浮動株皆無の口実があるから、更に一般の高値を示現するに至るかも知れない。

というように、1926年(大正15年)3月13日時点で、池上電気鉄道株は1926年頭より3倍以上の値上げを記録し、軒並み株価が低迷する中、極めて目立つ存在であると報じられている。そして、その理由が川崎系(いわゆる川崎財閥)の重役が就任し、

  • 単線から複線(記事中表記は復線)への移行。
  • 雪ヶ谷~五反田間の開通。
  • 中野方面への延長。

と積極拡張計画が行われ、4倍増資も行われる見込みからだとしている。実際、上に示した3つのプランはすべて着手され、唯一、中野方面への延長だけが国分寺線→奥沢線(新奥沢線)としてのみ中途半端になった以外は、すべて実現された。また、4倍増資については、1927年(昭和2年)5月26日には資本金を700万円まで増資したことから、高柳時代の185万円と比べれば約3.78倍と4倍には満たないものの、ほぼ見込み通りだとして間違いない。

 

では、他に記事中で気になったことを記しておこう。まずは、池上電気鉄道の出自についてである。記事には「元来当社は馬車鉄道営業の目的を以って、大正六年資本金四十万円で創立された」とあるが、実際は軽便鉄道法による特許申請を行っており、申請書中にも「軽便電気鉄道ヲ敷設シ一般運輸ノ業ヲ営ミ」とあるのだが、どうして記事では馬車鉄道営業の目的としたのか。確かに、特許申請前(明治末期)の計画には馬車鉄道とするプランはあったが、申請行為としては軽便電気鉄道としてである。また、内務省からの特許状にも「軽便鉄道ヲ敷設シ」とあるので、電気鉄道であることは疑いない。これはどういうことなのか。単に記者の勘違いとして片付けてもよいが、勘違いなら勘違いされるだけの理由があっても不思議ではない。もっとも、「その営業区間は大森池上間を本線とし、一方、蒲田池上雪ヶ谷大崎五反田を経て目黒に至るを支線として、目下、蒲田池上雪ヶ谷大森間の乗客運輸をなし」と、これまた勘違いしているので(正しくは大森池上間は本線であるが、池上から雪ヶ谷以降も本線であること。支線は池上~蒲田間のみ。また、乗客運輸は大森まで行っていない)、単に鉄道関係に弱いだけかもしれないが…。

 

そしてもっとも注目すべきは、先にも示した積極拡張計画の一つ「中野方面への延長」である。いくら川崎系の重役が就任するという記事であるにしても、まだ記事掲載時は越山社長体制であって、雪ヶ谷からの延長工事すら着手していない状況下に、既に中野方面への延長、言い換えれば城南環状線的な構想を持っていたとすれば、国分寺線(奥沢線、新奥沢線)の免許申請の経緯も改めて再検討が必要となる。

 

といったところで、今回はここまで。

記事標題に当たり前過ぎることを書きましたが、ホント、そんな感じです。

今日は2025年12月21日ですので、今日を含めれば11日あるので、10日なの?というところで引っかかりもしますが、まぁそういうことです。残りわずかだと言うことに違いはありませんね。

 

 

おそらくですが、事実上、年末年始の6連休を除くと、休暇は年内今日だけ。東京都心は小雨交じりの曇りがちという、お出かけ日和とは言えませんが、ビル内とか地下街とかであれば関係ないので、昼にちょっとだけ出かけようとは思ってます。自由なお休みなので有効に使いたいですから。

 

そういえば、昨日は八角という、なかなかお目にかかれない魚をいただきました。食べる部位は少ないのですが、身がしっかりしていて白身魚の中では好きな魚です。見た目は厳ついですが、オコゼのように食べれば美味しいというパターンですね。

 

そんなわけで、私にとっての事実上、年内最後の休日日曜日。あれこれ考えつつ、今回はここまで。